A.M.'s kitchen

ふと心に浮かんだことを、短く、軽く、たまに鋭く、書き残しておく場所です。

全44語を書き終えて…

2008-07-28 09:32:39 | …からはじまる言葉
料理を作る生活を停止させたところ、途端にこのブログの記事が減ってしまい、どうにかしなくてはと考えていた。
そんなある日、「書きたいこと」が頭に浮び、「書き続ける意欲を維持する仕掛け」を思いついたのが、この「…からはじまる言葉」のシリーズである。
もちろん、辞書のような言葉の意味の解説を書こうなどとは当初から考えていなかった。また、その「言葉」にまつわる自分の体験を対象とする気もなかった。
「普通はこうだろう」という視点を設定し、それとはまったく『違う視点』から、時には『逆説的』に書いてみようと思った。そうすると、が然、書こうという意欲が沸いた(相当ひねくれ者だ)。後は、暇な時にネタを蓄え、気分が乗ってきたら一気に書くという往復作業が続いた。
時としてネタに詰まった際には、知り合いの手助けも受けた(本文中に、謝辞記載)。そうやって、意外にすんなりと短期間で書き上げることができた。内容はどうということはない、自分の考え方をそのまま書いただけである(ちょっと強引な表現は使ったが)。
ブログのアクセスアップを考えれば、1日あるいは2日に1本ペースでコンスタントに書いた方がよいのかもしれないが、残念ながら、私にはそんな関心はない。むしろ、少数ながらも、ここを愛読されている方に「少しでも早く」記事を届けたかったに過ぎない(随分、きれい事ッぽい…)。
さて、問題は『次』である。
以前のように仲間うちでの旅行や食べ歩きの記事は、それらの行事が激減している現在、当面の予定すらない。
では、50音を「いろは」やアルファベットに置き換えて、似たようなものを書けばよいか、というと『二匹目の鰌』を信じない私にはありえないことである。
ところで、この記事を連載したことで、別の恩恵があった。というのも、スポーツ生活を中心に書いているもう1つのブログであるA.M.'s gymnasiumでの、新しい企画に応用できたからである。
体裁は、この企画同様、「あ」から50音で44作を目指すものであるが、内容は、スタジオ生活を中心にした用語を「辞書風」に解説したものとした。言葉は、一般にも通用するが、スタジオ生活では『特殊な意味』をもつ、といったものを中心に選んでいる。
この他にも、新しい企画を思いついたのだが、内容の性格上、さらに、もう1つのブログであるA.M.'s sanitariumに掲載する方が適切だと思っている。
というわけで、次なる企画は今のところはない。とりあえず、外食したら、その内容をちょぼちょぼ書くことになるかもしれない(あまり意欲はわかないが…)。

ともあれ、この企画にお付き合いくださった読者のみなさまに、感謝とともに敬意を表するものである。

その44(わ)

2008-07-25 21:53:40 | …からはじまる言葉
「悪あがき(わるあがき)」

悪あがきをすることをやめた途端、人間は『堕落』する。

「悪あがき」という言葉が冠している『悪』という頭文字は、「あがいたところで、何も結果は得られない」という考え方を表している。
ということは、悪あがきの最初の目標地点は、この頭文字を『除去』することである。すなわち、『不可能』というレッテルを『可能』に張り替える作業である。

おそらく、これが達成できた時点で、すべての行程の半分以上を踏破したと言っても過言ではない。

そして、次の目標は、「あがき」の状態を持続する忍耐力を発揮することである。すでに、最終目標への到達は『可能』であるという前提があるので、後は可能性を『現実』に置き換える作業をやめなければよいからである。

さらに、あがき方にも注意が必要である。それは、徹底した情報収集に基づかなくてはならないという点だ。すなわち、『定石』は必ず守るということである。ここを外すと、目標到達が遠回りになり、時として道を誤って逆方向に進むことになりかねない。そうなると、「悪」の頭文字が蘇ることになり、すべては振り出しに戻る。


さて、こうして目出度く最後の目的地に到達したとしよう。「悪」の頭文字も、「あがき」というマイナスイメージの言葉もはずれるわけだが、果たして本当の『価値』というものは、達成した目標の中にすべてあると言えるだろうか。

答えは、ノーだ。最大の収穫は「あがいて」きた道のりそのものの中にこそ、きら星のごとく散りばめられているものだからだ。
それが最終的に、よき思い出の集大成となって、死の寸前に自らに与える勝利への称賛のレクイエムとなるからだ。


したがって、悪あがきを鼻先で笑う人間は、死してその身が腐乱して朽ち果てても、現し世にこびりつくような『未練』を残すのである。


悪あがきこそ、人間であるがゆえに持ちうる、幸福を得るための『能力』なのである。

その43(ろ)

2008-07-24 17:39:12 | …からはじまる言葉
「浪費(ろうひ)」

個人の生活に焦点をあてた時、浪費は、若い時代にやれば"場合によっては"『財産』になりうる。中年を過ぎてやれば『愚劣』であり、老人になってやっているようでは、その人生すべてが『無駄』だという烙印を押されることになる。

対象が金銭であろうと、あるいは精神面の活動であろうと、あるいは遊びであろうと、結局、浪費によって失われるものは『時間』に収束していく。そして、時間だけは人間がどうあがこうと決して取り戻すことはできない。

しかし、実際のところ、何をもって浪費と考えるかの基準については、もっぱら見た目の行動や物事に置かれがちである。
これは重大な誤認識だ。

その行為の背景にある信条、目的意識、因果関係といった点にまで踏み込んでこそ、それが「有効」か「浪費」かの判断の材料を拾いだすことができる。
ただし、他人の行為をどうこう判断しようとすること自体、時間の浪費で終わる可能性を無視することはできない。詰まるところ、自分自身を監視し、常に厳しい問いかけを続け、さらには自分に対して正直な態度を崩さないことでしか、浪費を見抜いたり、あるいは避けたりすることはできない。

そこで見いだした浪費の事実や傾向性は、そのまま自分自身を知る手がかりとなり、将来にわたって惨めな失敗を避けることに有効にはたらく場合もある。しかし、ある程度、人生を経験しているにもかかわらず、手がかりすら得られていないような人間は、浪費を「手がかり」にしているような余裕はない。というより、「手遅れ」だと言っていい。

無責任を前提とした『自由』な社会では、一般に、浪費のような自虐的な放逸も、本人の意志であるからと『尊重』される。もちろん、それは虚偽である。単なる無視であり、放置である。
そして、そのような浪費者の集合体として形成されている社会では、契約論によって成り立つ政治や行政にも、無限の浪費の権限が無言のうちに譲渡れている点を見落とすのは不幸である。

その42(れ)

2008-07-22 12:34:41 | …からはじまる言葉
「劣等感(れっとうかん)」

劣等感を『バネ』にして何らかの能力なり実績を獲得したという話はよく耳にするが、果たして、野放しにそんな話を信じ込んでよいのだろうか。

答えはノーである。

ある人間が、以前では考えられないような実力を発揮したり、通常では考えられない成長を遂げたとして、それを本人が「劣等感が原点」だと言ったとしても、それは「劣等感」を応用できる力を最初からもっていたからこそ達成できたのに過ぎない。

もし、力不足の人間が、強烈な劣等感に苛まれ、かつ、そこからうまく逃げ損なったとしたら恐ろしいことである。
全身を取り巻いて離れなくなった劣等感は、時として『暴力』によって克服しようという衝動に発展しかねないからだ。
しかも、相手が『暴力』を予見できない状況であったり、弱者であるなど、非力な人間でも達成可能な『卑劣』な状況が、即席の克服の場として選ばれる点では、もっとも忌むべき事態だと断じなければなるまい。

では、克服しえない劣等感を突きつけられた時、人はどうすればよいのか。

逃げきるしかない。

職場を、住居を、人間関係を、肉親や家族を、国籍を、生活のあらゆる楽しみを、人間としての尊厳を、すべてかなぐり捨てて逃げるのである。未練など、一瞬足りとも感じている暇はない。己の全存在をかけ、力の限りもがき、なけなしの頭をフル稼働させて逃げ続けるのだ。

恐らく、逃げた先でも、同じような場面に出くわさない保証はない。だから、いつも鼻を効かせて周囲のにおいをかぎ続け、少しでも劣等感を予感させる『異臭』を感じたら、即座に舵を切って遁走するのだ。

そうやって、一生涯、逃げきったなら、"ある意味"、『幸せ』である。なぜなら、何一つ、実現されなかった『残念』な生涯ではあっても、暴力によって他人を傷つけ、マスコミに騒がれるような大事件を起こすことだけは避けられるからである。

その41(る)

2008-07-18 19:16:41 | …からはじまる言葉
「類人猿(るいじんえん)」

中学校の理科の授業で、
「類人猿と人類とのちがいは何か?」
という質問で、教師は挙手を求めず、いきなり私を指名した。

私は、かつて某国営放送の番組で、見たことを元に
「あごです」
とだけ答えた。

すると、教師は、
「そのとおり!!」
と言って、私を褒めた。

してやったりと、優越感に浸りつつ、私は気分よく教師の解説を待った。すると、
「そうです。あごは人類にはあるが、類人猿にはないんです!」
と教師は断言した。私は、唖然とした。

というのも、私の中では、テレビ番組の骨格映像と解説とが頭に焼き付いていて、それは教師の説明と『真逆』の内容だったからである。
「この骨格からわかるように、類人猿は"人間にはない"強力なあごをもっていることがわかります…」

結局、後にわかったことだが、教師が言っているあごとは、あご先が尖っているという「形」のこと。一方、国営放送の番組で言っているのは、下あご全体の骨の「強さ」を論じていたわけだ。

さて、樹上生活を送っていた類人猿が、えさを求めて草原に降り立ち、その結果、二足歩行できるようになり、さらに余った前肢で道具を扱うようになったというのが、筆者がおおよそ理解しているところの、類人猿から人類への進化のプロセスだ。

そのキーポイントを探ってみると、詰まるところ、「『可能性』に満ちてはいるが、危険をともなった別世界」に飛び込んでいく『冒険心』があるかどうかが、人類と今なお生息する類人猿をわけたともいえる。

さすればである。そうした祖先の飽くなき闘争の上に勝ち取られた文明に身をゆだねつつ、じんわりと類人猿への『退化』のプロセスをたどっている者たちが、人類の中に数多く存在すると思わずにいられない。

「挑戦せざる者、汝の名は猿なり」

そうした人々には、是非、固いものを噛んであごを鍛えておくことをお薦めする。

その40(り)

2008-07-17 19:38:39 | …からはじまる言葉
「理想(りそう)」

今回も、導入ストーリーから。

人A: 「…というわけで、こればっかりはやらないとダメなわけよ」
人B: 「そりゃ、できたら理想だけどな…」

カーットォ。
ここで、二人の人物の理想に対するとらえ方を比較してみよう。
まず、共通点だが、「望ましい状況」と「現実」とが食い違っており、「望ましい状況」に対して理想という概念を当てはめている。
だが、Aは、それを「実現を目指すべき目標」としているのに対し、Bは「実現できそうにない夢物語」と捕えている点で食い違っている。

すなわち、理想それ自体に何かしら力のようなものがあるのではなく、それを前にした人間の『態度』によって、理想はまったく違った側面を見せるというわけだ。言いかえれば、理想に力を与えるのは人間なのである。

ここで、もう一つ重要なことがある。理想は達成されてこそ、意義があるのだろうかという点である。現実を前にして、もろくも崩れされるという場面は、多くの人間が幾度も体験しているのではないだろうか。

理想だったものが何でもない平凡なものや嫌悪すべき勘違いに変ぼうしたり、毛嫌いしていたものがいつしか理想へと翻ることは、よくあることだ。何をもって理想とするか、という視点が深化することだってある。その場合は、くだらないことを理想だと思い込んでいた自分を、後に気恥ずかしさを込めて振り返ることになる。

しかし、そういったことは、理想に対して積極的に実現をはかろうとする人間にとっての話である。
ただ抱いているだけで、何もしない人間にとっては、自分の惨めさを自覚するだけの『重荷』でしかないのだ。
だから、理想は抱くにこしたことはない、などということはないのである。


その39(ら)

2008-07-16 13:06:30 | …からはじまる言葉
「楽観主義(らっかんしゅぎ)」

楽観主義は、『漫然』と生きている人間には無用の長物である。
無用どころか、そうした人間に与えてしまうと、周囲にまで害悪を及ぼす危険な刃物と化してしまうものだ。

困難への挑戦、悪意への反撃、悲嘆からの復活、そうした力のかぎりを振り絞っても、望む結果が得られるか見通しの効かない状況から逃げない真摯な態度こそが、楽観主義が本来の存在意義を示しうる場となるからだ。

その場合に限って、打ちひしがれた心に活力を与え、絶望を希望へと変ぼうさせ、『敗北』を次なる『勝利』への土台へと作り替える、無限の原動力の源泉となりうるのである。

しかし、安逸を貪りたいがために利用した途端、それは、自らの意志を沈滞させ、わずかに燻っている気概を削ぎ、果ては生活の様相を瓦礫に満ちた廃虚へと突き落とす、容赦ない引き金となる。

それは、楽観主義そのものが、善悪両面の可能性を持っているからではなく、それを目の前にした人間が、主体的に使いこなそうとするか、自虐的にすがり付こうとするかの態度によって決まるのである。だから『刃物』なのである。

したがって、それを使いこなせるかどうかは、その人間の能力に負うところが大きい。おそらく、ギリギリの困難の中に置かれた者で、この力を発揮できる人間というのは希少な存在かもしれない。場合によっては、そこに気づかせる他者からの働きが必要なこともあるだろう。

最後に付け加えておかなくてはならないことがある。

「なんとかなる…」は楽観主義とは正反対の概念である。

「なんとかせずにはおけない…」という強烈な意志の元にしか、楽観主義は光を放つことはない。

その38(よ)

2008-07-15 12:26:15 | …からはじまる言葉
「余計なお世話(よけいなおせわ)」

世の中から「余計なお世話」がなくなったら、人類はまさしく『文明』をもつに至らなかったにちがいない。
いや、『文明』などと大げさなことにまで言及しなくても、一人の人間が生きていく上で「余計なお世話」にお世話にならずして、今日を生き続けている者は皆無といっていいだろう。

しかし、「余計なお世話」というのは、それを受ける者にとっては実に不愉快なことである。また、行う側にとっても、「何も進んでやりたいわけではない」といった後ろ向きな義務感を抱いている場合も少なくない。

では、なぜ「余計なお世話」が必要悪のような存在といえるのだろう。
それは、以下のような背景があるからだ


「そうすることが正しい(あるいは必要)と、頭ではわかっていても、実行に移せずにいる」場合。指摘されてプライドを傷つけられた気分になり、不快さを感じるが、往々にして、「お世話」にしたがって正解である場合が多い。

「受け入れれば、それなりの利益を被ることはわかっているが、それに対する返礼の気遣いが煩わしい」場合。こちらも、場合によっては、あっさり受け入れてしまった方が、時間と労力の無駄が省けることが多い。ただし、しっかり返礼しないと、妙な負債を負ってしまいかねないので要注意である。


人間が、自分が受け入れられると判断したものだけをそろえたところで、満足できる人生を獲得することは不可能である。不快で、不要で、煩わしいしがらみにもまれてこそ、自らの知力を鮮明にし、行動力を増し、困難を勝利へと転換する実戦力を獲得することができるものである。

だが、用心しなければならないのは、『特殊』な意図を背景とした「余計なお世話」である。

たとえば、病気で会社を休んだ時、見舞いだといって同僚の女子社員が突然自宅に押しかけてきて、頼みもしないのに料理を作ったり氷のうの氷を入れ替えたり、果てはパジャマを着替えさせたりしたような場合だ。もし、「その気」がなければ、こんな場合は、断じて玄関を開けてはならない。「伝染病」だと虚言を吐いても追い返さないと、後で酷い目に会う。

しかし、そんな試練も、人生には必要な場合だってある。少なくとも、端からは、見ごたえのあるリアルドラマになる。

その37(ゆ)

2008-07-11 20:41:07 | …からはじまる言葉
「夢と現(ゆめとうつつ)」

夢と現の境にいる時に、人は『緩い』快楽を味わう。

悪夢を見ていた場合、「所詮、夢だったか」と安心できる瞬間である。
また、いい夢を見ていた場合、そのまま眠りに戻って『いい思い』に再開できそうな気になれる瞬間である。

もっとも、その境目から再び夢に戻ったからといって、『続編』が見られることは、まずない。


さて、眠りにまつわる問題から、現実の人生という視点で、この言葉を見つめ直してみよう。
「夢をかなえる」という意味合いで使われる場合である。

簡単に考えると、「実現できない願望」が夢であり、「実現できない現状」が現(うつつ)ということになる。
したがって、私の感覚では「夢がかなう」というのは、「地球は四角い」と言っているほど突拍子もなく聞こえる。
それが「夢=人生の目標」という意味であれば多少は理解できるが、やはり違和感は消えない。

なぜなら、『夢』という表現を使った時点で、「ああ、本気で実現させる気はないのか」と常に思ってしまうからである。
日常の場面を思い返してみれば、一目瞭然である。
「これは、夢なんだけど…」
というセリフを聞いたとき、そこで語られる言葉の裏に「実際は無理だと思っている」というニュアンスが付きまとっているのが、ほとんどである。
そいういう人間は、目標を達成するための道順よりも、なぜ実現できないかの言訳を並べることが得意である。そんな人間の『夢』は、先へ進めない悲しい自分をいやす緩い麻薬のようなものだ。

やる気がある人間の言葉は、明らかに違う。たとえば、
「これだけは、絶対に実現させたい…」
というように切り出すはずだ。

すなわち、夢と現の『境目』とは、『やる気』があるかないかの境界線なのである。


「やる気になれば、夢はかなえられる」


やる気も実力のうちである。やる気のあるやつは、『夢』などという言葉は使わない。
こんな歌詞が聞こえてきたら、さっさと音源のスイッチを切った方がいい。

その36(や)

2008-07-09 15:33:24 | …からはじまる言葉
「闇雲(やみくも)」

闇雲とは、新しい物事を開始する上で欠かせない『前提』である。
いくら慎重に情報収集を行ったとしても、未経験の世界に突入する際、その行く手は、『闇』に閉ざされていたり、『雲』の彼方にかすんでいるものである。

したがって、闇雲さをあから様に否定する態度は、何かを始めることで生じるリスクを避ける消極的な生き方を表明しているに過ぎない。
恐れるべきは、むしろ、そうして自分の可能性はおろか、他人の未来をも閉ざそうとしてしまう、後ろ向きな『言動』ではないだろうか。
それでは、いつしか、他人のおこぼれを当てにし、他人の成功を妬み、他人の不幸を喜ぶ、醜悪な生活しか手に入れることはできなくなる。

人が人生の中で重大な体験をし、発見を重ねる場合、まずは闇雲にぶつかっていくしかない。そして、そこで得られた貴重な経験を修正要素として、望ましい結果への精度を高めていくのである。他者からの情報収集も、そうした姿勢があってこそ生きてくるというものだ。

ただし、注意しなければならないのは、闇雲にことに当たった際、すぐに不安に駆られて引き返してしまったり、恐怖にとらわれて立ち止まってしまうことだ。たとえ、一握りの砂でもよいから、何かをつかみ取ってくる執念がなくては、闇雲さは単なる『無謀』であったり『無駄』に変ぼうする。そして、いつしか、二度と『挑戦』し『開拓』する生き方に、自分を振り向けようとする勇気を喪失してしまうことになる。

ある事業に成功した人物の言葉で、私が『完全』な同意をもって受け入れたものがある。


「いくつかの選択肢で迷いが生じたら、もっとも困難なものを選ぶ。そうして失敗したためしは、これまでに一度もない」


恐らく、この人物の目には、立ちはだかる『闇』は飛躍への意欲をかき立てる存在であり、わき起こる『雲』はその向こうに待ち構える澄みきった大空への希望を燃えたたせる存在に映るのに違いない。

元来、怠け者の私ゆえ、すべての局面で闇雲さを『発揮』することはできないが、迷いが深い場合は、この「最も困難なものを選択」の姿勢を貫いている。
そうすると、時間の長さや度合いはまちまちだが、常に「逃げ出したい」気持ちと戦い続けなければならない苦悩を抱え込むことになる。
一見、それは『損』な生き方にも見えなくもないが、心配はしていない。どんな苦境にも、人間は慣れることができるものだ。