あげちうのブロマガ

死者の声を聞いている?

是非はある。

「古くて汚くてもう使えないモノなんか捨てたら?只の邪魔でしょこれ」

”それ”に何を投影するか?と言う、そこに個々の主観による光景、感情論、それは重大な問題だ。

病院や、老人ホームで、”これ”を叫んで良い物か?

豚を描いた「豚の絵」、それが如何にアーティスティックでも、”それ”を評価される時、そこには多数決的な、余計な主観、それはそこに寄り添う。

絵その物は、見れば「豚」その絵でしかない、それ以上は描かれてない。評価する側には、この感覚は非常に安堵感がある、「この絵には間違いはない」訳だ、豚を描いている、それ以上のそれでは無い。普段から、台詞一つで曲解されやすい環境にとって、この絵は一つの心の安息地でさえ有る…見てる間は、だ。”この”感覚を足場にする時あるのが、あの「動物のお医者さん」ではある。考えると、あの作品での動物達は、何処まで行っても動物でしか無かった。

「私はあの時、それをゴミと言った、それは要らない物だ、早く捨てた方が良い。それは全くゴミでしか無かった、この絵の通りに。自分は間違いは語っていない」

管理側の憂鬱と、アートが必要な意味、その一つ、だろうか。

しかし?不意に自分が「余計」に成りつつある時、その言葉は、結構、刺さる。


メディアに、相変わらずか、ストレスを感じる日々、ではある。その論説その他もろもろ、何とも苦に成る情景は続く。少し気づく事はある、「マスコミ」それは、”個人のブログでも同じ事は出来る”のだ。一つの情報に対して、過剰な表現をし理解を間違え説明も不足して、そして話題その物が嘘である、そう言う。

「SONYではPS5は捨て駒らしい、内部は単なるノート基板でしか無いそうだ、どのノートか?は解らないが」

そのままズバリ、これがフェイクニュースではある。これを個人がブログでやるなら、謝罪してこの記事を削除すれば良いかもしれない、そもそも相手にされないだろうが、テレビでこれが報じられたら?謝罪や賠償は必須、そして、テレビその物が、そこに関わる全ての人々がこの時、重大な過失を背負う事には成る訳だ。どっちが罪が重い?と言えば、後者のテレビと言うメディアに成る、この例から言っても、「個と多では多の方が責任が重い」と言う定理は、有るかもしれない。

今までふと、これが逆だった可能性がある。そして、平成の始まりで起きたが隠蔽された、と言う「新聞記者」による強姦致死事件、というのも?この異相による結果だった、のかも。

「新聞記者」が殺したのは、許し難きフェイクニュースの発信者だった、のでは。
だからその犯人も、その過失に対して今もか、「罪を犯した」その意識を持てないのだ。

多に集中する「ふざけんな」の帰結は、何故か、個に向いた訳だ。


「火を付けられる方が悪い」と言う、そう言う感覚が少し、支配していた現実はある、何かが歪んでいたのだ。その歪みの一つがこの、「同じ過失をした時、個人ブログとテレビの罪はどっちが重い?」だったのかもしれない。

自分は今、何かの立場にある、と言う?

ならそれによって、マスコミと言う魔物は、果たして今後、どうなるか、或いは。

何とかなるのか。

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