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「大地主・市島邸の物語 7」 石川県大聖寺城主・溝口秀勝と市島家

2024年01月21日 | 大地主・市島邸の物語

石川県加賀市・大聖寺(だいしょうじ)城主の溝口秀勝と市島家

大聖寺城(だいしょうじじょう)は、加賀国江沼郡大聖寺(現・石川県加賀市大聖寺錦町)の標高70m程の錦城山に立地。

 本丸を中心に6つの郭が連なる連郭式城郭。東西約45m、南北約17mの本丸には高さ約4mの鉤形の土塁があった。1615年に廃城。  

 天正11年(1583年)の賊の岳の戦いで柴田勝家が敗れた後は、丹波長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城主として、4万4千石で置かれた。この時に(市島)弥惣右衛門も随従して加賀に入国。財力にまかせて、引き続き溝口家の御用達をつとめた。 11月14日、溝口秀勝は従五位下・伯耆守に叙任され、豊臣秀吉から偏諱を受けて秀勝と改名(それまでは元服後の金右衛門)。朝鮮派兵の際は肥前国(びぜんのくに。佐賀県と長崎県にあたる)名古屋城を守備した。

 天正13年(1585年)4月、溝口秀勝が仕えた丹波長秀が病没(一説には自害)し、その長男・長重が家督を継いで北ノ庄城主となるが、閏8月、息子の長重は豊臣秀吉により削封された。この時、豊臣秀吉は丹波の家人の有力な者を自分の家臣に取り立てたが、この際、溝口家も秀吉から改めて朱印状を受け、大名として独立した。 

 丹波氏のあと越前を領した堀秀征の与力として、引き続き溝口秀勝が大聖寺城主として配属された。 その後、天正15年(1587年)九州島津氏征伐、天正18年(1590年)小田原北条氏征伐に参陣、文禄・慶長の二度にわたる朝鮮出兵で武功を重ね、内政面では天正16年(1588年)近世史成立の重要指標である刀狩りを行って、その領内の兵農分離を推し進めた。

 慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封の後に越後国主として入国した堀秀治は与力大名となり、溝口秀勝も随伴、越後蒲原に6万石を与えられ、新発田市に来た。この時、(市島)弥惣右衛門も一家で随伴転居して来た。住所は新発田市五十公野に置いた。

 


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