昨日話した「囲碁に非ず」で昔聞いた”面白話”を思い出した。
「アメリカに旅行した日本人が、かねて得意としている英会話をこのときとばかりに話すのですが通じない」・・・アメリカ人たちは「日本語は英語に似ている」と話し合っていたとか。
中学か高校の先生が、これをもう少し面白く寄席調に話してくれた
さて、もしプロの先生がアマの碁を見て「囲碁に非ず」と言ったら大変な考え違いでしょうね?
アマの場合は楽しみでやっているわけで、プロ並みのレベルを要求されているわけではないですから。
勿論プロの先生にこのような方はいないとは思いますが、ミニ盤について碁に非ずといった感覚はなにやらキナ臭い気がします。
但し、初級者同士の対局を拝見していると、確かに起こりえないことが起きたりしている。
定石の手順が違っても最終形でつじつまが合っていたり、予想できない要素で勝負が決まったり。
マアそういう対局を見て「これは碁に非ず」と言ったら、プロ→アマ、アマの中でも高段者→有段者→上級者→中級者→初級者という具合に「非ず」となりそう
整理して考えると
こういう序列的なものは単にレベルの違いであって、同じゲームであることは確かでしょう
一方、特に9路盤の場合は、ルールは19路と同じでも、戦い方など別なゲームをやっている感じがします(私だけか?)
だから9路盤は19路に至る過程でのトレーニングでもあるし、独立したゲームとも考えられるのでしょう。
聞き様によっては「非ず・・・」に似て自分が大変不遜な感情を抱く時も正直言ってあります。
マア今まで口外したことはありませんが(白状すると)
昔碁会所で横でグループで打っていた人たちの会話で、話題がコミのことでした。
私が囲碁を憶えた頃は4目半とか5目ジゴ白勝ちとか二つあったのですが、5目半に統一された感じでそれが長く続いていました。
そして丁度新たなコミ改定の流れが出てきた時期で、応氏杯のように7目半とかではないけれど、6目半が採用される流れがありました。
韓国の方が早かったかと記憶にはあるが定かではない。
先手の優位性は5目半より大きいと見るようになったか、6目半にすることで黒の更なる積極性を促す・・・などの理由だったと思います。
いずれにせよプロの世界での話です
そういう理由はアマにそのまま当てはまるかどうかは疑問ではある。
つまり互い先の碁が結果においてはっきり先手有利かどうか不明だし
先手の積極性(つまりコミ1目分)と言ってもイメージが湧かない。
そうは言っても世の中の流れにはそれなりの理由があるだろうし・・・流れに合わせて(やや早かったかも知れませんが)この碁会所ではコミを6目半に変更した。
前置きが長くなりましたが、となりのグループの話題はそういう時期に、その「変更」も含まれての話です。
(このグループはある大手企業のOB会で、ここで定例会を開いていました)
「最近コミが変わったらしいね」
「そう6目半だそうで、大きくなった」
「とてもそんな大きいコミは打てないよ」
「そうだね、とても打てない」
「今までどおり5目半で行きましょう」
こんな内容です。
グループ内の話しだし、碁会所全体の申し合わせではないから、これはこれで好い
コミをいくつにするかは自由なわけですから
但し引っかかることもあった。
(引っかかった理由が我ながら不遜・傲慢でもあるのですが)
彼らの会話内容が、プロの一部がコミ改定反対に挙げた理由と同じだったから・・・
彼らは私と打つ時には3つか5つ置く・・・それなのにコミ1目の変更をプロ並みの理由で反対らしい。
「コミ1目を問題とする碁ではないでしょう?」と正直に考えた
マア「目くそ鼻くそ」の話でしょう
そんなわけで、プロは私レベルでは「囲碁に非ず」と見たとしても、下から見れば「同じ囲碁ではないか」ですね。
マア一歩譲って「・・・のようなもの」かな?。
話は変わりますが、最近図書館で借りた本のことです
「国語の時間」 1994年 竹西寛子
私は中学生以来国語は苦手です(自慢になりませんが)
大きな理由は2つあります
一つは「文法」でなんだか訳の分からない言葉を覚えることができなかったのです
「連用」とか何とか・・・
もう一つは「ここで少年はどう思ったのでしょうか?」のような問題です
主人公が感じたことを想像して書くわけですから、何を書いてもいいはずなのに、答えは一つしかないらしい
だから本を読むのは好きでしたが、学科としての国語は嫌いでした。
弾みで、「国語」関係者の書いた本を読んでみようかなと思いました
エッセイ風でタイトルのついた短い話が出ています・・・そこで自分としては気になる・参考になる・規範とすべき言葉を見つけました。
基礎をいい加減にするな
必要と不必要を見極めよ
物言いは、簡潔、明瞭を旨とせよ
当たり前のことではありますが・・・でも振り返ってみると背中が寒い
それに、これは言葉のことですが、囲碁に関してもいえそうです
最後の「簡潔・明瞭」を碁に置き換えれば、ゴチャゴチャと訳の分からないことではなくて線の太いと言うか一本筋の通った碁を目指しなさいと言うことでしょうか。
こじ付けかも知れない?
でも、基礎と言うものは共通なことが多いと感じました。
「アメリカに旅行した日本人が、かねて得意としている英会話をこのときとばかりに話すのですが通じない」・・・アメリカ人たちは「日本語は英語に似ている」と話し合っていたとか。
中学か高校の先生が、これをもう少し面白く寄席調に話してくれた
さて、もしプロの先生がアマの碁を見て「囲碁に非ず」と言ったら大変な考え違いでしょうね?
アマの場合は楽しみでやっているわけで、プロ並みのレベルを要求されているわけではないですから。
勿論プロの先生にこのような方はいないとは思いますが、ミニ盤について碁に非ずといった感覚はなにやらキナ臭い気がします。
但し、初級者同士の対局を拝見していると、確かに起こりえないことが起きたりしている。
定石の手順が違っても最終形でつじつまが合っていたり、予想できない要素で勝負が決まったり。
マアそういう対局を見て「これは碁に非ず」と言ったら、プロ→アマ、アマの中でも高段者→有段者→上級者→中級者→初級者という具合に「非ず」となりそう
整理して考えると
こういう序列的なものは単にレベルの違いであって、同じゲームであることは確かでしょう
一方、特に9路盤の場合は、ルールは19路と同じでも、戦い方など別なゲームをやっている感じがします(私だけか?)
だから9路盤は19路に至る過程でのトレーニングでもあるし、独立したゲームとも考えられるのでしょう。
聞き様によっては「非ず・・・」に似て自分が大変不遜な感情を抱く時も正直言ってあります。
マア今まで口外したことはありませんが(白状すると)
昔碁会所で横でグループで打っていた人たちの会話で、話題がコミのことでした。
私が囲碁を憶えた頃は4目半とか5目ジゴ白勝ちとか二つあったのですが、5目半に統一された感じでそれが長く続いていました。
そして丁度新たなコミ改定の流れが出てきた時期で、応氏杯のように7目半とかではないけれど、6目半が採用される流れがありました。
韓国の方が早かったかと記憶にはあるが定かではない。
先手の優位性は5目半より大きいと見るようになったか、6目半にすることで黒の更なる積極性を促す・・・などの理由だったと思います。
いずれにせよプロの世界での話です
そういう理由はアマにそのまま当てはまるかどうかは疑問ではある。
つまり互い先の碁が結果においてはっきり先手有利かどうか不明だし
先手の積極性(つまりコミ1目分)と言ってもイメージが湧かない。
そうは言っても世の中の流れにはそれなりの理由があるだろうし・・・流れに合わせて(やや早かったかも知れませんが)この碁会所ではコミを6目半に変更した。
前置きが長くなりましたが、となりのグループの話題はそういう時期に、その「変更」も含まれての話です。
(このグループはある大手企業のOB会で、ここで定例会を開いていました)
「最近コミが変わったらしいね」
「そう6目半だそうで、大きくなった」
「とてもそんな大きいコミは打てないよ」
「そうだね、とても打てない」
「今までどおり5目半で行きましょう」
こんな内容です。
グループ内の話しだし、碁会所全体の申し合わせではないから、これはこれで好い
コミをいくつにするかは自由なわけですから
但し引っかかることもあった。
(引っかかった理由が我ながら不遜・傲慢でもあるのですが)
彼らの会話内容が、プロの一部がコミ改定反対に挙げた理由と同じだったから・・・
彼らは私と打つ時には3つか5つ置く・・・それなのにコミ1目の変更をプロ並みの理由で反対らしい。
「コミ1目を問題とする碁ではないでしょう?」と正直に考えた
マア「目くそ鼻くそ」の話でしょう
そんなわけで、プロは私レベルでは「囲碁に非ず」と見たとしても、下から見れば「同じ囲碁ではないか」ですね。
マア一歩譲って「・・・のようなもの」かな?。
話は変わりますが、最近図書館で借りた本のことです
「国語の時間」 1994年 竹西寛子
私は中学生以来国語は苦手です(自慢になりませんが)
大きな理由は2つあります
一つは「文法」でなんだか訳の分からない言葉を覚えることができなかったのです
「連用」とか何とか・・・
もう一つは「ここで少年はどう思ったのでしょうか?」のような問題です
主人公が感じたことを想像して書くわけですから、何を書いてもいいはずなのに、答えは一つしかないらしい
だから本を読むのは好きでしたが、学科としての国語は嫌いでした。
弾みで、「国語」関係者の書いた本を読んでみようかなと思いました
エッセイ風でタイトルのついた短い話が出ています・・・そこで自分としては気になる・参考になる・規範とすべき言葉を見つけました。
基礎をいい加減にするな
必要と不必要を見極めよ
物言いは、簡潔、明瞭を旨とせよ
当たり前のことではありますが・・・でも振り返ってみると背中が寒い
それに、これは言葉のことですが、囲碁に関してもいえそうです
最後の「簡潔・明瞭」を碁に置き換えれば、ゴチャゴチャと訳の分からないことではなくて線の太いと言うか一本筋の通った碁を目指しなさいと言うことでしょうか。
こじ付けかも知れない?
でも、基礎と言うものは共通なことが多いと感じました。