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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎2

2011-02-05 | 高知県東部の見どころ・自然・四季

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎2

中岡慎太郎の像

天保9年4月13日、当地柏木に大庄屋の長男として
    生れる。
 徳川の幕政が弱体化し、武家社会の矛盾が怒りとなり
    民衆の心を動揺させていた幕末の時代である。
 庄屋見習い時代の慎太郎は、農民の貧苦を己の
    心の痛みとし、藩権力と対峙した。
 慎太郎が目指した維新回天も、つきつめると不平等な
    武家社会への挑戦であったといえる。
 その魂があったからこそ誰もが着眼いえなかった薩長連合
   を龍馬と共に成し遂げ、倒幕の為の公家どうしの協力
   体制を築くなど、公憤に燃え国事に
    その生涯を捧げつくした。
 この像は、草そうの志士として維新の大道を歩んだ慎太郎
   の真の姿の再来を願い、生誕160年を機に、全国の
    方々からの募金により建立されたものである。
 また、この石碑の中には建立募金者名の記された
   建立記念誌、平成10年度地元、北川小・中学高生徒の
   文集がタイムカプセルとして埋蔵されており、
    生誕二百年(2038)の年に取出される。

        平成十一年四月十三日
           中岡慎太郎銅像建立実行委員会

        徐 幕: 平成11年4月13日
        題 字: 中岡慎太郎の像
        書 体: 岩崎放牛
        規 模: 本体~1.8 ㍍   台座~1.55 ㍍
              総高~3.35 ㍍
        事業費: 2.550万円(寄付金)

所在地:安芸郡北川村柏木
      中岡慎太郎館前

 

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中岡慎太郎

天保9年(1838)4月13日、安芸郡北川郷で大庄屋 
    中岡子伝次の長男として生れた。
 7歳で野友村の島村策吾塾で、詩書・儒学・南学と広く知識
   を吸収し、高知に出て武市半平太に剣術を学び、また
    江戸に出て高島に砲術も学んだ。
 文久元年(1861)、土佐勤皇党に加盟、翌2年五十人組
   に参加して出国、以後諸藩の志士と交わり国事に奔走、
    慎太郎と名を改めた。
 3年9月、土佐勤皇党弾圧が始まり、武市半平太らが
   投獄されると、慎太郎も危険を感じて脱藩、以後石川
    清之介と変名、尊皇攘夷派の指導者として活躍した。
 禁門の変では、遊撃隊に加わって負傷、長州に逃れて
    11月には忠勇隊長となった。

 この頃から、武力討伐の立場に立って
    薩摩・長州の間を周旋した。
 薩長連合の達成は慎太郎の努力に負うところが多い。
 慶応3年(1867)には、岩倉具視と三条実美の提携を
  実現し、一方で薩土倒幕密約の締結を実現、陸援隊を
  組織して自ら隊長で副隊長に田中光顕をすえて、
   倒幕挙兵に備えた。
 しかし、大政奉還後同年11月15日、京都近江屋で
  坂本龍馬と会談中、見廻り組に襲われて龍馬は即死、
   慎太郎は重傷を負い、2日後 絶命した。
 墓は京都霊山墓地にあり、遺髪が北側村に埋葬されてる。

       除 幕: 昭和10年5月7日
       題 字: 贈正四位 中岡慎太郎

説明文

所在地:室戸市室戸岬

天保9年4月、安芸郡北川村に生れる。
 幕末の頃、天下の志士と交友し、陸援隊を組織し
   その長とはり、海援隊長 坂本龍馬とともに、薩長連合
   をはかり、明治維新の大業に尽力したが、慶応3年
   11月15日夜、京都において刺客のため斃れた。
                               満30歳。

 

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