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母と私とプラモデル

母の初七日を迎え、ようやく一段落はしましたが、まだ実感としては薄っすらとしか受け止めてられていない心境です。
火葬場で悲痛の思いの点火ボタンを押す喪主の役目も、金輪際にしてもらいたいものです。

父が他界したのは、私の息子が生まれた昭和60年(1985)の、年も越そうかという師走の押し詰まった29日の慌ただしい中でした。

あれから34年………。時を隔てながらも同じく、雷鳴轟く遣らずの雨に見舞われた中に執り行われた葬儀に、参列して頂いた縁者の方々の弔問に、母の人間の巾を垣間見た思いでした。

母が30才で産んだ私は61になり、母は91の齢を重ね、晩年は痴ほうは進みましたが、我が子の名前はちゃんと覚えていてくれました。
デイケア、ショートステイサービスを受けながら、私の二つ上の姉が身の回りの世話をしていましたが、最近では脚が弱くなり車椅子とベッドの上が生活の大半を占め、食も細り出しだんだんか弱くなってきていました。

ベッドの乗り降りで右脚のスネを擦過したキズに血腫ができ、その治療に毎日姉と二人で介助して通院し、その治療も終わろうとする中あらたに左脚に異変がみられ、掛かりつけの医院から大病院の紹介を受け、左脚全体に血の流れが滞っていることが検査で分かり、緊急手術を受ける事になりました。

高齢の身には体力的に手術を受けるリスクは高かったものの、最低限の身体への負担と高度な医療技術で血流は回復し、壊疽を回避することが出来ました。

術後の経過はおおむね良好で、執刀された医師もひとつの山は越えたようだとおっしゃってましたが、その小さく細く弱々しくなってしまった身体は、限界に達していたのでしょう。
潮が引く明け方に、致死性の心房細動により、静かに静かに息を引き取っていきました…………………













私と同じくらいの年廻りの皆さまには、お馴染みのサンダーバードのプラモデルです。
小学生の頃に流行ったゼンマイ仕掛けの動かして遊ぶプラモデルにはまって、この4号機も作ったそのひとつでした。

画像のキットは私が40代の頃に古物商からわざわざ母が買ってきたものです。
現在では店自体がなくなりましたが、子供相手の駄菓子から、懐かしいオモチャやプラモデルを歩道に溢れんばかりに積み上げた店の前に、店番のオヤジさんが丸椅子に腰掛けて、暇そうにしていたのを憶えています。

母の妹さんがその店の近所に住んでいて、母がしばしば訪ねては二、三日泊まって、夫を亡くした姉妹の親交を深めていました。

ある時叔母さんの家から戻り、さも自分も見つけた喜びに顔をほころばせ、これをお土産に手渡してくれたのが、このサンダーバード4号機のプラモデルです。
古物商のタヌキおやじにふっかけられたか、逆にまくし立てて値切って買ったのかは定かではありませんが、山と積まれた中から、マニアックなしかも小さい頃に作ったものを憶えていて偶然にも探し当てた、母の愛がこもったプラモデルです。

もったいなくて作れません。
お気に入りだけをストックした衣装ケースに保管しています。
何を差し置いても、私にとって一番の母の形見の品となりました。

仮通夜の親戚が集まって思い出話しに花が咲いた後、お線香の番を残し寝静まる中に、どんなに大人になろうともいつまでも子は子であるという、母の思いが蘇って来ました。

三途の川を4号機を蹴立てて渡っていることでしょう。
91年間、ご苦労様でした。ありがとう。
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