さて、通説となっている信長のうつけぶりは本当だったのでしょうか?
例によって後世に書かれた軍記物の創作ではないのかと疑問が生じます。
ところが、信長のうつけぶりを書いたのは太田牛一『信長公記』なのです。
信長は髪を茶筅髷に結い、紅や萌黄の糸で巻き立てるなど異様な姿をし、町中を餅をほおばりながら、人に寄り掛かったり人の肩につら下がったりして歩いたことなどが書かれており、「大うつけとより外に申さず候」とまで書かれています。信長を「大うつけ」と呼んだのは牛一だったのです。
書かれている巻は首巻といって、信長上洛前のことを後々になってまとめて書いたものなので、日記のように書き溜めたものを一年を一巻にまとめた巻一から巻十五に比べると信憑性では一段落ちます。
とはいえ、信長の側近くに仕えた牛一の書いたものですから、明らかな誤りがない限り史実と考えてよいでしょう。
では、信長はなぜ大うつけと呼ばれるような奇行を繰り返していたのでしょうか?
これからが本日の本論です。
『十八史略』などで中国の王朝の歴史を読んでみてください。皇帝の子供や皇帝を支えた副官の子供には実にうつけが多いことに気が付くでしょう。彼らがなぜうつけかというと、答は簡単で「暗殺逃れ」です。
皇帝の子供にしろ副官の子供にしろ、優秀な子供は次の政権を狙う者から邪魔者として命を狙われたのです。ですから、優秀な子供はうつけを演じて命を狙われないようにし、成長した暁に実力を発揮して皇帝の座を狙ったのです。
私が初めて『十八史略』を読んだときに、日本の戦国史ではあまり聞いたことがない話だったので、中国は恐ろしい国という印象を持ちました。
でも、本当に日本の戦国史にはない話なのか?
そう思って、気付きました。日本の戦国史でうつけといえば大うつけの信長がいた!
父親の織田信秀が死んで信長が家督を継ぐまでの尾張の状況を見ると信長には暗殺の危険が高かったことがわかります。尾張国内の勢力状況は複雑で、加えて隣国の美濃斉藤氏、三河松平氏とも抗争を繰り返していました。
当時、尾張守護の斯波氏は実権を失い、守護代の織田氏が清州と岩倉に分裂して半国ずつの実権を握っていました。信秀は清州織田氏に仕える三奉行の一人でしたが、清州織田氏とも合戦・和睦を繰り返すなど次第に勢力を拡大し、美濃・三河へも侵攻したのです。
このような状況でしたから、信秀は尾張国外にも国内にも敵を抱え、「出る杭は打たれる」状態だったといえます。暗殺を心配した信秀が優れ者の信長に「大うつけを演じよ!」と密かに命じていたのではないでしょうか。これが、一族の生き残りをかけて戦っていた戦国武将として当然の策だったと思います。そして、孫子の兵法にあるように「作戦は味方の部下将兵にも秘匿せよ」と信秀・信長親子は家臣にも秘密にしました。そして、信長は大うつけを見事に演じたのです。家老の平手政秀がこの名演技に騙されて切腹してしまったくらいですので、現代人の誰もが見破れなかったのは当然です。ただ一人を除いては。
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織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
>>> シン・ノブナガ
問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。
問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。
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例によって後世に書かれた軍記物の創作ではないのかと疑問が生じます。
ところが、信長のうつけぶりを書いたのは太田牛一『信長公記』なのです。
信長は髪を茶筅髷に結い、紅や萌黄の糸で巻き立てるなど異様な姿をし、町中を餅をほおばりながら、人に寄り掛かったり人の肩につら下がったりして歩いたことなどが書かれており、「大うつけとより外に申さず候」とまで書かれています。信長を「大うつけ」と呼んだのは牛一だったのです。
書かれている巻は首巻といって、信長上洛前のことを後々になってまとめて書いたものなので、日記のように書き溜めたものを一年を一巻にまとめた巻一から巻十五に比べると信憑性では一段落ちます。
とはいえ、信長の側近くに仕えた牛一の書いたものですから、明らかな誤りがない限り史実と考えてよいでしょう。
では、信長はなぜ大うつけと呼ばれるような奇行を繰り返していたのでしょうか?
これからが本日の本論です。
『十八史略』などで中国の王朝の歴史を読んでみてください。皇帝の子供や皇帝を支えた副官の子供には実にうつけが多いことに気が付くでしょう。彼らがなぜうつけかというと、答は簡単で「暗殺逃れ」です。
皇帝の子供にしろ副官の子供にしろ、優秀な子供は次の政権を狙う者から邪魔者として命を狙われたのです。ですから、優秀な子供はうつけを演じて命を狙われないようにし、成長した暁に実力を発揮して皇帝の座を狙ったのです。
私が初めて『十八史略』を読んだときに、日本の戦国史ではあまり聞いたことがない話だったので、中国は恐ろしい国という印象を持ちました。
でも、本当に日本の戦国史にはない話なのか?
そう思って、気付きました。日本の戦国史でうつけといえば大うつけの信長がいた!
父親の織田信秀が死んで信長が家督を継ぐまでの尾張の状況を見ると信長には暗殺の危険が高かったことがわかります。尾張国内の勢力状況は複雑で、加えて隣国の美濃斉藤氏、三河松平氏とも抗争を繰り返していました。
当時、尾張守護の斯波氏は実権を失い、守護代の織田氏が清州と岩倉に分裂して半国ずつの実権を握っていました。信秀は清州織田氏に仕える三奉行の一人でしたが、清州織田氏とも合戦・和睦を繰り返すなど次第に勢力を拡大し、美濃・三河へも侵攻したのです。
このような状況でしたから、信秀は尾張国外にも国内にも敵を抱え、「出る杭は打たれる」状態だったといえます。暗殺を心配した信秀が優れ者の信長に「大うつけを演じよ!」と密かに命じていたのではないでしょうか。これが、一族の生き残りをかけて戦っていた戦国武将として当然の策だったと思います。そして、孫子の兵法にあるように「作戦は味方の部下将兵にも秘匿せよ」と信秀・信長親子は家臣にも秘密にしました。そして、信長は大うつけを見事に演じたのです。家老の平手政秀がこの名演技に騙されて切腹してしまったくらいですので、現代人の誰もが見破れなかったのは当然です。ただ一人を除いては。
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織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
>>> シン・ノブナガ
織田信長 435年目の真実 (幻冬舎文庫) | |
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問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。
問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。
>>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
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