御本社を出立し七高山に向かいます。此処にも出てきます破方口。大物忌神社に問い合わせても、蕨岡の古老に問い合わせても、鳥海山専門に登っている方に聞いてもわからなかった破方口、当時は普通に言われていたようです。戸口大神、猪山大神などは「史跡鳥海山」でも触れられていません。姉崎岩蔵の「鳥海山史」橋本賢助の「鳥海登山案内」まではいろいろな学者先生の研究論文や資料で言及されますがこの太田宣賢の「鳥海山登山案内記」について記されたものはありません。特に橋本賢助の「鳥海登山案内」では「尚一部は太田氏著『島海山登山案內記』に倣つた所も少くない。」と記しているのですから。国会図書館にあるのですからね。ただの素人の疑問です。
御本社の附近には〇戶口の大神〇猪山大神〇新山大神〇秋葉大神〇天照大御神〇胎内大神(おほかみ)〇切通大神等の諸社碁布す〇切通は巨巖左右に兩斷其間鳥道を通し高さ十數丈斷裂の奇態造化至妙の神工にあらずんば焉ぞ能く斯の如くなることを得んや通るもの神懾れ足震ひ片言雙辭の諧謔を洩すものなし〇胎内の奇洞を通過し少しく下り更に破方口に登れば七高山〇蟲穴〇御嶽等の諸社彎形を爲して點在し〇七高山は陸軍參謀本部陸地測量部の大三角點の在る處にして西飛島の三角點南旭日嶽の三角點を望む
七高山の三角点櫓。国土地理院のHPによれば(三角点の)「選点が終わると、観測地点が相手から見えるように、観測がしやすいように「やぐら(一時標識)」を作ります(造標)」とありますのでこの葉書は丁度七高山に三角点を設置したときのものでしょう。YamaRecoによれば「三角点櫓を入れた写真は数枚のみ」ということですので大変珍しい写真だと思います。三角測量に用いる経緯儀は箱を入れると60㎏にもなるそうで、それを人力で運んだということです。もちろん櫓の資材もこの当時は人力で運んだでしょうから三角点設置は大変な作業だったことがわかります。それにしても測量に携わる方はそんじょそこらの登山愛好家など逆立ちしてもかなわない山登の技術と体力と熱意を持っていたのですね。三角点以外では地質調査、これもどこまで山の中まで踏み込んで作成したのでしょうか。この範囲が七高山熔岩かなどと何気なく見ていてもどうやってその範囲を決定したのでしょうか。まさか隅々まで歩いて?ちなみに下の図でⅠ、Ⅱ、Ⅲとあるのはそのできた順です。
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