阿賀野市ブログ応援隊

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あがの市民交流まつり 2015-3

2015年10月07日 | 水原常陸介親憲の関係

 水原小学校のグラウンド

2015年10月4日 あがの市民交流まつり。 山形県米沢市の 「上杉鉄砲隊のみなさん」 26名

 迫力のある、大きな鉄砲の音です。

 火縄銃です。

 

↑ 鉄砲の模擬銃。 本物は触れません(警察の許可が必要です)。 重さは10キログラム以上あります。重いです。

 鉄砲隊の説明をされる女性隊員

  次回に続きます。 

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2 コメント

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親憲は新発田重家の乱に参戦した (親憲応援隊)
2019-08-24 18:25:06
親憲について、いつも、楽しみに拝見しています。
 一点だけ、気になる記述がありました。
市民交流まつりのパンフで、親憲が新発田重家の乱で活躍と記されているが、参戦していないのでは?といった件についてです。確かに天正10年の時点では行っていないし、行けるはずもありません。ただ、新発田の乱はその後も続き、天正15年になってようやく解決。重家は自刃しています。この最終15年に親憲が出陣したと樺澤先生の論文にあります。この点、渡邊先生の水原町史では不明ですが、水原氏の戦死を受けて天正14年になって親憲が水原氏の名跡を賜わり、水原城主となっているので、15年に重家討伐のため、参戦したという樺澤説には十分な理由があると思います。つまり、天正15年には親憲は新発田重家の乱に参戦していた可能性があります。
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Unknown (管理人)
2019-08-26 17:46:56
コメント、ありがとうございます。現在、当ブログで「調 水原常陸介親憲の生涯」を3ページづつ投稿中なので、最後まで読んでいただければ・・と思っています。 市民交流まつりのパンフレットの記述内容ですが、これは歴史文章でなく、地域町おこしのための宣伝文章だと思い、読まれた方が良いでしょう。「親憲応援隊」さんが阿賀野市民なのか他県の方なのか知りませんが、阿賀野市教育委員会を含め現在の阿賀野市民に水原親憲や揚北衆について正しく語れる人は誰もいません。渡辺勇さんや佐藤貞太郎さん達が水原編年史で書かれていることは貴重なのですが、現在のようなインターネットの情報が得られていないのが残念です。当ブログ投稿中の片桐さんは「歴史好き」でなく、「地域の人間性」に関心があり、その方面から調べて書いています。親憲が水原城主になったのは新発田重家の乱のどこかに参戦していたからかもしれませんが、それよりも何故 水原城主に選ばれたのかが関心があります。当時は水原城より笹岡城の方が立場が上だったようですが。とりあえず、コメントのお礼まで。
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