今回は…
徳川家康生誕の地
岡崎へ…
…ということで
名鉄で特急も停まる駅
東岡崎駅で降りる…
…めちゃ便利なのに
…めちゃ便利な…利用者数もめちゃ多い駅なのに
駅の外観は…
昭和…
B級スポットマニアですから
この駅舎ビルを散策してみたいな…
オモロイものが…残っていそう…
そうだ…帰りに…
駅に戻った時に散策しよー!!
…と思っていたのに
帰るときには…
駅の時刻表みて
「あ、すぐにも新岐阜行特急がくるー」
…と急いで駆け乗り…
電車の中で
写真データをみたら…
あ、そういえば…東岡崎駅ビルをぶらぶらしようと思ってたんだ…
…と思いだす始末…
日々、あ、そういえば…
あ、そういえば…
あ、そういえば…の繰り返し…
これが…老化(ろうか)なのでしょうかと思いつつ
ま、いいか…家にかえろうか…笑…と…
あれれれ…
東岡崎駅についてからのことを書こうと思ってたのに
もう…帰りの電車に乗ってることを書いてる…
まあ、今回のブログに
ついては
オチも定まらず
書き出しているので???
これで
終わってもいいんですけど…
(「老化」⇒「かえろうか」とオチもばっちり決まった??のでね…)
でも中身の
東岡崎駅で降りてぶらぶらとしたことを全く書いていないので
もう…ちょっと続けます…
写真は
駅前を流れる川
乙川にかかる明代橋から
岡崎城をみつけた…この1枚…
…なので写真に写ってる橋は
明代橋じゃなくて…殿橋…
それにしても
廻りのホテル群のビルが立派過ぎて
なんか岡崎城が申し訳なさそうに建立されてるように
ここからだと見えちゃいますね…
さてさて
今回は…
この明代橋から旧東海道まで歩いたその交差点
「伝馬」の交差点の手前にあったお寺に立ち寄ったので
その参拝記をば…
まず…
立ち寄ったのは
善立寺
山号は大光山
日蓮宗の寺院です…
山門は高麗門
元々は安城市にあり
安祥城主であった松平親忠が深く信仰を寄せていたとのこと
その後、松平清康が安祥城から岡崎城に移ると同時に寺も移り
松平家の武運長久を祈願した家康公、縁のお寺であるようです…
なんでも
家康公が
乙川で川狩りをする際には本寺で昼食をとったとか…
山門を入るとすぐ右側には鐘堂
そして
本堂
この松は
岡崎市の名木に指定されているとのこと
実は…
この松よりも…
このお寺の境内にあるという
家康公の手植えといわれる古名木「臥竜梅」を観たかったんですが
情報によると中庭にある…???
裏にまわってみると中庭に続く通路らしきものがあったんですが
目の前には土手が立ち塞がり
それをまたいでいくと
なんか不審者っぽい行動に見えたので
諦める…
どーしても
古名木「臥竜梅」を観たかったかというと…
そうでもなかった…汗…ので…
まあ
B級スポットマニアの私
「臥竜梅」よりも
この石仏の方に…
ウンと魅かれるのよ…
この石仏さまは
徳川家康とご対面したのだろうか…
没後に誕生したものなのか…
私の予想は
この石仏は明治時代の頃
没後に誕生したものと予想したが
真偽はいかに…???
…だって
そんなしょーもないこと
お寺のご住職さんに訊けないじゃん!!
あくまでも
石仏マニアの
勘と経験からくる予想です…
その隣には
なんのお堂かはっきりしないお堂…
お隣りには
保育園がありました…
このお寺の関連保育園のようです…
きっと将来
徳川家康のよーな
子供が育つと思われます???
さてさて道路を挟んで
その善立寺と真向かいにあるのが
専福寺
江戸時代の
交通の要衝でもあり
敵を防ぐために高い鼓楼が備えられて
さらには石垣も
専福寺はお寺というよりも砦のようでもありました…
本堂
境内は工事中
…とみるものは
高い鼓楼以外には
特に目を奪うものはなかったけど…
専福寺の住職祐歓は家康公と親交があったものの
三河一向一揆のときに
家康側と一揆側との調停を行おうとするも
調停が失敗し家康の怒りをかい
寺は破却され住職は岡崎を去ったのこと
石川数正の母芳春院が家康公に嘆願して
20年近くたって再興されたとか…
まあ…
この史実を詳しく描いただけでも
2時間の歴史ドラマができそうな…
そんな感じ…
そもそも
家康公は住職祐歓とは仲が良くはなかったのではないだろうか…
…というのは
専福寺は一向宗のお寺…
三河一向一揆とは
徳川家康の三大危機とされる出来事…
三河家臣団の半数が、「一向宗」門徒方に与するなど
家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつけられたこの一揆
江戸時代に入ると
一向の流派は独立した宗派とは認められず
「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた歴史もあるほどの…一向宗の一揆が
三河一向一揆
この窮地に
家臣の信仰する一向宗を何とか切り離したい
願わくば…一向宗を潰してしまいたい…
その思いで…
仲良く見せかけてた
住職祐歓との接触…調停を試みたのではないだろうか…
身勝手ながら
感じでしまうのは…
家康公のしたたかさ
そもそも調停とかいいながらも
もともと…住職祐歓とは…絶縁するつもりで…排除するつもりで
三河一向一揆の調停をもちかけたのではないだろうか…
だって
結果として
圧勝した家康公が出した条件とは…
一揆の参加者無罪
お寺の運営も…
この専福寺でも20年後には復活するなど実に寛容…
しかし…
一向宗から…改宗することが絶対必要条件!!
一向宗の宗教指導者はこの三河の地から立ち退かざるを得なくなったけど
一向宗の家臣たちは今まで以上に家康公に尽くしたことに違いない…
いやあ…
この誰もいない境内…
時空を超えて
江戸時代の
妄想に浸るには絶好のローケーション…でありました…笑
家康側と一揆側との調停といった難題を依頼されるも
家康との仲と
信じる一向宗の狭間に揺れた
住職祐歓の想いと無念…
寒風ふきつけて
めちゃめちゃ寒かったのは…
住職祐歓の想いと被さってるような気もして
心底…身体が冷えました…
このお寺では
岡崎板屋町にあった遊郭
飯盛女の投げ込み寺で
そんな飯盛女の無縁仏も多く葬られているとか…
寒風ふきつけて
めちゃめちゃ寒かったのは…
飯盛女の悲惨な想いと被さってるような気もして
心底…心底…心底…身体が冷えました…
もう…去ろうか…(さろうか…)
オチも決まって
チャンチャン!!
徳川家康生誕の地
岡崎へ…
…ということで
名鉄で特急も停まる駅
東岡崎駅で降りる…
…めちゃ便利なのに
…めちゃ便利な…利用者数もめちゃ多い駅なのに
駅の外観は…
昭和…
B級スポットマニアですから
この駅舎ビルを散策してみたいな…
オモロイものが…残っていそう…
そうだ…帰りに…
駅に戻った時に散策しよー!!
…と思っていたのに
帰るときには…
駅の時刻表みて
「あ、すぐにも新岐阜行特急がくるー」
…と急いで駆け乗り…
電車の中で
写真データをみたら…
あ、そういえば…東岡崎駅ビルをぶらぶらしようと思ってたんだ…
…と思いだす始末…
日々、あ、そういえば…
あ、そういえば…
あ、そういえば…の繰り返し…
これが…老化(ろうか)なのでしょうかと思いつつ
ま、いいか…家にかえろうか…笑…と…
あれれれ…
東岡崎駅についてからのことを書こうと思ってたのに
もう…帰りの電車に乗ってることを書いてる…
まあ、今回のブログに
ついては
オチも定まらず
書き出しているので???
これで
終わってもいいんですけど…
(「老化」⇒「かえろうか」とオチもばっちり決まった??のでね…)
でも中身の
東岡崎駅で降りてぶらぶらとしたことを全く書いていないので
もう…ちょっと続けます…
写真は
駅前を流れる川
乙川にかかる明代橋から
岡崎城をみつけた…この1枚…
…なので写真に写ってる橋は
明代橋じゃなくて…殿橋…
それにしても
廻りのホテル群のビルが立派過ぎて
なんか岡崎城が申し訳なさそうに建立されてるように
ここからだと見えちゃいますね…
さてさて
今回は…
この明代橋から旧東海道まで歩いたその交差点
「伝馬」の交差点の手前にあったお寺に立ち寄ったので
その参拝記をば…
まず…
立ち寄ったのは
善立寺
山号は大光山
日蓮宗の寺院です…
山門は高麗門
元々は安城市にあり
安祥城主であった松平親忠が深く信仰を寄せていたとのこと
その後、松平清康が安祥城から岡崎城に移ると同時に寺も移り
松平家の武運長久を祈願した家康公、縁のお寺であるようです…
なんでも
家康公が
乙川で川狩りをする際には本寺で昼食をとったとか…
山門を入るとすぐ右側には鐘堂
そして
本堂
この松は
岡崎市の名木に指定されているとのこと
実は…
この松よりも…
このお寺の境内にあるという
家康公の手植えといわれる古名木「臥竜梅」を観たかったんですが
情報によると中庭にある…???
裏にまわってみると中庭に続く通路らしきものがあったんですが
目の前には土手が立ち塞がり
それをまたいでいくと
なんか不審者っぽい行動に見えたので
諦める…
どーしても
古名木「臥竜梅」を観たかったかというと…
そうでもなかった…汗…ので…
まあ
B級スポットマニアの私
「臥竜梅」よりも
この石仏の方に…
ウンと魅かれるのよ…
この石仏さまは
徳川家康とご対面したのだろうか…
没後に誕生したものなのか…
私の予想は
この石仏は明治時代の頃
没後に誕生したものと予想したが
真偽はいかに…???
…だって
そんなしょーもないこと
お寺のご住職さんに訊けないじゃん!!
あくまでも
石仏マニアの
勘と経験からくる予想です…
その隣には
なんのお堂かはっきりしないお堂…
お隣りには
保育園がありました…
このお寺の関連保育園のようです…
きっと将来
徳川家康のよーな
子供が育つと思われます???
さてさて道路を挟んで
その善立寺と真向かいにあるのが
専福寺
江戸時代の
交通の要衝でもあり
敵を防ぐために高い鼓楼が備えられて
さらには石垣も
専福寺はお寺というよりも砦のようでもありました…
本堂
境内は工事中
…とみるものは
高い鼓楼以外には
特に目を奪うものはなかったけど…
専福寺の住職祐歓は家康公と親交があったものの
三河一向一揆のときに
家康側と一揆側との調停を行おうとするも
調停が失敗し家康の怒りをかい
寺は破却され住職は岡崎を去ったのこと
石川数正の母芳春院が家康公に嘆願して
20年近くたって再興されたとか…
まあ…
この史実を詳しく描いただけでも
2時間の歴史ドラマができそうな…
そんな感じ…
そもそも
家康公は住職祐歓とは仲が良くはなかったのではないだろうか…
…というのは
専福寺は一向宗のお寺…
三河一向一揆とは
徳川家康の三大危機とされる出来事…
三河家臣団の半数が、「一向宗」門徒方に与するなど
家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつけられたこの一揆
江戸時代に入ると
一向の流派は独立した宗派とは認められず
「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた歴史もあるほどの…一向宗の一揆が
三河一向一揆
この窮地に
家臣の信仰する一向宗を何とか切り離したい
願わくば…一向宗を潰してしまいたい…
その思いで…
仲良く見せかけてた
住職祐歓との接触…調停を試みたのではないだろうか…
身勝手ながら
感じでしまうのは…
家康公のしたたかさ
そもそも調停とかいいながらも
もともと…住職祐歓とは…絶縁するつもりで…排除するつもりで
三河一向一揆の調停をもちかけたのではないだろうか…
だって
結果として
圧勝した家康公が出した条件とは…
一揆の参加者無罪
お寺の運営も…
この専福寺でも20年後には復活するなど実に寛容…
しかし…
一向宗から…改宗することが絶対必要条件!!
一向宗の宗教指導者はこの三河の地から立ち退かざるを得なくなったけど
一向宗の家臣たちは今まで以上に家康公に尽くしたことに違いない…
いやあ…
この誰もいない境内…
時空を超えて
江戸時代の
妄想に浸るには絶好のローケーション…でありました…笑
家康側と一揆側との調停といった難題を依頼されるも
家康との仲と
信じる一向宗の狭間に揺れた
住職祐歓の想いと無念…
寒風ふきつけて
めちゃめちゃ寒かったのは…
住職祐歓の想いと被さってるような気もして
心底…身体が冷えました…
このお寺では
岡崎板屋町にあった遊郭
飯盛女の投げ込み寺で
そんな飯盛女の無縁仏も多く葬られているとか…
寒風ふきつけて
めちゃめちゃ寒かったのは…
飯盛女の悲惨な想いと被さってるような気もして
心底…心底…心底…身体が冷えました…
もう…去ろうか…(さろうか…)
オチも決まって
チャンチャン!!