「忙しさにかまけて、しばらく更新を怠っていました」
という言葉は、色々なブログで散見する。私の場合は、本当に「時間が取れなかった」のであって「怠って」などはいない。
たまりゆく写真を横目に(実際は、横向いたところに写真があるわけではない)、「ああ、今日も記事を書く時間がとれなかった」と慙愧にむせぶ日々が続いていたのである。
そして、こうして大量に書いてみて思うのは、小学生のころ、夏休みも終盤に差しかかった時期に、まさしく「貯めに貯めた」絵日記を、わずか2、3日で書き上げた「苦い」記憶だった。縛ってまさに廃品回収にださんばかりになっていた新聞を開いて、天気や出来事や見たテレビの情報を引出し、文章がどうあれ、「ページの半分以上」を合言葉に字を埋めていく『虚しすぎる作業』。両親の実家へ旅行に行った下りになると、記憶も鮮明になり回想自体も楽しいのだが、当時は「文章を書いたり読んだりするのが」極めて苦手だったので、作業その物は依然苦痛に満ちたものだった。
いずれにせよ、記憶をたぐるには、写真がきわめて有効であることを、今回あらためて認識した。
おしまい
という言葉は、色々なブログで散見する。私の場合は、本当に「時間が取れなかった」のであって「怠って」などはいない。
たまりゆく写真を横目に(実際は、横向いたところに写真があるわけではない)、「ああ、今日も記事を書く時間がとれなかった」と慙愧にむせぶ日々が続いていたのである。
そして、こうして大量に書いてみて思うのは、小学生のころ、夏休みも終盤に差しかかった時期に、まさしく「貯めに貯めた」絵日記を、わずか2、3日で書き上げた「苦い」記憶だった。縛ってまさに廃品回収にださんばかりになっていた新聞を開いて、天気や出来事や見たテレビの情報を引出し、文章がどうあれ、「ページの半分以上」を合言葉に字を埋めていく『虚しすぎる作業』。両親の実家へ旅行に行った下りになると、記憶も鮮明になり回想自体も楽しいのだが、当時は「文章を書いたり読んだりするのが」極めて苦手だったので、作業その物は依然苦痛に満ちたものだった。
いずれにせよ、記憶をたぐるには、写真がきわめて有効であることを、今回あらためて認識した。