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「大地主・市島邸の物語 1」初めに

2024年01月08日 | 大地主・市島邸の物語

「大地主・市島家が水原にいた時代 ~ 天王・市島邸」の研究発表

2023年9月27日(水)~10月1日(日) 阿賀野市山口町1 水原公民館で研究発表が行われた。

 (下)上記資料展の展示ポスター

調査・発表は、 阿賀野市在住の片桐正英さん。 午前9時~午後5時「最終日は午後2時」 入場無料。

市島宗家は、江戸末期に新潟県一の大地主。 戸主・市島徳次郎(8代)は、第四銀行の初代頭取。水原町に初代頭取がいました。

明治初期に市島家は新発田市(旧豊浦町)天王に転居。最盛期、福島潟の所有権を持ちました。

会場にはA4版で作成した文・図・写真をA3版に拡大カラーコピーしたもの、133ページを展示発表。

新潟市北区・水の駅「ビュー福島潟」の展示図面(水原13人衆の福島潟干拓部分の説明図)や、新発田市の市島邸で展示されている図面や像など多数の写真を添付して説明。会期中、73名が来場。2日、3日と同じ人が連日、数人が閲覧されました。

上の写真は2023年9月26日撮影。27日の展示前の写真です。市島家は浦賀に黒船が来航した時、抗戦する為の大砲作りの経費を水原代官所と江戸幕府に依頼されて出費しています。又、江戸城(現在の皇居)の増築資金も出費しています。市島家は旧水原町にいた普通の大地主でなく、江戸幕府にも協力依頼されていた特別な地主でした。この市島家は水原町生まれの人でなく、新発田市(新発田藩)から転居してきた人。でも、戊辰戦争後に新発田市(旧豊浦町天王)に転居したためか、旧水原町の人は「市島邸」に関心がありません。それは何故か? 

この疑問から片桐さんの調査が始まりました。片桐さんの調査の大部分は水原町役場が発行した「水原町編年史」が主で、そこに他の資料で調査したことが添付されています。ただ、新発田市に転居した後の資料が少なく、「水原町にいた時代」として発表。資料展発表後、運良く資料展来訪者の協力で、新発田市に転居後の「市島徳厚伝」という最後の地主を調査した非売品の本と、市島邸を財団法人継志会が管理運営していた時代に書かれた「改定 家廟の紙碑」という非売品の本を入手・読むことが出来ました。2冊を読むことで、新発田市に移住後の市島家の姿を詳しく知ることが出来ました。ただ、前記の2冊、市島家のことを書いているのに、内容が大きく違います。どちらの記述を採用すべきか? そこに時代背景を考慮。又、同じ時代を生きた新発田市出身の「大倉喜八郎」の経歴も記載。市島家のことが詳しく理解できるようになったのですが、その分、初めて読む人には難しく理解しにくくなりました。そこで水原公民館で発表した資料に最低限の事実を追加して当ブログで発表することにしました。     次回に続きます。

 


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