渦巻き

どこかいった記録など

金谷城跡~うだつのあがる町~篠脇城跡

2013-10-08 22:26:01 | 城-山城
9月23日  晴れ


天文初年(1531~)、土岐氏に代わって美濃を支配した斎藤道三は、現在の金山城址に「掻上げの城」を築き、これが金山城の始まりとされる。天文6年(1537)以降は土岐氏が支配したが、永禄8年、織田信長の東濃攻略の結果、城は森可成(もり よしなり)に与えられた。可成は金山城と改称し石塁造りの城としての改修を行った。これ以後およそ35年に渡って氏の支配下となった。慶長5年(1600)、森氏が国替えで転封となると、犬山城主石川光吉の持城となった。光吉は金山城を破却・解体して建物から石垣石に至るまで犬山に運び、犬山城の資材としたと伝えられる。     

  
   蘭丸ふる里の森公園は
 バーべキュー場や子どもが遊べるアスレチックもあり
          家族連れで楽しめそうな場となっている。

    この日も、じいさんとばあさんが二人の孫を遊ばせていた。
    母親と思しき方は、下段のバーベキュー場に腰掛てスマホに見入っていた。
    のんびりした休日の雰囲気だった。


       木々や草もきちんと刈られて気持ちよく整備された公園。

    きっと、森蘭丸さんも喜んでいるよ。


   

  標高約277メートルの古城山の山頂に築かれ、天守台を山頂に配置し、
  本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、
  天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭がある。

      
         
      急な勾配もなく、これはヤバイぞという恐れを抱かせる道でない。
          ゆっくり歩いて登れる。

    
      散歩しているご夫婦に会った。

        

   
   頂上に携帯の椅子持ってきて、ぼや~んとしているおじさんが一人、、、。



    
        頂上からの眺め。  木曽川が眼下に。  






      
        お昼は、お蕎麦をいただきました。



   美濃市うだつの上がる町並み




     

  「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のこと。


       
       海鼠壁
         四角い平瓦(ひらがわら)を張り、その目地(めじ)に
         漆喰(しっくい)をかまぼこ形に盛り上げて塗った壁。土蔵などの外壁に用いる。


          
               旧今井家住宅。
  



        
          あかりアート館。
        和紙のことは、よく知らないけどすごい加工が出来るんだ。

美濃和紙は
繊細できめ細やかな風合いを持ち、美しく丈夫な和紙として愛されています。さらに、天然の食物繊維を織り込んだ和紙は、木材パルプやインクなどの薬品を使用した洋紙のように100年で黄ばんでしまう事はなく、何世紀もの間保存する事ができます。日本の代表的な和紙として、越前和紙・土佐和紙と共に、「日本三大和紙」と呼ばれています





     
         明建神社。   神迎え杉。
          宿ってます。

   



    東家代々の守護神妙見大菩薩を13世紀に下総国から勧請したと伝えられる明建神社。その横参道にあたる神迎え杉と神帰り杉にはさまれた約250mの桜並木は篠脇城付の馬場跡といわれ、岐阜の水と緑の環境百選に選定されている。両側に立ち並ぶ大小100本余りの山桜の見頃は毎年4月中旬。また、近年この桜並木の下には、秋彼岸花が燃えるように咲き出るようになった。

      
 

     神の杉 横参道の 彼岸花~



    

      水はどこからくるのかな~。気持ちよく流れてるよ~。


     
   
郡上市大和地域の歴史は、中世の領主として約340年間にわたり郡上を統治した東氏(とうし)の拠点でした。東氏一族は、もとは下総の豪族・千葉氏一族の出身で石橋山の合戦で破れた源頼朝を助け、東国御家人の重鎮となった父、千葉氏に始まります。東氏は藤原定家に和歌を学び将軍実朝の側近となって、和歌の家柄としての東家の基礎をつくりました。その三代目・東氏が戦功として加領され根拠地を下総から美濃山田荘(現大和町)へ移したといわれております。中でも第九代東常縁は古今和歌集の秘伝を連歌師宗祇に授けて「古今伝授の祖」と言われています。特に牧地域には国名勝・東氏館跡庭園や県史蹟・篠脇城、県重要無形文化財「明建神社の七日祭り」など、東氏に縁の文化財が多く残っています





   篠脇城。





栗巣川の左岸にある全山樹木におおわれている美しい山が、標高570mの志ノ脇山(しのわきやま)で、この山頂に「篠脇城跡」がある。


鎌倉時代、下総国(しもうさのくに)の名門として聞こえた千葉氏の一族である東胤行(たねゆき)は、承久の乱(1221)の戦功によって、本領香取郡東ノ庄(とうのしょう)33郷のほかに、美濃国山田ノ庄(現在の大和町、白鳥町・八幡町の一部)を加領され、阿千葉(あちば)(現在大和町剣地内)に居城を構えて領内の統治に当たった。これが、郡上東氏の始まりである。  阿千葉には、3代約90年間在城したが、鎌倉末期第4代氏村(うじむら)の時、さらに規模の大きいこの篠脇山城へ移った。その後、天文10年(1541)八幡赤谷山城(あかだにさんじょう)へ移るまでここで山田ノ庄を治めた。
 


   
天文9年(1540)越前の朝倉勢が篠脇城へ来襲した時、城主常慶(つねよし)はこの独特の縦堀を利用し、寡勢(かぜい)を以てよく敵の大軍を迎撃し敗退させたのである。




   篠脇城を福井の一乗谷の朝倉氏が攻めてきたんだ。
   何しに来たんだろうね~。
   山城見学? 
   シノワキったら 縦堀すごいらしいよ、へえ~。
   見る価値ありでしょ?
      行ってみようぜ! イエ~イ!         
  


       
   入り口にストックが何本か置いてある。旦那は両手に持った。
  
    

       

    まず、いのししよけをよけて入山。
    まずまずのけもの道。草ぼうぼうで蛇が出てもいいだろうと思わせる。

    いのししが出るか蛇が出るか。


          



   



   

      
   ストック役立つわ~、という登り。   




    

     これが有名な縦堀?  


   山頂に約1000㎡の本丸跡、約1500㎡の二の丸跡、約1000㎡の腰くるわ跡があり、この3段3500㎡の城郭(じょうかく)を囲んで放射線状に30本余の縦堀(たてぼり)が掘られている。この縦堀は、その形が臼の目のようになっているので、通称「臼の目堀」といわれている。
   




  


    
     古井戸跡?なんかあったかな~。いのししと蛇に気を取られていた。




   
       頂上に着きました。 蛇もいのししも出なくてよかった。


       
          どうですかこの草ぼうぼう、もうちょっと涼しくなってからおいでなさいよ、、、か?


    

   
   木々が生い茂り、眺望はかなわず。けっこうがっかりしていた旦那。
   てっぺん付近の木を少しでいいのよ、切ってほしい。岐阜県殿。
  きっと東氏も思っているのでは、、。





  
   途中、わずかに見晴らしがいいところがあり。
   結構、のぼったよね。  標高どれくらい?


   「570メートルということです」


  



最新の画像もっと見る