東海道五十三次
江戸時代の風を感じようと
宿場町へは
イロイロモロモロ訪ねたことはあったけど…
宿場町と宿場町の間を歩き切ることは今までの人生一度もなかった…
でも今回は
これまで書き綴ってきた
赤坂宿から御油宿までを
はじめて歩き切る!!!…笑
江戸時代の旅人気分になって
江戸時代の旅人気分になって
江戸時代の旅人気分になって
赤坂宿から御油宿までを
はじめて歩き切る!!!…笑
…といっても
赤坂宿と御油宿との宿間距離はわずか十六町(約1.7km)ほどしかないから
歩いてみようと思っただけのことだけど…笑
松尾芭蕉も
夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを重ね合わせて
「夏の月御油より出でて赤坂や」
…と詠んでいますがな…
その句碑のある関川神社を後にして
のんびりと御油方面へと歩きます
車はぶんぶん行き交いますが
誰一人として街道を私のように歩いてはいません!!
飯盛女(留女)に声を掛けられることもありません!!
この赤坂宿と御油宿の間には
松並木…が…
これ天然記念物になってるんですね…
その割には
この街道…ぶんぶん車が行き交うので
排気ガスとか大丈夫かなと…いらぬ心配をしてしまいますけど…
この御油の松並木は
約600メートルほど立ち並び続いている
1604年
徳川幕府の道路対策として徳川家康の命を受けた奉行の大久保長安が植えたもので
幕府によって厳しく管理されていたとか…
冬には寒い風から守ってくれたとの
WEBからの記述…
確かに…
そんな気がします…
だって
松が旅人の代わりに寒風をうけて
こんなにも曲がっちゃっていて…
御油の松並木は「東海道中膝栗毛」にも登場するとの案内看板…
実に…この看板そのものに歴史を感じますな…
弥次さん喜多さんも
ここで立ち止まって読んだのでしょうか??
(んな訳ないがな…笑)
お伊勢参りの途中
弥次さんは「御油の松並木には時々狐が出没して人を騙すらしい」
と言う話を御油宿の茶屋のお婆さんから聞きまして…
弥次さんは、先に赤坂宿に向けて出発した喜多さんを追いかけてみると…
この御油の松並木で喜多さんらしき姿を見つける…
しかし、弥次さんは…この姿は狐が喜多さんに化けた姿だと思い込み
狐の怪だと恐れ…縛り上げ捕まえた…といったコメディ…笑
ここ弥次さんも喜多さんも通ったのね…
と…時空を超えて気分は江戸時代…
車はぶんぶん走るけど…
ところで…それ
弥次さんも喜多さんも通った???んじゃなくて
十返舎一九さんが通ったんとちゃうんかい??
ちなみにこの旧東海道の御油の松並木のあたりは
御油松並木公園として
整備され歩きやすくなってましたが…
頑なに…ぶんぶん車の行き交う
旧東海道にこだわって…笑
歩いた私…
やっぱ…
こだわって旧東海道を歩いて
江戸時代の旅人気分を満喫しないと…ね…笑
東海道御油の松並木を歩き切って
御油宿に入ろうとするところに
「御関札立掛場跡」
「 松平丹波守宿 」 という関札が立て掛けてありました…
御関札とは
諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際宿泊先となる
宿場の本陣や問屋に事前に申し伝え
宿泊当日の三日前迄に
本陣、問屋は宿場の出入り口に縦三尺半、横一尺半の板に
宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し
立掛けられた看板のことだとか…
このことで…往来の旅人や住民等に大名の来訪を周知させたとか…
十王堂も
そばにありました…
なんか
旧民家っぽい感じですが…
中を覗くと
どどっと…
冥土で亡者の罪を裁く十人の判官であられる「十王様」
堂の中には、真中に「閻魔王」をはじめ、十人の王と、その本地である「地蔵様」
それに十人の判官を支える「奪衣婆」「倶生神」などが祀られていました…
さてさて
ここからは
御油宿であります…
江戸から東海道五十三次を35番めの宿場町
西隣の赤坂宿並び多くの飯盛女を抱えて賑わった宿場町であります…
歌川広重は「東海道五十三次之内御油 旅人留女」
の題を付け
強引に客引きをする宿場の女たちを浮世絵に描いたのは
歌川広重の画の中でも
インパクト大ですよね!!
今となっては
飯森女どころか
御油の松並木によく姿をみせていたというキツネ1匹すら
みあたりませんが…笑
まず
立ち寄ったのが
東林寺
永享年間に
龍月日蔵和尚によって創建された寺院でして
山号は
招賢山
江戸時代には徳川家康が2回立ち寄って休息したとか…
本堂は新しく
境内にあった鬼瓦は
建て替える前の本堂のものでしょうか…
本堂にて
合掌
境内にあった石仏に目が留まる…
なんだか雨宿りしているかのようにも思えて…
本堂左手の墓地には
御油宿で働いていた飯盛女たちのお墓が並んでありました…
赤坂宿そして
この御油宿は
先ほど紹介した…
歌川広重は「東海道五十三次之内御油 旅人留女」にもあるように
飯盛女が多くいたそうな…
飯盛女は、旅籠の給仕、雑用だけでなく、遊女奉公も務め
多くは…貧困な家の妻か娘でして…年季奉公の形式で働かされていたそうな…
この東林寺には、その飯盛女の墓がありまして
彼女たちは、務めていた旅籠の借財がかさみ
将来を悲観し揃って入水自殺したとか…
会ったことのない
遊女のみなさんのお墓…
イメージとしては
安藤広重の絵のように
けっして…綺麗とは言えない…
強引そうな女にみえるけど…
この安藤広重の絵の「奥」にあるもの…
必死に客を誘わなくては
生きていけない…
そんな遊女たちの辛い思いが伝わってくるようでした…
合掌!!
さてさて
さらにちょっと東に歩くと…
ここが御油宿本陣跡…
今では
「イチビキ」の工場の敷地になっていました…
さらに先に進めると
ここで右に曲がるという案内看板…
すぐ近くにある
更地は…
問屋場跡
案内看板には
歌川広重の画が…
この絵は当然みたことが何度もありまして…
ここだったんですね…
と…何もない更地をみて…ちょいと感動…笑
こちらの絵は
幾年ものの風雨にさらされて
腐りかけていました…
ちょうど
飯盛女が旅人を誘っているところが
錆びて絵が見えなくくなっており…
飯盛女の切なさが…より伝わってくる…
涙なくては…眺めることのできない1枚の画に変化???していました…
そして
高札場跡
駐車場になってました…
江戸時代の風を感じさせてくれる建築物
その向かいには
時が進んで
明治時代…
明治政府が招いた日本近代医学の祖といわれる
ドイツ人医師がベルツ博士
そのベルツ博士と結婚し
日本とドイツで暮らしていた荒井花子(戸田花子)の生家跡の
立て看板がありました…
御油の音羽川に架かる御油橋
角に小さな神社がありました
若宮八幡社
…を通りすぎて歩くと
ここで
御油宿とお別れ…
「御油の追分」
常夜灯と「秋葉山三尺坊大権現道」などの文字が見える道標
ここからは
「姫街道」なんですね…
いやあ…
ネーミングがいいよね!姫街道!!
言葉だけ聞いてると
歩いてみたくなります!!
が…
実際は…車がぶんぶんぶーん!!!
「姫街道」ならぬ
車に轢かれて
その声
「悲鳴かい!!どう???」
なんて
私を轢いた運転手に声を掛けられ
救急車で運ばれる図が浮かんだので???
「姫街道」を歩くのはやめておく…
さてさて
これにて
歩いている旅人と行き違うこともなく
飯盛女に誘われることもなく…
御油の松並木でキツネに化かされることもなく
「御油宿」の旅は終了…
帰り道は最寄りの駅
国府駅まで歩く…
その途中にあった
大社神社…
祭神は大國主命
天元・永観の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して
三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請たのが始まりという…
実は…目に留まったのが
この
「古典おみくじ」
な、なんと「大凶」有…
なんて書いてありまして…
「大凶」なんて引いたら
この歳…心臓発作で…「古典おみくじ」だけに「コテン」とあの世にいってしまう怖れも感じながらも…怖いものみたさ…???
引きたくなる!なる!!
でも…やっぱ「大凶」は引きたくない…
結果は…
フツーに「吉」でした…笑
ブログネタになるような…
ショックで「コテン」とあの世にいってしまう怖れのあるような
「大凶」を引くことはありませんでした…
境内には
身代わり大国さまが…
自身の病ある箇所に水を掛け流せば病気平癒の霊験あり…
まずは
肉離れ…
もう…すでに2度も発症…
2度あることは3度あるのは御免やでー!!
ついでにボケ防止をも…
拝殿は
バスケットゴールではありません!!
最後に
御神木からパワーをいただき
国府駅から
岡崎方面の普通電車に乗れば…
日曜日だというのに
誰もいませんがな…
なんだかキツネにつままれた気分…
御油の松並木を歩いたからでしょうか…笑
これは…キツネの仕業に違いない???
岡崎から特急に乗り換えれば
一転して
車内は…
大「コン」雑!!大「コン」雑!!大「コン」雑!!
これも…キツネの仕業に違いない???
江戸時代の風を感じようと
宿場町へは
イロイロモロモロ訪ねたことはあったけど…
宿場町と宿場町の間を歩き切ることは今までの人生一度もなかった…
でも今回は
これまで書き綴ってきた
赤坂宿から御油宿までを
はじめて歩き切る!!!…笑
江戸時代の旅人気分になって
江戸時代の旅人気分になって
江戸時代の旅人気分になって
赤坂宿から御油宿までを
はじめて歩き切る!!!…笑
…といっても
赤坂宿と御油宿との宿間距離はわずか十六町(約1.7km)ほどしかないから
歩いてみようと思っただけのことだけど…笑
松尾芭蕉も
夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを重ね合わせて
「夏の月御油より出でて赤坂や」
…と詠んでいますがな…
その句碑のある関川神社を後にして
のんびりと御油方面へと歩きます
車はぶんぶん行き交いますが
誰一人として街道を私のように歩いてはいません!!
飯盛女(留女)に声を掛けられることもありません!!
この赤坂宿と御油宿の間には
松並木…が…
これ天然記念物になってるんですね…
その割には
この街道…ぶんぶん車が行き交うので
排気ガスとか大丈夫かなと…いらぬ心配をしてしまいますけど…
この御油の松並木は
約600メートルほど立ち並び続いている
1604年
徳川幕府の道路対策として徳川家康の命を受けた奉行の大久保長安が植えたもので
幕府によって厳しく管理されていたとか…
冬には寒い風から守ってくれたとの
WEBからの記述…
確かに…
そんな気がします…
だって
松が旅人の代わりに寒風をうけて
こんなにも曲がっちゃっていて…
御油の松並木は「東海道中膝栗毛」にも登場するとの案内看板…
実に…この看板そのものに歴史を感じますな…
弥次さん喜多さんも
ここで立ち止まって読んだのでしょうか??
(んな訳ないがな…笑)
お伊勢参りの途中
弥次さんは「御油の松並木には時々狐が出没して人を騙すらしい」
と言う話を御油宿の茶屋のお婆さんから聞きまして…
弥次さんは、先に赤坂宿に向けて出発した喜多さんを追いかけてみると…
この御油の松並木で喜多さんらしき姿を見つける…
しかし、弥次さんは…この姿は狐が喜多さんに化けた姿だと思い込み
狐の怪だと恐れ…縛り上げ捕まえた…といったコメディ…笑
ここ弥次さんも喜多さんも通ったのね…
と…時空を超えて気分は江戸時代…
車はぶんぶん走るけど…
ところで…それ
弥次さんも喜多さんも通った???んじゃなくて
十返舎一九さんが通ったんとちゃうんかい??
ちなみにこの旧東海道の御油の松並木のあたりは
御油松並木公園として
整備され歩きやすくなってましたが…
頑なに…ぶんぶん車の行き交う
旧東海道にこだわって…笑
歩いた私…
やっぱ…
こだわって旧東海道を歩いて
江戸時代の旅人気分を満喫しないと…ね…笑
東海道御油の松並木を歩き切って
御油宿に入ろうとするところに
「御関札立掛場跡」
「 松平丹波守宿 」 という関札が立て掛けてありました…
御関札とは
諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際宿泊先となる
宿場の本陣や問屋に事前に申し伝え
宿泊当日の三日前迄に
本陣、問屋は宿場の出入り口に縦三尺半、横一尺半の板に
宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し
立掛けられた看板のことだとか…
このことで…往来の旅人や住民等に大名の来訪を周知させたとか…
十王堂も
そばにありました…
なんか
旧民家っぽい感じですが…
中を覗くと
どどっと…
冥土で亡者の罪を裁く十人の判官であられる「十王様」
堂の中には、真中に「閻魔王」をはじめ、十人の王と、その本地である「地蔵様」
それに十人の判官を支える「奪衣婆」「倶生神」などが祀られていました…
さてさて
ここからは
御油宿であります…
江戸から東海道五十三次を35番めの宿場町
西隣の赤坂宿並び多くの飯盛女を抱えて賑わった宿場町であります…
歌川広重は「東海道五十三次之内御油 旅人留女」
の題を付け
強引に客引きをする宿場の女たちを浮世絵に描いたのは
歌川広重の画の中でも
インパクト大ですよね!!
今となっては
飯森女どころか
御油の松並木によく姿をみせていたというキツネ1匹すら
みあたりませんが…笑
まず
立ち寄ったのが
東林寺
永享年間に
龍月日蔵和尚によって創建された寺院でして
山号は
招賢山
江戸時代には徳川家康が2回立ち寄って休息したとか…
本堂は新しく
境内にあった鬼瓦は
建て替える前の本堂のものでしょうか…
本堂にて
合掌
境内にあった石仏に目が留まる…
なんだか雨宿りしているかのようにも思えて…
本堂左手の墓地には
御油宿で働いていた飯盛女たちのお墓が並んでありました…
赤坂宿そして
この御油宿は
先ほど紹介した…
歌川広重は「東海道五十三次之内御油 旅人留女」にもあるように
飯盛女が多くいたそうな…
飯盛女は、旅籠の給仕、雑用だけでなく、遊女奉公も務め
多くは…貧困な家の妻か娘でして…年季奉公の形式で働かされていたそうな…
この東林寺には、その飯盛女の墓がありまして
彼女たちは、務めていた旅籠の借財がかさみ
将来を悲観し揃って入水自殺したとか…
会ったことのない
遊女のみなさんのお墓…
イメージとしては
安藤広重の絵のように
けっして…綺麗とは言えない…
強引そうな女にみえるけど…
この安藤広重の絵の「奥」にあるもの…
必死に客を誘わなくては
生きていけない…
そんな遊女たちの辛い思いが伝わってくるようでした…
合掌!!
さてさて
さらにちょっと東に歩くと…
ここが御油宿本陣跡…
今では
「イチビキ」の工場の敷地になっていました…
さらに先に進めると
ここで右に曲がるという案内看板…
すぐ近くにある
更地は…
問屋場跡
案内看板には
歌川広重の画が…
この絵は当然みたことが何度もありまして…
ここだったんですね…
と…何もない更地をみて…ちょいと感動…笑
こちらの絵は
幾年ものの風雨にさらされて
腐りかけていました…
ちょうど
飯盛女が旅人を誘っているところが
錆びて絵が見えなくくなっており…
飯盛女の切なさが…より伝わってくる…
涙なくては…眺めることのできない1枚の画に変化???していました…
そして
高札場跡
駐車場になってました…
江戸時代の風を感じさせてくれる建築物
その向かいには
時が進んで
明治時代…
明治政府が招いた日本近代医学の祖といわれる
ドイツ人医師がベルツ博士
そのベルツ博士と結婚し
日本とドイツで暮らしていた荒井花子(戸田花子)の生家跡の
立て看板がありました…
御油の音羽川に架かる御油橋
角に小さな神社がありました
若宮八幡社
…を通りすぎて歩くと
ここで
御油宿とお別れ…
「御油の追分」
常夜灯と「秋葉山三尺坊大権現道」などの文字が見える道標
ここからは
「姫街道」なんですね…
いやあ…
ネーミングがいいよね!姫街道!!
言葉だけ聞いてると
歩いてみたくなります!!
が…
実際は…車がぶんぶんぶーん!!!
「姫街道」ならぬ
車に轢かれて
その声
「悲鳴かい!!どう???」
なんて
私を轢いた運転手に声を掛けられ
救急車で運ばれる図が浮かんだので???
「姫街道」を歩くのはやめておく…
さてさて
これにて
歩いている旅人と行き違うこともなく
飯盛女に誘われることもなく…
御油の松並木でキツネに化かされることもなく
「御油宿」の旅は終了…
帰り道は最寄りの駅
国府駅まで歩く…
その途中にあった
大社神社…
祭神は大國主命
天元・永観の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して
三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請たのが始まりという…
実は…目に留まったのが
この
「古典おみくじ」
な、なんと「大凶」有…
なんて書いてありまして…
「大凶」なんて引いたら
この歳…心臓発作で…「古典おみくじ」だけに「コテン」とあの世にいってしまう怖れも感じながらも…怖いものみたさ…???
引きたくなる!なる!!
でも…やっぱ「大凶」は引きたくない…
結果は…
フツーに「吉」でした…笑
ブログネタになるような…
ショックで「コテン」とあの世にいってしまう怖れのあるような
「大凶」を引くことはありませんでした…
境内には
身代わり大国さまが…
自身の病ある箇所に水を掛け流せば病気平癒の霊験あり…
まずは
肉離れ…
もう…すでに2度も発症…
2度あることは3度あるのは御免やでー!!
ついでにボケ防止をも…
拝殿は
バスケットゴールではありません!!
最後に
御神木からパワーをいただき
国府駅から
岡崎方面の普通電車に乗れば…
日曜日だというのに
誰もいませんがな…
なんだかキツネにつままれた気分…
御油の松並木を歩いたからでしょうか…笑
これは…キツネの仕業に違いない???
岡崎から特急に乗り換えれば
一転して
車内は…
大「コン」雑!!大「コン」雑!!大「コン」雑!!
これも…キツネの仕業に違いない???