鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

湯の臺道

2021年11月01日 | 鳥海山

 かつて山の道は登拝道でどの道も山頂御本社を目指していました。そのほかにあったのが生活のための道、すなわち炭焼き、筍、茸採りのための道です。その後それらの道を利用して楽しみのための道として開削されてきました。

 大正七年発行の橋本賢助の鳥海登山案内に「湯の臺道」が登場します。


【水 呑】 (みづのみ)山路三里。此處は喬木帶の入口であり又拜所、水葉(みづは)の神の在す所で側に美しい小川が流れて居るから如何にも水呑の名に相應しい所である。丁度体を疲れて居る時分だから暫らく此處で休むがよい。徑は喬木の間を縫うてだん〲上って行く途中に湯の臺道を合せるが、向も上り何時か鳳來山の山頸をたぎる頃になると、前面に横堂の笹小屋を見る。


 大正二年発行の太田宣賢の鳥海山登山案内記では同じところ次のようになっていますが「湯の臺道」には触れられていません。


〇延命坂〇水呑〇狩籠鉾立新山等の諸社を拜して登れば道路漸く狹く傾斜稍急に〇鳳來山頭に近づく頃は天の一角に微に曙光を漏し淡紅の發揮する光景筆舌の及ぶ處に在らず漸く上れば箸王子に達す


 書いてないからと言ってその時点で「湯の臺道」が無かったということにはなりませんが今の所大正七年の記述が自分が今まで見た中で「湯の臺道」に言及した一番古い記録のようです。

 箸王子(横堂)に行くには三本の道があるのですが旧来蕨岡口と言われていたソブ谷地経由の道は現在ほぼ廃道です。ソブ谷地、熊が多く出ることは昔から有名だったようです。橋本賢助の鳥海登山案内、太田宣賢の鳥海山登山案内記にある水呑を通るのが本来の蕨岡口ですが「湯の臺道を合る」ということは「開拓」から入り南高ヒュッテを経由して鳳来山へ至る道が「湯の臺道」とされているわけです。当時は南高ヒュッテは無かったわけですが蕨岡口に「湯の臺道」が合流する所は南高ヒュッテから少し上ったところです。かくれ山分岐と書いてあるところです。

 地図は昭文社「山と高原地図 鳥海山・月山 2013年版」より

 かくれ山分岐

 本来の蕨岡登拝道、通行止めとされています。地図を見て安易に立ち入らないこと。地図に記載された時点よりだいぶ荒廃しています。

 なぜここに拘るかといえば、この「湯の臺道」と言われている道には祠がないのです。逆に沢追分から鳳来山に直登する急な道にはいくつかの祠があります。下の写真が沢追分からの道にある石の祠と鉄梯子です。

 この祠は側面の文字がわかります。酒田町とあるので明治22年4月から昭和8年3月までの間に奉納されたものです。他の祠は側面が緑の苔に覆われていて彫り込まれた文字がわかりません。

 酒は各祠に奉納してあります。写っていないのは写真撮るときちょっと退避していただいたため。カップ酒のラベルを見るとそんな時間が経っていないのがわかります。鳥海山の三十三拝所にはあげられていませんが今もこの道で祠に手を合わせる方がいるということです。

 こういった鉄梯子も歴史を感じさせてくれます。

 湯ノ台は昭和16年から昭和20年ころまですなわち先の戦争中石油採掘がおこなわれていたようですが石油資源の枯渇後は大台野への入植が行われました。池田昭二さんも湯ノ台の杉元屋に寄っていますので戦後温泉宿も建っていたということもわかります。

 このの道の由来は湯ノ台が賑わう昭和の時期以前、酒田が町であった最後の昭和8年3月以前からあったということですので昔の記録に出てくる升田からの箸王子への道と言うことになるのではないでしょうか。車と車道の発展により埋もれてしまった道と歴史がここにもあったようです。


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