A.M.'s kitchen

ふと心に浮かんだことを、短く、軽く、たまに鋭く、書き残しておく場所です。

2008/06/24 の1品

2008-06-30 16:48:18 | 食生活
この日は、高円寺の「魚のうまい焼き鳥屋」へ。少し油断すると足が遠のくが、その一番の原因は、これまで通いやすかった曜日の行動ルートが変わったこと。今まで自転車移動だった日曜日が、最近は電車移動になったため、立ち寄るのが難しくなった。

この日は平日だが、「ああ、そういえば」という考えが、スタジオレッスンの途中から浮かんでいたので、迷わず直行。
まずは、鰹刺しに舌鼓を打ちつつ、前菜の1品としてこの「豚シャブサラダ」を注文。ポン酢がきりっと効いて、豚肉好きの私にはぴったりの味。さて、この後は…、と次の皿を思案していたところへ呼び出しのメール。

というわけで、じっくり飲むのはまた今度、と店主や常連に断って移動。そして、気が付くと飲みおわったのは、朝の10時過ぎだった。

2008/06/20 の1本

2008-06-30 12:48:46 | 食生活
初めて行った近所の店で、薦められた入れた焼酎。
ロックで飲むとよいといわれて飲んでみたが、40度もあるので、1杯にとどめた。
「芋」と聞いたいたのだが、後日、「米だったのでは?」と教えられて調べると、やはり米。

飲んでいる時は「芋にしては香りが薄い」などと言っていた。

次にこの店を訪れた際、このことを切り出すと、店主も「芋」だと思い込んでいたらしい。

ちなみに、製造元のサイトへ行くと、そこでは「芋」を栽培しているとあった。


芋焼酎に使う酵母を使っているから「芋」の香りがしたのか。

芋焼酎を醸造する設備を使ったから「芋」っぽかったのか。

単に「芋」と聞かされたので、五感がそれを信じ込んだだけなのか。


謎だけが残った。

2008/06/16 の2品

2008-06-30 12:16:45 | 食生活

少し前に遡ってしまうが、高円寺の"隠れ家"的な居酒屋にて。こちらは、「あさりと青菜」の炒め物。シンプルだが、しばらくあさりを食べていなかったのと、小松菜とのとり合わせに満足。自分で作れば…、今はそんなことは忘れて久しい。

こちらは、マヨネーズベースのソースをつけて上げた餅を、韓国海苔で巻いた「ごちべ焼き」。これは、品切れのことも多いので、あれば必ず頼む。お腹にもたまるが、つまみとしてもいい。こちらも、自分で作れなくもないが、今は"深く考えない"ようにしている。

その30(ほ)

2008-06-27 18:27:59 | …からはじまる言葉
「暴力(ぼうりょく)」

暴力は、『惰弱』な精神がすがる断末魔である。これを問題解決のための『手段』の一つだと考えるのは、愚の骨頂である。それ自体、一種の敗北宣言ともいえる。

暴力には、また、人を『支配』する力はない。それがもたらす『恐怖』が、時として人を突き動かすに過ぎない。したがって、圧倒的な力を発揮したとして、形の上で相手を傷つけ滅ぼしたとしても、それを恐れない精神に対しては、真の意味では『無力』なのである。

では、暴力を制するには何が必要か。

ある者は、それに対抗しうる暴力をもってすると説く。

ある者は、徹した非暴力の抵抗で、相手が放棄するまで耐え抜くと説く。

前者は、結局、勝利を得たとしても、新たな暴力の台頭を促す結果に陥りやすい。
後者は、突き抜けた高い精神性と、万人を味方にする指導者を抜きには成立しえない。
おそらく、答えは、自らが、暴力に直面した時にしか出すことができないのかもしれない。

しかし、より恐ろしいのは、『目に見えない』暴力である。

善人を装い、甘い言葉を操り、時にはひれ伏して許しを請い、誠実を誓い、従順に徹し、守り、慈しみ、愛し、そしてその背後で、密かに、ジワジワと、相手を傷つけ続け、ついには地獄へと引き込む。これこそ、もっとも『卑劣』で忌むべき暴力ではないか。

この種の暴力は、被害を受けている者が『暴力』と気づかない点に、解決の困難さがある。そして、気づいた時には、深い喪失感と絶望に襲われることになる。

いずれにせよ、暴力は、それを使う者が、最終的な被害者となることが約束されている。すなわち、自ら勇んで、絞首台に登ろうとする愚者の振る舞いなのである。

その29(へ)

2008-06-26 20:54:00 | …からはじまる言葉
「弁解(べんかい)」

弁解は、有効に使うべきだが、1件につき3回当たりに制限されるべきでもある。
いわば、おとぎ話に出てくる、神様に与えられた『お願い』のようなものである。
ただし、大きく違うのは、おとぎ話では『お願い』は確実にかなえられるのに対し、弁解が目的を達することは容易ではない。

弁解が失敗するもっとも典型的なのは、同じ言葉を繰り返してしまう場合だ。ちょっとしたフレーズならまだしも、長い筋立て自体を延々と繰り返すなど、もっての他の愚行である。
いわゆる弁解が忌み嫌われがちなのは、この『繰り返し』が聞き手を不快にするからだ。その場合、折角の内容も正しく聞き入れられる前に門戸を閉ざされてしまうことになる。

だから、3回までしか聞き届けられない『お願い』だと思うのが丁度よい。そう思えば、2度目のチャンスに、1回目と内容を繰り返すのがいかに愚かであるかに、すぐに気づくことができる。

しかし、弁解はあくまで弁解である。大切なのは、弁解を要するような状況にいたった経緯を正しく把握し、その要因を的確に見い出すことだ。それができないのなら、たとえ事実無根の疑いをかけられたような場合でも、弁解は諦めて相手の言い分を受け入れた方がいい。
少なくとも、下手な弁解で事態をさらに『悪化』させることだけは防げるからだ。

その28(ふ)

2008-06-26 12:43:42 | …からはじまる言葉
「深追い(ふかおい)」

深追いは、『必須』である。

部 下: 「敵は退散しはじめました。ここで、一気に殲滅してやりましょう!」
指揮官: 「いや、待て。深追いは禁物だ!」

カットォ。

深追いをよくないとする理由には、大きく3つある。

1つは、戦意喪失した敵を攻めるのは可哀想、あるいは卑怯だという、善人パフォーマンス

2つ目は、残った敵がわずかである場合、追い打ちをかける労力や資源が無駄だという、節約主義

3つ目は、逃げると見せかけて、追いかけてきたものを待ち伏せしている場合を怖がる、後ろ向きな判断

これだけ並べると、「深追いは禁物」という言葉に正当性があるように聞こえるが、よく考えてみてほしい。
この言葉が飛び出してくるのは、往々にして『フィクション』の世界なのである。
つまり、現実ではない。「それっぽい」と、見る者、聞く者、読む者に思わせればよいのである。
詰まるところ、思いどおりに話を展開させるための、小道具に過ぎない。

現実は、たとえわずかでも、敵を取りのがしたことが油断につながり、引いては最終的に敗北を喫する重大な要因になるのである。
その最悪な部分は、敵に「甘い」と足下を見させてしまう点である。戦いは、相手に嘗められてしまえば、現在の戦況はどうあれ、勝敗の傾きは最悪の結果に向かって決定的なものになりうるのだ。

敵に打ち勝つには、「根絶やし」する覚悟で望まねばならない。山にぺんぺん草1本も残らないくらい、徹底して追撃しなければ本当の勝利は得られないのである。そうできないのだとしたら、どんなにもっともらしく取り繕ってみても、結局は勝利への執念を持たない『弱虫』のらく印は免れないのだ。

ちなみに、筆者は『戦争』に代表される『殺りく』のことを取り上げて言っているつもりは、まったくない。平凡な日常生活での、たとえば、「人参の皮は捨てずにキンピラなどにして食べましょうね」といった、おトク情報のような軽い話をしているに過ぎない。



その27(ひ)

2008-06-25 18:07:28 | …からはじまる言葉
「卑怯(ひきょう)」

卑怯さは、人間の極めて奥深い場所にある、自己防衛の『本能』に近い場所から発する。したがって、この特質は、人生の中で永久に付きまとってくる『悪友』といえる。

よく似ているとされている『臆病』との違いを、筆者はこう考える。

卑怯な人間は、笑う。

臆病な人間は、泣く。

他人の卑怯さを目にすると、怒りや不快感を感じるものである。一方、自分の中の卑怯さを自覚すると、不快であると同時に、大切なものを壊したり、失ったりといった喪失感が残る。それは、卑怯さを自分に許すごとに、雪のように降り積もっていく。

たとえ、潔い生き方を心がけるように生活を変革できたとしても、過去の卑怯な行動の積み重ねからくる自身の『汚れ』は払拭されることはない。それは、過去の記憶が意識から遠のいてしまっていても、たとえば、美しいものを目にしても、それを避けてしまったり、正しいものを斜めや裏側から見て信用しない態度などとして、現実生活の水面に現れてくる。

果たして、卑怯さが生み出すこれらの弊害を乗り越える術はあるのだろうか。おそらく、あるのだろうが、それは辛く困難に満ちた生き方を選択することを意味する。そして、多くの人間は、その関門をくぐる前に、あるいはくぐってても、即座に克服への戦いを放棄して、さらにもう一つ、新たな卑怯さの置き石を人生に残すのである。

その26(は)

2008-06-24 15:46:51 | …からはじまる言葉
「敗北(はいぼく)」

敗北は、勝利がそうであるように、『必然』の到着点である。偶然に敗北したなどというのは、愚かの窮みである。
しかし、問題なのは、勝利が明らかな『像』を持っているのに対し、敗北は勝利以外の状態、という非常にあいまいな存在である点だ。

しかも、その敗北をどのように扱うかによっては、完全なる敗北であったのか、それとも次なる勝利への入り口であったのかが変わる点では、放置したり、見てみぬ振りをするのは好ましくない。

しかし、それ以上に問題なのは、敗北に潜んでいる『常習性』である。

その意味では、敗北は快楽のない『麻薬』といってもいい。

人間は、苦痛に対する対応策をいくつも持っている。したがって、一度、敗北の痛みに慣れてしまうと、それが敗北であることにすら気づかないようになる。状況が疑う余地のない答えを指し示していても、それを読み取る能力を次第に失っていくのである。
その行き着く先については語るまでもない。

その人間が、この手の薬物耐性をもった常習者の仲間入りをしたかどうか知る方法は、実に簡明である。彼らは、まるで判を押したように、聞く者を不快にする『言訳』に走るからである。

その25(の)

2008-06-23 13:55:53 | …からはじまる言葉
「伸るか反るか(のるかそるか)」

人生には、無限といっていいほど『選択』の分かれ目が存在する。その際の、選択する心理の中でも、もっとも大胆かつ粗野で無根拠な場合でも、不思議なことに、「その選択が正しい」ような気分になることがある。

一方で、慎重に時間をかけて、情報を集め、熟慮を重ねた判断でも、終止、『不安』をぬぐえないままでいることも少なくない。また、成功が約束されるとは限らない。

多くの場合、「伸るか反るか」の決断を下して実行した、と振り返る場合は、『成功』した場合に使われるようだ。逆の場合には、「よく考えもしないで」とか「半分ヤケクソに」といった、マイナスイメージを強調する言葉が選ばれるものだ。

十分に準備をする時間も情報もない状況下で、大きな決断を下す場合、そこに必要なものは何か。

それは、どんな経緯でどんな選択をしたとしても、決して、途中で、足を止めたり引き返したりしないこと。他人任せにしないこと。結果から逃げないこと。

たとえ、後になって「ヤケクソだった」と振り返ったとしても、上記の原則が守られていれば、少なくとも次の失敗の確率は、わずかでも減少する。無駄にした時間も、投資だと納得することができるのである。

その24(ね)

2008-06-19 20:16:01 | …からはじまる言葉
「寝言(ねごと)」

人の寝言を耳にすることは、滅多にあることではない。希にあったとしても、一体何を言っているのか聞き取れないことが多い。
たとえ、言葉が聞き取れても、その言葉が発せられた前提がわからないので、意味するところがつかめないこともある。

一見、不思議なことだが、言葉が聞き取れなくても、言っている意味が理解できなくても、子供や恋人といった愛する人の寝言を聞くと、なぜか得をした気がする。いとおしさを強く感じる場合がある。それが、何かに向かって憤っている乱暴な口調であってもだ。

しかし、それには、はっきりした『理由』がある。すなわち、寝言は『本音』であり、嘘偽りのない、相手の真の姿を見たと思っているからだ。

とういことは、寝言を利用することで、なかなかうまく伝わらない『真情』を相手に伝えることも不可能ではない。もちろん、その場合は寝たふりをしなければならない。しかも、問題は、相手に寝顔を晒す場面を、いかに作るかにある。

真摯に相手に向き合って、根気よく説得する方が、そんな状況を作ることよりはるかに簡単なのかもしれない。
寝言を利用しようなどというのは、まさに『寝言』である。