Moments musicaux

ピアニスト・指揮者、内藤 晃の最新情報です。日々、楽興の時(Moments musicaux)を生きてます。

ピアノの構造と奏法(2)

2012年02月28日 | オピニオン
 ピアノの音量についてのお話をします。

 まず、ピアノのアクションはシーソーのような構造になっています。鍵盤部分に指が乗ると、他方に取り付けられたハンマーが上に跳ね上がって弦に当たり、その弦の振動が全体に伝わって音になります。



 そのとき、より強い振動を弦に与えて大きな音量を得るためには、ハンマーが速いスピードで弦に当たれば良いということになります。つまり、鍵盤を素早く下げるほどffになり、ゆっくり下げるほどppになります。



 一般的に、鍵盤を強く叩くほどffになるという感覚を持っている方が多いと思われますが、このような意識でピアノを弾くと、前回述べたように、力みがピアノの振動を止めてしまい、かえってピアノを豊かに鳴らせなくなる危険を孕んでいます。また、ppを出すときに、力が弱くなりすぎて音が鳴らない危険もあると思います。

 鍵盤がシーソーの構造であることを理解し、鍵盤でハンマーを遠隔操作するという感覚を持つことで、余計な力みも取れ、このような悩みは雲散霧消するはずです。音量に直接影響するのは、ハンマーの速度であり、それを遠隔操作する鍵盤を動かす速度です。このとき、豊かな音を求めて速く打鍵したときと、静かな音を求めてゆっくり打鍵したときでは、打鍵し始める瞬間から、ハンマーが打弦し音が発される瞬間までのタイミングに、わずかなタイムラグ(時間差)が生じます。すなわち、ppを出そうとするほど、音の出てくるタイミングはわずかに遅くなるのです。

 このわずかなタイムラグの感覚を身体に染み込ませることができると、より自在な音量のコントロールが可能になり、内声を引っ込めながら外声を浮き立たせたり、旋律と伴奏のバランスをとったりすることも容易くなると思います。鍵盤に触れている指が、鍵盤の先のハンマーを感じられることが重要で、譜面台を外してハンマーの動きをつぶさに見ながらさらってみることも有効だと思います。

ピアノの構造と奏法(1)

2012年02月27日 | オピニオン
 ピアノの奏法は、ピアノという楽器が音を発するメカニズムと不可分なもので、奏法と音色との関係は、すべて、ピアノの構造から見て音響学的に説明できるものです。その根拠の部分抜きに、手や指の形のみが「奏法」として独り歩きしていることには、いささか違和感を覚えます。

 先日、長野の講座でトライアングルを使用したところ、参加された先生方や、調律師のSさんからも、「わかりやすい」と大変な好評をいただきましたので、ピアノの構造と奏法の関係について、私が考えていることを何回かに分けて書いてまいりたいと思います。



 まずは、脱力についてのお話をします。

 昨今、ピアノ教育界で脱力というキーワードが声高に唱えられています。しかし、ただ脱力・脱力と言われても、雲をつかむような話で、うまく感覚がつかめずに苦労している方が沢山おられるのではないでしょうか。まず何よりも、「何のための脱力か」を認識することが大切です。

 ピアノは、鍵盤の先についたハンマーが弦を振動させ、その振動が金属のフレームや響板を伝って木のボディ全体に伝播し、音作りをしています。脱力の目的は、ひとえに、ピアノの木のボディの振動を開放して、ピアノをより豊かに響かせるためなのです。



 トライアングルを思い浮かべてみてください。トライアングルを叩くとき、棒を瞬時に離すことで、トライアングルがよく振動し、「カーン」といういい音が響きます。ところが、棒をトライアングルに押し付けたままだと、「カッ」という感じで振動が止まり、音が響きません。

 ピアノもこれとまったく同じです。鍵盤はシーソーのような構造になっており、一方に指が乗ることで、他方のハンマーが上向きに打弦します。このとき、打弦後も指がぎゅっと乗ったままですと、ピアノのボディがうまく振動せず、伸びのない苦しそうな音色になってしまいます。そこで、手の甲を上に動かして下向きにぎゅっと乗っていた力を上向きにすっと抜いてあげる(このタッチの状態は、リバウンド、Bounce Back、ハーフ・タッチなどさまざまな呼び方がされています)ことで、振動を開放し、楽器を歌わせるのです。



 ピアノの弦にはダンパー(黒い止音装置)がついています。鍵盤に指が乗るとダンパーが浮いて弦の振動が開放され、指が離れるとダンパーが元に戻って音が止まる仕組みになっています。そのとき、打弦後に最大限ピアノを豊かに歌わせるためには、鍵盤を押さえるのではなく、かろうじて鍵盤にふわっと乗っかった状態で、ダンパーが浮いた状態を保つと良いことが分かります。

 ダンパーペダル(右ペダル)を踏むと、このダンパーがすべて浮き上がり、弦の振動が開放されます。ですから、この状態で弾くときは、トライアングルと同様、打弦と同時に、瞬間的にポーンと手を離すことで、豊かな響きが得られます。旋律を浮き立たせる際、ダンパーペダルをうまく活用して、指で繋がずに、トライアングルのようにポーン、ポーンと離しながら紡いでゆくこともあります。

 慣れてくると、ピアノの振動が身体で感じられるようになってくるものです。ピアノという楽器は振動体であるという原点に立ち返り、振動をいかに開放するかを考えることが、奏法を考えるうえで最も重要なことだと思います。

プログラムノート(2011/12/3)

2011年12月03日 | オピニオン
2011年12月3日(土) 津田ホール

Program

ドビュッシー:ベルガマスク組曲
Claude Debussy: Suite Bergamasque
 Ⅰ.プレリュード Prélude
 Ⅱ.メヌエット Menuet
 Ⅲ.月の光 Clair de lune
 Ⅳ.パスピエ Passepied

ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
Maurice Ravel : Pavane pour une infante défunte


バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
Johann Sebastian Bach : Goldberg-Variationen Aria mit verschiedenen Veränderungen BWV988


なぜバッハに惹かれるのか
 高校時代、怪しい心理テストまがいの職業適性検査を受けさせられたことがあります。「俳優」という結果が出ました。面白半分で結果を見せ合ったものですが、周りの同級生たちの中で、一人浮いていた気がします。
 もともと、演じるのは大好きでした。小学校時代は演劇部で、白い綿を顔にひっつけてしわがれ声でお爺さんを演じたりし、校内ではちょっとした有名人でした。中高時代も演劇ライフを満喫するはずだったのですが、どういうわけか、先輩の巧みな誘い文句に乗せられて、吹奏楽部でパーカッションや棒ふりをして過ごすことになったのです。演劇を続けていたら、ひょっとしたら役者になっていたかもしれません。
 バッハが生きたのは、複数のメロディーによる音楽(ポリフォニー)から、メロディーと伴奏による音楽(ホモフォニー)に移行しつつあった時代でした。ポリフォニーの作曲は、瞬間瞬間の縦のハーモニーに留意しながら複数のメロディーを動かしていかねばならず、きわめて制約の多い職人芸と言えます。そのなかで、バッハはポリフォニーを極め、個々の旋律も、それらが織り成すハーモニーも、すべてが美しいという奇跡のような離れ業を成し遂げました。
 複数の声部が掛け合ったり同時にハモったりするとき、声部間で心の通い合いが生じます。アンサンブルや合唱では他のパートの人と心を通わせるわけですが、独奏鍵盤作品では、これを一人でやらねばなりません。つまり、一人何役も演じながら、それぞれの役が丁々発止のやり取りをしたり、対話しながら互いに心を通わせていったりするように仕向けるわけで、その点では究極の腹話術みたいなことをやっているわけです。
 個々人の台詞がどこをとっても魅力的で、さらにそれらが素晴らしい物語を形づくってゆく点で、バッハの楽譜にまさる台本はありません。今でもバッハの音楽に取り組んでいると、眠っていた役者魂がどこからともなく頭をもたげ、無性に血が騒ぐのです。

プログラム・ノート
 今日は、音楽史上の一大傑作であるバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1741)を演奏いたします。30もの無尽蔵のアイディアを展開した画期的な変奏曲で、これほどの変奏曲はバッハ以前に存在しませんでした。ドイツ語の原題Aria mit verschiedenen Veränderungen(直訳すると「さまざまな変容を伴ったアリア」)では、動詞verändern(変化する、変容する)の名詞形Veränderungが使われています(ベートーヴェンのディアベリ変奏曲も同様です)。美しい天上のアリアが、時とともにさまざまな表情を見せながら驚くべき変容を遂げてゆくわけです。不眠症のカイザーリンク伯爵の眠れぬ夜のお供として、バッハの弟子ゴルトベルクが弾いて聴かせたというエピソードから、「ゴルトベルク変奏曲」と呼ばれるようになりました。
 「ゴルトベルク変奏曲」は、モーツァルトの「きらきら星変奏曲」などとは性質を異としたバス主題の変奏曲で、メロディーではなく、ベースラインとその上のコード進行を基礎に、自在に変奏が繰り広げられてゆきます。その変容を追っていると、あたかも旅をしているような感覚にとらわれ、旅路の果てに冒頭のアリアに帰ってくると、何か安堵感にも似た特別な感慨がひたひたと湧いてきます。この心がすうっと洗われてゆくような感動こそ「ゴルトベルク変奏曲」体験の醍醐味といえますが、本作は、ベースラインに基づいた変奏と、テーマへの回帰という二つの意味で、今日のジャズに通ずる精神が脈々と息づいています。
 録音の無かった時代、音楽を記録するには紙に記譜するしかありませんでした。その点、この長大な変奏曲は、即興演奏の大家でもあったバッハが自らのアイディアの可能性に挑戦した記録とも考えられ、随所に作曲家の遊び心が炸裂しています。「こんなふうにもできるんだよ」というバッハのお喋りは人懐こく共感を促してきますが、その変奏が万華鏡のように自然発生的に繰り出されてゆくのは実にスリリングで、舌を巻きます。個々の変奏の分析は割愛しますが、絶妙の配列が、30の変奏のなかに大きな起承転結の流れを生んでいます。即興的でありながら、同時に普遍性をも兼ね備えた、驚くべき作品です。
 コンサートの幕開けには、ドビュッシー「ベルガマスク組曲」(1890)ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」(1899)を選ばせていただきました。いずれもバロック・スタイルで書かれた名曲で、典雅で洗練された空気がバッハと共通しています。19世紀ロマン派の時代、市民社会の興隆とともに感情の横溢したロマンティックな音楽が氾濫すると、その反動としてシンプルな美しさを求める向きが現れ、バロックの端正なスタイルや、教会旋法(かつて聖歌で用いられていたような旋律の秩序)が作曲に取り入れられるようになりました。これらもそのような文脈上に位置づけられる作品で、どこか古めかしい澄ました佇まいをとりながらも、旋法のアルカイックな響きと、モダンな響きが混在し、ロマン派音楽とは異なるスタイリッシュな美しさを醸し出しています。この新しい響きへの希求はやがてジャズにも受け継がれてゆくもので、ドビュッシーやラヴェルの作品にもジャズ的感性の萌芽を聴くことができます。
 今日のピアノは、ニューヨーク・スタインウェイです。スタインウェイにはハンブルク製とニューヨーク製があり、それぞれ個性が異なります(日本のホールに入っているのは、スタインウェイ社が販路を分けている影響でほとんどがハンブルク製です)。アルカイックな空気を演出するのに好適と思って選びましたが、その響きもご堪能いただければと思います。心洗われる音楽とともに、素敵な時間をお過ごしいただけましたら幸いです。

内藤 晃

*無断転載を禁じます

ショパンのハーフタッチ

2010年12月07日 | オピニオン


12/4(土)、滋賀県守山市のスティマーザールでショパンを弾かせていただきました。企画してくださった調律師の上野さん(当日のすばらしい調律も!)、コンサート運営に尽力してくださった主催のみらいもりやま21の皆さま、ありがとうございました。みらいもりやま21による当日のレポートはこちらです(写真も拝借させていただきました!)。

このコンサートでは、特別企画として、上野さんが修復・所有されている、1856年製のプレイエルでも2曲だけ演奏させていただきました。ショパンが愛用していたプレイエルと同じモデルの貴重な楽器です。



19世紀、フランスのピアノメーカー、エラールが、ダブルエスケープメントという仕組みを発明しました。これにより、アクションの動きが俊敏になり、ピアノの発展がますます促されました。リストは機能性に優れたエラールを好んで弾きましたが、ショパンは、アクションの動きは鈍いけれど、そのぶん指との一体感があり、ニュアンスを繊細にコントロールできるプレイエルを好みました。

今回プレイエルを弾いてみて実感したのですが、旧型のアクションでは、かっちりと深く打鍵するほど戻りが遅くなり、そのようなタッチでは、物理的に弾けない部分が多々出てきます。ですから、ショパンは、特に速いパッセージではハーフタッチを駆使して柔らかい音色を響かせていたに違いありません(そのほうが戻りが早くて済みます)。途中までの打鍵で音をコントロールしていくハーフタッチは、ともすると音が出ないリスクを伴う高度な技術ですが、鍵盤の底で発生するカチッとした「下部雑音」を含まないので、より柔らかくピュアな音色になります。

演奏者は、鍵盤を触ることで、鍵盤の先についているハンマーを遠隔操作し、音を出しています。ですから、演奏者は、鍵盤を操作しながら、ハンマーと弦を意識できるようになるべきだと思っています。そして、ハンマーの当たり方や離れ方で音色が変わるので、どんなタッチをすれば、ハンマーが弦にどんな風に当たり、どんな音色が生まれるのかを掴まなければいけません。生徒には、ハンマーを見ながら練習するように言っています。弦楽器と同じく、弦をいかに豊かに振動させられるかが鍵ですが、その点、ピアノは、弦までの距離が遠く、鍵盤機構を介した遠隔操作になるので、弦との直接的な一体感が無いぶん、音色のコントロールが非常に難しい楽器と言えるかもしれません。

演奏から学ぶということ

2010年11月24日 | オピニオン
僕は、特に自分が取り組んでいる曲について、他の人の音源や演奏を参考にするということはしない。楽譜を通じて、真っ白な状態で、作曲家とじかに対話したいからである。しかし、一方で、多くの優れた演奏に触れ、その人の演奏のどこが優れているかについて思いを巡らせるようにしている。そして、ある人の演奏に心底魅せられてしまったとき、その演奏がなぜ自分の心を惹きつけたのかを考えずにはいられない。
たとえば、テンポの揺らぎが絶妙だったとしよう。そのとき、彼は何を考えどんなふうにテンポを揺らしたのだろうということを僕は考える。テンポ操作は結果としての現象であって、その背後に、彼なりの根拠が存在する。その「演奏の思考回路」に迫りたいと思う。
このようなテンポ操作(テンポ感)や間の取り方といった要素は、当然のことながら、同じ人の他の曲の演奏において、同じ根拠に基づいて現れるはずである。その根拠(演奏の思考回路)に迫り、音楽の構造に照らし合わせながら、彼が何を考えて演奏しているかという基本的な演奏スタンスを説明できて初めて、彼の演奏から「学んだ」ということになる。ただ素敵だったから真似しましたというのは「学んだ」ことにならないし、そもそも許されないことだと思う。

このようにして、僕は、真似ではなく、ホロヴィッツやルービンシュタインなど多くの演奏家の「魅せるワザ」を学んで盗んできたが、中でも、チェンバロのスコット・ロスの演奏語法には多大な影響を受けた。信じられないほど清らかで生き生きした演奏でバッハの魅力を教えてくれた彼は、紛れもなく僕の心の師の1人である。彼の、まさに今そこで生まれ出ているような音楽は絶品で、絶妙のテンポ操作やリズム感、グルーヴ感が効いている。

クラシック音楽は再現芸術ではあるが、今その場で生まれ出ている瞬間の新鮮な感動を、皆さんと共有したいと願っている。


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