鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

享保六年の鳥海山遭難

2022年01月24日 | 鳥海山

 享保六年閏七月の一日(グレゴリオ暦1720年8月23日)、本草学者の植村政勝が諸国採薬の旅で鳥海山に登った話が「諸州採薬記抄録」にあります。大物忌神社発行の「鳥海山 -自然・歴史・文化-」にその一部が現代語訳で紹介されています。

 ※暦については国立国会図書館の「日本の暦」でわかりやすく説明されていますので参照してください。

「鳥海山は日本第四の高山なり、麓の村より山上迄道法六里余あり、四里半登る。古来より四季ともに雪消えずといえり、実に雪にて築立たる山の如く見ゆる、享保六年丑年御用に依て余彼の国に 至たり、閏七月朔日にこの山に登る、午の刻山の六七分に至る頃頻りに大風雨起こり、山鳴り、谷 響き、砂石を飛ばし、風雨面を打つ、起居動静心に任せず、雨岩を洗いて千尋の谷に落ちる水は瀧 の如し、この山中に方一里程の湖水あり、山の左右に異国までも続くといえり限りなき荒海なり」

 この部分、住谷雄幸「江戸人が登った百名山」という本では(百名山という名のついた本は大の嫌いなのですが)、「雨岩を洗いて千尋の谷に落ちる水は瀧 の如し」のところ、以下のように書き続けられています。

「雨巖を洗いて、千尋の谷に落ちる水は滝の如し。……予谷へ吹き落とさるる。この時に及んで傍に従者 人もなし。その外荷物、人歩等行方を知らず。余りに強き風雨詮方なくして腰帯を解き、これを岩の鼻に引かけ、これを力にひしと取り付きて、貯へもちたる朝鮮人参を少しロに含み、漸くに気力を補い、彼の風を凌ぎ、この節懐中の品その外用具等を打ち捨て、心中に日本大小神祇、又平日信ずる所の仏名を念じて」 『諸州採薬記抄録』 一晚を過ごした。翌日は風止み、からくも危地を脱した。

 

 短い文章ですが、山の嵐のすさまじさが十分に伝わってきます。どのあたりでの話でしょうか。山の嵐の風の強さはすごいですからね。経験ありませんか、まっすぐ歩こうと思っても風で押し戻されるのです。体を進行方向に直角に曲げるといくらかは進むことが出来るのですけれど。

 この住谷雄幸という人にはもう一冊「江戸百名山図譜」という本もありますが、「江戸人が登った百名山」はこれの文庫版です。

 こちらの方が紙質も良く紙焼けした文庫本よりも手軽に安く入手できるようです。カラー図版もあるので読んでみたい方は単行本の方がお勧めです。


コメントを投稿