似たようなスタンスではある。
良くある、権力の暴走とそれに伴う騒乱や打開を描く、場合に。やっぱりリアリティは大事な話、現実的に起こりうる危険!と言う時、既存の権力?をネタにする場合はある。しかしそこで、境目は有る。
「この権力が、こういう事を始めたら怖いですね」
やってないですよね?
「この権力はこういう事を始める可能性が有ります」
許し難き悪です、その前に倒すべきです!
自分の理解としては、創作での許容は前者。しかし、ハリウッドシステムとしては、どうも今、”後者”なのではあるまいか。その権力が実在する、ともかく現実に存在する”それ”へ指向性を持つ場合、それはちょっと、看過し難い批判より暴言、になってる可能性は、ある。
もちろん、”その”視線を自身に向ける事はしないのだ、それが更に問題ではあり。
「それは創作と言えるのか?」殆どデマ発生装置じゃないか?ともかく後者のスタンスで有る時、この創作は、作者?それにとっては現実であり、そして”それ”を、視聴者にも訴える、この人物は実在し、許し難き悪である!実際にはやって無くても、だ。漫画である、と言う大前提は有るとしても。
「あげちうは実は暴力団の組長であり、その暴力で数多の女性らを支配し利用し、金に変えつつ玩具にしている!」
とか、雑誌とかに「漫画の中で」未承諾に描かれたら、もちろん単純に名誉棄損ではある。ともかくもしそうだったら?自分の動画とかに対して強力な、殆ど理不尽でさえあるカウンタ制御が掛かっていても「悪を滅ぼす為」だ、正当性がある訳だ。プライバシーに関わる話に返答はし難いし、相手が黙っていたら”それ”は「一理ある」と言う事にもなる。ともかく相手にとっては、そうであれば問題に成らないのだ。悪を事前に倒そうとしているだけであって。
なら、”それ”こそ現実である。
って感じに、加害がある「向こう側」が陥っていない、とも言い難いのではあるまいか。
太平洋戦争終局、広島に原爆が投下され、それからしばらくして終戦になった。この後、アメリカに、アインシュタインの元に有った筈の「王の権威」それは、日本の昭和天皇へ移動する事になる。その後だ、今の平和?と言うか、何かの安定が齎されたのは。それでもアメリカにあった頃の、栄光のその時は、今もそこで、何かの悪魔を養い続けている、のだろうか。