「本日も読書」

読書と映画の感想。ジャンル無関係、コミック多いけどたまに活字も。

革命前後 上下

2014年05月06日 | book
こちらは敗戦前後の作家たちの姿を描く。
これまた面白いんです。
兵隊3部作と同じく軽妙で。
ちょっとほんのり哀しさがある終わり方で。

日中戦争から太平洋戦争へ。
火野らは(別の名前だけど)、本土で報道部員として九州で徴用されているんですが。

もちろん戦意高揚のためなんですが、東京と九州の作家陣で対立し、さらにそれぞれ勝手な行動をしているので、もうやる気というか覇気なんかないんですねw

しかもそれぞれ作家同士で小馬鹿にして、あるいは九州独立工作なんかしていたり、報道部長も作家たちが好き勝手にしているので全然まとめきれてないし。
すごく滑稽w

だけど空襲があれば防空壕に逃げ、実際に攻撃を受け、空襲を取材しにいけば地獄を見て、列車を機銃掃射受けて客がバタバタと死んでいくのを見る。

そして広島に原爆が落ちるんですが、九州にまで届く轟音。
だけど何が起きているかわからない報道班員たち。
米兵の捕虜を処刑してしまう顔見知りの中尉。
その様子を見に行った報道部の秘書。

すべてを知っている私たちが見ると、重い事実が、スッスッと入ってくる。

が、そこにひどく個人的などうでもいい問題が混じってくる。
微妙な関係の父親が訪ねてくると、離婚だ戸籍だなんだのと。

だけどそれが人間じゃないですか。
どんなに歴史的な事件を見かけていても、屁をしたいときはしたいわけですよ。
そのオナラが臭かったら「くせえよ!」と口げんかが始まるんですよ。
そういうもんじゃないですか。
たとえどこかでたくさんの人が死んでいても。

大震災で東北でたくさん人が死んでいるときに、交通事故で重傷を負っている人にとっては事故った自分が一番気になるわけでしょ。そりゃそうなんですよ。
あるいはどこかで大地震が起きていても、今電車の中で自分が痴漢されてたら、その犯人をどうしよう、って思うわけですよ。

タマゴが安い広告があったら、そのチラシ見るわけですよ。
ものすごい美人が横を通り過ぎたら見てしまうわけですよ。
たとえどこかでたくさん人が死んでいようが。
苦しんでいようが、助けを呼んでいようが。

それをけしからん!とか嘘だ!とか言えないわけじゃないですか。
だってそういうもんなんだから。
そこでウソついてはダメなんですよ。

火野葦平の兵隊3部作も、戦後に書いた本書・革命前後も正直なんですよ。
すごく正直。

結局、この中で火野さんは、敗戦後に兵隊たちに責められるんですよ。「こいつ俺たちが死にかけているときにどんだけ印税もらった?」みたいな感じに。
この兵隊たちゲスでしょ。
兵隊3部作を読んでも、戦意高揚とは違うと思うんですよ。
ああ、火野さんの見た戦場とはこういうものなんだと淡々と軽妙に描いている。
面白さはあるけど、読んでいればそこが激戦の最前線ではないこともわかる。

だけど敗戦後の兵隊たちに関係ないんですね。
見たものをそのまま書いただけで何の責任も感じなくていいんでないの?って今では思えるんです。

だけど火野さんは自分の責任について考える。
そのとある駅でのつるし上げで、火野さんは怖くなって逃げるんです。
それも正直に書く。

だけど、じゃあ反省できたのか、と言えばまったく反省できてない。
何を反省すれば分からない、けれど反省しなければならない、そんな状態のまま、戦争は終わり、アホみたいに報道班員たちは宴会をし、散らばっていきつつ、実は焼け跡で出版社を立ち上げて、商売をはじめる。。。。


革命前後には社会評論社の編集部のあとがきがあって、火野が悲惨な戦場を「見ていない」というわけ。
南方の飢餓と病気が蔓延する戦場や、民間人も死んでいく現実、特攻兵器の存在などを。

だけど、その見ていないってこと、触れなかったこと、すらむしろ正直だったのではないか、と思うんです。そこが素晴らしいんではないかと。
つまり火野先生にとってはこうだったわけです。
「当時の南方の戦場にも、特攻兵器もとくに興味はなかった」と。

だから触れようがなかったんではないか、と。
もちろん知ってはいたでしょう。
たとえ戦時中に知らなくても、戦後は知ったはず。
だけど、それは火野さん見てないから。
とくに重視もしていなかった。

見て無いものを、興味が無かったものを、
さも知ったように書くわけにはいかない、と。
そこがスゴイのではないか、と。

私は戦場も知らないし、火野さんに会ったわけでも無い。
なのにこんな好き勝手な記事を厚顔無恥にも書いている。

火野さんだったらそんなことはしない。
「戦争を書け」と言われたら、自分の見た戦争を書く。
逆に言えば自分の見ていない戦場は書かない。
だから凄い。

「見てなかった」ことを書かないのは正直で、正しい姿勢だったと思う。

だけど火野さんは革命前後を出す直前に自殺した。
ということは本人はそう言い切れなかった。

「見てないから責任が無い」とは言えなかった。だから苦しんだ。
だけど火野さんは正直だった。
どこに責任があるのか、反省すればいいのか、分からなかった。
分からないから苦しんだ。
最後まで正直な人なのだ。

だって今、これを読んで、あるいは兵隊3部作を読んで、火野さんに戦争責任がある、と思うか。

思わないですよ。
火野さんが追放されたのは「戦争に負けたから」
ただそれだけでしかない、と思う。
戦争責任があったか、この作品で戦争に憧れを持つか……。
だって暇な後方から前線へ向かうだけの戦場をただ書いただけじゃないか、それで戦争賛美だと、戦争責任があると言えるか?

明るく、軽い戦記だから問題なのか?
暗く、戦争が恐ろしいものだと描かなければならないのか?
「自分はそう感じなかったのに」書かなければならないのか。



分からないものを分からない、と言えるのは凄い。

分かったフリはできる。
分かったように錯覚することもできる。
そうすれば前に進める、生きられる。

だけどそうしなかった。
火野葦平は、そうか、今私たちは非常に大きなものごとを考えますよね。
「政治はこうすべき」「原発はこうすべき」「環境とはこうあるべき」「世界とは」「戦争とは」「平和とは」「死刑とは」などなど。
今なら韓国の客船沈没とか。

だけど多くの人にとっては、それをどうこうできる力なんて無いわけで、それどころか、結局目の前で見てもいないわけですよ。
だけどさも知った風に皆が好き勝手なことを書いている。

火野葦平はそうしないんです。
自分の目の前で起きてないことを描かない。

だから清々しさすら感じる。
名作だ。



革命前後(上巻)
クリエーター情報なし
社会批評社
革命前後(下巻)
クリエーター情報なし
社会批評社

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