臨済宗(栄西。京都、妙心寺)は、押し問答である「公案」を通じて、座禅をこなしている。
顔の向きは、壁に背を向けて座るようだ。思案しながら座禅をして、集中力が養うのかな。
一方、曹洞宗(道元。福井県、永平寺)は、厳しい修行とともに、壁に向かってタダひたすら座禅を試みるようだ。お互い、「無心」になることを目指すらしい。
でも、理論武装派のマンタマンタ式は違う。宗教は嫌いだ。あくまでも、科学的に物理的な方法で集中力を高める。神も仏もキリストも、信じない。信じるのは、「自然科学」だけだ。
お釈迦様が死んだとき、頭を北に向け、足は南に向けられた。それに従い、顔を北に向けて座らせる。これだけで、科学的な効果から集中力が達成できる。壁など、必要ない。
「なぜ」と問われたら、それは「公案」として答えを見い出してもらおう。但し、本当に効果があるかどうかは、分からない。個人的な理論であって、科学的な実証性はないと思う。
○超短編小説。とある、禅寺。座禅の後に、お茶会が開かれた。僧侶が、お茶を入れている。でも、急須にも湯のみ茶碗にも、お湯がない。お茶がない。
お茶缶はあるが、肝心の茶葉がない。パントマイムで、お茶を注いでいる。ふざけた、僧侶だ。僧侶は、笑顔で男性Aの前に、何も入っていない湯飲み茶碗を差し出した。
僧侶「どうぞ、お飲み下さい」
男性Aは、今にも怒りそうになった。改めて、またのぞいた。湯のみ茶碗には、何も入っていない。
男性Aはハッと悟った。僧侶が、何を飲ませようとしたのか。何を、伝えたかったのか。
男性Aは何も「無い」、その湯のみ茶碗を両手でもって、おいしそうに飲み干すのであった。さて問題です。男性Aは、何を飲んだのでしょうか。