臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第2回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会(2010年4月14日)の報告

2010-05-15 09:39:31 | 集会・学習会の報告

第2回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会(2010年4月14日)の報告

 

 2010年4月14日(水)、衆議院第二議員会館第4会議室において「第2回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会」を行いました。
 講師は仙台往診クリニック院長の川島孝一郎医師。〈重症患者の在宅支援医療に携わって 医師は脳死患者と家族にどう向き合うべきか!?〉というタイトルで、1時間にわたって講演していただきました。
 この院内勉強会は阿部知子・石井啓一・枝野幸男・北神圭朗・郡和子・田中康夫・笠浩史(以上衆議院議員あいうえお順・敬称略)大島九州男・川田龍平・小池晃・近藤正道・ 円より子(以上参議院議員・同)の12名の議員の賛同を得て行っています。
 今回の勉強会には 水野智彦(衆・民主)、小林千代美(衆・民主)、岡崎トミ子(参・民主)、稲見哲男(衆・民主)阿部知子(衆・社民)、秋葉賢也(衆・自民)、円より子(参・民主)、石森久嗣(衆・民主)の8名の議員が参加され、5名の方からご挨拶いただきました(なお、勉強会参加者は73名でした)。
 この勉強会の直前の4月5日には小児脳死判定基準案が公表されました。私たちは、脳死判定基準を満たしても心停止に至らない「長期脳死」や脳死判定後に脳波や自発呼吸などが復活して脳死ではなくなる患者も脳死判定および臓器提供の対象とすることになる、この案に言葉に尽くせない憤りを感じています。
 そんな状況の中で、川島孝一郎先生の講演が行われました。患者に対する温かいまなざしと深い考えを持った医師がいること、実際に重症患者の在宅生活を支える医療を長年実践されてきたことに感銘を受け、救われる思いでした。お話は「議員の皆さんに考えていただきたいことは、日本は治す医療は進んでいるが、支える医療が遅れている現状です」と始められました。以下に川島先生の講演録を掲載いたします。


重症患者の在宅支援医療に携わって 医師は脳死患者と家族にどう向き合うべきか!?
講師:川島孝一郎さん(仙台往診クリニック院長)

1.自己決定・自己の権利について
■私は私を証明できるのか―自己決定の危うさ

 この頃、死ぬ権利も含めて、「自己決定」がよく強調されます。それには、“独立した自己”という考え方が前提となりますが、はたして、自己というのは本当に独立しているのだろうかということから考えてみましょう。もしも、私が他のどのようなものからも完全に独立しているなら、「私自身が私自体を証明する」ことができるはずです。それを、論理学では、「自己言及の言明」といいます。自己言及の言明が成り立てば、「あなたたちが何を言ったって、私は死にたいのだから死ぬのだ」という、死ぬ権利の主張も成り立つことになるでしょう。しかしながら、既に、ゲーデルという人によって、“自己言及の言明は証明不可能である”ことが示されています。つまり、「私は私を証明できない」ということです。
 これを応用すると、決定とか権利は自己のものなのか、自分に所属するものなのかは証明不可能だということになります。自己決定や死ぬ権利などの言葉は、それ自体、不完全なものだということに留意しましょう。もちろん、周囲が勝手に決定してその人を操ってはいけないけれども、何でも自己決定だとか自己の権利だと主張していいわけではないという、非常に微妙なものになってきます。そうすると、私たちが唯一たよれるのは関係性であり、決定・権利は関係性の中で決まることになります。
 
 
■生きる権利と死ぬ権利―死ぬ権利はあるのか
 では、次に、生きる権利と死ぬ権利は、どんなふうに考えたらよいのでしょうか。多くの場合、この二つは、同じ土俵に立った両極と考えられています。でも、先ほどから述べているように、私たちは、自己がこの世界から完全に独立して決定できるということは証明不可能だ、私たちが唯一頼れるのは関係性だということを念頭に置いて考えてみましょう。
 すると、生きているということは、もうそのまま、自然権の中に生存権がある。これは、権利かどうかという以前に、生き続けることがそのまま世界と関係性を保つことであり、関係性の継続が生きる権利そのものということになる。我々がこうやって生きていることそのものが、生存権に値するということです。
 一方、自殺や尊厳死によって、意図して自ら死ぬということは、もともと生きている世界と自分との関係性を自分から断つことです。関係性を壊すということは、自分が死ぬだけではなく、自分が生きている世界を壊すということを意味します。権利というのは関係性の中で生まれてくるものですから、権利が生まれる土台となる世界との関係性を壊すならば、もはや、権利という言葉を使うのは間違いです。
 生きる権利は関係性を継続するということが前提だから、権利として保障されます。だが、死ぬ権利はあり得ない。意図して死ぬことは、権利の基盤である世界との関係性を壊すことであり、もはや、権利は生じない。例えれば、自分が生まれる母親まで殺しているのに、そこに、自分が生きるということはあり得ないのと同じです。
  
 
2.生きることの集大成を支える支援とその実際
■ICFの〈生活機能-人の生きることの全体〉と〈健康〉

 人がこの世に存在していることをいかに支えていくかを考えるとき、〈生活機能〉をどう支えるかということが大切になってきます。生活機能とは、WHOが2001年に提唱したICF(国際生活機能分類)の根底にある考え方であり、「人の生きることの全体」を示す共通言語です。
 もうひとつ大事なのは、健康状態という言葉です。ICFがいう健康状態は、心身機能だけではない。身体の機能が低下しているかどうかということだけではなく、例え低下していても、その身体なりにできる活動、その身体なりに出来る家庭参加や社会参加などの全体像が健康なのだということです。障害をあるがままに認める「五体不満足の思想」が、ICFの思想であり、健康状態の評価です。
 私のところでは、現在、12人の医者で400人近い方々を在宅でみています。45人の人工呼吸器をつけた人をみていますが、その3分の1は去年の選挙の際に投票に行きました。胃ろうをつけている人が120人いますが、そのうち約2割の人達は、毎日、晩酌を楽しんでいます。胃ろうは延命治療でも何でもない、新たな食生活をしている、活動をしているということです。生き方の形が変わっただけで、健康状態を保っているということです。
注)胃ろう:主に経口摂取困難な患者に対し、人為的に皮膚と胃に瘻孔作成しチューブ留置し水分・栄養を流入させるための処置
 
 
■実体と構成概念の混同に注意!
 次に注意してほしいのは、実体と構成概念を混同しないということです。実体とは、実在性であり、確かに事物・事象として存在すること、構成概念とは頭の中で考えておそらくこうであろうと考えていることです。
 医者は、これらを混同して、終末期医療や「脳死」に当てはめているのでとても危険です。例えば、「人工呼吸器の装着は延命治療であり、尊厳がないから辛い」と説明する医者はいっぱいいます。しかしながら、延命治療は構成概念にすぎません。ある人は、「人工呼吸器は、かわいいペットのようなものだ」と言いながら、人工呼吸器をつけて快適に生活しています。その人にとっては、人工呼吸器をつけて暮らすのは延命治療でも何でもなく、ペットと一緒に暮らす楽しい世界です。構成概念が異なるのです。ところが、先に述べたように、人工呼吸器をつけるというのは、もう延命治療という実体だと思い違いして説明するのが医者の世界です。ここが問題です。
 ちなみに、自分の死は絶対経験できないので、実体にはなりえず、構成概念です。健康状態や尊厳やQOLや終末期や延命医療も、実体とは限らず、構成概念もかなり含まれています。構成概念は人それぞれによって違うし、常に変容し固定不可能なものであり、これに、一律な定義や規定を設けるのは非常に危険です。
 
 
■「五体不満足の健康」を支える
 さて、健康状態ってなんでしょうか。
 従来、医学が考える要素還元主義の科学的身体は、心身の健康を100%と見立て、老化・病気・事故等による心身の質・量の低下を不健康と見なします。標準化された低下状態に対して、価値を上げる努力目標を立てることができるので病気が治る場合には有効です。
 しかしながら、治療不可能な場合には問題が生じます。治らない疾病・傷病の場合には、「あなたは100点満点の5点」等の評価を下され、さらに、医者は「あなたの点数は回復不能である」と主張せざるを得なくなる。回復不能であると伝えられた患者は、「5点しかない」と絶望するし、医療的な対処法がないと宣言されるため、逃げ道に窮する。
 あげくに、説明した医者も、説明を受けた患者側も「生きられない」という袋小路でさまよい、結果としてある点数以下になった人に、すべて標準化した終末期という概念を当てはめ画一的な対処を求めようとする。
 「脳死」もこのように設定されるわけです。これはとても危険で、治療不可能な場合にこの思考プロセスを用いてはなりません。
 
 
 では、治らない場合には、どのような思考プロセスが必要でしょうか。治療不可能な状況に置かれた人も、前に述べたICFの健康状態によれば、いずれの心身機能においても、その状況下での統合された健康を維持しているとみなされます。どの状況においても、生きている世界との関係性の中でうまくバランスを保っていれば、それを認めるということです。これによって、治療不可能な状況に置かれても、下がった点数評価に囚われることなく、「新たな健康状態にいる」とみなすことが可能となります。
 私のところに「植物状態」の患者さんがいますが、彼がやっている仕事は「生きている」という仕事です。「ああ、良く頑張って生きてるね」と認めればいいのです。健康状態を、あたかも実体のように、歩行ができて食事ができて頭で考えられる人が健康と捉える必要はない。構成概念を変えさえすれば、どんな人でも健康になるのです。「脳死」の人は、今、ここに存在している。今、その人を世界が存在させていることを認めればいい。それを存在するなと言っているのは、存在する必要がないと思っている人間です。「存在しているじゃないか、今、ここに。だったら、その構成概念を変えろ!」と言えばいい。後は、それを支える支援策を提示さえすればいい。置かれた状況での精一杯の生き方を支えることで、その健康状態は維持されます。治療不可能であっても、心身機能・活動・参加の統合された全体が、状況に対応した形態を精いっぱい保っていれば健康状態と構成する。五体不満足でも、より良い生き方が可能です。
 このように、身体は、自分の内部や世界の中のいろんなものと協力したり融合したりしながら絶えずその営みを変えて生きているわけですが、最先端のところでどのように生が営まれているかというのを、実際に見てみましょう。(ここで、ビデオ視聴。頸椎損傷の患者が脳波によって様々な道具を操作する様子、舌で見る装置等、科学技術の発達が、生きられる世界を押し広げる可能性があることが示される)
 
 
■尊厳って、なに?
 次に、終末期で使われる言葉は、勘違いして解釈され使われることが多いので注意しなければなりません。
 まず、尊厳という言葉について。尊厳には、英語では、Dignity とSanctityの二種類あります。Dignity は、もともと気高い、威厳がある、位が高いというように評価や比較が含まれているので、尊厳が高い/低い、尊厳がある/ないというように価値・比較論になります。例えば、ゲルマン民族はDignityが高いがユダヤ民族は低いということでホロコーストになる。あるいは、人工呼吸器をつけているとDignityが低いというような形で使われてしまう。
 もう一つのSanctityの方は、それ自体尊いものということ、比較ではなく、等しく同じように尊いという意味です。私たちが、生命の尊厳という時、このSanctityを念頭に置いて表現していくことが大事だと思います。日本人は、本来、生命はそれ自体尊いものととらえる土壌があるにもかかわらず、体調を崩すと尊厳が低くなったように勘違いする。医者は勘違いを最もしやすい人種です。だから、医者が、意識もなくて呼吸器や胃ろうもつけている状態を辛い生き方だと言うのは違う、どんな状況でも尊厳は等しく同じだということです。
 
 
■「自分の死」は実体か? 終末期や延命治療とは?
 自分の死は、実体ではなく構成概念です。他人の死は経験できる実体ですが、自分の死は経験できず、あくまで思考が構成する構成概念です。私たちが経験するのは、最期まで「生」です。私たちは死を経験しないわけですから、より良い死に方ではなくより良い生き方であり、満足する死に方ではなく満足できる生き方です。尊厳死ではなく、尊厳ある生です。自分の死を、あたかも実体であるかのように誤認して、安楽死・尊厳死などの一律な規定を他者が設けてはなりません。また、終末期についても、「癌の人は余命6カ月が終末期、人工呼吸器をつけたら終末期」などといわれる場合が多いが、違います。終末期は定義できません。
 次に、延命医療も、実体ではなく構成概念です。例えば、「健常」な人の呼吸は、胸郭を拡大して胸を広げるだけです。空気は大気圧で入ってきますが、その大気圧は地球の引力が作っています。だから、人は自分で呼吸するのではなく、地球が空気を入れてくれている。じゃあ、「健常」な人が地球との共同作業で呼吸するのと、人工呼吸器との共同作業で呼吸するのと、どこが違うのか、同じです。
 
 
■最期まで、つらくない生活はできるか―すべての人は緩和される
 では、最期まで辛くない生活はできるかということですが、緩和医療が進歩した現在、すべての人は緩和されます。生きる時間はそのまま継続させ、苦しくない痛くない状況を作ることができます。癌の痛みも、10年も前から完全にとることができます。しかしながら、それをちゃんとできる医者は2割しかいない、それが問題です。「脳死」の人については、もしも感覚機能が低下しているとすれば、既に緩和されているのだから、人工呼吸器を代表とする生命に直接影響する生命維持治療を中止する必要はさらさらありません。そのままの状態を継続し、命を全うするまで支援すればいいのです。
 
 
■構成概念の書き換え
 これまでの話をまとめてみましょう。苦しんでいる人がいると、QOLが低下し人間らしさが保てないと勘違いされ、尊厳がない状態を継続させるのはしのびないとして延命治療を中止して尊厳死にもっていく、これが旧来の考え方です。しかしながら、これらは全て構成概念なのだから、これを変更さえすれば良い。苦しんでいる人は、生活の質が低下しただけなのだから、生活の質を向上させればいい。誰もが尊厳そのもの、Sanctityは普遍・不変なのだから、QOLを向上させればいい。その一つの手段として緩和医療がある。そうすると、例えば、「脳死」状態でも治療を中止する必要はなく、そのままの状態を続ければ良いだけで、そうすると尊厳ある生を全うすることができる。
 図の上段における尊厳死に至る構成概念を、下段に示す概念に変更することによって、より良い死ではなく「より良い生き方」が、満足死ではなく「満足した生き方」が、尊厳死ではなく「尊厳ある生」が保障されます。あとは、どのようにうまく緩和するか、どうやってうまく支援策を講じるかというだけの話になるはずです。
 
 
 
3.脳死患者の意味付けと支援体制の実際
私のところでは、去年、ミトコンドリア脳筋症の13才の「脳死」状態の男の子を自宅に帰し、在宅療養を支援しました。母親は、「息子が、この世に存在しているということを認めてほしい。ずーっと生き延びさせてくれと言っているわけではない。でも、今は生きているのだから、添い寝をしてやりたい。だから家に連れて帰りたい」と言われました。それに対して、私たちは、単に、「重度の障害者」をあるがままに受け入れ、障害を持ちながら生活する方法を考えました。制度を駆使して、190時間のヘルパーと1日に8時間の他人看護を利用し、2ヶ月間の在宅生活をして最期を迎えられました。
 改めて、「脳死」の概念を整理しましょう。
 ICFの健康状態が脳死にぴったりです。健康状態は心身機能・活動・参加の統合された全体ですから、周りとの関係性の中で、その人間がその状態を維持出来れば、それが健康です。全体のバランスがとれれば五体不満足でいいのです。後は生きることの全体を支えるために、生活機能を維持する具体的な支援策を提示しましょう。何よりも、本人にとっては、「死」は、よりよく生きた結果であって目的ではありません。死なせることを目的としてはならないということです。つまり、「脳死」を特別な状態とは考えないで、単に「重度の障害」と考える。障害がありながら生きることは素晴らしいのだから、あとは制度をうまく使うことを考える。
 今まで、多くの医者は、構成概念を実体と見間違い、「人工呼吸器は苦しい、尊厳がない」という言い方をしてきました。さらに、病気の説明しかせず、その身体を持ちながら生きいける支援策を実体化してゆくことも不十分であったため、医師・患者双方が「生きられない」と勘違いし、終末期・尊厳死等に自らを駆り立てていました。しかし、人工呼吸器や胃ろうを付けていても新たな生き方があるというように構成概念を変えるとともに、今、ここで生きていることを支援できるような体制の整備を行うことによって、「尊厳死」ではなく尊厳ある生を全うすることができる。こうすれば、「生きることの集大成」を支えることができるはずだと思います。

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