Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●屋良朝苗氏は「基地のない平和の島としての復帰」を望んだ…モノクロから「天然色」に変わっても現実は…

2018年05月24日 00時00分04秒 | Weblog


琉球新報のコラム【<金口木舌>「復帰の日」の色】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-718776.html)と、
【<社説>日本復帰46年 沖縄振興の根本的転換を】(https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-718771.html)。
東京新聞の社説【沖縄きょう復帰の日 野中氏の思い胸に刻む】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018051502000152.html)。

 《2013年に急逝した歌手大瀧詠一さんの代表作「君は天然色」の一節「想い出はモノクローム 色を点(つ)けてくれ」を時々口ずさむ。明るい曲調に乗せた松本隆さんの歌詞は1980年代の空気を思い出させる…▼「日本復帰の日」を記録した本紙の写真もモノクロだった》。
 《1972年の5月15日、沖縄は日本に復帰した。その前年の71年11月、沖縄国会と言われた第67臨時国会に、琉球政府の屋良朝苗行政主席は復帰措置に関する建議書を提出した。建議書は「はじめに」の項で「基地のない平和の島としての復帰」を望んだ》
 《野中広務さん…◆妹失った県民の叫び 那覇から嘉数の丘に向かう途中で、野中さんが生涯、胸に刻み続けた出来事に遭遇します。タクシーが宜野湾に差し掛かると、サトウキビ畑の中で急停車し、運転手が肩を震わせて叫んだのです。 「お客さん、あそこで、私の妹は殺されたんです。アメリカ軍にじゃないんです」 それは、野中さんも属した日本軍が、沖縄県民の殺害に関与していた衝撃の事実でした》。

   『●「子や孫、未来を生きる世代のため」に壊憲?…
      「憲法9条…軍隊は禁止…子どもたちに、うそはいけない」

 沖縄タイムス【社説[復帰46年 自治]沖縄は今も憲法番外地】(http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/251151)によると、《復帰を2日後に控えた1972年5月13日、行政府ビル(現在の県庁)前で、琉球政府の閉庁式が行われた。屋良朝苗主席は、およそ千人の職員を前にあいさつし、自治への期待を熱く語った…だが、復帰は他府県と同様の「自治」を実現するものではなかった》。

 《「自治と自立」の実現であり、「人権と尊厳」の確立》のはずが…。《基地のない平和の島としての復帰》には、ほど遠い現実…。《「いつか来た道」を再び歩まないためにも》…ほど遠い現実…。

 モノクロから「天然色」に変わっても、現実は…。《この国を時代遅れのカーキ色に染める気らしい》…その典型が永続的な沖縄差別・イジメ。《安倍晋三首相自らが平和憲法の九条改憲論を提唱する時代》は古色蒼然としている。

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https://ryukyushimpo.jp/column/entry-718776.html

<金口木舌>「復帰の日」の色
2018年5月15日 06:00
大瀧詠一 君は天然色 モノクロ カラー 日本復帰 米朝首脳会談 金口木舌

 2013年に急逝した歌手大瀧詠一さんの代表作「君は天然色」の一節「想い出はモノクローム 色を点(つ)けてくれ」を時々口ずさむ。明るい曲調に乗せた松本隆さんの歌詞は1980年代の空気を思い出させる

▼モノクロが中心だった家族写真がカラーになるのは70年代半ばだった。今はデジカメの時代。富士フイルムは先月、モノクロフィルムの販売終了を発表した。思い出を刻んだフィルムがなくなるのは惜しい

▼「日本復帰の日」を記録した本紙の写真もモノクロだった。古い紙面を見て、この日の色を想像する。激しい雨を降らせた空は鉛色、抗議集会を開いた与儀公園の地面は赤茶色だったろうか

▼時代は激しく動いている。朝鮮半島の2国が融和に向けて動きだした。来月は米朝首脳会談だという。海の向こうの激動を報じる紙面は刺激的な色を放つ。さて日本はどうか

セクハラに絡む暴言を吐く大臣がいる。疑惑に対する国民の憤りに背を向ける首相がいる。そんな政府が憲法を変え、沖縄に新基地建設を強いるこの国を時代遅れのカーキ色に染める気らしい

▼46年前のきょう、本紙は「変わらぬ基地 続く苦悩/いま 祖国に帰る」という見出しを掲げた。紙面ににじむ怒りと悲しみを希望に塗り替えることが復帰後の県民の歩みだった。これからも絵筆を握ろう。たとえ困難な作業だとしても。
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https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-718771.html

<社説>日本復帰46年 沖縄振興の根本的転換を
2018年5月15日 06:01
日本復帰 屋良朝苗 米軍普天間飛行場 名護市辺野古 新基地建設 県民所得 一括交付金 沖縄振興 社説

 1972年の5月15日、沖縄は日本に復帰した。その前年の71年11月、沖縄国会と言われた第67臨時国会に、琉球政府の屋良朝苗行政主席は復帰措置に関する建議書を提出した。建議書は「はじめに」の項で「基地のない平和の島としての復帰」を望んだ。

 復帰後も改善されない最も大きな障害は米軍基地の存在だ。在日米軍専用施設の集中度は復帰時の75%から約70%に減るにとどまり、整理縮小は進んでいない。2016年の米軍属女性暴行殺人事件、米軍普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの名護市安部墜落、17年の普天間第二小学校への米軍ヘリ窓落下事故など事件事故が頻発し、県民の命が脅かされている

 しかし基地の負担を軽減するどころか安倍政権は普天間飛行場の名護市辺野古への新基地建設を強行している。沖縄県知事が明確に反対し、新基地建設の賛否が争点となった全県選挙ではほぼ反対の候補者が当選した。建議書が掲げた「地方自治の確立は、新基地建設を強行する政府によって妨げられている

 建議書は「県民本位の経済開発」も掲げた。本土に比べて大きく立ち遅れた沖縄の振興策として、約10兆円の「振興開発費」が投下された。確かに道路や港湾などインフラは大きく進んだ。

 しかし県民所得は全国平均の約7割、失業率は全国ワーストといった貧しさの部分は解消していない。子どもの貧困率は全国平均の2倍に上る。保育サービスが貧弱で、待機児童が多く、保育料は高い。離島の過疎化も深刻だ。過去の沖縄振興は社会資本整備に偏り、教育福祉施策を充実させる努力を怠ってきた。沖縄振興の仕組みを根本から見直す必要がある。

 12年に始まった沖縄振興一括交付金は、地域主権に基づいた沖縄の裁量による予算との当初の意義付け失われ基地政策の見返りで予算の多寡が決まる国にとって都合のよいものとなってしまった。それが沖縄振興のゆがみを増幅している。

 復帰と同時に始まった沖縄振興開発特別措置法に基づく沖縄振興計画は第5次の折り返し点を過ぎた。私たちは第5次の終わりと、次の沖縄振興の仕組みを真剣に論議し、真の「県民本位の経済開発」を考えねばならない時期に来ている。

 建議書が挙げた新生沖縄像は、国家に押し付けられるのではなく自らの未来を自らが決めるという姿だ。(か)(れつ)な沖縄戦米国統治による圧政を経験した呻吟(しんぎん)の中から生み出された県民全体の願いと言えよう。自立と自律。これを実現することこそ、次世代に対する私たち世代の責任だ。

 沖縄自治構想会議は「沖縄エンパワーメント」と題した構想を発表し、沖縄振興と自治の在り方の根本的転換を提唱している。沖縄の将来について考える日としたい。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018051502000152.html

【社説】
沖縄きょう復帰の日 野中氏の思い胸に刻む
2018年5月15日

 沖縄に思いを寄せる政治家がまた一人この世を去りました。自民党幹事長や官房長官を務めた野中広務さん。その半生は沖縄の苦難の歴史と重なります。

 今年一月二十六日、九十二歳で亡くなった野中さんが初めて沖縄の地を踏んだのはまだ三十代だった一九六二年。京都府園部町長としてパスポートを携えて米軍統治下の沖縄を訪れたのは、宜野湾市の「嘉数の丘」に、京都府出身の戦没者を慰霊する「京都の塔」を建てるためでした。

 米軍普天間飛行場を望む高台は太平洋戦争末期の沖縄戦の激戦地。京都府出身の犠牲者二千五百四十五人のほとんどが、この高台で亡くなりました。


◆妹失った県民の叫び

 那覇から嘉数の丘に向かう途中で、野中さんが生涯、胸に刻み続けた出来事に遭遇します。タクシーが宜野湾に差し掛かると、サトウキビ畑の中で急停車し、運転手が肩を震わせて叫んだのです。

 「お客さん、あそこで、私の妹は殺されたんですアメリカ軍にじゃないんです

 それは、野中さんも属した日本軍が、沖縄県民の殺害に関与していた衝撃の事実でした。

 野中さんの生前の回想によると運転手は一時間ほど、ハンドルに泣き崩れたままだったそうです。

 ようやく涙が収まったとき、野中さんはその運転手に「気の毒でしたね。ひどいことが行われたんですね」と声を掛けるしかなかった、といいます。

 沖縄は日本国内最大の地上戦の戦場でした。当時六十万県民の四分の一が犠牲になり、親しい人を失った悲しみと、今もなお米軍基地の負担と重圧に苦しむ県民の苦悩が、野中さんを沖縄と深く結びつけることになります。

 野中さんはその後、京都府の府議や副知事を経て、五十七歳で衆院議員に当選します。


◆軍靴で踏みにじるな

 国会議員としては遅咲きですが「政界の狙撃手」と呼ばれる辣腕(らつわん)ぶりで、田中派から橋本派へと続く当時の自民党最大派閥の中で実力政治家として頭角を現します。

 初めて閣僚に起用された村山富市内閣の自治相として阪神大震災やオウム真理教事件に対応し、政治手腕をいかんなく発揮します。

 しかし、沖縄のことが頭から離れることはありませんでした。

 九七年のことです。野中さんは楚辺通信所(読谷村)の使用期限切れを契機に、期限後も米軍用地の暫定使用を可能にするための改正米軍用地特別措置法案を審議する衆院の特別委員長でした。

 委員長は委員会での審議結果と経過を本会議で報告します。通常は用意された文書を読み上げるだけですが、野中さんは壇上で突然脳裏に蘇(よみがえ)ったタクシー運転手の叫びを紹介し、こう続けたのです。

   「この法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう
    してほしい。そして、多くの賛成で可決されようとしているが、
    『大政翼賛会』のような形にならないように若い方々にお願いしたい」

 この発言は特措法改正のために当時第一党と第二党だった自民、新進両党が手を結んだことを、大政翼賛会にたとえてけん制したものでした。批判勢力を排除し、沖縄に安全保障の負担を押し付ける政治の在り方が、戦前・戦中と重なったのでしょう。

 沖縄県はきょう本土復帰から四十六年を迎えました。苛烈な米軍統治は終わりましたが県内には在日米軍専用施設の約70%が残ります。米軍による訓練や運用中の事故や騒音、米兵らの事故や事件も後を絶たず、県民は重い基地負担を強いられています

 危険な普天間飛行場返還のためとはいえ、名護市辺野古という同じ県内への移設では県民の基地負担は抜本的には軽減されません

 米兵らの特権的な法的地位を定めた日米地位協定の存在は、日本国憲法が沖縄では厳格適用されていない、との疑念も生みます。

 沖縄では今もなお「戦争」は身近な存在としてあるのです。


◆遺骨の一部を沖縄に

 野中さんは生前、本紙の取材に「沖縄を忘れることは第二次世界大戦を忘れることだ戦争の恐ろしさを忘れないためにも、沖縄のことを絶対に忘れてはいけない」と語っています。

 自分の子どもたちには「私が死んだら、遺骨の一部を嘉数の丘の慰霊塔に納めてほしい」と託しました。ゆかりの人たちが沖縄を忘れないために、だそうです。

 時を経るにつれ、戦争体験世代は政界を去り、沖縄に思いを寄せる政治家も少なくなりました。自衛隊の増強が続き、安倍晋三首相自らが平和憲法の九条改憲論を提唱する時代です。

 「いつか来た道再び歩まないためにも、野中さんの思いを私たちも胸に刻まねばなりません。
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●大滝詠一さんを悼む

2014年01月04日 00時00分32秒 | Weblog


nikkansports.comの記事【大滝詠一さん突然死 音楽界に衝撃】(http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20140101-1238499.html)、
サイゾーの記事【さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る】(http://realsound.jp/2014/01/post-232.htmlhttp://realsound.jp/2014/01/post-232_2.html)、
asahi.comの記事【日本語ロック源流膨大 内田樹さん、大瀧詠一さんを悼む】(http://www.asahi.com/articles/ASG124WG7FD0UCVL00J.html)。

 先日亡くなった大瀧詠一さんの続報。

   『●「ナイアガラ」の大滝詠一さん亡くなる

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http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20140101-1238499.html

大滝詠一さん突然死 音楽界に衝撃

 歌手で音楽プロデューサーの大滝詠一さん(65)が30日午後7時ごろ、東京都瑞穂町の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したことが12月31日、分かった。死因は大動脈解離。福生署などによると、大滝さんは家族と自宅で夕食をとった後、デザートでリンゴを食べている最中に倒れたという。1970年代から40年以上も活躍したヒットメーカーの急逝は、大みそかの音楽界に大きな衝撃を与えた。通夜・告別式の日程は未定で、密葬で営まれる予定。

 年の瀬に、突然の訃報となった。所属事務所は「家族で食事をとっている時に急に倒れた。すぐに救急搬送されたが、既に心肺停止状態で、病院で死亡が確認されました」と説明した。福生署などによると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と話しているという。大滝さんは日ごろから健康に気を使い、酒もたばこもたしなまず、散歩やサイクリングといった適度な運動もしていた。大病の経験もなく、健康だったため、家族も知人も信じられない急逝だった。

 日本を代表する音楽家だった。早大時代の70年に、細野晴臣松本隆らとバンド、はっぴいえんどを結成。解散後のソロ活動では自分のレコードレーベルを立ち上げ、75年に日本初のCM曲のレコード化(三ツ矢サイダー)を実現。81年には「君は天然色」「恋するカレン」が収録されたアルバム「A LONG VACATION」をミリオンヒットさせ、第23回日本レコード大賞ベストアルバム賞を受賞した。97年の12年ぶりのシングル「幸せな結末」も、木村拓哉主演のフジテレビ系ドラマ「ラブジェネレーション」の主題歌で話題になり、ミリオン超えの大ヒットとなった。

 プロデューサーとしても、大きな足跡を残してきた。73年に山下達郎大貫妙子らのバンド、シュガー・ベイブを、81年には松田聖子のアルバム「風立ちぬ」をプロデュース。森進一の「冬のリヴィエラ」、小林旭の「熱き心に」など、数々の名曲を楽曲提供した実績もあった。ニューミュージックの先駆者であり、後輩ミュージシャンたちに憧れられた日本屈指のメロディーメーカーだった。

 03年シングル「恋するふたり」を最後に新曲はなかったが、05年からは自身の各アルバムを発売から30年たつごとに、リマスタリングして再発売する事業に精を出してきた。昨年も、唯一のオリコンチャート1位アルバム「EACH TIME」(84年)のリマスター盤を、11月まで制作していた。今年3月21日の発売も内定していた。

 9月20日に坂崎幸之助のラジオ「K’s TRANSMISSION」に飛び入りゲスト出演して、10月11日の薬師丸ひろ子のコンサートを見学に訪れたのが、公の場に現れた最後となった。40年以上親交のある知人は「19日にメールのやりとりをしたときは元気そうだった。突然すぎ、まさか亡くなるとは…」と絶句した。この年末も、3月のNHK-FMで放送予定だった「大滝詠一のアメリカン・ポップス伝パート5」の構成を練っていたところだった。

◆大滝詠一(おおたき・えいいち、本名・栄一)1948年(昭23)7月28日、岩手県生まれ。早大第二文学部中退。在学中の70年に、細野晴臣や松本隆らとバンド、はっぴいえんどを結成。73年の解散後は自身のレーベル「ナイアガラ」を創設。アメリカンポップスやロック、日本の歌謡曲などに影響を受けた高い音楽性で知られ、日本のポップス界をけん引した。

 [2014年1月1日7時2分 紙面から]
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http://realsound.jp/2014/01/post-232.htmlhttp://realsound.jp/2014/01/post-232_2.html

さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る
2014.01.01

 大瀧詠一が12月30日、解離性動脈りゅうのため急逝し、各界に衝撃が走っている。MSN産経ニュースなどが報じ、その後NHKニュースなどで死因が判明した。はっぴぃえんどの元メンバー・細野晴臣や、大瀧に才能を見出された佐野元春、サンボマスターの山口隆などが追悼の意を告げている。

 大瀧詠一は1970年、はっぴぃえんどのボーカル・ギターとしてデビュー。1971年にはソロ活動も開始し、1972年にアルバム『大瀧詠一』を発表している。1973年には自身のレーベル「ナイアガラ」を立ち上げ、山下達郎や大貫妙子が所属していたバンド、シュガー・ベイブのプロデュースなども行った。

 1981年にははっぴぃえんど時代の盟友、松本隆と組んだソロアルバム『A LONG VACATION』がミリオンセラーを記録し、大きな商業的な成功を収めた。音楽ジャーナリストの宇野維正氏は、当時の大瀧詠一の印象について、次のように語る。

「大瀧さんはリスナーの世代によって捉え方が異なってくるミュージシャンだと思います。きっと30代以下の世代にとっては伝説のミュージシャンというイメージだと思いますが、自分のような40代前半の世代はギリギリ、『A LONG VACATION』と『EACH TIME』の両名作をリアルタイムで聴くことができた最後の幸福な世代です。『A LONG VACATION』リリース当時、自分は小学生でしたが、ちょっとませた小学生の自分にも届くくらい、このアルバムは一大ムーブメントを築いた作品でした。永井博によるジャケットのアートワークは、まさに80年代前半のお洒落なカルチャーを象徴するものでしたね。あれだけの商業的な成功と、音楽としてのクオリティと、今で言うところのチャラいお兄ちゃんやお姉ちゃんも聴いているような風俗性をすべて合わせ持っていた作品は、ちょっと他には思い浮かびません。大瀧さんはその3 年後にリリースした『EACH TIME』以降、結局30年オリジナルアルバムを出さなかったことになりますが、それにもかかわらず、いまだに日本のポップミュージック界において後輩の山下達郎と双璧を成す存在として位置づけられていることからも、その偉大さがわかるのではないでしょうか」

 大瀧詠一が日本の音楽界に残した功績は、今も息づいているという。

「大瀧さんは、たとえば今年の紅白に出演していた森進一、松田聖子、小泉今日子、薬師丸ひろ子にもとびきりの楽曲を提供しています。寡作な方だったので作品の数は多くありませんが、そのどれもが日本のポップミュージック史に残る名曲です。また、ファースト・アルバムの『大瀧詠一』は、はっぴぃえんどの傑作群と同格か、場合によってはそれ以上の影響を、後のロックバンドに与えた作品と言っていいと思います。自分は先に述べたように『A LONG VACATION』で大瀧さんの音楽と出会って、彼がナイアガラ・サウンドを確立して以降のイメージを強く持っていたので、その数年後に後追いで『大瀧詠一』を初めて聴いた時は、その音楽性の幅広さとある種のクールさに驚いたものです。その作品で大瀧さんは、フォーク、ロックからソウルミュージックまで、ありとあらゆるアメリカの音楽を消化して完全に自分だけの表現にしていました。渋谷系と呼ばれたミュージシャンたち、そして、その後のサニーデイ・サービス(曽我部恵一)、くるり、踊ってばかりの国、森は生きているといった現在活躍しているミュージシャンも、大瀧さんからの影響を強く受けていると思います」

 また、ミュージシャンとしてのスタンスにも、独特のものがあったと宇野氏。

「大瀧さんはほとんど公の場に出てこないことでも知られていました。近年では、年に一度、新春のラジオ番組『山下達郎のサンデーソングブック』の新春放談という企画に出演するくらいで、それ以外はメディアに露出することがほとんどありませんでした。音楽の匿名性を何よりも大事にしていたにもかかわらず、その音楽自体は誰よりも記名性が高かったというのは、大瀧詠一という不世出のミュージシャンの大いなる矛盾であり、最もユニークなところだと思います。ただ、大瀧さんは隠遁してはいたものの、決して世捨て人のような生活を送っていたわけではなかったようです。真偽はわかりませんが、数年前に聞いた自分の好きなエピソードは、彼は一般紙からスポーツ紙までほぼすべての新聞をとっていて、今でも毎朝自宅で起きると、まずそのすべてに目を通してから一日の生活を始めるという話です。そのエピソードにも象徴されているように、あらゆる事象に対する探究心が異常に強く、それが大衆音楽の探求というかたちで最大限に発揮されていたのが、彼の音楽だったのではないかと思います。異常な量のインプットと、異常に研ぎ澄まされた数少ないアウトプット。1人のファンとして、もうちょっと多くの作品を残していてくれていたらと思わないわけではないですが、その才能の在り方と作品の少なさは分ちがたく結びついていたのだと思います。発表から何十年も経った今でも、決して歴史に回収されず、聴く度に新たな発見があるのが大瀧さんの音楽の特別なところだと思います」

 日本におけるポップスの在り方を決定づけたミュージシャンとして、今なお音楽シーンに影響を与え続ける大滝詠一。彼が残したきら星のような名曲たちは、これからも色褪せることなく、人々に愛聴され続けるだろう

(文=編集部)
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http://www.asahi.com/articles/ASG124WG7FD0UCVL00J.html

日本語ロック源流膨大 内田樹さん、大瀧詠一さんを悼む
2014年1月3日09時53分

■内田樹(思想家)

 音楽や映画について、信じられないほど広く深い知識を持っているだけでなく、ふつうの人は気づかないものごとの関係を見出(みいだ)す力において卓越した方でした。2歳違いですが、久しく「師匠」と呼んでいました。

 ツイッターで大瀧さんが手がけた曲の元ネタについてつぶやいたら、数分のうちに「この二つを結びつけたのは地球上で内田さんが最初の人です」と返信をいただきました。うれしかったですね。大瀧さんの元ネタをみつけるのは、ナイアガラー(熱心な大瀧さんファン)にとって最高の勲章だからです。

 一度聴いた曲はすべて記憶しているのかと思うほどの桁外れの記憶力でした。無人島に1枚だけレコードを持って行くなら何にするかという雑誌のアンケートで、大瀧さんは「レコード・リサーチ」というカタログの1962~66年を持って行くと答えました。「全曲思い出せる」から、「ヒットチャートを頭の中で鳴らしながら一生暮らすことができる、と。
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●「ナイアガラ」の大滝詠一さん亡くなる

2014年01月01日 00時00分09秒 | Weblog


【大滝詠一さん急死 リンゴのどに詰まらせ】(http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238243.html)。
【大滝詠一さん急死 65歳「はっぴいえんど」などで活躍】(http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310018.html)。
【〈速報〉佐野元春「ひとつの大きな星を失った」】(http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310096.html?ref=comtop_fbox_d2)。
【大貫 大滝さん死去に「なんてことなの」】(http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238255.html)。
【大滝詠一さんが死去 歌手、プロデューサー】(http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013123101001378.html)。
【細野晴臣さん「彼の中のポップスどこへ」 大瀧さん死去】(http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310152.html)。

 新年を迎えようとしているのに・・・・・・。
 こんな形で、しかも、年の瀬に、大瀧詠一大滝詠一)さんが亡くなるなんてあまりにショックです。3月には須藤薫さんも亡くなり、悲しい事ばかり。大滝さんは、最も好きなミュージシャンでした。『A LONG VACATION』なんて何度聞いたかわかりません。最高の名盤です。本当に悲し過ぎます。大瀧さんのご冥福をお祈りします。あぁ・・・・・・それにしても言葉がない・・・・・・。
ブログ主の頭の中は、井上鑑さんアレンジのストリングスが鳴り響いてます。

   『●「日本社会を蝕むパワーハラスメント」『週刊金曜日』
                               (2013年4月5日、938号)
   『●懐かしいな~

   『●『イエロー・サブマリン音頭』とビートルズと大滝詠一
   『●須藤薫さん、亡くなる

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http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238243.html

大滝詠一さん急死 リンゴのどに詰まらせ

 (81年7月、都内のスタジオで山下達郎(左)と写真に納まる大滝詠一さん(共同))

 歌手で音楽プロデューサーの大滝詠一さん(65=本名大滝栄一)が30日午後5時半ごろ、東京都瑞穂町の自宅で倒れ、搬送先の病院で死亡したことが31日、警視庁などへの取材で分かった。

 福生署などによると、大滝さんは当時家族と一緒で、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と話しているという。119番通報で救急搬送する際には既に心肺停止状態だった。

 大滝さんのオフィシャルサイトによると、細野晴臣や松本隆らと伝説のバンド「はっぴいえんど」を結成して活躍。1973年に解散後は自身のレーベルを創設し「君は天然色」「恋するカレン」などを発表した。

 他の歌手への楽曲提供も多く、代表作に松田聖子の「風立ちぬ」、森進一の「冬のリヴィエラ」、小林旭の「熱き心に」など。

 [2013年12月31日13時9分]
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http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310018.html

大滝詠一さん急死 65歳「はっぴいえんど」などで活躍
2013年12月31日13時32分

 ミュージシャンで音楽プロデューサーの大滝詠一(おおたき・えいいち)さん=本名・大滝栄一=が30日、死去したことが分かった。65歳だった。

 警視庁福生署や所属レコード会社によると、30日午後5時半ごろ、自宅で果物を食べていたところ、急に倒れ、家族が119番通報した。青梅市内の病院に救急搬送されたが、解離性動脈瘤で死亡したという。通夜、葬儀などの日程は未定。

 大滝さんは、細野晴臣さんや松本隆さんらとともにロックグループ「はっぴいえんど」で活躍。ソロに転向し、「君は天然色」「幸せな結末」などのヒット曲を出した。

 プロデューサーとしても、山下達郎さん、大貫妙子さんのシュガー・ベイブに楽曲を提供するなど活躍。松田聖子さんの「風立ちぬ」、森進一さんの「冬のリヴィエラ」、小林旭さんの「熱き心に」などもヒットした。
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http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310096.html?ref=comtop_fbox_d2

〈速報〉佐野元春「ひとつの大きな星を失った
2013年12月31日

 佐野元春(57)が31日、公式サイトに大滝詠一さんを悼むコメントを掲載した。

 「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った。でもその星は空に昇って、ちょうど北極星のように僕らを照らす存在となった。大滝さん、ありがとう。ご冥福をお祈りいたします」。

 佐野は大滝さんを中心に結成された企画ユニット「ナイアガラ・トライアングル」に参加していた。
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http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238255.html

大貫 大滝さん死去に「なんてことなの」

 歌手大貫妙子(60)が、大滝詠一さんの急死を悲しんだ。31日にツイッターに「大滝さんが亡くなりました…。なんてことなの」と投稿した。09年に大滝さんのトリビュートアルバム「A LONG VACATION from Ladies」で「君は天然色」をカバーしている。

 [2013年12月31日14時47分]
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http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013123101001378.html

大滝詠一さんが死去 歌手、プロデューサー
2013年12月31日 18時01分

 ロックバンド「はっぴいえんど」の元メンバーで、歌手、音楽プロデューサーの大滝詠一(おおたき・えいいち=本名栄一)さんが30日午後、東京都内の自宅で倒れ、搬送先の病院で解離性動脈瘤のため死去した。65歳。岩手県出身。葬儀・告別式は未定。

 細野晴臣さん、松本隆さんらと結成したバンド「はっぴいえんど」として1970年にデビュー。73年の解散後は自身のレーベル「ナイアガラ」を創設した。

 80年代には、「君は天然色」や「恋するカレン」を収録したアルバム「A LONG VACATION」が大ヒットした。

(共同)
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http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310152.html

細野晴臣さん「彼の中のポップスどこへ」 大瀧さん死去
2013年12月31日20時02分

 ミュージシャンでプロデューサーの大瀧詠一の訃報を受け、音楽界から惜しむ声が相次いだ。

     ◇

 〈「はっぴいえんど」のメンバーでミュージシャンの細野晴臣さんの話〉 最初は誤報だと思っていましたが、とてもショックです。大事な音楽家を失ってしまった。残念にもほどがある、という思いです。彼の中に詰まっていたポップスの宝庫はどこに行くんでしょうか。大瀧君はずっとソロアルバムを作っていなかったのが気になり、11月中旬に「皆で手伝うからソロを作ろう」とメッセージを入れたのが最後です。


■佐野元春さん「大きな星を失った」

 ミュージシャン佐野元春さんは自身のホームページ上で、「大滝詠一さんが亡くなりました。日本の音楽界はひとつの大きな星を失った。でもその星は空に昇って、ちょうど北極星のように僕らを照らす存在となった。大滝さん、ありがとう。ご冥福をお祈りいたします」とのコメントを発表した。


■山口隆さん「いつも真実とリズムとユーモア」

 ロックバンド「サンボマスター」のボーカル、山口隆さんは自身のツイッター上で「大瀧詠一さんは本当に、本当に偉大な音楽家だった。古今洋邦の音楽、その背景文化への膨大な知識とそれを血肉にする強靭(きょうじん)な好奇心と才能。産み出される音楽はいつも真実とリズムとユーモアがあり、にも関わらずその表現の巨腕を少しもひけらかすような素振りもなかった。ご冥福をお祈りします」とコメントした。


■大貫妙子さん「なんてことなの」

 「シュガー・ベイブ」の作品を大瀧さんのレーベルから発表するなど、古くから関わりのあるミュージシャンの大貫妙子さんは、ツイッター上で「大瀧さんが亡くなりました・・・。なんてことなの」と述べた。
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http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310018.html

大瀧詠一さん急死 65歳 「幸せな結末」などヒット曲
2013年12月31日19時08分

 「幸せな結末」などのヒット曲で知られ、実験精神あふれる曲作りで日本のポピュラー音楽界に大きな足跡を残した、ミュージシャンでプロデューサーの大瀧詠一(おおたき・えいいち)さん=本名・大瀧栄一=が30日、東京都内の病院で亡くなった。65歳だった。

 警視庁や所属レコード会社によると、30日夕方、瑞穂町内の自宅で果物を食べていたところ、突然倒れ、家族が119番通報した。病院に搬送されたが、解離性動脈瘤(りゅう)で亡くなったという。通夜、葬儀の日程は未定。

 岩手県出身。1970年、細野晴臣さんや松本隆さんらとのロックバンド「はっぴいえんど」でデビュー。ロックを日本語で歌う、当時としては画期的なスタイルが話題を呼んだ。

 72年の解散後は、ソロとして活動。当時ミュージシャンとしては珍しかったCMソングの制作に力を入れたほか、74年には自身のレーベル「Niagara」を設立。山下達郎さんや大貫妙子さんらのバンド「シュガー・ベイブ」のプロデュースも手がけた。
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コメント (1)
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