本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!

2010年11月23日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
  >>> 論理学で『本能寺の変 431年目の真実』を斬る!
  >>> 本能寺の変の定説は打破された
  >>>「信長による家康討ちがあり得ない」という方へ

 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』は昨年3月に出版以来、多くの読者のご支持をいただきました。期せずして読者のお褒めの言葉は同じ三つの言葉に集約されています。
 「目からウロコが落ちた。歴史観が変わった」、「推理小説を読むように面白かった。ワクワクして読んだ」、「よくここまで調べた。よくここまで突き詰めた」。
 ところが、1年半に渡って歴史研究者からは一切無反応。完全に無視されてきました。確かに、これまでの歴史研究を真っ向から否定した形になりますので、一所懸命に自説を唱えていた方々からは取り上げたくない本だったに違いありません。

 ところが、ようやくこの10月に拙著を批判する本が出版されました。戦国史研究では最も史料の信憑性評価を大事にしていて、歴史研究者としては私の歴史捜査を最も理解してくれるだろうと期待した方が書いた本です。
 そのような方からのご批判なので期待して読みました。私の提示した証拠類やそれに基づく推理への反証が出てくるのではないかと期待したからです。
 その期待は完全に裏切られました。残念であり、悲しいです。
 その方は十数ページを費やして拙著に書いた真実を否定しているのですが、その論理は「信長が家康を殺そうとするはずがない」という1点なのです。つまり、その答に至る諸々の拙著で提示した証拠や推理には全く言及せず、出てきた答のみを取り上げて「あるか、ないか」を議論しているのです。拙著をお読みいただいた方々には、歴史捜査というものが、このような「答が先にありき」の態度を否定していることは十二分にご理解いただいていると思います。面白おかしい答を主張することこそ私が否定したものであることも同様でしょう。その十数ページにつけられたタイトルが「光秀の子孫が唱える奇説」です!

 言葉に尽くせないほど落胆していますが、冷静に反論を述べておきます。

 答のレベルで「ありか、なしか」を反論するのであれば、それは簡単です。「あなたは信長ではない!」ということです。信長の置かれた当時の様々な環境や武将の置かれた立場を理解していない現代人が「信長がやるわけがない」と決め付けることができるのでしょうか。
 私は歴史捜査において、そのような奢った考えを持ち込まないようにしました。「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」。燕や雀のような小鳥にコウノトリや白鳥のような大鳥の志を理解できるわけが無い。中国の史記に出てくる言葉です。現代人の我々に果たして信長や光秀の志が理解できるのでしょうか?勝手に現代人が想定した信長像・光秀像から推理をスタートすることは出発点が間違っているというのが歴史捜査での主張です。
 恐らく信長本人ではない現代人が発想したならば、まだ天下統一もしていない信長が織田家最大の勢力を持つ譜代の家老である佐久間信盛父子を、あの時点で高野山へ追放するわけがない、という判断になるでしょう。でも、信長はそれをやりました。それは何故でしょうか。
 また、光秀本人ではない現代人が発想したら、光秀があの時点で信長に謀反を起こすわけがない、ということになるでしょう。でも、光秀はそれをやりました。それは何故でしょうか。
 歴史研究が考えるべきは「何故か?」ということであって、彼らに成り代わって「ありえる、ありえない」を云々すべきではないはずです。いかがでしょうか。
 
 私は何度も繰り返していますが、歴史捜査とはそういうものではないのです。まず証拠となる史料の信憑性ある記事を徹底して集めました。そして、それらの証拠の辻褄の合う答を復元していったのです。したがって、答は最後に出ました。その答には私自身が驚愕し、何度も別の答がないのか検証しました。その結果、やはりこの答しか全ての証拠の辻褄があうものがないと確信したのです。
 それがどのようなものであったかは拙著をお読みいただくしかありません。私への反論を書いた研究者の方にも是非拙著をしっかりお読みください、というのが唯一の回答になります。真面目に読んでいただければご理解いただけるはずです。

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 >>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
 >>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』読者書評

 ★ 真実解明の手法「歴史捜査」
 ★ 歴史捜査レポート
 ★ 私への反論の書かれた本『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』

【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
 1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!2010.11.23
 2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る! 2011.5.3
 3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き) 2011.5.4
 4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き) 2011.5.5
 5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う 2011.5.8
 6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き) 2011.5.15
 7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編) 2011.5.21
 8.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)

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11 コメント

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全く (兄やん)
2010-11-23 07:19:07
こういう「答えありき」の考え方というのは、警察でも検察でも問題になっていますよね。

明智さんの著書で、歴史研究家の多くが浮世離れしていることが分かったのですが、やはり、「人の振り見て我が振り直せ」ということが通じないようですね。

他の反論しない人たちが、考え方を改めて、真実を探求する過程で、答えを見出すようになってくれると嬉しいですね。

日本人は、固定観念を持ってしまうと、それを絶対視してしまう人が多く、その固着ぶりも強いので、骨が折れますね。

しかし、こういった視点を持った明智さんのような人が会社にいてくれると、一緒に働く人たちは、安心してその能力を発揮できて、うらやましいですね。
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Unknown (通りすがり。)
2010-11-23 23:46:12
自分に都合の良い紹介はやめて下さい。
もっとも重要な批判点は、機密の漏洩と言う点であり、家康を巻き込むことでの危険性を問うている訳であり、その非現実性を指摘しているのです。
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結局、答のレベルで云々しますか? (明智憲三郎)
2010-11-24 15:14:37
 家康と光秀が事前に連携をとっていたことが何故非現実的と決められるのでしょうか?荒木村重は毛利と事前に調整をつけて謀反に及んだようですし、松永久秀も同様でしょう。関が原の合戦の際には小早川秀秋など事前に家康と調整をしていた武将は何人もいたのではありませんか。
 むしろ、武将間の合従連衡は戦国の世の習いであり、無策で座して死を待つような武将はあまりいなかったと思います。
 機密の漏洩よりも氏族の生き残りの方が優先課題ですから、生き残るために必要な施策を「機密が漏れないように」手を打って実行することに各武将は最善を尽くしたでしょう。現代の経営者のM&Aなども同様であり、機密漏洩を恐れて実行しないなどということは本末転倒です。自社生き残りに必要とあれば、機密が漏れないように対策を打ってM&Aを実行するのです。貴説は目的と手段の関係を見誤っているのではないでしょうか。
 それをどうやってやったのか、と考えて調べていくことで歴史の真実を見出していくことが歴史捜査のやり方であり、頭から「非現実」「あり得ない」などと現代人の勝手な基準で決め付けてしまっては真実への道を自ら閉ざすことになります。
 現代人の思い込みからの基準を推理の出発点にするのではなく、当時の信憑性ある史料の記述から虚心坦懐に真実を復元していく歴史捜査のやり方を勉強していただけないものでしょうか。
返信する
読み比べてみました。 (フロイス・2)
2010-12-02 02:45:57
藤本正行著;「本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意」を読みました。 明智さんの説への批判に関して、いくつか感想を述べさせていただきます。

まず、藤本氏は、「一言で言ってしまえば本能寺の変は偶然の産物である。」(P.61)という立場から、陰謀説を否定されています。 つまり、信長の油断から偶発的に生じた千載一遇の機会を光秀が見逃さず謀反を成功させたのであり、光秀以外の誰かが謀反のお膳立てしたのではない、そもそもそのお膳立てはほかならぬ信長自身が行ったのだ、という説です。 それを端的に現しているのが以下の記述です。 

「この経緯を見ると、興味深いことに気付く。 それは、襲撃のお膳立てをしたのが光秀やその黒幕ではなく、信長自身だったということだ。 襲撃当日に本能寺に泊まったことも、軍隊を連れて行かなかったことも、光秀に本能寺の近くで軍隊を集めさせたことも、光秀に対抗できる部将たちを領国各地に派遣したことも、なにからなにまで信長の命令なのである。」(P.66)

さらに、光秀は謀反決行の直前までその意図を秘していなければならなかったであろう事の理由として、「信長が6月2日の未明に本能寺にいることを確認」出来ていなければ襲撃そのものが不可能であること(P.127)、を挙げられています。 

明智さんの本の読者はお気づきと思いますが、これらの指摘は明智さんが「謎」の2と3、つまり「何故信長はあれほど無警戒だったのか?」、「何故光秀は謀反をやすやす成功できたのか?」、として問題提起されていることと極めて近い内容です。 端的に言うと、藤本氏の結論が明智さんの出発点としての「謎」となっているのです。 謀反成功の条件が信長によって整えられたこと自体は、藤本説、明智説に相違は見られません。 その事を「偶然」として納得するか、「不自然」として謎の解明に乗り出すか、両者の違いはここから生じているという印象を受けました。 なお、藤本氏の御著書の表紙カバーの裏書き(としか表現できませんが)、「信長のような注意深い男が、なぜたった数十人の御付だけで本能寺に入ったのか?」、に対する回答は本文中「油断」以外になされていないようです。(読み落としていればどなたかご指摘ください。)

偶然の産物(従って誰もそれを計画できない)以外に藤本氏が陰謀説否定の論拠とされているものが、機密漏洩のリスクです。 これに関しては既出の明智さんのコメントに特に付け加えることはありません。 

そして「光秀の子孫が唱える奇説」批判となるわけですが、その具体例に入る前に一言、藤本氏は明智説を「家康黒幕説」といささか誤解されているのではと感じました。 僕が理解する明智説での家康の役割は「消極的、ないし受動的関与」です。 家康が積極的に信長を殺そうとしたのではなく、また光秀が当初から家康と組んでの政権維持を計画したのではありません。 明智説の肝は、あくまで「信長の家康討ち」であり、信長がお膳立てをしたのはもちろん偶然ではない、ということだと理解しています。

具体的な批判として藤本氏が挙げていられるのは以下の6点です。

1.家康に動機なし。
明智説では家康は「巻き込まれた」といっていいでしょう。 つまり家康自身の積極的な動機は特に必要ありません。 ただ藤本氏が指摘されている、信康処分の真相については、ここでの議論とは別に注目されるべきことかもしれません。

2.信長に家康討ちのメリットはあったか?
同盟者をだまし討ちにする大儀が無い。 謀反と喧伝すれば(そう言って正当化せざるを得ないが)、自軍に動揺が走り、敵軍は勇気付けられる。 家康処分の負の連鎖は大きいはず。 = もちろんそういったリスクはあるでしょうが、ではより大儀に欠ける光秀の謀反がある時機までうまく行っていたという藤本氏御自身の評価とどう整合するのか。

3.徳川領への侵攻は大変。 光秀、藤考などの軍勢では手に余るはずだが、他の武将は各地で交戦中で参加できない。
= これは指導者一同を一気に喪失した徳川家がどれほどの抵抗を示せるか、こういう事態で勝ち組に乗り換える部将は多いのではないか、などの反論可能でしょう。

4.光秀、家康の密談は不可能
= 簡単ではないかもしれません。 しかし、接待役の光秀が家康とコンタクトすること自体は自然であり、密談は不可能と一概に決め付けることはできないと思います。

5&6. 機密漏洩のリスク
= 実際は2部構成になっていますが1つにまとめます。 端的に言えば、家康討ちの秘密計画を家康に伝えることのリスクが、その後の家康との同盟のメリットを上回るという理由です。

藤本氏のこれらの論点から、リスクファクターの検証から陰謀論の非現実性を導かれるパターンが拝察されます。 そのこと自体に異を唱えるものではありません。 それが明智説の肝である「信長の家康討ち」に当てはまるかどうか、明智さんは信長の構造改革とその統治ビジョンからも、ご自身の仮説の蓋然性を述べられています。 これに対する直接の反証はなされていません。 同様に、明智さんご指摘の「信長の富士山見物」に関してもスルーです。 また家康の関与を示す状況証拠としては、本能寺の変以前よりむしろ以降の行動に顕著であると思われますが、それに関しても反証は挙げられていません。 誤解を恐れず乱暴にまとめると、明智説への批判としては、諸々のリスクに鑑みてその非現実性を指摘するというアプローチであり、その論拠を一つ一つ潰していくというものではありません。 さらに言えば、「奇説」と断じる以上、その方法論上の欠陥の指摘があってしかるべきと考えますがそれは示されていません。 その結果、せっかくの批判ではあってもかみ合った議論になっていないもどかしさを感じました。 しかしこの概念上の距離を埋める形で個々の事象に関する議論が継続できれば、そのこと自体が日本の歴史研究にとって前進と言えるでしょう。 目指すべきは合意ではなく、健全で活発な意見交換だと考えます。 
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公正なご評価に感服 (明智憲三郎)
2010-12-05 19:08:20
 フロイス・2様の分析に感服しております。内容は全く同感であり、私自身が申し上げたかったことを書いていただきました。
 ただし、当事者である私自身では、恐らくこのように冷静な論評はできなかったでしょう。「本能寺の変」研究者同士の反論合戦には眉をひそめている一人ですが、やはり自分のこととなると未熟さを感じて反省いたします。
 私は「答のレベル」での論戦は意味がないと考えています。自分の主観をぶつけあっても信長や光秀の考えを再現することは決してできないと思うからです。証拠の確かさやそれに基づく推論の正しさを是非お互いに検討してみたいと思います。自分の結論の押し付け合いではなく、歴史の真実を知ろうとする探求のために。
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全く同感です。 (フロイス・2)
2010-12-06 15:33:18
「答えのレベル」での論戦は意味がない、とのご指摘、100%同意すると同時に、日本の歴史研究が、その意味のない「答えのぶつけ合い」から未だに抜け出せないでいる状況に辟易としています。 これは一言で言えば「方法論の軽視」です。 歴史を扱った書物のあまりにも多くが、方法論を論者の感性(それもしばしば情緒的な)に代替しているように思えたなりません。 誤解がないように付け加えますが、僕は藤本氏の御著書がこのカテゴリーに該当するとは思っていませんので、念のため…。

明智さんの御著書がユニークなのは、結論(答え)として提示されている「衝撃の真相」よりも、その「衝撃の真相」が極めて常識的な方法論から導き出されている証明のプロセスであると思っています。 同時に「歴史捜査」の名でその方法論を開示するとともに、御自説のコアとされていることも、当然のことでありながらこの種の書物としては希少なケースであると考えます。 明智説への批判は、従って、(1).この方法論そのものに対する批判、 AND/OR (2).この方法論に沿って異なる事実、又は事実評価の指摘、であれば有意義な議論の展開が期待できるでしょう。 それに加えて (3). 結論の蓋然性の検証、でしょうか。 こういう批判に接する機会を、明智さんも明智さんの愛読者も、本の出版以来心待ちにしているのだと思います。
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歴史捜査方法論 (明智憲三郎)
2010-12-07 22:19:07
 フロイス・2様のコメントに触発されて「歴史捜査方法論」を整理して明文化することにいたしました。拙著の中である程度のことは書きましたが、あらためてこのブログで順次書いていこうと思いますのでご期待ください。
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遅馳せながら・・・。 (k.のの)
2011-05-21 23:04:04
明智さん、こんばんは
遅馳せながら、
藤本氏の本能寺の変を読みました。

家康への謀反・同盟への機密。
私の感想としては、吉田兼見は何故?公務優先で本能寺に行かなかったのか?。
羽柴秀吉は何故?但馬夜久氏経由で近内の様子を伺っていたのか?と言う事で機密の漏洩が有ったと思います。
また、信長の耳に入らなかったか?と言う疑問は、信長が仕掛けた調略だから気に掛けなかった?(光秀を使いワザと家康に漏洩させたのでは?)と考えました。
次に兵力ですが、
徳川領へ攻め込む際の兵力が無いと指摘されていましたが、家康は何故?東軍を甲斐・信濃へ進撃する必要が有ったのか?また、その本にいいヒントが載っているにも拘らず、光秀・細川・筒井のみでは兵力が弱いと指摘??何故なら雪達磨方式で軍勢を集める!即ち近江・美濃・尾張等から兵士を集めればいいのでは?と思いました。

同書には、斉藤利宗談話を挙げて、リアルな様子から一級資料とされていましたが、殆んどが軍記物の様で・・・。本城惣右衛門の証言と一致しないにも拘らず・・・。当時15歳の利宗に父利三が根掘り葉掘り語った??のでリアルであり信憑性がある!え??さらに光秀は本能寺襲撃の時、鳥羽に本陣を置い火の手を確認した?らしいが、陣取りがおかしい?(京都人としては山陰道から西国道を南下して陣取りはおかしいと言う意味です)果たしてこれが一級資料と言えるのか?素人として疑いました。
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偶発説を斬りましょう! (明智憲三郎)
2011-05-22 18:25:45
 ありがとうございます。おっしゃられる通り藤本氏の著書は多くの史実に対してほとんど何も説明していません。「偶発的に起きた謀反だから何も説明の必要がない」と言っているような気がします。
 そういった逃げを打たれないように藤本説への疑義をブログに書きました。「信長は謀略で殺されたのだ 本能寺の変・偶発説を嗤う」です。
 書いてみて、あらためて思いました。偶発説は破綻しているし、藤本氏の今回の著書は出版社の都合で急ごしらえの三部作にしたため、余りにも時間不足・研究不足で書かれたものだと。k.のの様の斎藤利宗談話批判も、信長の最期の言葉「是非に及ばず」の説明に大量のページを費やしたというamazonの読者批評もそれを物語っています。
 
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どっちが奇説かいざ勝負! (明智憲三郎)
2011-06-12 21:31:47
 藤本氏の著書のamazonカスタマーレビューを修正しました。当初、藤本氏の問題の本についてのみのコメントでしたが、盟友の鈴木氏や藤本・鈴木両氏の共著を分析した結果を反映しました。お二人が、こと本能寺の変については残念ながら歴史学界保守本流だったことを踏まえた内容にしています。
 このコメントの「明智憲三郎」をクリックするとamazonのページに飛びます。私のコメントにご賛同いただけるようでしたら、「このレビューは参考になりましたか?」に「はい」をクリックお願いします。
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