nikkanーgendai.comの記事【絶望の吉田所長が感謝した 原発事故直後の「間組」の矜持』(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/150497)。
『●死者を鞭打つ ~東京電力原発人災原因解明の
キーパーソン、そして、事故を防げたかもしれない人~』
『●「一体誰が朝日の記者に吉田調書を流したのか」・・・・・・
犯人捜しなどやってる暇があるのか?』
「9割の所員が事故直後に逃げ出し」(※ブログ主注: 140911、朝日新聞が記事を取り消しました)「現場にいるべきはずの保安院の担当官まで逃げ出していた」・・・・・・逃げたことをとやかく言うつもりはない。でも、3.11東京電力原発人災以降、再稼働なんかに手を貸してはいけないでしょう。そういう人たちこそが、声を大にして原発建設・再稼働・原発輸出に反対すべきだ。
「付近住民に内緒でドライベントの作業準備を始めていたといった、吉田氏の驚きの証言が詰まっている」・・・・・・。2011年3月15日時点、3月17日時点、4月11日時点でのベントについての情報。
『●「想定外」という言い訳は許されない』
「塩谷喜雄・・・・・・少量とはいえ放射能を含んだ気体を、格納容器から
外部環境に放出するベントと呼ぶ苦肉の策を、何を勘違いしたか
「ベントに成功」などと発表し、それをそのままメディアは伝えている。
安全義務を負う電気事業者としては、内部の圧力も冷却材の水位も
制御できずに、やむなくガス抜きするのはどう見ても「赤っ恥」であろう。
何とも心優しいマスメディアの対応である」
『●東日本大震災に至るまでの「安全神話」喧伝』
「後藤さんの現状認識
4、(海)水を圧力容器に入れるためには「ベント」を開く
これは、格納容器の役目を放棄することに等しい。
5、放射能除去のフィルターがあるのは小さな弁のことで、「ベント」にはない。
したがって、放射性物質が多量に放出されるのは必至」
『●後の祭り、あるいは、喉元過ぎれば』
「高野孟氏・・・・・・《ベント》
このことだけを見ても、東電が非常用電源の喪失という事態を
まったく想定しておらず、その場限りの対応に終始した様が
見て取れる。ベントと呼ばれる弁を開けて格納容器内の水蒸気を
外に逃す作業を始めるかどうかをめぐっても、毎日によれば
11日午後10時の段階で早くも保安院は「必要」と判断したものの
東電はその判断を採らず、午後11時過ぎの官邸の会議で
首相はじめ斑目春樹=原子力安全委員長や保安院幹部らが
「早くベントをやるべきだ」との意見で一致、12日午前1時半には
海江田万里経産相を通じて東電に指示したが、午前2時20分の
保安院の会見で中村審議官は「最終的にベントすると判断したわけ
ではない。過去にベントの経験はない。一義的には事業者の判断だ」
と、国が命令するものではないとの考えを示した。それを受けて
午前3時過ぎに開かれた東電の会見では小森常務がようやく
「国、保安院の判断を仰ぎ、ベント実施の判断で進めるべしというような
国の意見もありまして」と、国が言うならやらないでもないが
というような他人事の言い方をした。結局、1号機でベントが
開始されたのは12日午前10時17分だったが、時すでに遅く、
5時間後に1号機で水素爆発が起きた。もちろん「ベントとは
毒ガスの放出」(東芝の元格納容器設計者=後藤政志:AERA)
であり、ためらうのは当然だが、それにしても「国が責任をとって
くれるならやってもいい」という東電の態度がありありである」
一方、「福島原発と同社は縁もゆかりもない。それでも現場に駆けつけた。彼らは“土方の矜持”と言うはずです」。
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【http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/150497】
絶望の吉田所長が感謝した 原発事故直後の「間組」の矜持
2014年5月27日
(必死のがれき撤去(東京電力提供、右は吉田元所長))
朝日新聞デジタルが順次公開している「吉田調書」。その中身は、衝撃の一言に尽きる。
当時、福島第1原発の最高責任者であり、昨年7月に他界した吉田昌郎氏(享年58)が政府事故調査・検証委員会の聴取に答えた約50万字の肉声だ。
9割の所員が事故直後に逃げ出し(※ブログ主注: 140911、朝日新聞が記事を取り消しました)、付近住民に内緒でドライベントの作業準備を始めていたといった、吉田氏の驚きの証言が詰まっている。
その吉田氏が「ものすごい恨みつらみ」と本音をぶちまけたのが、誰も救助や応援に来てくれなかったと語ったくだりだ。
そのやりとりを一部抜粋してみよう。
「本店(東京電力本社)にしても、どこにしても、これだけの人間で
これだけのあれをしているのにもかかわらず、実質的な効果的な
レスキューが何もないという、ものすごい恨みつらみが残っていますから」
――結果として誰も助けに来てくれなかった?
「消防隊とか、レスキューだとかいらっしゃったんですけれども、
これはあまり効果がなかった」
――(原子力安全)保安院はどうなんですか?
「オフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点)が(60キロ離れた)
福島(市)に引き揚げるとなったとき、みんな福島に引き揚げられて。
結局、16日、17日ぐらいまで、自衛隊や消防がピュッピュやっている
ときはいなかったような気がする」
現場にいるべきはずの保安院の担当官まで逃げ出していた。まさしく四面楚歌(そか)で、吉田氏の絶望が見てとれる。
そんな中、特筆すべき吉田氏の発言もあった。がれきの撤去作業のために駆けつけてくれた“ある会社”の存在だ。
「バックホー(油圧ショベル)が数台、もともとこちらにあったのと、
間組さんがどこからか持ってきてくれて、主として最初のころは
間組なんです。土木に聞いてもらえばわかりますけど、間組さんが
(放射)線量の高い中、必死でがれき撤去のお仕事をしてくれていたんです」
「6号への道が途中で陥没したりしていたんです。その修理だとか、
インフラの整備を最初に嫌がらずに来てくれたのは間組です」
実は、間組(現・安藤ハザマ)は震災直後に社内有志を募り、パワーショベルやトレーラーの運転士ら7人の社員を現地に送っている。選ばれたのは、すべて50代のベテランのみ。「健康被害が心配」(間組関係者)ということで若い社員の派遣は見送られたという。 7人のおじさんは、退避する車の流れに逆行して福島に到着し、15日から作業を始めた。
企業事情に詳しいIMSアセットマネジメントの清水秀和氏がこう言う。
「間組には〈現場から逃げ出さない〉という社内風土がある。
171人の犠牲者を出しながら完成させた黒四ダムの施工者も間組です。
福島原発と同社は縁もゆかりもない。それでも現場に駆けつけた。
彼らは“土方の矜持(きょうじ)”と言うはずです」
誰も知らなかったが、現場にはこんなドラマがあったのだ。
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