確かに、真理ではある。
命賭けてる方と賭けてない方、強いのはどっち?
それは、前者に決まっているのだ、額が違う。
人間は皆、平等である、時。前者と後者には「超えられない壁」が有る。勝たんとすれば、”そこ”には命を置くしかない訳だが。”それ”が例え間違いへ向かうルートだとしても、その時、それをその人が選んでしまう、それもまた自由意思ではあって。
面倒、だ。
「王の権威が居るから階層が発生し、格差や不平等が発生するんだ!」
それは一つの真理ではある。だから、王の権威はそれを捨てる事にした。決着は「大賀さん」紛争解決機構、戦争を摸した対戦ゲーム、”それ”に委ねる。それで勝てればそれが決定である。この時、王の権威それはその「大賀さん」であり、人間としての個人、それへの必要性は、消える。
「じゃあ、我々は”誰に”責任を預ければいいんだ?!」
この時、この声を満たす存在は、「中華思想の皇帝」しか、居ない。
そしてそれは歴史的にも、致命的な破綻を産み、後へ重い後悔を残す訳だが。
野党の追及の様に、民主主義は大変、「都合のいい事」を考えている、のだ。それは全く、或いは内田裕也と樹木希林の関係の様に、だ。テレビは、「自由に遊びたいので、必要となる多額の予算を企業が出して?」と、そう、世間へ要求する。民主主義は”それ”を支持してしまう。帰結的にその無駄なお金を出してるのが「自分である」としても、直接的には、気付かない。壊滅的な問題が発生して、初めてそれはブレーキを始める訳だが。
”それ”でもそこに、或いは命懸けの人が居たりすると、それは破綻しても、止まらなくなったりする。ともかくその矛盾した不満の衝突、その狭間に有るのは「中華思想の皇帝」しかない、「私は神だ」そう言う存在にしか正解を見出せない心理が、何かの狭間には発生するのかもしれず。
…でも帰結的には、”それ”は核兵器、「全部破壊して最初から」そもそも”ある”からダメなんだ、そこへと至る、定番だろうか。
MMDやAviutl、この界隈は、都合のいい事を考えている。そして或いは結論で、破綻し、残骸として残ってる。問題のある欠陥を抱えたまま使い続けるか、或いは捨てるか。そこに有る矛盾は、何でか王の権威へと”それ”を向けてくる訳だが。
”構造”が発生する物だから、だろうか。
それは或いは、魔物の様な、面倒だ。