どくだみ草日記

過去の出来事を検索するために書いてます。

とても嬉しいコメントへの返信が遅れます事、ご容赦願います m(_ _)m

神社仏閣≪青林山 東覚院 薬王寺≫

2019年04月22日 | 御朱印と神社仏閣


○ 真言宗智山派 青林山東覚院薬王寺
 東京都世田谷区千歳台4丁目11−11

 玉川八十八ヶ所霊場 第四十二番札所

 隣には東覚院が運営する幼稚園があります。


こちらの御朱印は、ご不在だったようなのでまたの機会に。

それに、後々には玉川八十八ヶ所霊場の御朱印を頂戴しにいくだろう事は明白なので、専用の納経帳を手に入れてからにとも思いました。

もしかしたら良い機会を頂戴したのかもしれません。


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大賀ハスについての立て看板がありました。

大賀ハス
真夏の水辺に涼を呼ぶハスの花。中でも二千年の時を越えて咲く大賀ハスはロマンにあふれ、目玉にする公園なども多いが、ハス研究者によると「看板に偽りあり」の例も少なくない。
タネ発見から半世紀、純系の大賀ハスの絶滅を心配する声も出ている。
大賀ハスは一九五一年、大賀一郎博士の指導で、千葉県検見川の青泥層からタネ三粒を発見、うち一粒の開花に成功して、全国に広がった。
近くから出土した丸木舟の年代測定で、二千年前と推定された。
但し、「大賀ハスもどき」の存在もあるとの事で、京都花蓮研究所によると、ハスを増やす場合、蓮根を分根して育てれば、親と同じ性質を持つが、タネだと他品種と交雑した可能性が有り、「大賀もどき」はタネから生まれたようであると考えられる。
(この文章は、平成十二年八月十六日の、朝日新聞より抜粋したものであります)


どうやらこちらで大賀ハスを育てているようです。

時期になったら見学に来ようかと思いました♪

それから広い参拝者専用駐車場もありました。

幼稚園のPTA役員の方達も利用している様子でした。




さてさて今日はこれまでにして帰宅しましょう。

さすがに4件廻ったのは疲れた (^◇^;)ゞ

神社仏閣≪波羅密山 観光院 寶性寺≫

2019年04月22日 | 御朱印と神社仏閣


○真言宗智山派 波羅密山観光院寶性寺
 東京都世田谷区船橋4丁目39−32

 玉川八十八ヶ所霊場 第四十三番








お参りを済ませ、御朱印をと歩き出したところ、御住職とお若い僧侶の方が庭の片付けに出て参りまして

これ幸いとばかりに声を掛けさせて頂き、お若い僧侶の方に書いて頂きました。

今まで四十八箇所の神社やお寺さんで書いて頂きましたが、版ではなく手書きでここまで書込んで頂いたのは初めてです。

もしかして開いた御朱印帳の右側に貼ってあった勝光院(印刷)を手本にして頂いたのかしら?

な~んて憶測してみたりして (^◇^;)

でも、本当に綺麗な字♪


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静寂で厳か、きちんと樹木の手入れや掃除もしてあり、御住職らの丁寧な対応にもありがたく、素敵なお寺さんでした。

次は、環八を挟んで反対側にある寺院へ行こうか♪ (笑

神社仏閣≪経堂鎮守 天祖神社≫

2019年04月22日 | 御朱印と神社仏閣


○経堂鎮守天祖神社 HP
  東京都世田谷区経堂4-33-2


〔創立〕
当神社は、江戸幕府の編纂(へんさん)した地誌『新編武蔵国風土記稿(しんぺんむさしのくにふどきこう)』(1830)に、 「伊勢宮 除地一段(じょちいったん) 村ノ西ニアリ ワズカナル祠(ほこら)ナリ 当村ノ鎮守タリ 鎮座ノ年代ヲ知ラズ 村内福昌寺持(ふくしょうじもち)」と記されています。
(除地は、年貢免除の土地。一段は、一反。約992平米)
 「鎮座ノ年代ヲ知ラズ」となっていますが、土地の古老の間では永正(えいしょう)4年(1507)と言い伝えられています。
 永正4年といえば、北条早雲(ほうじょうそううん)が小田原城主として後北条(ごほうじょう)の基礎を築いた頃で、世田谷はその傘下にある源氏の名門吉良(きら)家の領地でした。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)は、氏神である八幡神と同様伊勢神宮(いせじんぐう)を篤(あつ)く崇敬しており、関東の地にも御厨(みくりや)といって伊勢神宮へ納める米などの作物をつくる土地を寄進(きしん)しました。このご縁でご祭神天照大御神を祀る天祖神社・神明社(しんめいしゃ)が祀られました。 但し、当社がそのご縁によるものかは不明です。
 因(ちなみ)に、経堂在家村(きょうどうざいけむら)といわれていた江戸末期には、村内に伊勢宮、天神社、四稲荷社の六社があったようです。
(HPより抜粋)




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一の鳥居は大きめの道路に面しています。

二の鳥居をくぐり、小さな階段を登ると左手に手水舎、右手に三峯社。

正面に旧御社殿、新社殿ができた時は神楽殿として使用し、新神楽殿が完成するまで使われていました。

境内右奥の絵馬堂と新神楽殿は写し忘れました ( ▽|||)

御朱印は参道右手の授与所にてインターフォンで呼出。\300。


時間もまだあるので、環八沿いのお寺にでも行きましょうか♪


神社仏閣≪稲荷森稲荷神社≫

2019年04月22日 | 御朱印と神社仏閣


○稲荷森稲荷神社(とうかもりいなりじんじゃ・いなりもりいなりじんじゃ)

  東京都世田谷区桜丘2丁目29−3


鳥居に面している道路は交通量は少なめですが狭めです。しかし商店街に近いので昔はこの道路が主だったと思われます。

○稲荷森稲荷神社の由緒
稲荷森稲荷神社草創の記録は残っておらず、残念ながら不明です。当神社は古くは「菅刈社」と呼ばれておりました。
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、「菅刈社」とあり、「地名を冠するのだから、古い由緒ある社であろう」と記されています。因みに当地は「菅刈庄」といわれていました。
明治時代、土地の古老たちは、「奥州へ落ち延びた源義経を追って静御前がやってきて、当神社で一夜を明かした」と、言い伝えていました。
また、当神社は、昭和20年代初めまで鬱蒼とした森でした。雨が降っても神社の境内に入ると傘はいらない、といわれるほどでした。稲荷森(とうかんもり、土地の人々はこのように呼び習わしておりました。)といわれる所以でしょう。現在の神社名は、これによっております。
神社の前を往来する人々、馬方達はしばしばこの森を雨宿りや休憩に利用していたようです。江戸時代の馬方達が奉納した木彫が旧拝殿(元の御神庫、拝殿向って右、瓦葺の建物)に現在も残っています。
前の社務所は、戦争後の物資の乏しい時代に、境内の樹木を伐採し、それを製材して建てられました。また、残された大木も大気汚染などにより次々に枯れ、今では往時の森の姿は想像も出来ません。
(当神社HPより抜粋)




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鳥居をくぐると御神木であろうと思われる大イチョウ。(新緑の時期でしたのでそれはそれは神々しいほどの清々しさでした)

左手に社務所。(こちらで御朱印を頂戴しました。\300)

拝殿右に境内社と、旧社殿だった神輿庫(東京23区内で1番大きな太鼓と御神輿が飾られてました)。

春にしては暑い日でしたので、神社の目の前にあるコンビニで飲み物を調達し、次の目的地の経堂天祖神社へ向かいました。