あげちうのブロマガ

戦いを求める先の失望

一本5000円のゲームソフトが、一年後もその価格で売れるなら、それはそのまま5000円札と同じである。

それに支払った筈の5000円は何故か、外に、そして自身に、そのまま残って居るのだ。

 

「で、そのゲームソフトはどうやって作ればいいんだ?」は、経済学の領域ではない。しかし?”これ”が無ければ経済は成り立たない、現状の経済学は”これ”を失っている、というのが自分の主張ではある。まず”これ”を意識しなければ、創作の是非も計る事は出来ない。「売れる」それは最優先である、もちろんコストが利益を上回る様なそれでは困る。原価100円もしないDVDを5000円で売るという技術というか知恵?或いは経験則、それは貴重というか、意識される事には成る訳だけど。

その時、割と普遍的なのが、「女性を護る」そう言う意識、ではあって。

ゲームの世界では基本でさえある、「浚われた姫君を助け出せ!」それは冒頭の理由として定番。実際には”それ”は無給である方が良い、が。流石に現実的にはそうもいかない、結果。主人公はその危機的状況のヒロイン、”それ”が好む、最終的には夫として適当と認識する人物、”それ”に依存する事には成る。物語の、作品の需要は「その人物をバックアップする」という事には成る訳だ、貴方が、ともかく誰かが”その”ゲームをクリアし得る時?その向こうに居る二人は救われている。”それ”が現実としても具体的な時、その作品は相応の「価値」評価、面白い、そう言うのを得て、その5000円、という価値をキープする事には成る訳だが。

「この対戦ゲームを遊ぶ結果、女性は救われます」

と、「ストリートファイター2」の価値に関しても、どうも”それ”は言えるのだが一体どこにどういう意味で”それ”が言えるのだろう?ではある。後続の類型が結局はいまいち感を残して沈んでいくのは、最終的にはどうも”これ”を意識し得ないから、そう言う面はあるようで。或いは「春麗」というキャラ?”その”キャラクターボイスを担当した人の意向?そんなニュアンスはあるだろうか。ともかく「街角で喧嘩を始めるような連中」が、ゲームでその衝動を昇華し得れば、それはそう言う剣呑を嫌う多くの女性にとって有益、そう言うのは間違いない。

これ、そう言うゲームでしたっけ?

民主主義と、現実との境目ではある。利益はしかし、後者の方にある、とは自分は主張する、が。「ゼビウス」が実際には失敗した、その原因もまたその民主主義の失敗にはある、「ゲームなんだから残機が3つってのは普通でしょ?」それが失敗の原因である時、そのゲームは結論では「民主主義を否定し始める」事にも成る訳だが。

なら売れる創作を、民主主義は作れない現実は、ある。

そこにある壁、だろうか。

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