鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

道迷い

2021年09月09日 | 鳥海山

 遭難で結構多いのが道に迷うこと。「道迷い」として分類されているようです。遭難しないためにも「山の遭難情報」というページがありますのでゆっくりと目を通すことをお勧めします。

 鳥海山では天気が良くても道迷いが出ます。よくあったのが、外輪尾根を下りながら伏拝岳から御浜へ行くつもりで河原宿方向へ向かったという例。幸い周囲の登山者に助けられたというのはよく聞きました。8月の快晴の日、山頂から千蛇谷を下るといい残したのを最後に消えた年配の方。なぜか山頂を最後にそのあと誰もあった人が出てきませんでした。千蛇を七五三掛へ登らずにそのまま中島台へ向かってしまったのではないか、という話も出ましたが本当のことはわかりません。

 道に迷うというのは、自分で迷ったと気がついたときにはかなり深入りしてしまった時の方が多いのではないでしょうか。一度だけ経験があります。鉾立から山頂に向かい、そこから河原宿に下りてその日は河原宿小屋に泊まり。その夜は大雨。翌日雨も上がったので幸次郎沢へ向かい御浜を目指します。幸次郎沢を下り、そのまま進んでいくと何やら見慣れない景色が。いつのまにか左右が切り立ちその先には大きな滝がごうごうと流れ落ちています。何度も歩いているはずなのに、やってしまいました。

  (昭文社「山と高原地図 鳥海山」1976年版より)

 おそらく青い丸で囲んだ滝だと思います。この沢も滝も今の25000図には記載がありません。

 道をそれてからかなり進んでいますね。なぜそこまで気がつかなかったのでしょうか。下ばかり見て歩いていたからなのでしょうか。まだいくらか雨模様、登山靴は中までびしょびしょでした。何十年も前の事なのに昨日のことのように目の前にあの滝の風景が浮かびます。写真を撮っておけばよかったですけど、迷ったとわかった時にはかなり焦るものでその時はそんな余裕はありませんでした。でも見事な風景でした。


昭和十年代のお嬢さんたち

2021年09月05日 | 兎糞録

 遭難の話が続いたので一休み。古い写真のカラー化は面白いです。

 おそらく皆さん十代初め。着物に袴に足袋に下駄。でも手に持っているものはバイオリンに洋傘。この地方での最先端のファッションだったのでしょうか。そういえば大学の卒業式で女子学生は今もこういう格好、今はもうしませんか?

 


鳥海山日記・遭難死

2021年09月03日 | 鳥海山

 山小屋の管理人さんが書いたものでこれほど面白いものはありません。今も鳥海山の管理人さんがWEB上に日記のようなものを公開していますけど鳥海山の場合は管理人とは言えません。だって常に側に雇用主の大物忌神社の神職の方が側にいるのですから。あの仕事は昔は炊き(かしき)と言いました。飯炊きという意味です。常に管理者が側にいれば書くことが出来ないこともあるでしょう。

 山小屋の管理人、従業員が書いて公開しているものはいっぱい出版されていますけれど人が読むことを前提に書かれているので時間を共有する凄みはありません。そこでこの鳥海山日記を読んでみましょう。今まで何度読み返したかしれません。鳥海山日記は矢島口祓川ヒュッテの管理人だった佐藤康さんの残したものです。康新道の開削の記録も載っています。

 この中でも一番記憶に残っているのが昭和28年8月、大舘鳳鳴館高校の生徒二人の遭難死に関する記事です。


八月十二日

 夜、役場の茂君より電話あり。大館鳳鳴高校定時制、扇田の人たちでS、Kという二人が矢島高校に一泊している。あすの天気はどうだろうか―という電話であった。

 たいしたよい天気でもないが、まあここまで、よこしたほうがよかろう。

八月十三日

 本を読んでいたら、外で人の声がするので、窓からのぞいてみたら、二人が外のベンチに拉ころんでいた。「ごくろうさん。今夜、泊まりますか」ときいたら.、「泊まってもよし、登ってもよし」という返事だった。

 そして、二十分くらい前に、五六人の登山者が行かなかったか、と聞いた。「あ、いま、登ったよ。あれ、あそこを行く」と言ったら、「ああ、これならち追いつける。登ろうよ」と言う。

 五、六人の登っている所は、タッチラ坂のちょっと上だった。その五、六人の登山者に、登山帽を捨われたから、これから行って取りかえそうという二人の話だった。

 わらじを履きかえ、二人がヒュッテをでたのは四時だった。そのときの天気は、うす曇りだが、大丈夫な天気だった。

 村上さんを写真に撮ったり、キャンプ村の録音ニュースの話などする二人を村上さんは祓川神社まで送っていった。「天気が悪くなったら、早く帰ってくるように」と注意して送った。

 でも、十日も早く秋の季節にはいった山は、変化が激しく、六時項、にわかに暴風がおこりだした。

 登った二人は、時間からして、九合目水の薬師あたりを登っているはず。

 五人の登山者が下から登ってきて一泊した。


 この二日間の日記は予兆はあるものの普段の山の様子です。事態は翌十四日急変します。


八月十四日

 天気が悪いので、五人は、午後二時半、頂上に登った。暴風もおちついてきた。

 午後七時、この五人のうちの一人と、本社の飯炊き須田元太郎の二人が来て話す。

 きのう登った二人が遭難しているとのことだ。遭難場所は、七高山破方口の風石と蛇石の間。※

 死んだ二人は五十メートルも離れて死んでいるとの事だ。

 さっきまで、電話が不通だったが、登山者が線を結んできたとのことで、役場を呼びだせた。遭難のことを連絡した。

 電話での十さんの話、十五日、午前一時に第一回救援隊が出発し、第二回が午前五時、出発とのこと。

八月十五日

 第一回救援隊が、五時半、ヒュッテ着。飯を食い、七時に本社からきた人と一緒に登る。死体を背負って帰ってきたのは、十二時頃。飯を食い、一時に出発、六時半、矢島着との電話連絡あり。


 ※七高山の北ピークと蛇石(虫穴)のあいだの稜線上と思われます。(ここから突風により内壁側に転落死した記録も残っています。)

 淡々と書かれていますがそれが逆に遭難の緊迫を表しています。この遭難の様子は後年「一人ぼっちの鳥海山」で詳細に書かれています。

 少々長くなりますが「ひとりぼっちの鳥海山」より引用させていただきます。ここは全部引用しない伝わってこないし、あえて引用して読んでいただきたいと思うところです。「ひとりぼっちの鳥海山」は今ならまだ古書で入手できますので、ぜひ購入してお読みください。日記では表しきれなかった思いをあらためて知ってもらいたいという気持ちが、細かい状況まで書くに至った理由なのではないかと思います。では最後までお読みください。


 八月十四日朝、昨夜の天気よりは良くなったが雨が降っている。山は全然見えない。大きな雨雲が小屋の前をゆっくり流れている。

 五人の客たちには「昼飯を食べた後、午後から登った方がいい」といい、午後になったら空も落ち着き、山も顔を出すようになった。

五人は午後二時に小屋を発って行った。

 作日の風で飛ばされた洗面器を捜そうと、小屋の前の堰づたいに下りてみた。一個の洗面器は木の枝にからまり、もう一個のは濡れ草の上に折れ曲がって落ちており、どちらももう使いものにならない。

 風呂のフタも捜した。風で板がどこまで行ったのか見えず.フタの骨だけが残っていた。

 捜し物をして山の方を振り返ったら、誰かわからないがタッチラ坂を二人下りて来るのが見えた。人は女性で、もう一人は男性のように見える。

 小屋の前に行ったら.女性は今日の午後登って行った登山者の一人で、男の人は頂上小屋(大物忌神社本社)で仕事をしている人だという。

 二人のただならない顔つきから異常な事態が想像できた。昨日ここから登った二人の学生が七高山のあたりで遭難死したというのだ。

 七高山の頂上近くの風石の所で一人が、そこから三〇メートル以上離れた所でもう一人が死んでいるとのことだ。

 とにかく役場に電話をしなければと思ったが、作日の暴風でブナの木に結んだ電話線はたぶん切れているだろう、という私のひとりごとを聞いて、今しがた登ってきた誰かが、「それなら今、オレたちが登ってくる時に結んできたよ」という。

 この電話は普通の電話と違い、簡易電話だから特別のかけ方がある。営林署に連絡する時はハンドルを一回チンと回す。事業所は二回でチンチン、ヒュッテは三回。さて役場をチンチンチンチン四回で呼び出し、遭難事故発生の緊急連絡をする。

 一時間後、役場から電話があり、八月十五日午前一時に第一次救援隊が、午前五時に第二次救援隊が矢島を発って来るとのこと。それに朝の飯を炊いておくようにとのことだった。

 外に出て山を見たら、舎利坂のあたりがほんやりと見える。あの二人が横たわって死んでいると思うと可哀相でならない。二人が元気に山に登って行った後ろ姿が目に浮かぶ。二人からもらった「光」のタバコを吸いながら山を眺めていた。

 夜中の二時に起きて。救援隊用に頼まれた飯を炊く。,

 午前五時半、第一次救援隊の人たちが小屋に到着。そして朝飯を食ったあと、七時に頂上小屋の人と一緒に登って行った。

 それから私たちは、ヒュッテに水道を引く時に使った余りの青竹を集め、機械縄を使って担架を作った。縄と縄の結び目が特に難しく何度もやり直した。

 一服したあと、救援隊の人たちの昼食を作り、遺体の到着を待った。,

 やがて、その人たちがタッチラ坂を下りて来るのが見えたので、私が作った担架を二人分もって祓川神社の所まで行った。

 毛布が敷かれた担架の上に仰向けに寝かされた二人の姿は悲惨だった鼻や耳、そして口に砂や小さな砂利がいっぱい詰まっていた。顔には切傷がたくさん残っている。よほど強い雨風だったんだろうなあと思う。

 高校の先生がお経を上げ始めた。秋は厚い手拭を池の水に浸し顔を拭いてやったが誰も手助けしてくれない。そばにいた高校生にこの手拭を池で洗ってくるように頼んだら、彼は嫌な顔をしながら洗いに行った。

 私が祓川の水で拭き取って二人の顔はさきれいになったが、細長い傷跡はとれない。お経も終わってみんなで担架を担いでヒュッテまで歩いた。救援隊の遅い昼食のため、ヒュッテの前に置かれた二つの遺体に、私はミズギクとツリガネニンジンを花束にして頭の脇に供えてあげた。

 大ぜいの人たちがわずかずつ花束を持ったり、線香を持ったりして担架を担いで一列になってていねいに山を下っていった。

 みんなが帰ったあと、昨日から今日まで起こったさまざまな出来事を私は思い出してみた。

 この山は、お盆を境に夏から秋に変わる分かれ目である。激しい雨や風も珍しくはない。今度だってあんなお天気になるとは誰が想像しただろう。

 ひとつの重々しいぃ事故でいろいろなことを教えられ、勉強になったような気がする。


 鳥海山に登る多くの方が自分には遭難なんて無縁だと思って登っているのではないでしょうか。


湯ノ台鉱泉

2021年09月02日 | 鳥海山

 池昭さんの「忘れがたい山」を出してきて見ていたら、「親をだましての青沢越」でこの本は始まるのですがその最初の数行、


 「湯の台の杉本屋に遊びに行く」と言い残して、実は方向ちがいの青沢越へと向かったのば一九五五年(昭和三〇)、大晦日のことである。当時誰ひとり越えた事のない。"厳冬期出羽丘陵横断"なんて言えば、おふくろが心配するにちがいない、との配慮からであった。そのころ、冬になると訪れる人の絶える杉本屋(むかしの湯の台鉱泉)には、栗田さんというらう品の良いおばあちゃんが一人冬ごもりをしており、たまに訪ねて行くと人恋しさあってか、大いに歓待してくれたものである。


 最初に読んだときは杉本屋なんてのもあったのか、くらいで読み飛ばしていたのですが、ひょいとメモを思い出し読み返してみると、杉本屋というのは蕨岡の山本坊、鳥海さんの所で経営していたところだったのですね。山本坊さんから聴いてメモしていたのを思い出しました。

 その後昭和の五十年頃は国民宿舎鳥海山荘、今の鳥海山荘とは違いもっと下の方です、それと湯元屋というものその隣りにありました。杉本屋が湯元屋になったのかどうかはわかりません。現在は更地になっています。

(「山と高原地図 鳥海山』1976年版より)

 小学校の低学年のころ親の職場の旅行でバスに揺られ、湯元屋(だったと思うのですが)に連れていかれた記憶があります。その時の一番の記憶は帰りのバスで聴いた蜩のカナカナカナという鳴き声でした。今も夏の夕暮れに湯ノ台道の帰りにあの辺を通ると蜩のカナカナカナという鳴き声が聞こえるはずです。まあ、その後は「その日暮らし」の「カネカネカネ」という鳴き声ばかり聞いてきましたが。

 湯ノ台はかつて石油鉱床が発見され、戦前にはかなりの量の原油が採掘されたそうです。かつてはかなり賑っていたのではないでしょうか。そもそも草津という地名も石油を指す「草水(くそうず=臭い水)」からきているそうですから。今もその痕跡を見ることはできるでしょう。ただし宿については今となっては調べることも難しいかもしれません。

 高山植物もいいですけれど、こういった消えてしまった鳥海山の歴史を知るのもまた面白いことです。