最終的には”ここ”も、「大賀さんの決定に」へ逃げてしまうので。
一応、その結末としてはそんな、「客観を背負う主観」それも消える訳だが。
多少のか、感覚?作者の固執、その変化はまあ、有る。かもしれない。少し前に書いた「スプラトゥーン」のアートスケール、それは多少の変化は有りそう。
「スプラトゥーン改」
主題 競争
情景 縄張り塗りバトル
描写 TPS
注意 相手を殺しても勝てません
主張 戦争じゃないので
矛盾 なんでイカ?>墨
結論で言えば、”これ”も疑問のようなモノは少し残ったりはする、が。「競争」その結末は熾烈な削り合いになってしまったりする。逆に言えば、「その前に止める」そういう方向性を狙う狭い領域の紛争解決機構、だと言えば、そう。流れ的には、「ストリートファイター2」が或いは対人の喧嘩を抑止するような、そういうニュアンスではある。
これなら特に、問題がある、とは言えない。
実際には、人々の興味、それはこっちの方を見ていた、とはもちろん思う。ただ?よくある話、人気作がシリーズを重ねるうちに歪んでくる原理、それは何か?という時の、一つの理由かもしれない。作者の主観は神のそれじゃないのだ、何処か何か間違っている時、その歪みのまま、それは拡大していく事はある。
・・・実際には「なんでイカ?」には、作者にしか解らない話はあるのかもしれない。勝手に「実用性のある墨を吐くから」とか言ってしまうが、仮面ライダーにしろ「イカデビル」という怪人は居る、その辺の連想まではちょっと解らないから、この辺から歪んでいくというのもあり得る話だが。ともかく「アートスケール」が補正される事は時々、ある。
”ここ”の主観は、「その変化によってこの作品が余計な混沌の原理になる事は防がれた」という理解には成るのかもしれないが…作者的に納得したのか?は、少し疑問を持つ部分ではある。
「どうでもいい」話なのだが。
どうでもよくない人々が、それら多数決の最上位に居たりする、訳で。その主観?で、社会全体の方向性や「良識」が変化したりは、する。今の、この「変化」はもちろんか、公示された上での多数決、それではあるだろう。「民主主義は正しい」その一つの絵、かもしれないがしかし。絶対か?というと、現状の社会は民主主義体制ではあって。
現代的な混沌、というべきだろうか。一つの正義が、でも絶対にならない。「大賀さんの決定に従え」そういう自分が結局は、何かの独裁者でしかない、「というのを民主的にか求められる」という矛盾の先に、やっぱり、戦争は起こる訳だが。
「大賀さん」それは、”今回”は、こっちの勝利、という結果は出した。
「大賀さん」を設置したのは自分である。そして、現状の帰結ではあり。「責任を集中させる」という観点では他に適任者は居ないだろう。ただそれだけに。
そこに混沌は無いのか?