渦巻き

どこかいった記録など

小口城~小牧山城~末森城址

2013-11-03 22:47:34 | 城 -東海
10月26日


   
  

    

    ナビで検索できなくて、1時間ばかり周辺をうろうろした。
  
  大口町役場で場所を聞いた。大口町立中保育園のすぐ裏あたり。
  
  小口城公園とあったので、もっと広い公園を勝手に想像していた。




  
  

     小口城は、長禄3(1459)年、織田遠江守広近によって築城されたと言われており、
     別名「箭筈城」とも呼ばれ、織田氏の尾張経営の中心的役割を担ってきました。
     その後、永禄年間(1558~1569)に信長の軍勢に攻略され廃城となったようですが
     天正12(1584)年小牧・長久手の戦では、一時的に秀吉方の前戦基地として
     再興されたこともありました。政治的・軍事的にいかに重要な位置にあったかが伺われます。 
   

           
    

    


   
 模擬櫓の中に入って階段を上り遠くを見渡す。.
 
    高さ17m。犬山城、岐阜城、清洲城などがどの方向にあるのかを表示し、当時の眺望を思い描くことができます    
  

    
    この方角に小牧山が。   
    
        おお、鉄塔さんをメインにしてしまったが小さく小牧城が見える~
   

  

                  
          すぐ横に小口神社があります。


      氏子総代というおやじさんが神社にいらっしゃって
      小口神社はとても古い神社でね~など世間話をしました。
      岩村城へは行ったか?とかね。



     
      おやじさんがおっしゃるには、この道は織田街道ということです。  
       

         
       

    
    ここは土塁。   
   
   
そしてこの先にある 妙徳寺に行ってみい、、ということで
       どこそこに何があるという詳しい道順を聞いて(歩いて5分くらい)行っってみた。


    
     妙徳寺。織田遠江守広近の墓がある。
     



   それから小牧山城跡へ行った。



   


     


  
     


     小牧山城(平山城)1563年信長は居城を小牧山に移転する。


  
  小牧城跡・小牧市歴史館。  標高86m。  
  歴史館の方がいろいろ教えてくださいます。

     

 

       散歩やらランニングやらで市民の憩い場ですね。

  
   江戸時代、小牧山は尾張藩領として入山が禁止され、維新後も徳川家の所有として
   保護されたため旧状をよくとどめているとのこと。



    
    小牧山にあった小牧中学に中一の1学期までいて転校した。
    どこに校舎があったのかな?

   2014年1月15日の読売新聞に小牧山城山麓に土塁や堀を復元するとの記事が。
   信長が美濃攻略に向け1563年に築城した小牧山城は、安土城(1576年)より早く築かれ
   日本の城郭のルーツだった可能性がある~
   主郭地区にある2段の石垣は1mほどの石を並べて隙間に小さな石を詰める「野面積み」で造られ
   その13年後に信長が築いた安土城とほぼ同じ技術が使われていることがわかっている~
       
    
 
      

     
         城山八幡宮   千種区城山町2丁目  標高43mの平山城

          七五三のお参りに来ている家族に写真を撮ってほしいと言われた。
          人のカメラって緊張するわ。


   

      手水舎



  
    空堀跡


      
        末森城址
      織田信秀は、信長、信行とともに
      古渡城から天文17年(1548)三河の今川に対する防備として末森城を築いて移った。


       
         

      1556年 末森城主 信長の弟、織田信行は反信長の行動を起こした。
       信長は清洲城を出て信行軍と戦った。(稲生原の戦い いのうがはらのたたかい)


         


     


     縁結びの御神木(連理木)  ということです。







     
城山神社のすぐ下に~。  昭和塾堂。
              
本館 鉄筋コンクリート造2階建、塔4階、地下1階      

                大正から昭和初期にかけて、青年会(青年団)の 
活動が各地で盛んとなったことから、愛知県がその教化の中心となる
精神修養の場として、昭和4(1929)年3月(工期約1年)、建設された。

  



戦時中は、陸軍(いかり部隊)や東海軍司令部として、
戦後は名古屋大学医学部基礎医学系諸教室や、愛知県教育文化研究所、
千種区役所仮庁舎として利用され、現在は、愛知学院大学大学院歯学部研究棟として使用される。

       



 
   
激しい雷雨のなか、稲光に照らし出された手術室では...!

  地下もあるなんて!肝試しに使われそうな建物!!!
  
 






最新の画像もっと見る