幸いと言うべき、だろうか。
ともかくいわゆる「お金持ち」は、ほぼ間違いなく、お金を目的にして、そこには居ないのだ。
「青天を衝け」めでたく最終回、ネットでも「名作」認定は多く、自分としても最後までちゃんと見てたと言う、近年では珍しい作品ではあって。あらゆる点で、自身の視点でのハイクオリティを維持したままラストまで走り切った感じは、シンプルに「良かった」の一言ではある、のだが。
「と言う訳で、他の人々もこんな感じに」
という…流れには中々入れない、それは、それとして残っていく問題ではある。
思想性のそれも、重くある。ドラマに、その登場人物に何を期待するか?というその時、”それ”は、「渋沢栄一と言う偉人」を求めるか、彼が人間で有ると言うそこを求めるか?で、描き方の是非は大きく変わる。今回のは、個人的には好きな?描き方だった。結局は、渋沢栄一氏という超人一人でどうにかした、と言うのはほぼ無く、徳川慶喜公、そしてその後ろにある徳川幕府300年の蓄積、”それ”を足場にし得た、と言う幸運?こそが、その成功というか、存在の基点ではある訳で。そう言う物だ、個人の力などたかが知れてる。それに渋沢氏本人も、劇中では「合本」その方向性こそを求めた、そう言う物だ、彼の理想、それはそこに有るし、或いは徳川幕府、その想いでもあったろうか。
矛盾もある、結局渋沢栄一氏は、慶喜公に対して崇拝でさえある尊意を持って接していた、彼自身もまた、何かの偉大なる存在…”それ”を求めたと言うのは、ある。その慶喜公でさえ、もちろん大権現様、徳川家康と言う偉人への信仰有ってこその、その様では有って。偉大な存在を求める、それは人のか、原理的な何かとしてはある。
象徴的でさえある?東京オリンピックの開会式を、ネットの多くかは評価しなかった。理解としては”あれ”こそが、個々の能動的な努力の結果としての復興と発展、渋沢栄一氏の理想かもしれないのに、だ。ただ間違いなく、あの開会式の中に、「スター」は居なかった、のだけど。
古い、感覚と思う”それ”を、世間の表面的かもしれないがそれは、まだ求めている。
そして或いは、その存在の欠落と、”それ”がいなければ成り立たない世界の、その後の中で、まだ何かの執着に支配されている、と言うべきか。
大衆は神である。
結局、「彼ら」が買う、利益にならないと、”それ”は続かないのだ。その時、伊人一人でどうにかする、様なそれは…何故か利益に成らない。
自分の理解としては、これはもう断言して良い感じにはなってきた。特に、創作での利益性それは”ここ”にしかない、それは間違いない。「大衆は神である」ここから、その大衆が期待する物を提供しなければ、経済どころか人間性さえ維持出来ない、それが「現実」である。創作は特に、意識せねばならないのだ、が。
売れれば良いんだよ。
そこにはまだ、何かの様々な色がある。
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