日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

信貴山城の巻 信長に反旗を翻した梟雄・松永弾正の山城

2016-10-18 16:47:59 | 近畿
関西の旅2日目の目的地は信貴山です。

近鉄信貴山口駅

信貴山口駅では駅構内で西信貴山ケーブルと直結しています。

ケーブルカーは平日の昼間は30分に1本です。

中間点ですれ違います。


最大の急勾配区間です。


高安山駅

高安山駅からバスで信貴山門へ行きます。かつては鉄道でつながっていました。


信貴山朝護孫寺への参道、開運橋

国道236号線の信貴大橋。橋の下は大門池という名のダム湖です。



開運橋は登録有形文化財です。

信貴山は聖徳太子が「信ずべき尊ぶべき山」と称したことに由来。日本で初めて毘沙門天が出現した霊場です。聖徳太子が戦勝を祈願した際に虎を供にした毘沙門天が現れました。その日が寅年の寅の日の寅の刻だったので、信貴山は毘沙門天を祀り、虎を福の神とするようになりました。

観光センター



開山堂


世界一の福寅

赤門


かやの木稲荷


成福院


信貴山城跡は空鉢護法堂となっています。


多宝塔




標高437m、信貴山の山頂に近づきました。




空鉢護法堂

空鉢護法堂からの眺め

信貴山城址碑

信貴山城の痕跡はあまり残っていません。






松永屋敷跡

大谷池

虚空蔵堂



朝護孫子寺本堂。毘沙門天王を祀っています。

舞台

舞台から河内平野を一望できます。




千手院

信貴山門からバスで王寺にきました。王寺は東側から信貴山へいく拠点です。
信貴山城は痕跡は少なく、寺めぐりがほとんどでした。でも戦国時代の梟雄松永弾正の気分にひたれたのは収穫でした。
松永弾正久秀は足利将軍義輝を殺害、主家の三好氏を滅ぼし、奈良の大仏を焼き払い三つの悪事をはたらいたことにより、織田信長からは「三悪を成した老人」と言われました。斎藤道三、宇喜多直家と並び戦国時代の梟雄の一人です。
弾正は築城術にすぐれ、信貴山城には四階櫓を築き、天守の先駆的存在ともいわれています。信貴山城に次いで多聞山城を築き、多聞山城の櫓の形式を参考に各地の城に多聞櫓がつくられるるようになりました。多聞山城の遺構はほとんど残っていません。信長も弾正の築城術を参考にしたように思います。
弾正は茶人としても優れ、信長に反旗を翻し信貴山城に籠城した最後の時、信長が熱望した茶器「平蜘蛛の釜」を破壊し、滅亡します。
信長には離反した家臣が多いですね。明智光秀を筆頭に、荒木村重、松永弾正など。家臣ではないが浅井長政、将軍義昭も離反者かもしれない。これら有為転変の多い武将は興味深い。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿