鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

湯ノ台鉱泉

2021年09月02日 | 鳥海山

 池昭さんの「忘れがたい山」を出してきて見ていたら、「親をだましての青沢越」でこの本は始まるのですがその最初の数行、


 「湯の台の杉本屋に遊びに行く」と言い残して、実は方向ちがいの青沢越へと向かったのば一九五五年(昭和三〇)、大晦日のことである。当時誰ひとり越えた事のない。"厳冬期出羽丘陵横断"なんて言えば、おふくろが心配するにちがいない、との配慮からであった。そのころ、冬になると訪れる人の絶える杉本屋(むかしの湯の台鉱泉)には、栗田さんというらう品の良いおばあちゃんが一人冬ごもりをしており、たまに訪ねて行くと人恋しさあってか、大いに歓待してくれたものである。


 最初に読んだときは杉本屋なんてのもあったのか、くらいで読み飛ばしていたのですが、ひょいとメモを思い出し読み返してみると、杉本屋というのは蕨岡の山本坊、鳥海さんの所で経営していたところだったのですね。山本坊さんから聴いてメモしていたのを思い出しました。

 その後昭和の五十年頃は国民宿舎鳥海山荘、今の鳥海山荘とは違いもっと下の方です、それと湯元屋というものその隣りにありました。杉本屋が湯元屋になったのかどうかはわかりません。現在は更地になっています。

(「山と高原地図 鳥海山』1976年版より)

 小学校の低学年のころ親の職場の旅行でバスに揺られ、湯元屋(だったと思うのですが)に連れていかれた記憶があります。その時の一番の記憶は帰りのバスで聴いた蜩のカナカナカナという鳴き声でした。今も夏の夕暮れに湯ノ台道の帰りにあの辺を通ると蜩のカナカナカナという鳴き声が聞こえるはずです。まあ、その後は「その日暮らし」の「カネカネカネ」という鳴き声ばかり聞いてきましたが。

 湯ノ台はかつて石油鉱床が発見され、戦前にはかなりの量の原油が採掘されたそうです。かつてはかなり賑っていたのではないでしょうか。そもそも草津という地名も石油を指す「草水(くそうず=臭い水)」からきているそうですから。今もその痕跡を見ることはできるでしょう。ただし宿については今となっては調べることも難しいかもしれません。

 高山植物もいいですけれど、こういった消えてしまった鳥海山の歴史を知るのもまた面白いことです。


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