鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

「破方口」を「はほうぐち」と読む根拠

2022年06月29日 | 鳥海山

 備忘録として残しておきます。「破方口」は「破方」、「やぶれかた」ではなく「ははうぐち」(旧仮名)である根拠。

 出典は太田宣賢(のぶかた、と読むことも生家で確認済です。)編輯、大正二年白善書房発行の「鳥海山登山案内記」

 

 「破方口」は最初は鳥海山の位置及沿革につて書かれたページに登場します。

 継いで「登山及夫人の登山」の項に登場します。

 姉崎岩蔵の「鳥海山史」によれば破方口を破方口は新山の下のスノーブリッジを分水嶺として千蛇谷の反対側。鳥海山北面の七高山直下の最奥と捉えていますが「鳥海山登山案内記」を見ると一つの峰と捉えています。古絵図にもあるように七高山の北にあるピークが破方口(絵図により破方口山)としてよろしいかと思います。

 寛政十二年(1800年)の鳥海山頂一帯。その翌年享和元年(1801年)、マグマ噴火により新山(享和岳)を形成。登山者8名噴石で死亡の記録も残ります。千蛇谷は千載谷と記載されています。そのほかにも千歳谷等の記録はあります。当初の呼び方は「センザイガタニ」だったでしょう。

 文政四年(1821年)の噴火の様子を描いたもの、「破方口と新山の中谷焼、七高山の後、矢島道の辺焼破る」とあります。享和元年(1801年)の新山誕生後に起きた水蒸気噴火の様子です。※「虫穴」と書かれたものは多数ありますが「虫穴岩」と書かれたものは一件もありません。

 


コメントを投稿