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ハングルの王国8

2008-08-09 | travel


地下鉄で明洞に戻り、先夜入ったレストラン「火だこ」(?ハングルで書いてあったので、正しくはないかもしれない)。地下鉄駅から歩いて5分程度のビルの2階にある。そこで同じ定食を注文。イカと豚肉、野菜をいためた料理。日本語を話せる人がいて親切。「辛さをおさえられますが」とのことだったので、再度そのようにお願いする。ビールを一緒に注文。疲労困憊していたこともあって、たいへん美味しくいただけた。トータル12000ウオン。100ウオン=12円だから、大体1500円か。食事については、日本より安く美味しい(ホテルは東京以上)。韓国の人はイカ好きだということをはじめて知った。私も隠れイカファン(ついでにタマネギファン)。同好の士がいることを心強く思った。私の先祖も朝鮮半島からやってきたのかもしれない。ちなみに、私のホームタウンの近くに、8世紀高麗の人々が入植した町がある(朝廷の命令で、関東周辺にいた1700人を超える高麗人たちがそこに集められた。白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れた後、唐の部隊が日本に進駐してきた。かれらを憚ったのだろう)。そちらの縁があるかも。

訂正:高麗の人々が7世紀武蔵の国に入植したと書きましたが、8世紀の間違いでした。
霊亀2年(716年)5月16日、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国の高麗人1799人を集めて武蔵国に移し、高麗郡を置く」(続日本紀)
とあります。
筑紫
に唐の使節・郭務宗が2000人の部隊とともにやってきたのが、671年11月で、新羅が唐を追い出し朝鮮を統一したのが676年ですから、それよりかなり後の話で、唐をはばかった、ということではなさそうですね。

ハングルの王国7

2008-08-09 | travel


4日目の晩だろうか、ガイドブック片手に「東大門」広場周辺をめざしてみた。地下鉄を一駅手前で降り、そこから東大門まで歩いてみよう、というプランだった。地下鉄を降りてすぐ目に入ってきたのが屋台群。ソウルの今年の夏は東京並みにむし暑く、疲れていたこともあり、外で一杯という気にはなれなかった。写真をとり、そのまま歩く。しばらく歩くと、人通りがなくなってしまった。交番で尋ねてみたところ、逆の方向を指さされた。仕方なく元に戻り、しばらく歩いてみたところ、疲労困憊。断念。


ハングルの王国3

2008-08-07 | travel

ソウル大学で開かれたある会議に参加したのだが、これはそのオープニングセレモニー。お堅いスピーチからはじまるのか、ならエスケープなどと思いながらパンフレットを見たら、「韓国宮廷舞踏」の文字が目にはいってきた。ということで、セレモニーの前半が音楽と舞踏ショー。後で韓国の若い人にきいたら、韓国には伝統的に堅いセレモニーの伝統があったが、最近、それを改め、楽しくしよう、というムーブメントがあるようで、その一環では、という見方を話してくれた。そうかもしれない。いいことだ。日本も儀式はほどほどにしたほうがよい。写真は、韓国の宮廷の踊り。高松塚壁画の美女に似た風情の女性たちの優美な動きに感嘆。

ハングルの王国1

2008-08-04 | travel


先週ソウルにでかけた。私にとってはじめての韓国。成田から仁川空港まで2時間。近い。最初の一泊は江南(ソウル市内を流れる漢江の南側)のかなり立派なホテル、2泊目からはわけあって明洞のきわめて庶民的な宿屋を利用。値段で選択したので全然知らなかったが、明洞は「韓国の原宿」と呼ばれる若者のまちだった。いきなり目がまわるような活力のなかに突入。(写真は、地下鉄駅出口近くにしつらえた舞台上で音楽に合わせて踊る若い人々)


鳥取旅行記1(スーパーハクトの巻)

2008-06-23 | travel
もう1年前のことになるが、ちょうどこの季節に鳥取に出かけたのでその旅行記。
山陰地方は大学2年の夏以来(あのときは松江から隠岐の島に渡った)。以来幾星霜。ということで土地勘がなく、ネットで最短旅程を検索。姫路で乗り換え鳥取、というのが一番近そうということなのでそれを選択(飛行機は選択外)。
姫路で新幹線を降りる。時間があれば姫路城を見たい、と思ったものの、余裕がなさそうなので今回は断念。駅内の地図絵を眺めるにとどめ(かなり派手な絵。「白鷺城」のイメージではないと思った)、鳥取行きの特急に乗る。
名前が「スーパーハクト」。「ハクト」というのはおもしろい名前だ、地方地方でいろいろな名前があるのだな、などとのんびり思いながら、その意味に気づかず。
中国山脈を越えていく特急。途中宮本武蔵の生誕地とされる町などを通り車窓の旅も快適。
しかし、あっという間ー1時間半程度で鳥取駅に到着。もっとのんびりしてもいいのにと贅沢な感想。(続く)

鳥取旅行記2(南北混乱の巻)

2008-06-22 | travel
鳥取駅に着いてしなくてはいけないことがあった。宿の確保である。

駅の階段を降りる途中、格安のビジネスホテルの広告板があった。それを横目で見ながら駅内の案内所に直行。ビジネスホテルをいくつか紹介してもらう。
紹介されたホテルに行ってみようと北口(とそのときは思っていた)に出る。すぐ前に広場があり、何かを背負った若者の像。足下に彼を見上げるウサギの像。あ あそうか、因幡の白兎か。ハクトは「白兎」か、とようやく気づく。うむ、われながら鈍感、と嘆く。

それを過ぎてめあてのビジネスホテルの前に立ったのだが、ちょっと「近代的」すぎるかなと敬遠を決定。ガイドブックを取り出し、駅前のホテルをチェック。私も知っている名前のホテルがあったので、そこへ電話してみたところ、宿泊可との返事。場所を聞いたら、南口からすぐですよ、看板が見えます、という話。

そこで、再び駅に戻り、南口に出る。ざーと見渡したところ、看板見えず。ちょっと歩いてみることに。近くを一回りしたものの、目当てのホテルが見あたらず、南口広場に戻ってみる。信号のところで、ちょうど母娘連れがいたので、念のため、ここは南口ですね、と尋ねたところ、ちょっと考えて、そうですよ、と中学生くらいの娘さんが答えてくれた。そうかやはりここでいいのか、それではいま一度回ってみよう、と考え、歩いたところ、やはり姿形見えず。

途方に暮れて、再び南口広場に戻る。そこから駅をこえて北口方面を眺めたところ、視野の左にめざすビジネスホテルの看板!
何んだこれは、と思いつつ、再び駅の構内をくぐり、北口に出ると、さっき電話した場所のすぐ近く、斜め横にめざすビジネスホテルが立っていた。
怒っても仕方ないので、ホテルに向かい、受付に。チェックインの後、ここは南口なんですね、でも駅の北ではないですか?と話したところ、受付の若い女性、にこやかに笑ってとくにコメントなし。

混乱しつつも、なんとか宿を確保の巻。(続く)

鳥取旅行記3(元春はなぜ突入しなかったかの巻)

2008-06-21 | travel


チェックイン後、腕時計を見たら5時過ぎ。今にも雨が降ってきそうな天気だったが、夕暮れまでまだ時間はある、と踏んで出かけることに。
目標は鳥取城。秀吉の兵糧攻めで名高い。再び駅の構内を横切り、北口方面に。メインストリートを一路「北」へ。途中で自民党石破代議士の事務所があり、彼がこちらが選挙区であることに気づく。
15分程度でつきあたりの鳥取県庁にぶつかり、左折するとすぐ鳥取城跡。お堀の横に毛利の名将吉川経家の立像。鳥取城の家老たちから城将を請われた毛利が送ったのが彼。自らの首桶をかついで入城。秀吉の徹底した日干し作戦に、自分の切腹と引き換えに城兵たちの命を守った。秀吉は家老たちの首はもとめたが、援将である経家の首は要求しなかった。しかし、経家はあえて切腹をのぞみ、秀吉も信長の許可をもとめた上で、それを受け入れた。
秀吉軍の包囲網を後詰めの吉川元春が破れなかったとのこと。しかし、猛将元春が結果的に経家を見殺しにしたのは解せない。見殺しにするくらいなら、不利を承知で秀吉軍に挑むほうが元春らしい。この点でこれまで納得できる説明を読んだことがない。
鳥取城落城後、元春に秀吉軍と決戦するチャンスがあった。このときには、元春はすべての橋を落とし背水の陣をひいた。味方が全滅しても、それ以上の人的損害を秀吉軍に与えればよい、というのがそのときの元春。それを読んだ秀吉は戦うことなく兵をひいたといわれる。(兵を損じた場合、信長の怒りがこわい。)

経家が死に臨み、4人の子に遺した手紙
「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候  かしこ
天正9年10月25日 つね家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給へ」
http://www.burari2161.fc2.com/kixtukawatuneie.htm


仁風閣

2008-06-18 | travel
明治40年5月、皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、宿舎として、元鳥取藩主池田仲博公爵によって建てられ、中国地方屈指の明治建築として著名、随行した東郷平八郎元帥による命名、とのこと。鳥取城の麓に立地。残念ながら、夕刻ですでに閉館。