日本は、それでも日本と言う国を維持する事には、今も成功している。
朝鮮は、今も、元の朝鮮と言う国は滅んだ、ままだ。彼らは国を護れなかった。
ともかく現状、「広告代理店」それが支配する領域には「雑誌の編集長」が居て、その人物が採用不採用を決めている・・・かなりの独断で、だ。その結果で「カウンタ制御」それが発生している訳だが、問題はその存在は、その結果で「自身の創作は売れない」と言う、そんな病を抱えている。カウンタ制御、結論では民主主義への反逆でさえある。その結果としての「呪い」だとすれば、それは妥当ではあるのだが。
多分、”それ”は昭和天皇さえ認めていた操作、だ。「貴方の作品しか売れませんね」それは彼だって苦痛だ。自身が創作の領域に介入してる事が公示されるのもあまり好ましくなかった、時代的に。一般論で「売れた方が良いモノ」それを”評価”する方向が容認され、良くも悪くも昭和はあり、黄金期、そんな時代に成って。
しかしその時、本人らも解らない「呪い」が、その環境には始まっていた、訳だが。
カウンタ制御をする結果、それをしてる人々は売れなくなる。「大衆」神の呪い、だ。それは妥当な結果ではあるが、ただ現状の後継者は”それ”を認識していたか?だ。「なんで俺は売れないんだ?」それはあまりにも数多な疑問ではある、その中に埋没していたというのはあるだろうが、それは現在に至るまで、結局は解決してない「病気」それとして残っていた、と。
「理由」は、解った気はする。
治療それも一択だ、「カウンタ制御は止めた方が良い」しかし。その時、領域に何が起こるか?だ。今まで評価されていたモノの多くが、その時地に落ちる事には成る。逆に「やっぱり制御されていたんだ!」的に、それをしてた人々は要らぬ騒乱か憤りの中に陥る、まあそれは想像に難くない。「理由が解った」それは一つの前進ではある。そこに理不尽は無かった、訳だ。今後、”そこ”はそれを理由にしての暴走はし難く成るとは言える。「なんで俺だけ!?」は、もう言えない。
しかし、「カウンタ制御」それは、昭和から容認され続けたモノ、ではあって?
テレビは今も、視点ではバカ殿だろうか、”それ”のご機嫌伺いをしつつ、”採用”を勝ち取っている訳だが。
ともかく「なんでこんな奴が評価されてるんだ?」等々の、それは今、「売れない雑誌の編集長」そう言える存在、”そこ”に集中はする…事には成るだろうか。そして生活不安、そう言うのもまた、今は”そこ”に集中する事にはなる。”彼”の調整が上手く行ってない事が、状況の不穏を産んでいる、訳だ。それは同時に「広告費」それにもダイレクトに影響は出る、創作が利益性を持てないと、”そこ”にも深刻な問題が出るから、だ。ともかく視聴者の減少は、広告その物の存在意義に疑問を向けてくる。
それら全ての原因が、「広告代理店」と言う巨大な、しかし現状は売れない雑誌の、その編集長に集中していく、事には成る訳だが。
昭和の頃から、なんでか認められ続けた領域と、その制御、ではある。
結果はまだ、神にしか解らない。