日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

塚原山根本寺(佐渡市新穂大野)

2018-08-26 23:09:58 | 旅行
塚原のご霊跡を訪問してきました!


日蓮聖人のご一代記やご遺文を見聞きした上での塚原のイメージとしては、とにかく極寒、激しい吹雪が叩きつける悲しい場所、という感じでしょうか。
(葉山・本圓寺の日蓮聖人像の台座)
そうそう、こんな感じです。


ただ今回は、8月中旬、猛暑日の昼間に訪問してしまったので、汗ダクダクの訪問となりました(笑)


お寺の入口から少し歩いた田んぼとの境あたりに、境内を示す石がありました。
このあたりから寺域だと思われます。


根本寺の正面です。
入口だけ見ると、本山特有のドーンという感じがなく、質素な印象です。


ご霊跡に「謫居」という文字を見たのは、伊東の佛現寺以来かな?
それはそうですよね、どちらも流刑法難の地ですもんね。


管理維持費として300円を納めて門をくぐります。
扁額には「開目道場」。
開目抄を著された場所でもありますね。


戒壇塚です。
三昧堂の跡だとも言われています。(諸説あるようです)
当時は死体を葬る墓地の一画であったそうです。
日蓮聖人への扱いの低さが窺えます。


戒壇塚の隣に、江戸時代に造られた三昧堂があります。
立派な造りですね~!


大正10年に信徒さんが奉納した絵が掲げられていました。
往時の三昧堂は・・・さ、寒そう・・・。
日蓮聖人に課せられたのは、知り合いも誰もいない離島で、冬場にこんなスカスカの小屋に放置されるという刑だったのですね・・・。
食事も乏しかったそうですから、普通なら餓死、凍死でしょう。

どうやってこの状況から復活されたのでしょうか?


境内は奥に深く、見どころたくさんです。


仁王門です。


阿行と


吽形が睨みを利かせています。


周囲は国仲平野の田園地帯。


根本寺の境内だけは深い森になっています。あ~涼しい~!


わー、圧倒的な迫力!二天門です。


山号は「塚原山」です。
四方に持国天、毘沙門天、弁財天、大黒天が安置されています。


正面の丘の上に祖師堂があります。
雪の中で読経を続けるお祖師様の姿を思い浮かべながら、参拝しました。


祖師堂のある丘は、人工的に造られた「布金壇」だそうです。
江戸初期に、佐渡の金銀山で労働者を率いる山師・味方但馬氏が資金を出して造り上げた丘です。
味方氏は、根本寺の多くの堂宇についても、建築資金を拠出した大壇越です。


ゴールドラッシュに沸く佐渡の山師がどれほどの財産を築いたのか、とても想像できません。
一方で財産に執着せず、ご霊跡の中興のために施したその姿勢に、素直に尊敬してしまいます。


本堂です。
両側の松とのマッチングが絶妙です!


本堂内で貫主様が自ら筆を執って、ご首題を書いてくれました。
貫首様によると、佐渡は昔も今も、念仏が盛んな島なのだそうです。
日蓮宗の寺院が多いんだろうと勝手に思っていましたが、寺院数でいえば日蓮宗は5番目ということです!


そんな島にいきなり、お題目を唱え、念仏無間、禅天魔・・・とやるお坊さんが流されてきたわけですから、塚原界隈は相当ザワついたはずです。
阿仏房はこんな状況の中で最初に帰依した信者でした。


阿仏房は、承久3(1221)年に起きた承久の乱のせいで佐渡に配流された順徳天皇に帯同してきた武士だったようです。
日蓮聖人のご誕生が承久4(1222)年ですから、日蓮聖人よりもずっと年長の方だったと思われます。
計算してみよう・・・う~ん、阿仏房は日蓮聖人よりも34才も年上だ!
で、日蓮聖人が佐渡に流されたのが49才の時だから・・・え~!83才での帰依!!びっくり~


阿仏房とその妻・千日尼は、寒さと空腹に耐える四面楚歌の日蓮聖人のもとに、密かに食事を運び続けたそうです。
昼間だと人目があるから夜間、それも死体を運んでるように見せかけたといいます。
お祖師様はどれほど、どれほど嬉しかったことでしょう。
伊豆法難のときの船守弥三郎夫妻といい、お祖師様のいちばんキツい時に、命の危険も顧みず給仕してくれる人が現れるんですね・・・。
僕は生涯、彼らへの感謝を忘れずに暮らしてゆきたいと思います。


日蓮聖人が塚原三昧堂に入られた翌年1月、有名な塚原問答が行われました。
一対数百人の、外から見れば一瞬で袋叩きに遭いそうな状況だったようです。


ちょっと脱線しますが、真野というところに「佐渡歴史伝説館」という観光施設があります。
順徳天皇や世阿弥といった、佐渡に配流された偉人の逸話を、ロボットでリアルに紹介するのですが、そこに日蓮聖人のロボットも鎮座していました。
動く日蓮聖人、初めて見ました(笑)。
塚原問答の鬼気迫る状況が表現されていました。
圧倒的多数の他宗僧侶から浴びせられる罵詈雑言でガヤガヤしていますが、矢継ぎ早に飛んでくる問いに、日蓮聖人がそれぞれ即答し、バッサバッサと斬ってゆくさまが目の前で展開され、正直スゲ~!って思いました。


のちに日蓮聖人は「鎌倉の真言師、禅宗、念仏者、天台の者よりも、はかなき者どもなれば、ただ思ひやらせ給へ」とご遺文に書かれています。
法論を繰り返してきた百戦錬磨の日蓮聖人にしてみれば、口ほどにもない法敵だったのでしょう。

塚原問答を境に、少しずつ帰依する人が増えてきたということです。逆境をチャンスに変えたのですね!


それでも日蓮聖人を恨む者はいたようで、暗殺を目論んだ跡がありました。
根本寺にある犬塚です。
日蓮聖人に供養された食事の中に毒が盛られた事を察し、日蓮聖人はこれを犬に与えると、犬は即死してしまったそうです。犬の霊を供養するため、阿仏房が築いた塚と伝えられています。


ここ塚原は、日蓮聖人が代表的な著作「開目抄」を執筆された地としても知られています。


「儒家の孝養は・・・」から始まる一節は、朝のお勤めで読んでおり、馴染みがあります。日蓮聖人の仏教観がよく著されているご遺文だそうです。
開目抄は、四條金吾公を仲介にして一門に送られたようです。


歴代お上人の御廟に参拝。
開山が日蓮聖人、二祖が日朗上人であり、現在のご住職で53世だそうです。
根本寺は、歴史的に京都妙覚寺とご縁の深いお寺です。
京都妙覚寺は時代の変遷の中で、宗祖の教えを頑なに守り抜こうとしたお寺、「塚原」という地への思い入れは強かったはずです。
天文21(1552)年、妙覚寺から来島した大泉坊日成上人が、荒廃した塚原の野に留まったのが、お寺としての根本寺の始まりだと思われます。
慶長17(1612)年に妙覚寺から来た栴檀院日衍(にちえん)上人が法灯を継承、山師・味方但馬氏の強力な外護を得て妙覚寺から独立しました。
当時は社会を揺るがす不受不施論争があり、お寺としての方向性をどう定めるのか、難しい時代でもあったと思います。
いずれにせよ、今日までお寺を護ってくれた先師達に、心から感謝致します。



根本寺には鐘楼もありますが、珍しい「太鼓堂」もあります!
メチャクチャ立派じゃないですか?


中にはでっかい太鼓!佐渡で一番だそうです。
高らかに打ち鳴らす音、聞いてみたいな~!


塚原のお寺、寂しい所なんじゃないか?という先入観は、見事に裏切られました!
日蓮聖人にとって、宗門にとって転機となったとても大切なご霊跡なんですね。


日蓮聖人は5ヶ月間の塚原での生活ののち、一谷(いちのさわ)に移りました。

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