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阿賀野市ブログ応援隊

個人・サークル・行事・歴史・頑張っている人などの阿賀野市の情報と、人生の楽しみ(?)をお伝えします。

阿賀野市 市議会議員選挙 2024.10.27

2024年11月11日 | 歴史

2024年10月27日、阿賀野市の市議会議員選挙がありました。定員16名で、立候補が18名。投票率は63.71%。前回を上回りました。

当選16名の平均年齢は66.0歳。改選前より0.5歳若返った。年代別では70代が8人。60代が5人。50代は2人。40代は1人。

地区別では水原7人。保田4人。笹神3人。京ヶ瀬2人。新人は6人が立候補したが、当選は4人。落選は庭山健吾さんと南場俊英さん。

女性は1人で遠藤智子さん(77歳)  歴史の記録として投稿しました。

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「ナイスふ~ど新潟1989」 食と緑の博覧会

2024年10月30日 | 歴史

ナイスふ~ど新潟1989・・食と緑の博覧会

平成元年(1989年)7月14日(金)~9月3日(日) 会場・新潟市中央区の新潟産業振興センター

開場時間 AM9:00~PM5:30(パビリオン開館時間・AM9:15~PM5:00)

  ナイスふ~ど新潟1989、「ヤマザキ」のスタンプ

(下)東芝館 3Dまるごとびっくりスポット  この時代、各パビリオンにスタンプが置いていました。

 ← 東芝館

 3Dシアター(CM・早見優)

(下)マジカル ファンタジー館。「恐竜たちの世界」「アラビアンナイトの世界」「宇宙から見た世界」「石油・ガスの開発生産供給」

(下) 日立 インターフェイスシアター

(下左)日本アイ・ビー・エム (下右)抽選券付き前売り券 大人1,500円(当日1,800円)

 

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江戸時代の新潟市、小廻(地廻廻船)

2024年10月29日 | 歴史

2024年9月 新潟市歴史博物館「みなとぴあ」で撮影。 撮影OKでした。

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新潟市最古の写真

2024年10月08日 | 歴史

(上と下)2024年9月、新潟市歴史博物館で撮影。撮影OKでした。新潟市最古の写真とか。明治初めの撮影と思います。

  川の右側は、白山神社の境内。川端に米蔵がありました。

(下)1枚目の写真は赤色矢印方向から撮影したと思われます。青色矢印先は白山神社。緑色矢印の先は新潟地方裁判所。

  写真中央の川は現在埋め立てられ、広い道路になっています。(下)の絵は1795年の作成。

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中世の、新潟市付近の遺跡説明図

2024年10月02日 | 歴史

日本の中世は、院政期から戦国時代までの11世紀後半から16世紀後半まで。 図の緑色矢印の先が阿賀野市「白河荘」。赤い矢印先が福島潟。青色矢印先が新潟市沼垂「加治荘とあります。加治川村?」 この図の後、鎌倉時代(1200年~1300年頃)だと考えます。 この図は新潟市にある新潟市歴史博物館「みなとぴあ」で撮影。撮影OKでした。

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1990年のビデオカメラ紹介(7) 三菱

2024年09月28日 | 歴史

 1990年

1990年 三菱のビデオカメラ「MV-CS5F」 230,000円(税別・アクセサリーキット付属) SVHSビデオカメラ

 

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1990年のビデオカメラ紹介(6) キャノン

2024年09月21日 | 歴史

1990年 キャノンのハイエイトビデオカメラ 28万円(税別) 当時、私が欲しかったカメラ

 

 

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1990年のビデオカメラ紹介(5) フジフイルム

2024年09月18日 | 歴史

1990年 フジフイルムのビデオカメラ 149,000円(税別)

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「さよなら赤谷線」と記念スタンプ 1984年3月31日

2024年09月17日 | 歴史

昭和59年(1984年)3月31日 新発田市を走る「赤谷線」 廃線最後の日。赤谷線は新発田駅と東赤谷駅を結んでいた、国鉄が運営していた線路。開業は1925年11月20日。路線距離は18.9㎞。 翌4月1日に廃線しました。 気動車が走行していました。

走行最後の日、線路わきには雪が多く残っていました。線路の各所に撮影しようとアマチュアカメラマンが多くいました。

(下)赤谷線で一番大きい駅(?)の米倉駅(よねくらえき)で廃線記念スタンプを押しました。ほのぼのとした絵柄ですが、こんな駅の風景があったのでしょう。今思うと、赤谷駅でも記念スタンプを押せばよかった・・と、後悔しています。

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新潟博 1983

2024年09月13日 | 歴史

昭和58年(1983年)7月1日~8月31日まで新潟市中央区、鳥屋野潟で「1983新潟博」が開催された。

主催は新潟県・新潟市・新潟商工会議所・新潟日報社の4団体の共同主催。パビリオンは15館。上越新幹線開通を記念し開催。初日の入場者は6千人。オープン前に長い行列ができた。

(下)当時の新聞記事から。誌名の記録無し。当時4誌読んでいたうちの1誌の記事。会場は「あすの新潟館」。三次元立体シアターは日本初公開の未来の映像。幅26mのスクリーンで展開される三面マルチ映像。

  会場のコンパニオン。了解をもらい、撮影しました。当時20歳なら現在60歳?

より、素敵な女性になられているでしょう!   (下)会場にあったパンダの縫いぐるみ。当時、大人気でした。

 ← 新潟博のスタンプ「パクちゃん」

(下)7月17日には、新潟博の会場で「ミスインターナショナル ミスワールド」の美人コンテストを開催。全国7ブロックの予選応募者2,700人の中から選ばれた35人が出場。日本代表に大阪府の上野順子(20歳)が選ばれた。審査員には俳優の三船敏郎・かたせ梨乃・君県知事など。

(下)新潟博の会場図  入場料は大人1,500円。高校生1,000円。小・中学生600円。会場面積は15万㎡。

 新潟博のコンパニオン募集の新聞記事 日給5,500円。

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「越後上杉房定と関東」 講師・森田真一

2024年08月31日 | 歴史

2024年3月2日 新潟市中央区にある新潟県立文書館で(上と下)の講演がありました。

講師の森田真一さんは、群馬県の人で群馬県立歴史博物館 主幹・学芸員。 新潟大学大学院卒。80名が参加しました。

何かで「水原町は山内上杉家」が治めていた・・という文書を読みました。「山内上杉家」というのが理解できなく、上記の講演に行きました。正直、話の内容は良く理解できませんでした。「上杉の時代」を良く知っていないと理解不能(私の知識では)。上杉といえば上杉謙信、上杉景勝くらいしか知らないのに、関東の話や京都の話が出てきます。会場でA4版6ページの資料を貰いました。

ウイキペディアによると、上杉房定(うえすぎふささだは永享3年(1431年) 上条上杉家の上杉清方の子として誕生。室町時代中期から戦国時代にかけての守護大名。越後国・信濃国守護。越後上杉家6代当主。 15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた。 1450年に房定は京から越後へ下向し守護代長尾邦景・実景父子を攻めたあ。府内での政権掌握に成功した房定は京都に戻ることなく、自ら越後の支配に乗り出した。1451年(宝徳3年)3月、下郡の国人に対する示威行動のように弥彦神社へ参拝した。「鎌倉大草紙」には<越後の守護人上杉相模守房定>が永享の乱後の関東地方の混乱鎮圧のために、前鎌倉公方・足利持氏の遺子永寿王丸の関東復帰を長年にわたって幕府に歎願し、これを実現させたと記されている(但し当時の越後守護は房朝である)

享徳3年(1454年)12月に成氏が房定の従兄で山内上杉家の関東管領・上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに享徳の乱が勃発する。・・・房定は以後16年にわたって関東に滞在し、各地で成氏方の諸将との戦いに費やすことになる。

・・・文正元年(1466年)2月、房顕が子供を遺さず陣没した。長尾景信は房定の子を後継者に吹挙したものの、山内上杉家中にこの事に反対する勢力との深刻な対立があり、房定はなかなか承諾しなかった。しかし結局は将軍・足利義政の後押しで次男を養子に出すことを承諾、関東管領に就任させている。・・・関東への影響力も増し、実質的に越後上杉家は享徳の乱における上杉方の惣大将になった。

・・・~・・・文明18年(1486年)3月に房定は一国の守護としては破格の待遇である従四位下相模守に任じられた。・・・明応3年(1494年)10月17日死去。享年64歳。家督は末子・房能が承継した。

※笹神村の山浦家(笹岡城)は越後上杉の一族。 ※笹岡の千坂は上杉の部下 ※講師の森田真一さんは、「笹神村史 通史編 2004年発行」で、(戦国の動乱)を執筆。上杉家の説明が記載されています。ほかに5冊、著書・共書があります。 ※「善照寺文書」とは刈羽郡刈羽村寺尾に所在する真言宗寺院。約40通の中世文書群。

山内上杉家(やまうちうえすぎけ)→ 室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。 室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身(2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通して関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った景虎は関東御征西に赴き、10万の軍勢で小田原城を包囲した。その後、北条氏の息子を養子に取り、自分の名・上杉景虎を与えている。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。 水原町に水原常陸介親憲がいた時代、水原城(館)より、笹岡城の方が格が上だったようです。

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1990年のビデオカメラ紹介(4) SANYO(ジーマ)

2024年08月23日 | 歴史

1990年当時、私が欲しかったビデオカメラ。双眼鏡のようなスタイルが魅力的でした。一度、電気店で触ったことがあります。

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阿賀野市「ほっかべん(弁当)」2023.9.30閉店→「まごころ亭」2024.8.4閉店

2024年08月22日 | 歴史

2023年9月30日 阿賀野市中島町、阿賀野警察署の道路向かいにある「ほっかべん 」が閉店。 2023.10.1撮影

店主が70歳になり、年齢と健康を考え閉店されました。33年6ヶ月、営業。開店当初から何回も弁当を買いに行きました。寂しいですが、今まで ありがとうございました。営業最終日の夕方、私は「えび天丼2個」を注文。材料が残っているかなぁ・・と店主。幸い材料が残っており購入できました。(下)が購入した弁当。味を噛みしめながら食べました。美味でした。歴史の記録として投稿しました。

 えび天丼

(上と下)阿賀野市の「ほか弁」 最後のチラシです「B4版両面」 私は唐揚弁当(5個入)600円が好きでした。

(2024年4月2日 追記)上記の店舗跡地に2024年4月1日、「まごころ亭」が弁当店として開業されました

 ← まごころ亭(1階)

(下)2024年4月15日、初めて弁当を買いに行きました。注文したのは、「からあげ弁当5個」。開店特別価格で560円でした。

(下)お店で頂いたパンフレット。火曜・水曜が定休日。10:00~14:00。17:00~20:00営業。4月26日まで特別価格。

8月4日閉店されました

(2024年8月24日追記)

 まごころ亭は、2024年8月4日(日)閉店されました。

 

 

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大正後期の水原町・無為信寺

2024年08月18日 | 歴史

大正後期の、水原町下条町 無為信寺。写真の中央奥に無為信寺の本堂がある。 この本堂、大正2年に火災で全焼した。

写真に写っている人が着物のようである。しかし、画面右下端に自転車に乗っている人の一部が写っている。

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1990年のビデオカメラ紹介(3) RICOH

2024年07月28日 | 歴史

  

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