Sixteen Tones

音律と音階・ヴァイブ・ジャズ・ガラス絵・ミステリ.....

ハリー・パーチの著書の翻訳

2024-07-17 08:40:32 | 新音律
ハリー・パーチと言えば,十何年前に Harry Partch "Genesis of a Music" の翻訳を思い立ったが,半分くらい済んだあたりで,そのままになってしまった.なぜか ?

原文の,とくに最初の2章は気取った悪文の連続.
全体に自己宣伝に閉口.言葉を勝手に作ったり,ふつうと違う意味に使ったり.
フーリエ変換はおろか,対数も敬遠し,ひたすら整数比だけを追求するのは,究極の純正律オタク.数字遊び・数秘法めいている.
要するに嫌になったと言うのが正直なところ.

でも AI なら,原文が嫌だとは言うまい.ChatGPT に英文和訳を頼んでみた.先日の拙著を例にとった和文英訳テストの逆である.

CHAPTER I  American Musical Tendencies の冒頭の段落.

THEFUNDAMENTAL stimuli that are the reasons for the music of these United States are intriguing to ponder.  First, does Abstraction continue to guide us in the uniting of words and music? Have the Germanic traditions in the Abstract, enhanced in coming to us by way of the well-known English devotion to them, taken full possession of our educational and creative endeavors in music?  Is there any evidence of a drift away from the general assumption that music, to merit comparison with the "best," must be Abstract?  Does popular music, either in tendencies or intrinsic characteristics, offer any hope of relief from the iniquities in the usages of "serious" music?  Can our American leanings in the "big business" of the concert system come to any good end?  Finally, will the American genius for per- verting a spark of individual imagination into a commodity for nationwide distribution permit us-ever-to hope for a significant evolution in American music? These questions suggest a few of the drives; there are others.

以下に3つの翻訳を示す.A は ChatGPT の最初の訳.B は A の日本語にいくつか注文をつけた結果の ChatGPT の改訳.C は十何年前の拙訳だが,今になってすこし手を入れた.
今回はデータを示すだけとし,考察はいずれ,としたい.

訳 A 
このアメリカ合衆国の音楽の理由となる基本的な刺激は、考察するのに非常に興味深いものです。まず、抽象性は言葉と音楽を結びつける際に私たちを導き続けているのでしょうか。ドイツ的伝統が、イギリス人の有名な献身を通じて強化され、私たちの音楽教育や創造的努力を完全に支配しているのでしょうか。音楽が「最良」と比較されるに値するためには抽象的でなければならないという一般的な仮定からの逸脱の証拠はあるのでしょうか。ポピュラー音楽は、その傾向や本質的な特性において、「真剣な」音楽の不公平な使用からの救済の希望を提供しているのでしょうか。コンサートシステムの「大企業」へのアメリカの傾向は、何らかの良い結果をもたらすのでしょうか。最後に、アメリカの個人の創造力の火花を全国的な商品に変える天才は、アメリカ音楽の重要な進化への希望を私たちに許してくれるのでしょうか。これらの質問は、いくつかの動機を示唆していますが、他にもあります。

訳 B
このアメリカの音楽の根本的な刺激について考えるのはとても面白いです。まず、抽象的な考え方はまだ言葉と音楽を結びつけるのに役立っているのでしょうか? ドイツの抽象的な伝統が、イギリスの影響を受けて、私たちの音楽教育や創作活動を完全に支配しているのでしょうか? 音楽が「最高」とされるためには抽象的でなければならないという考え方から離れる兆候は見られるでしょうか? ポピュラー音楽は、その傾向や特性から、「真面目な」音楽の問題を解決する希望を持っているでしょうか? コンサートビジネスの「大企業」的な運営が良い結果をもたらすでしょうか? 最後に、アメリカ人の独創的なアイデアを全国的な商品に変える能力が、アメリカ音楽の進化に希望を持たせてくれるでしょうか? これらの質問は、いくつかの動機を示していますが、他にもあります。

訳 C
アメリカ合衆国の音楽について熟考すればするほど好奇心をそそられるのは,基本的に刺激的だからだ.第一に,抽象化はわれわれを導いて言語と音楽を結合させるか?  ドイツ流の抽象の伝統にご存知のようにイギリス人が傾倒し,さらに高揚してわれわれのところに来たが,われわれの音楽教育と創造的試みを占有していると言えるのか?  「ベスト」なものと比較する必要があるとしたとき,音楽は抽象的でなければならないという一般的な仮定から漂い出る兆候が見えているのか?  ポピュラー音楽は,傾向としてあるいは絶対的特性として,「シリアスな」音楽の使用と言う非道に,救いの手を差しのべ希望を示すことができるのか?  われわれアメリカ人はコンサートシステムという「ビッグ・ビジネス」にもたれかかっているが,この状態はハッピーエンドをむかえるのか?  最後に,アメリカ人は個人個人の創造的ひらめきを国家的商品に堕落させることに関しては天才的だが,これで -果たして- アメリカ音楽の重大で意味をもった改革が許されるのか?  こうした疑問で,いくつかかの駆動力を思い浮かべることができる.他にも駆動力はある.

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ザリガニの鳴くところ | トップ | 音楽の本の翻訳 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新音律」カテゴリの最新記事