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会津の旅人宿 地域との交流・旅人との交流が盛んな【会津野】宿主ブログ

地域の話題、旅人のホットな話題、季節のおいしい食べ物の話題など、会津へ旅する人々への話題中心の宿主ブログです。

【会津野】人を育てるコストと損失

2016年12月26日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

昨日のエントリー【会津野】真珠湾攻撃では、真珠湾攻撃が起きたときの背景を書いてみました。

小室直樹博士の「日本の敗因」からの引用でしたが、この本は、戦争での敗戦原因を掘り下げ、日本社会の病巣は一体何なのかということを考えたものです。

「人」の育成について述べてある部分が、大変参考になりますので、少し長いですが引用します。

★ ★ ★

人材を育てるには、もちろんコストがかかる。多大なコストである。

しかし、ここに国の命運がかかっているのである。何が何でも急がなくてはと、コストなど気にせず、人材の育成に国をあげて取り組んでいたら、「ゼロ戦」の後継機の誕生はもちろん、大東亜戦争のさまざまな局面で、歴史とは大きく異なった展開があったに違いない。

コストがいくら多大であっても、戦争そのものに負けることを考えれば、安いものなのだ。

新しいアイディアを出せ。可能なことはすべて試みよ。失敗したっていい。試行錯誤でいいのだ。

優秀な頭脳に向かって、そう号令を発し、「責任は自分がとる」と断言する指導者がいれば、事態は異なったものになる。それがリーダーの役割である。

戦争責任者とはそういうものなのだ。

人材の育成は、戦争が始まってからでは遅いという部分もある。戦前から、そのことを重要課題と認識し、思い切ってコストをかけてでも、多数の技術者を養成するべきだったのだ。

日本は当時、列強中、飛び抜けて貧乏であった。

だから、そんなにコストはかけられないという意見もあるかもしれない。だが、貧乏だからこそ、人材にコストをかけるのだ。

「資源の最適配分」(oputinal allocation of resources)の戦略として、それが最善の方法なのだ。優れた技術者の大量養成こそが、コストに対する最大の成果をあげる選択なのだ。

「そのためのコストは大きい」といったところで、実際に飛行機を作ってみることに比べれば、たかが知れたものなのだ。

いわんや、「できるはずの飛行機が失敗作に終わった」「完成期が遅れた」ことに比べれば、その損失は問題にもならない。まして、「戦争に間に合わなかった」ら、かけた費用はすべて無駄になる。さらには、そのために戦争に負けたら、コストは無限大である。

資源の最適配分こそ、資本主義の要諦なのだが、戦前の日本は、ここに思いが至らない。

大きな見地からいえば、これが最大の敗因である。

現在の日本でも、資源の最適配分については、ろくに考えない。歴史の教訓から学ぶということをしない。

これから先もどんなことになるのやら。そう思わざるをえないのである。

(中略)

日本は物量戦に敗けたのではない。技術力で敗けたのでもない。指導者の無能力が原因で敗けたということがよくわかる。

★ ★ ★

2020年の東京オリンピック、インバウンド開戦のときが定まっています。

インバウンドの受け入れ戦力と、商品開発をする頭脳の育成は進んでいるだろうか。

このコストをケチったら、観光立国への戦いに敗れ、その後長い間に渡る貿易赤字国へと陥る損失を生む。

観光立国への指導者が、有能であることを願わずにはいられません。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】真珠湾攻撃

2016年12月25日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

今年5月27日、伊勢志摩サミットで日本を訪れたアメリカのオバマ大統領が、広島で核兵器廃絶のスピーチを行いました。

まもなく、日本の安倍総理大臣が、ハワイの真珠湾を訪れる予定となっています。

真珠湾攻撃があったという事実は知っているものの、そのときの背景などをあまりよく知らなかったので、調べてみました。

例によって会津出身の博士 小室直樹先生の「日本の敗因」という書籍から、その内容を記してみます。

★ ★ ★

真珠湾攻撃とは、1941年12月8日午後1時(ワシントン時間)、ハワイの真珠湾で日本がアメリカ艦隊を全滅させた攻撃を言います。

アメリカは、「卑怯きわまりない騙し討ち」として日本を強く非難し、これにより太平洋戦争が開戦しました。

日本は、「奇襲」と言っていますが、ここにはさまざまな背景がありました。

アメリカは、攻撃前から、日本という国は奇襲攻撃を得意としていることを知っていました。真珠湾についても、奇襲されるかどうかのシュミレーションを重ね、もしアメリカの戦力で奇襲するとしたらどのようにやるかを考えました。まず、日本から空母をハワイ近海までアメリカに見つからないように派遣し、そこから多数の飛行機を飛び立たせる必要がある。その飛行機も、攻撃する前に反撃されないようにするには、どうするか。そういうことを考えます。いろいろと考えた結果、この攻撃はまず無理だと判断し、真珠湾への奇襲攻撃は考えられないと結論づけました。

さらに、日本の空軍能力についてのリサーチが不足しており、アメリカの持つ飛行機の能力を上回るゼロ戦が存在していることを夢にも思わなかった。すでに研究していた日本の飛行機の能力ならば、アメリカの艦船を水平攻撃しても、大した被害は出ないだろうし、海中からの魚雷攻撃も、真珠湾は浅瀬なので、浅瀬を精確に進む魚雷の能力があるとは到底想定できなかった。これも、奇襲されるとは思えない理由でした。

ところが、日本は1941年10月に、浅瀬でも安定して魚雷が進む安定化装置を開発していた。相手に戦力を知られないうちに、戦力を増強していたのです。

奇襲が行われたとき、アメリカの3隻の空母が真珠湾から外に出て航行していました。第1回目の奇襲のとき、パイロットたちはハワイの石油基地を見つけ、これをたたけば、アメリカの戦力を壊滅的に奪えることを認識しました。だがこのときの日本の司令官であった南雲忠一は、目的を達成したしたので2回目の攻撃はせずに、すぐに日本へ戻ることを命令します。

奇襲を免れた3隻の空母は、攻撃されなかった石油を使い、日本に復讐攻撃を開始。マーシャル諸島で今度はアメリカの奇襲を受けることになる。

ところで、なぜ「卑怯きわまりない騙し討ち」ということになったかに触れておこう。

当初は、12月8日午後1時に宣戦布告をし、攻撃を開始する予定となっていた。

開戦前夜、アメリカの日本大使館では転勤する寺崎英成書記官のために送別パーティーが開かれており、井口貞夫参事官と奥村勝蔵書記官が、グデングデンのヘベレケだった。なんと、日本からの入電文書の暗号解読とタイプ打ちを怠った。

翌朝急いで宣戦布告の文書を準備するも、アメリカのハル国務長官へ渡ったのは午後2時過ぎであった。

日本の軍部は、精確に午後1時に攻撃を開始。よって、宣戦布告前に攻撃したので「卑怯きわまりない騙し討ち」ということになった。

これは軍部が悪いのではなく、外交官である井口参事官と奥村書記官の失態である。

さらに、国際法では、アメリカの駐日大使に口頭で日本の外務大臣が伝えれば宣戦布告は成り立つことになっている。これならば、わざわざ暗号でアメリカまで電報を打たなくても済むので、事前に相手に暗号解読される心配がないが、この国際法の中身を日本政府は知らなかった。ここに、日本政府の失態もあった。

このように、事務方の失態により、日本は「卑怯な・・・」というレッテル貼りをされてしまったのだ。

ちなみに2人の外交官は政府の命令をしっかりと実行できなかったにもかかわらず、まったくお咎めなしで、戦後に外務事務次官にまで出世しているというからビックリです。

歴史に「もし?」はありませんが、宣戦布告を行ったうえ、相手の戦力を知り石油基地を含めた的確な攻撃でつぶしていたら、太平洋戦争は違っていた結果となっていたかもしれません。

★ ★ ★

さて、集団的自衛権行使を閣議決定し安全保障関連法案を成立させた安倍総理大臣は、真珠湾でいったいどんな発言をするのか?

近頃、急に政治家のポスターが街にあふれてきています。国民に信を問う必要が生じるような重大なことを言うのだろうか?

関心を持ってテレビ中継を見ようと思います。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】インバウンド!の本質

2016年12月24日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

昨日、12月22日に財務省が決定した来年度国家予算をネットサーフィンで見つけ、観光予算を見ておりました。

観光先進国の実現として、2つの予算案が計上されています。

1.2020年4000万人目標に向けた観光施策の推進 200億円→210億円(10億円の増)

2.景観まちづくり刷新支援事業 25億円(新規)

とあります。

1は、いままでどおり、観光庁による国内のDMOの推進と海外プロモーションに使われると思われます。

2は、インバウンド(海外からのお客さん誘致)のために、趣ある街並みの形成、散歩道の整備などに使われるものです。

今回、観光のための「まちづくり」向けに、その素材となる街並みの整備に予算配分がされることになります。

★ ★ ★

読み進めている会津出身の社会科学学者小室直樹先生の「痛快!憲法学」という本を読んでいたら、憲法を語るにあたり、民主主義、資本主義を正しく理解し、なぜ経済政策が必要なのかということが語られていました。

明治時代に日本が目指した民主主義、資本主義への転換は、古典派経済学の祖であるアダムスミスの「自由放任」により「神の見えざる手」が市場を最適化し、最大の人々が最大幸福を得るという思想が用いられ、小さな政府が公共投資などせずに、自由放任にすることがよいとされました。

しかし、1929年のニューヨーク大暴落では、労働市場が安くなり資本家が安くなった労働を用いて経済が回復することを期待する自由放任は機能せず、労働単価の下方硬直性が起きた。つまり、経済が悪くなっても人々は食べてゆかなくてはならないので、給与を安くすることに労働組合が反対し、実際には労働市場が安くならなかったという現象です。これにより、最悪の解雇へと進み、失業者が街にあふれた。

そこで、ケインズ経済学が「公共投資」を提唱。無理やり需要を創出することで、その需要をこなす労働者に給与が行き渡り、その給与が次なる消費を呼ぶ。さらに、その消費を享受する人々が、次なる消費を行う。最初の公共投資を仮に1兆円とした場合、公共投資の仕事をした労働者がその給与の8割を消費に回したら(これを消費性向0.8という)、次々と等比級数的に消費が増え、最終的には5兆円の経済効果を生む。それが、ケインズ経済学のキモです。

戦後日本は、これを土木建築の分野で実際に行い、大きな成果を出しました。ただ、その結果、土木建築市場は、ほとんどが役所発注の仕事ばかりとなり、役所が計画的に土木建築経済をコントロールすることで、この分野は社会主義化してしまいました。社会主義が行き詰るとどうなるか、これは産業の衰退となるということを、平成を生きる私たちは身をもって経験しました。

★ ★ ★

さあ、観光にこれをあてはめてみましょう。

ここでは話が分かりやすいようにインバウンドで考えます。

観光は、最初に公共投資を行えば、その享受を受けるのは観光の事業者です。

観光事業者に消費額を支払う人は外人さんです。

現在2000万人のインバウンドを4000万人に増やす計画なので、純増は2000万人。

一人のインバウンドが日本国内で消費するオカネは10万円を軽く超えています。

かなり小さく見積もり、ここでは10万円としましょう。

10万円×2000万人=2兆円となります。

それに対し、政府の公共投資は2つの分野を足して235億円です。

これは2兆円の約1.2%にすぎないものです。

計画経済の性質を持つものが1.2%で、それ以外の大多数は純粋な消費需要です。

消費性向を0.8と仮定すると、全体の経済効果は年間10兆円を超えるものになります。

★ ★ ★

国内観光消費で物事を考えると、残念ながら計画経済の弊害を土木建築業界と同じように起こしてしまいます。

でも、インバウンドは違う。

「インバウンド!インバウンド!」という本質は、ここにあるのではないでしょうか。

昭和から平成初期までの観光業界は、団体旅行などの旅行会社による送客に支配され、ある意味で社会主義化していました。

しかし、社会は変わり、FIT(foreign independent travel)と呼ばれる個人の外国人旅行者へと変わってきた。

日本に来るFITは、社会主義化した旅行会社による支配を嫌い、資本主義的なものを選ぶ。

そのためのツールとなる、個人個人が情報にリアルタイムに接し消費行動を行う「スマートホン」をほとんどの人が持つようになった。

やっと、観光業界が資本主義化するチャンスが来た。

この流れは、歴史的変化だと思います。

私が就職した頃は、ツアーコンダクターが大人気の職業でした。なんだか隔世の感がありますね。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】六斎市で7日に市が立った町と七日町の違い

2016年12月23日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

先日、会津若松の六歳市について調べておりましたら、あいばせというページを見つけました。

会津若松観光ビューローが、教育旅行(修学旅行)誘致のために公表しているものですが、ここに、安土桃山時代(1573〜1603)に六斎市の記述があります。

「当時の若松には6ヶ所に市(いち)がたっていた。大町は5と10の日、馬場町は1と8の日、本郷町は2と7の日、三日町は3の日、桂林寺町は4と9の日、六日町は6の日というように、毎日どこかで必ず市がたつように定められていた。」

このうち、「本郷町」という町名は、現在の会津若松市にはありません。会津美里町には本郷という地名がありますが、まさか大川を隔てた反対側の地で市がたっていたとは思えません。

さらに調べてみると、1561年まで会津藩を治めていた葦名盛氏は、その年に家督(家督とは、家父長制の家長権をいう)を盛興に譲り、向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)に隠居します。向羽黒山城は、現在の会津美里町本郷地区に城跡が存在します。隠居と言っても、実際には院政を敷き、向羽黒山城から会津藩を操ります。いずれ、当時黒川城と呼ばれた鶴ケ城城内に戻ります。その際、本郷(会津美里町)の商工業者たちを引き連れて行き、黒川城下に本郷町という地区が出来ます。さらに、若松の城下が形成される(1592年〜1595年)になると、外堀の外側となる現在の行仁町あたりに本郷町が移されました。

会津若松の六斎市の2と7の日は、この行仁町あたりで、本郷の商工業者たちが、安土桃山時代の末期頃、市を開いていたという事実がわかりました。

7と言えば、他に七日町という地名があります。ここは、いまでも市内の主要な商業地区です。やはり、7日に市が立っていた記録がありますが、それは、六斎市が始まる以前からのことで、仏教思想の六斎日にお参りするのに合わせ市が立った「六斎市」とは異なります。

七日町は宿屋が集まって居る場所としても知られ、17世紀中頃には14軒、江戸時代末期の1845年には30軒、明治元年の1868年には33軒の宿屋が店を開いています。

若松風俗帳によると、もともと宿屋の多かったこの町に、7日の市が立ったから七日町と名附したとあります。安土桃山時代より前から、諸国往来の旅人たちが宿をとる、そんな街だったのだろうと想像を膨らませました。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】着地型観光への転換ってどういうこと?

2016年12月22日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

マイナス1℃の深い霧の朝を迎えた会津野です。

昨日は、会津美里町の観光まちづくり推進協議会に出席して参りました。協議会では、いままで、地域DMO(いわゆる着地型観光の実行組織)を設立するための論点整理を行ってきました。浮かび上がった論点や問題解決しなければならないことをもとに、これからの具体的な行動を示すアクションプランを策定しているのが現在のフェーズです。観光を担う仕事をしている一員として、企業論理による利益から地域論理により利益を求める体制への転換の第一歩を、まもなくスタート出来る喜びを感じました。

日本の観光は、過去の経験やプレーヤである事業者の個人プレーによる暗黙の事業運営に委ねられているところが多い産業です。

それを、「地域」という切り口を使い、「文字」として問題点や事業運営方法などを示しながら運営するのがDMOです。

そこには、1632年生まれイギリスの哲学者ジョン・ロックの思想を感じます。ジョン・ロックは、民主主義と資本主義の元となる考えである「社会契約説」を見出した方です。この考えは、納税の決まりを作る際に、納税者の意見を聞き、合意をしなければ法をつくってはならないという、いわゆる納税者と徴税者の「契約」へと発展をしました。1765年当時、イギリスの植民地であったアメリカで出版物を出す時に印紙税をアメリカからイギリスに納税する法律が作られましたが、イギリスが一方的に決めてしまい、アメリカの承諾を得ませんでした。これはイギリスがアメリカを統治することに他なりませんので、その後アメリカは革命権を行使し、アメリカ独立へとつながり、大きくアメリカ社会を変えた事実となりました。

現在の日本の観光は、地域資源というものを使用し商売するにもかかわらず、そこには地域との契約がありません。旅行会社が商品を作り、売れなければばどんどん見捨てる。これが実状です。

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尻上がりに視聴率をUPさせたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の最終回が終わりました。

このドラマは、「契約結婚」が根幹として描かれています。

結婚という社会行為は、契約条項を持っていません。この暗黙の了解のもとで、離婚後のドロドロを解決出来ずに不幸なことになってしまう人々が跡を絶たない。これも実状。

結婚が社会契約説にふさわしいものなのかどうかは、多いに議論があるところでしょうが、社会の人々が興味を持ってドラマを見ながら考えていることが高視聴率の元となっている証左ではないでしょうか。

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映画「この世界の片隅に」では、終戦の玉音放送のシーンで、主人公が「まだ生きていて戦えるこの身体があるのに」(正確なセリフではないかもしれませんが)と激昂します。

契約無き社会で、一方的に国の方針を変えることに憤っている姿が伝わってきました。昭和10年生まれであった私の父も、同じようなことを言っていたことを思い出します。

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DMOは、地域主権の代名詞のように思えてきました。旅行会社による送客モデルから、着地型観光への転換は、こういう側面を持っています。

異常な観光産業から、正常な民主主義、資本主義に準じた産業へと変化することにワクワクしているのが、いまの私が感じる喜びなのです。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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