本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その1)

2010年12月23日 | 歴史捜査レポート
 『甲陽軍鑑』という武田信玄・勝頼の事跡を書いた書物があります。甲州流の軍学書ともいわれ、NHK大河ドラマ「風林火山」で有名になった山本勘助の活躍も書かれています。ところが、この書は歴史研究界では偽書として山本勘助の実在と共に抹殺されてきました。そのように位置づけられた書物だったので拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にも一切参考にしませんでした。
 でも、それって本当かな?!
 歴史研究界の研究姿勢に疑問を抱く私としては調べてみたくなりました。江村専斎の書いた『老人雑話』と同様に。 
 ★ 江村専斎『老人雑話』の歴史捜査

 調べてみると『甲陽軍鑑』が歴史研究界でダメだしを食らったのは明治二十四年の帝国大学教授田中義成氏の論文のようです。それ以来、研究界では『甲陽軍鑑』を研究題材とすることはご法度になってしまったようです。本能寺の変研究の常識を作ってしまった高柳光寿氏も昭和33年(1958年)の著書で偽書と決め付け、田中氏の偽書説を権威付ける後押しをしたようです。
 ★ 軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
 ★ 定説の根拠を斬る!「中国大返し」
 ★ 定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き) 
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回) 
 ★ 定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」 

 ところが、現代では随分評価が変わってきていることがわかりました。本能寺の変関係の著書も多い静岡大学教授小和田哲男氏『甲陽軍鑑入門』によると、この書の基本は武田信玄の家臣だった高坂昌信(弾正)とそれを口述筆記し、さらに書きついだという大蔵彦十郎・春日惣次郎の作と認められるが、それ以外の第三者の加筆の可能性がある、という評価になっています。特に、山本勘助がらみのところに加筆の可能性が高いとのことです。したがって、『甲陽軍鑑』を全て信用するのではなく、信憑性の高い部分をよく吟味して史料として使うべきと表明しています。
甲陽軍艦入門―武田軍団強さの秘密 (角川文庫)
小和田 哲男
角川学芸出版


 『甲陽軍鑑』の全文を出版した汲古書籍の『甲陽軍艦大成』でも酒井憲二氏が同様の主旨を詳細に論じています。
甲陽軍鑑大成 (第1巻)
クリエーター情報なし
汲古書院


 興味のある方は現代語訳本を読まれると良いと思います。もちろん全文が掲載されているわけではないですが、全体の雰囲気と部分的な詳細は読むことができます。
甲陽軍鑑 (上) (教育社新書―原本現代訳)
クリエーター情報なし
教育社


 そして、これからが本論になりますが、本能寺の変及び拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に直接・間接にかかわる記述がいろいろあります。
 今回はもろにかかわる記事をご紹介します。
 本編巻二十の三十三「高坂弾正分別あたる事」の章
 「勝頼公も、あけち十兵衛、当二月より、ぎゃくしん仕るべきと申こす所に、長坂長閑分別に、はかり事を以て、ちょうぎにて申こすとゆふて、あけちと一つにならざる故、武田勝頼公御めつぼう也」

 これは非常に重要な証言です。この記事によれば、光秀は既に二月時点で謀反を決意しており(本能寺の変は六月二日)、武田勝頼と組もうと申し入れたが、勝頼方の長坂長閑がこれは信長方の謀略だとして申し入れを蹴ってしまって光秀と組まなかったため、勝頼が滅亡したということです。
 確かに『甲陽軍鑑』には家康と家臣との会話などのように、どうやって取材したのか?と疑問に思える箇所がいろいろあります。しかし、信玄・勝頼父子に仕えた高坂弾正や大蔵彦十郎・春日惣次郎ならば武田方のこういった情報は入手可能です。この記事は勝頼が天目山で滅亡する天正十年(1582年)、本能寺の変の80日前の記述ですので、高坂弾正は既にこの世に無く、大蔵彦十郎か春日惣次郎が入手した情報ということになります。
 このような記述はこれまでの通説と全く相容れません。光秀は謀反の直前まで自分ひとりの秘め事にして誰にも相談しなかったというのが通説です。昨今、拙著の批判を書いた歴史研究家は「事前にもれるかもしれない秘密を他人に話すわけが無い」という論理を展開していますが、この記事はそのような説をあざ笑うかの如き話です。
 ★ 「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!

 こういった通説は羽柴秀吉がそのもとを創ったことは、このブログをお読みの方はよくご存知のことですが、歴史研究界では全く認識されていないといってもよい残念な状況です。かなり真面目な歴史研究家も秀吉の罠にはまってしまっているのです。
 ★ 通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』

 この記事が物語っているのは、戦国武将は氏族の生き残りをかけて最善の策を様々講じていたいたという私の主張する戦国武将のダイナミズムを裏付けた記事ではないでしょうか。主君と家臣は忠義で結ばれていた、信長と家康の同盟は相互信頼で強固に結ばれていた、といったことが現代の妄想であることを示していると思います。
 ★ 戦国武将のゲーム理論『太平記』

 そして、この記事の注目すべき点は光秀が勝頼に謀反の話を持ちかけたのが天正十年二月だということです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』第12章「光秀の苦悩、そして滅亡」にも書きましたが天正十年二月九日に信長の重大な命令が発しられています。この命令で長宗我部征伐と光秀軍による家康討伐の計画が発動されているのです。そのことが光秀謀反の動機につながったことは拙著をお読みの方にはよくご理解をいただいていることと思います。
 拙著では光秀謀反決意の最終時期を五月十四日の家康が安土城に来る直前の安土城での足蹴事件としました。『甲陽軍鑑』の記事によれば、これをもっと早い二月に修正する必要があるのかもしれません。物事すべからずゼロからイチに切り替わるのはある瞬間ですが、それに至るまでの中間状態が存在するわけで、信長の二月の命令を聞いて謀反を覚悟した光秀が謀反成功のための算段を開始したと考えることができます。 
 そうであれば、三月の武田攻めの帰路の家康領通過において家康方と光秀方とで謀反の事前調整が行われた可能性が高まります。このことは光秀と家康との謀議の機会が無かったとする前述の歴史研究家の主張への反証ともなります。

 さて、『甲陽軍鑑』の記述の信憑性をどのように評価されるでしょうか。通説と異なるが故に否定されて無視されてきた記述が、もし事実であったら通説は覆ります。『甲陽軍鑑』のこの記述についての歴史研究家のあらためてのご研究を期待しています。

 『甲陽軍鑑』には本能寺の変の真実に間接的にかかわる記述がまだいろいろありますので、それは次回ご紹介します。
<<続く>>

【歴史研究の落とし穴をのぞくシリーズ】
   江村専斎『老人雑話』の歴史研究
   『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その1) 
   『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その2) 
   『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その3)
 甲陽軍鑑が偽書とされてきた経緯を詳しく分析した本です。
『甲陽軍鑑』の悲劇: 闇に葬られた進言の兵書
クリエーター情報なし
ぷねうま舎


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1 コメント

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穴山武田氏 (明智憲三郎)
2011-03-12 21:35:14
 平山優著『穴山武田氏』戎光祥出版を読みました。この本には『甲陽軍艦』の記述が『家忠日記』『三河物語』といった信憑性の高い史料の記述と合致していることが度々書かれています。歴史学界においてはマイナーな位置づけなのでしょうが、こういった地道な積み上げが学界の通説を覆すものと期待します。
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