「本日も読書」

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昭和史を陰で動かした男: 忘れられたアジテーター・五百木飄亭

2012年07月05日 | book
これは本屋でぶらぶら見ていたら買う時に「これは面白そうだな」と
思わせるものがあった。

正岡子規と親しくしていながら、坂の上の雲では「友人」としか書かれず、
名前が全然出てこない男・五百木飄亭。

その理由は彼が国粋主義者の浪人であったからなのか。
単なる浪人ではない。
いや単なる浪人なのか。
彼こそ本当の浪人だったのかもしれない。
他の浪人たちが暗躍的に政治のフィクサーとして動く反面、
この五百木という人はロマン主義的であるという。

貧しいままの浪人である。
組織を率いるタイプではない。
だが孤独というわけでもない。
政治家になるわけでもない。
だが政治家たちと頻繁に会っている。
頭も良い。
なにしろ医者の免許を持っているのだ。
なのに彼は浪人として生きた。

戦前はそれなりに知られた男で、俳句のセンスは素晴らしく、近衛文麿がその死に際に
面会までして新聞を賑わせた。

しかし戦後はこの名前が出てくることはなかった。
実際には様々な交友関係があるので、当時の政治、とくに日清日露戦争前後から原敬首相暗殺、そしてロンドン海軍軍縮会議、と太平洋戦争のかなり近くに亡くなるまで、
彼はそれなりに知られた男であったのだけども。。。。。

前半は五百木と正岡子規との交流を子細に描く。
司馬遼太郎に「友人」とだけ描かれた人の、その交流の深さに驚かされる。

ほぼ正岡子規のNO.2的存在だ。
子規自身が彼の俳句のセンスを認めている。
同時に五百木の俳句は「余技」であり、彼が俳句の世界ではなく政治の世界に入っていくことも描かれている。

途中から子規もそのへんには気付いていて、五百木が日清戦争に従軍(看護兵)している
ときには、五百木が従軍日記に俳句を書いて手紙で送って、新聞に掲載しているのだが、
それを読んで五百木の俳句のセンスを賞賛しつつ、ただ自分とは違う道を行っていると
思っていて自分の俳句とは別のモノ的立場のようだ。

ところで正岡子規も従軍したがっていたのは有名な話だが、子規はそのことを五百木と
手紙で交わしている。それどころかついに従軍が決まると五百木と会うのを楽しみにすらしている。

なんだか坂の上の雲的には、秋山好古真之を追っかけるかのごとき子規だったが、
同じ松山出身で同じ新聞社つながりで俳句でもつながっていて、さらには従軍は同じ陸軍(秋山は海軍)だから、子規は五百木とのつながりが深そうで、より影響があったのではと思うのだが。

後半は子規死後の話。
政治記者として近衛文麿の父とのつながりができてきて、やがて対ロ強硬派のグループの人間になる。
近衛父の死後は記者(というか編集長になったりしているが)もやめて、本当に浪人になる。

そのなかで、右翼のグループの中により深く入り込み、少しずつ地位も上げていく。
韓国併合にかかわったり、天皇機関説に反対したり、と。
それでもこの人は基本、浪人。
そして何かの相談役であったり、人々に訴える訴状的なものを考えたり、修正したりといった形。
あまり子分を動かすではなく、結局自分が動いている人ではある

話としては日比谷焼打ち事件がキー的な描き方はされているが、
終始地味だ。

誰かを暗殺してやるぜ、ではない。
最後まで政治家とのつながりを保っているあたりは、今の右翼とは
まったく違う。
それどころか、近衛文麿は父とのつながりもあって、首相につくかどうか相談される間柄。
それだけ政治の中心にいながら浪人。
それと軍部ともつながりはあったけども、軍部よりも政治家つながりというのが
目立つ。

本書では陸軍の機密費が彼を支えたのではないか、とは言われているが
かといって裕福ではない。

んで忘れられた。

著者の松本健一さんってどっかで聞いたなあ、と思ったら
ああ、と。
震災の時に一時話題になった人だ、とあとがきで気付いたw

いかにも読みやすい本で、
磯田先生とは全然違うが、ああキレイに細部にわたるまでまとめている感じは
とても感じる。
とくに学校の教科書の歴史を知っているうえで、これを読むと理解ができて、
違う見方ができる、というのがいい。

阿修羅かどこかでこの松本さんの評価があったんだが、なるほどと思った。
それでは松本さんは右翼でも左翼でもなくて、政治的立場なんて無いんだ、と。
たぶんそうだ。
だけどだからこそこういう書き方ができるし、事実を積み重ねていく学者らしさが
十分にある。

五百木のことを書きつつも、その反対者の意見も書き、五百木の限界も書いている。
だけどそれは批判調でも否定調でもない。
事実としてこうで、結果としてこうだったのだ、と。

だからこそ限界もある。
五百木の家庭像は一切出てこない。
結婚し子どももいる。
その子供は太平洋戦争で南方で戦死する。
だがそれは最後に一文で触れるのみだ。

五百木がどんな親でどんな家庭人であったのかまったくわからない。
わざと触れなかったのか、むしろまったくそういう話がわからない人なのか、
五百木について触れた、死後の追悼文とかになにかあったのか?だから書かなかったのか?
全然触れない。

だから浪人としての姿は面白いんだが
人として上っ面なんだよなあ、という感はある。
もっと深く知りたくなる。

読み続けて読み続けて、あとがきも読んで、最後の文に松本さんの良い言葉がある。

「戦前においては必ずしも無名でなかった浪人を暗い歴史の裏に隠してしまったのが、
私たちが生きてきた明るい戦後史なのだろう」

これはとてつもなく実感する。

そういう意味ではGHQの占領政策は凄まじい効果があったのだろうし、
戦後の教育の限界であったのだろう。
実際、五百木やその周辺の出来事を、今の学校の教師たちは教えることができないだろう。

別に右翼を善玉にしろというのではない。
ただこの時代の思想的に動く人々は、本来なら幕末の新選組と志士の対立のごとく、
重きのある魅力ある対立だったのだ。
どちらが正しいというわけではない。

戦争に突入したのは左翼の敗北で右翼の勝利という側面もあったろう。
敗戦は右翼の敗北で左翼の勝利という側面もあったろう。

しかし長い戦後から冷戦が崩壊して、ソ連が無くなり、中国が強大化し、しかしその中国はほとんど資本主義であって共産主義は名ばかりであるということも知っている。

その一方で街宣車でがなりたてるだけの右翼は、常に上から目線で国民を「なにも気付いていない馬鹿」と内心思っているんだろう。
それでいて知性のかけらもなく、自分たちを右翼と言うなといって、国民も政治家も間違っているというだけで何もなしていない。

人を説得できる力が無い。
人を動かせる力が無い。

現代に進んだ今は、そのどちらも間違っているところが多々あったと
私たちは知っている。
保守も革新も間違いはたくさんしていることを知っている。
もはやそんな枠組みでは何も解決しないことを知っている。

五百木は自信をもって断固としている。

本書で五百木が政治家にならないのは、妥協など現実的な行動をするのが嫌だからだ、とある。だからロマン主義なのだと。

五百木のような浪人は今存在しない。

知的だ。
人々を動かせる力をもつ。
文化的センスもある
信じたものに力を賭ける人だ
浪人になることをいとわない
政治家と政策を論じる
政治への影響力がある
かといってでしゃばらない

彼の考え方が正しかったか、と言われればうーん、となる。
だけど彼は間違いなく人々にも政治家にも影響を与えていた人物だ。

考えてみれば最近は左翼、革新、リベラル=理想主義的、右翼、保守=現実主義的な
描き方をされる。

が、五百木は理想主義的な右翼なのだ。

なるほど、と思う。
石原都知事が支持される理由がわかる気がする。

石原氏は金持ちで、浪人とは違う。
だが彼の行動はだいぶ五百木的だ。
それに政治家を、都知事をやめることになってもサバサバしているだろう。
まあ人々を動かせるとは思わないが、それは本人も知っているだろう。

淡々と自分の信じたものの仕事をするだけ。
政治家を続けるのはその結果でしかない。
そしてまあ確実にロマン主義的だ。
しかもロマン主義的でありながら政策実行力をもつ。
それは五百木が政治家を動かしたのと近いかもしれない。

長くなった。切る。

昭和史を陰で動かした男: 忘れられたアジテーター・五百木飄亭 (新潮選書)
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