臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第16回市民講座の報告(2020年9月26日) 2-1 「いのちが軽くなる」ということ 生命操作と「死」の選択をめぐって

2021-03-02 19:26:07 | 集会・学習会の報告

臓器移植法を問い直す市民ネットワーク 第16回市民講座講演録 2-1

日時:2020年9月26日(土) オンライン開催

 

「いのちが軽くなる」ということ

生命操作と「死」の選択をめぐって

 

講師 安藤泰至さん(あんどう やすのり 鳥取大学医学部准教授 宗教学/死生学)

 

 

講演概要(講師より):7月末、ALSを患う女性の求めによる嘱託殺人容疑で医師二人が逮捕された事件が報じられ、昨年安楽死についての小著を出した私も、さまざまなところでコメントを求められました。8月初めには、私も議論と執筆に加わった日本学術会議の提言「人の生殖にゲノム編集技術を用いることの倫理的正当性について」が発出されました。コロナ禍のなかでの二つの出来事は一見関係がないように見えますが、そこに「いのちの選別」や「優生思想」という補助線を引いてみることで、たちまちそのつながりが見えてきます。「生命操作」という言葉は、どちらかというと先端技術による出産・誕生をめぐる人為的介入を連想させますが、私は現代医療における生命操作のシステムでは、一見正反対に見える「死なせないベクトル(不死へのベクトル)」と「死なせるベクトル」が一体となっていると考えています。安楽死や尊厳死、そして脳死臓器移植をめぐる「よい死」の物語もまた、こうした生命操作システムの一部です。この講演では、社会に張り巡らされたこのシステムの網の目が、私たちが本当の意味で「いのち」に向き合うことを妨げていることについて、みなさんと共に考えたいと思います。

 

はじめに
京都のALS女性嘱託殺人事件をめぐって
 安藤です。こんにちは。この事件が起きたのは、つまりALS患者の林優里さんという女性が亡くなられたのは2019年の11月でしたが、7月23日にその第一報を聞いたとき、「ついにこういうことが起こったか・・・」と思いました。たまたま私は、その10日くらい前にNHK大阪の記者から、ALS患者のサポートについての番組を企画しているとのことで、取材を受けていました。その関係で当日朝、電話があり、事件についてZoomでのインタビュー依頼を受けました。その映像がNHKの夜9時のニュースで流れたために、それからどっと新聞各社から取材がきました。当初、私が恐れたのは、これがきっかけとなって一気に安楽死合法化への議論に進むのではないかということでした。実際、事件直後に一部の維新の政治家がツイッターで「すぐに国会で議論すべきだ」と発言したりしたのですが、概してマスコミの反応は慎重で、ALSの当事者の方たちも新聞等に登場し、今のところすぐにそういう方向に行くという気配はないようです。しかし、インターネットの掲示板やSNSを見ると、「生きる権利があるのに、なぜ死ぬ権利はないのか」などと書いている人が多く、そういう反応を見ていると、非常に怖いと思いますし、いのちが軽くなっているな、と実感します。

 

オウム真理教事件13人の死刑囚の死刑執行(2018年7月6日、26日)
 話は違いますが、「いのちが軽くなっている」という現実におののいてしまったのが、この時の報道でした。オウム真理教事件は私が30代半ばの時でしたが、幹部の多くが私と同年代で、私が宗教学の専門ということもあって、「下手したらあの中に自分もいたかもしれない」という思いが消えず、ずっと関心をもち続けてきました。2018年、麻原彰晃ら6名が最初に処刑され、その後7名が処刑されましたが、その様子がテレビのワイドショーでまるで公開処刑のように放送されているのがなんとも気持ち悪く、「こんな時代になっているんだ・・・」と感じました。

 

いのちが軽くなる/言葉が軽くなる
 私は、「いのちが軽くなる」ということと「言葉が軽くなる」ということとは連動していると思っています。私は35才の時に、米子工業高専から今の鳥取大学医学部に転勤してきました。医学や医療は人間相手の仕事だから、工業高専のようにモノを作るところより話が通じるのではないかと思っていたのですが、実際に勤めてみると、それはまったくの幻想だったということがわかりました。医学・医療の世界では、言葉というのがなんとぞんざいに扱われているのか(!)とビックリしました。私は、言葉に対する関心や繊細さと人間についての関心や繊細さとは正比例すると考えていたので、医学・医療の世界にいる人たちの多くは実は人間に関心がないのだと知って、非常にショックを受けたわけです。そういう医師や医学研究者が人間の生命を扱っていることについて、とても気味悪く感じました。安楽死の問題も、いくら個人の自己決定と言っても、その決定の基盤になる情報を提供するのは医師ですし、最終的に致死薬を注射したり処方したりするのも医師です。そういう、人間に関心を持っていない医師たちにある意味で自分のいのちを預けてしまうことになる気味悪さについて、わかっている人は少ないのではないでしょうか。

 

 

1、「生命操作」について
 さて、本日は「生命操作」ということについてお話ししたいと思います。このテーマについては4年ほど前からいろいろ書いてきたのですが、学術会議叢書の『〈いのち〉はいかに語りうるか?』(2018年)に収められている私の論考「生命操作システムのなかの〈いのち〉」や、角川から出した共著『宗教と生命』(2018年)などがあります。「生命操作」とは、基本的には、進展する医療技術や生命科学技術による人の生命や身体への介入に対する批判的立場から使われる言葉だと思います。

 

いのちの始まりをめぐる生命操作といのちの終わりをめぐる生命操作
 さて、「生命操作」についての私のとらえ方の特徴としては、いのちの始まりをめぐる生命操作といのちの終わりをめぐる生命操作は相似形になっているということ、その両方を同時に見るということがあると思います。通常、「生命操作」という言葉は生殖補助技術や出生前診断、着床前診断、遺伝子操作など、いのちの始まりや出産をめぐる操作的介入について使われることが多いのですが、こういうものと、脳死臓器移植や安楽死・尊厳死など、いのちの終わりをめぐる操作的介入は相似形になっていて、その両方を「生命操作」ととらえることで初めて見えてくるものがあると感じています。人がこの世に生まれてくるときにどのように迎え入れるかということと、人が亡くなるときにその人にどのように接するかといくことは、結局はいま生きている人間がどういう社会を作り、どういう人と「共に生きる」かということなので、基本的に同じことであるはずなんですね。現代の社会では、そうした人が生まれるところ、死ぬところの全体が「生命操作システム」というものに絡め取られている、と私は考えています。「生命操作」というのは個々の技術というだけでなくて、一つの大きなシステムになっている。誰かがそのシステム作っているわけではないけれども、あたかも自動的にシステムが動いているかのように世の中が進み、そこに私たちが自覚しないまま絡め取られてしまっているように思います。

 

「生命操作」と聞くとなぜ気持ち悪いのか?
 そのように私たちが生命操作のシステムに絡め取られてしまっているという事態を批判的にとらえているからといって、私は何も「生命操作は(すべて)いけない」とか「生命操作だからやってはいけない」と考えているわけではありません。ただ、「生命操作」という言葉を聞くと、一般的には「どこか気持ち悪い」というイメージを抱くのではないでしょうか。その「気持ち悪さ」は一体どこからくるのか、ということです。むかし、写真という技術が初めて出てきたときに、多くの人は写真に写るのを気持ち悪がったと言われています。なぜ気持ち悪かったのでしょうか? 普通、人というのは一瞬たりとも完全に静止はしていません。じっとしているような時でも、目とか口とかは動いていますよね。そういう「常に動いているもの」が写真という形で二次元上の平面に固定されて出てきたときに、そのことが気持ち悪かったのではないかと思います(今では画像を編集できたりもするわけですが)。当時の人は写真に写ると魂が抜けてしまうとか言って、写ろうとしなかったそうです。生命というものは常に動いているものなのに、それを切り取って静止した形にすることで、なにか生命のエキスのようなものが抜けてしまう。それは、今日の私たちが「生命操作」という言葉を聞いて感じる「気持ち悪さ」の本質に近いものではないかと思います。

 

「人が生きる」ということの四つの次元
 生命操作という問題を考えるにあたって、日本語というものはある意味で便利です。たとえば英語だと、「生きる」という動詞liveの名詞形は一つ(life)しかありませんが、日本語では「生命」「生活」「人生」「いのち」という少なくとも四つの語があり、日常語のなかである程度使い分けられています。たとえば「生命の危機」と「生活の危機」と「人生の危機」という三つの言葉では、人はそれぞれ違うものを思い浮かべるのではないでしょうか。また、「命」という語は「生命」と同じ意味で使われることもありますが、特に「いのち」とひらがなで書くと、「生命」とも「生活」や「人生」とも違う、それらを全部含んだような独自の語感が出てくるように思います。
 「生命操作」とは、科学によって対象化され要素に分解された「生命」が技術的な操作の対象となることですが、そこに生身の人間の「生活」や「人生」が巻き込まれてしまうことで、私たちが「技術を使っている」つもりで「技術に使われる」ような事態が生じること、技術の進展によって新しい可能性が開けたように見えて、実は私たちが自分自身の生の主体になれないようなそういう事態が起こってくること、これが生命操作が引き起こす本質的な問題なのではないかと。私が「いのち」と呼んでいるのは、現実に生きている私たちの生の経験そのもののことなのですが、そうした「いのち」へのまなざしが削がれていっているということです。

 

生命操作における「要素」への分解・還元
 生命操作では、人間の生の営みというのが単純な要素の組み合わせに還元されることによって、それが「操作」の対象になります。たとえばいわゆる「不妊治療」として推進されていっている生殖補助技術では、子どもを作る(生殖)という営みが精子と卵子と産む女性の組み合わせに還元されます。生殖がそうした要素の操作になることで、不妊の人たち(特に女性)の「生活」や「人生」がそこに大きく巻き込まれます。また、精子や卵子の提供、代理出産のように、夫婦以外の第三者(ドナー)も入れてこうした技術が使われると、生まれてくる子どもの人生もまた(たとえば遺伝上の親が違うというような形で)大きく左右されることになります。
 出生前診断で異常が見つかったときに、よく「胎児に障害がある」という言い方がされますが、この言い方はおかしいということを、ある時、友人の医師に教えられました(それまでは私もそのことを意識せずにこの言い方を使っていたのですが、それ以後は使わなくなりました)。障害というのは人と人の間で、社会のなかで生じるものです。胎児は社会生活をしているわけではありませんから、たとえばダウン症のように21番目の染色体が3本あっても、あるいは足が一本欠けていようが、生まれてくるまではそれは「障害」ではないわけです。本来、生活のなかで、人と人の交わりのなかで現れてくる「障害」というものが、なにか胎児という個体に内在しているもののようにイメージされている、ということが大きな問題なのではないでしょうか。
 さらに、問題が生の特定の要素に還元され、それが技術的操作の対象になることによって、異なった人の人生がドッキングされてしまうような事態を生み出すのが脳死臓器移植です。「脳死」になったと言われる人と移植を必要としていると言われる人はまったく別の人なわけですが、その両者の「生」「いのち」がドッキングされる。前者の死が早められ、移植がうまく行くようにその最期の時が管理され、ドナーの家族も含めて、そのシステムのなかに巻き込まれてしまうのです。臓器をもらう側の人もまた、「移植によってしか助からない」と言われたときにこのシステムのなかに巻き込まれてしまいます。生きるためには誰かが「脳死」にならなければならない、あるいは自分より待機リストの上位にいる人が一人でも多く死んでくれなければいけない、そのように自分が生き延びるためには他人の死を待たなければいけないという苦しい状況に入れられてしまうのです。そしてドナーやその家族と、レシピエントの両方の生の経験が、「いのちの贈り物」とか「いのちのリレー」といった紋切り型の物語によって美化されていきます。ドナーの側もレシピエントの側もこうした生命操作に巻き込まれる「弱者」なわけですが、レシピエントの弱者性は見えやすいのに対し、ドナーの側のそれは圧倒的に見えにくいのです。

 

生命操作の進む方向
 4年前に亡くなられた科学哲学者の金森 修先生が『遺伝子改造』という本の中で、生命操作というのは次のような三段階で進んでいくものだと言われています。第一段階がscreening out 、つまり(人間にとって都合の)悪いものを排除していくということ。第二段階がchoosing in、つまり(人間にとって都合の)良いものを選んでいくということ。そして第三段階がfixing up、つまり生物自体の遺伝子を改造するということです。すでに行われている植物とか家畜などの生命操作を考えれば、こういう方向は誰の目にも明らかですね。人間の場合も、これまで①や②(出生前診断による選別的中絶や、着床前診断による胚の廃棄や選別)がもっぱらであったものが、今やゲノム編集という画期的な遺伝子操作技術の登場で、すでに③の段階にまで来たということです。
 なお、ゲノム編集をめぐる倫理問題については、今年の8月4日に、私もメンバーの一人である日本学術会議の「いのちと心を考える分科会」による提言「人の生殖にゲノム編集技術を用いることの倫理的正当性について」が出ました。今日はそのお話しはできませんが、この提言の骨子は、(1)ゲノム編集技術を使う生殖の法的禁止、(2)臨床研究を目指す基礎研究についても禁止、(3)より包括的な生殖医療法に向けた国民的議論の開始、ということです。下記でその全文が読めますので、ぜひお読みいただきたいと思います。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t292-5.pdf
                                                 
 

 

2、生命操作というシステム
体外受精には問題はなくなったのか?
 さきほど、生命操作は一つのシステムだという話をしましたが、このシステムには見える部分と見えない部分があります。2018年の暮れに中国でゲノム編集された子どもが生まれたというニュースがセンセーショナルに報じられましたが、そのちょうど40年前、1978年には、世界初の試験管ベビー(体外受精児のこと)が生まれたというニュースが同じような形で大きく報道され、反対する人々は「神の領域への侵犯」だと言ったりしました。ところが今や体外受精は不妊治療の一つとしてまったくの「通常医療」になっていて、日本(実は世界一の不妊治療大国)では新生児の16人に1人が体外受精によって生まれています。
 このように体外受精が一般に普及したことで、それがもたらす倫理的問題はクリアされたのでしょうか。そうではありません。このような「不妊治療」(この言葉は括弧付きでしか使えませんが)が私たちの生活や人生にどんな影響を与えているか、それがどんな苦悩をもたらすのか、について伝えられるようになったのは、むしろずいぶん後になってからなのです。「不妊治療」を受ける女性の離職率が高いということは、不妊治療を受ける女性の間では常識だったのですが、本格的な調査が行われ、報道されるようになったのはここ7-8年前からです。1980年代に使われはじめた技術が実際にどのような影響を与えているかという調査が行われるようになったのは、30年以上後になってからのことなのです。

 

生命操作がもたらす問題は遅れて顕わになる 
 このように生命操作がもたらす問題というのは、ずいぶん時間が経ってから顕わになることが多々あります。たとえば、夫が無精子症などのときなどにドナーの精子を使って人工授精をするAIDという技術は、日本では1949年から、もう70年以上にわたって実施されているわけですが、生まれてきた子どもは、遺伝上の父親と育ててくれる父親が違うわけです。親はほとんどその事実を子どもに隠していますので、なんらかのきっかけでそのことを知ったときの子どもの苦悩はたいへん大きいわけですが、そうしたAIDで生まれた当事者の苦悩というものが語られるようになったのは、欧米では1980年代、日本では1990年代になってからのことでした。
 また、2008年に香川県で体外受精の受精卵を取り違えて別の女性に移植してしまい、結局中絶することになったという事件がありました。受精卵を誤って廃棄してしまったという事件もありましたし、たとえばES細胞研究などで、体外受精の際に子宮に戻さなかった「余剰胚」を研究に利用することの是非も問われるようになりました。こういう一連の出来事を見ていると、受精卵(胚)が女性の身体の外にあって、人工的な管理の下に置かれているということはどういうことか、ということについての想像力を私たちは失っているのではないかと感じます。そのような事件が起きてから、はじめて気づくのです。
 「不妊治療」という言葉自体が、こうした生命操作の実態を隠す働きをしているように思います。そもそも不妊は病気なのか、「不妊治療」は治療なのか、といった根本的な問いが問われないままに、不妊の人を助ける「治療=よいもの」として当たり前のように流通されていく。私のいう生命操作システムは、そうした「言説のシステム」に支えられています。

 

「不妊治療」と一般的な病気の「治療」の異質性
 一般的な病気の「治療」の目標としては、もちろん完全に治癒するというのが理想ではありますが、それが不可能な場合であっても、たとえば病気の進行を止めるとか、少しでも緩やかにするとか、あるいは症状を緩和するとか、個々のケースに応じていろいろあるわけです。ところが、不妊治療の目標とするゴールは一つしかないのですね。実際に元気な子どもが生まれることだけです。そこに至らないものはすべて失敗、子どもができなければ治療の効果はなかったということになります。この違いを考えるだけで、体外受精のような技術(厳密な成功率は現在でもせいぜい15~20%程度)を使うことを「治療」という名で語ることに大きな問題があることがわかります。そうした「不妊治療」を受けることで、その後の自分たちの人生にどのような影響があるかということについての情報がある意味隠されている中で、個々の当事者が選択をさせられている訳です。不妊の人たちのなかには、きちんとした情報を得たとしても、最後まであきらめずにそうした治療に賭けたいという人ももちろんいるでしょうが、今よりはずっと減ると思います。さきほど言ったように体外受精の成功率は低いわけで(私は今でも人体実験のレベルじゃないかと言っているぐらいですが)、数をこなさないと技術力は上がっていかないので、ある意味、不妊に悩んでいる人たちがみな実験台にされている。不妊治療として体外受精を求める人が少ないと技術力も上がっていかないし、余った受精卵を研究に使うなどということもできなくなる。つまり、私の言う「生命操作システム」というのは、もし人々がきちんとした情報を得て、本当に「選択」してしまったら、そうしたシステム自体が稼働しなくなるような仕組みになっているわけです。「生命操作システム」に、その本質を隠す働きをする「言説システム」が必ず付随しているのは、このシステムが稼働するための特定の選択(上記の例だと不妊治療として体外受精を受けるという選択)の方に人々を押しやるためだ、と言えるかもしれません。

 

脳死臓器移植というシステム
 脳死臓器移植という生命操作システムについても、これとまったく同じことが言えます。一般の人々がその実態を知らない(人々に実態を知らせない)ことで、それがシステムとして稼働可能になるのです。そもそも「脳死」という言葉自体がそうした言説システムの一部であって、私たちは「脳死」という言葉を使った時点で、もうすでにこのシステムの中に取り込まれてしまっているとすら言えるのです。
 たとえば、超昏睡患者、脳死患者、脳死の人、脳死者、脳死体、という語を横に並べてみましょう。この5つの語が指している対象はすべて同じなのですが、左に行けば行くほど「生きている人」という感じが強くなり、右に行けば行くほど「死んでいる人」という感じになりますね。ちょっとした言葉の違いでイメージががらっと変わってくるわけです。
 脳死臓器移植というのは人体実験とよく似た構造をもっています。つまりある人の治療のために、別のある人の身体を手段、道具として用いるわけですね。人体実験というのは、医学的な知識を増やし、将来の患者をできるだけ多く助けるために、被験者となる人(いま生きている人)を手段、道具として用いて、その人に危害を与えるわけですから。また精子や卵子の提供、代理出産といった夫婦以外の第三者が関わる生殖補助技術もこれと似ています。こういうものが商業化されているところでは、どういう人がドナーにさせられるかというと、社会の中で弱い立場にある人が多いわけで、一国のなかでドナーが得にくい場合は、より貧困な国の人々をドナーにした国際的マーケットが形成されるわけです。臓器売買も生殖ツーリズムでも同じです。「家族愛」という美名のもと、日本では脳死臓器移植よりずっと多く行われている生体移植でも、実際には家族の中で弱い立場の人がドナーにさせられてしまうことが多いようです。こういうところも、ひどい人体実験の歴史で、犠牲にされてきた人々が、黒人であったり、知的障害者だったり、精神病患者だったりすることと相似的です。

 

ケアやそれをめぐる言説までもがシステムの一部に
 脳死臓器移植という生命操作システムは、もっと複雑な形になっていて、そのなかには「ケア」技術やそれをめぐる言説システムも組み込まれています。たとえば、脳死の人が亡くなっていくときの看取りのプロセスに、心理学的な言説が入り込んでくる。そこでは、遺族の人たちへの「グリーフケア」という名のもとで、心理の専門家がドナー家族の悲嘆プロセスに介入して、脳死臓器移植のシステムに奉仕する形で、ケアのための技術が用いられるのです。実際、ヨーロッパで脳死臓器移植の数が非常に多いスペインでは、そこに心理カウンセラーが制度的に組み込まれていて、脳死となった人の家族に対して「臓器を提供して役立てることはその人のためにも役立つし、遺族の心の負担も軽くなる」といった誘導的な説明をしていたりするわけです。
 また、救急医療に携わる医師が脳死判定をすることが多いわけですが、交通事故などで急を聞いて駆けつけてきた家族が取り乱しているなかで、脳死について説明をしたり、臓器提供という選択肢があると伝えることは、心理的負担が大きい。そうすると、救急医たちがそういった説明を渋ることによって、ドナーがなかなか現れないのではないかという言説が出てくる。それに対する対策のようなものとして、逆に臓器提供に協力することが家族の悲嘆プロセスにプラスになるという心理学的言説が出てきて、それに協力する形でカウンセリングの知識や技能をもった専門家が脳死臓器移植の現場に動員されていくという形になっていくわけです。このようなケアの技術を含め、多種多様なものが脳死臓器移植という全体のシステムを稼働させるために利用されているということです。
 山口研一郎さんに聞いたのですが、日本で臓器移植法が変わってから(2009年)、救急医は必ず臓器提供のオプションがあるということを脳死になった人の家族に説明しないといけないということになって、救急医療がパンクしそうになってしまったために、救急医学会のお偉いさんが小中学校の校長先生たちに「子どもたちに脳死は人の死なんだと教えてくれ」と頼みに回っているそうです。このように、みんながそのシステムに取り込まれていき、利用されていくという構造になっているのです。以前この市民講座で私の友人の看護師・MOTOKOさん(仮名)が話されたと思いますが、脳死臓器移植でドナーとなる患者の看取りに携わる看護師の悲嘆の問題もここに関わります。つまり、看護師にとって、その患者の死を看取るという営みと、移植手術に向けてドナーの身体を管理するという営みは両立しがたい。それを同時に行わなければいけない看護師たちは、その引き裂かれた悲しみのやり場がない。いわゆる「公認されない悲嘆」の問題ですね。

 

 

3、なぜ安楽死・尊厳死が「生命操作」の一部としてとらえられるのか?
 普通、安楽死や尊厳死を生命操作の一部としてとらえられることはないと思います。脳死臓器移植を可能にした人工呼吸器にしても免疫抑制剤にしても、あるいは体外受精にしてもIVH(中心静脈栄養補給)にしても、「生命操作」というのは新しく登場してきた技術によるものということでいけば、別に人を「死なせる」ためには特に新しい技術はいらないわけですから、安楽死や尊厳死は生命操作とは関係なさそうに思えてしまうわけですね。
 しかしそこに、「優生思想」とか「いのちの選別」といった補助線を引いてみることで、実はこれまでお話ししてきたような生命操作技術、あるいは遺伝子操作のようなものと安楽死・尊厳死に共通するものが浮かび上がってきます。つまり望ましい生命をデザインしていこうとすると、必然的に望ましくない生命を排除・抹消する方向に行くわけですし、その逆も同じです。生殖をめぐる生命操作では、出生前診断とそれに基づいた選別的中絶から始まって、着床前診断で特定の病気の遺伝子をもった胚を子宮に戻さない方法が開発され、さらには体外受精におけるすべての胚を対象に遺伝子のスクリーニングする方向が出てきて、ゲノム編集(遺伝子操作)で子どもを作ることも可能になってきました。

 

「優生思想」のとらえ方
 優生思想を学問的に定義するのはなかなか難しいですが、「優れた人と劣った人というレイベリングに基づいて、後者を排除し、前者を拡大する選別」というよりも、むしろ「優れた生(命)と劣った生(命)というレイベリングに基づいて、後者を排除し、前者を拡大する選別」というふうにとらえた方がいい、と私は考えています。なぜ「人」の選別ではなくて「生(命)」の選別だととらえる方がいいかというと、まず、優生思想イコール(実際に生きている)病者や障害者に対する差別ではない、ということが挙げられます。もちろんこれは「イコールではない」というだけであって、そうした「差別ではまったくない」とか「差別とは関係ない」ということではありません。次に、出生前診断による選別的中絶や着床前診断のような、生まれる前のいのちの選別というのは、(生まれてくるであろう)子どもを選別しているだけでも、そこで排除されるのと同じ病気や障害のある人々を選別しているだけでもなくて、そうした「生(命)」をもった人と出会い、共に生きることで開かれてくるような、すべての人にとっての「いのち」の可能性を断つ、ということでもあるという点が挙げられます。親にとっても社会にとってもそうですが、そういう人たちと出会い、共に生きることで、気づくような大事なものに気づく可能性をみんなが断たれてしまうということです。このことについては、以前に見たテレビ番組で、あるダウン症の子どもの親御さんが語っていた言葉が印象的でした。「障害のある子どもと暮らす生活は『絵に描いた幸せ』ではなかったが、いまは『幸せ』だ。なぜかと言われたら、絵の描き方が悪かったかもしれない」。
 さらに、こうした選別や排除は「自分自身の未来の生」にも向けられています。つまり、たとえば重度の障害のある人や重度の認知症の人を見て、「自分があのようになったら死にたい」とか「死を選ぶ」ということもまた、同じように優生思想やいのちの選別に直結しています。こういう言葉がもっている差別性や暴力性に気づいていない人が多いように感じます。

 

安楽死・尊厳死をめぐる言葉のトリック
 さて、拙著『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(岩波ブックレット、2019年)で詳しく書きましたが、「安楽死」や「尊厳死」といった言葉は非常にトリッキーな言葉です。まず、「安楽死」というのは「安楽な死」と同じではないし、「尊厳死」というのは「尊厳ある死」と同じではありません。安楽死や尊厳死という言葉で意味しているのは、なんらかの形で「死なせる」「死をもたらす」行為によって、安楽でない生(耐え難い苦痛に満ちた生)や尊厳がないとか尊厳が奪われた(ように見える)生から解放するということだからです。
 安楽死や尊厳死を定義する際に、その一部として「死期を早める」という言葉を使う人が多いのですが、これはとても怪しい言葉です。医師でも(正直な人は)死期や余命についてはなかなかわからないと言います。そもそも、私たちはいつか必ず死ぬわけですから、殺人であろうが自殺であろうが、あるいは医療ネグレクトのようなものでも、「死期を早めている」だけです。別に安楽死にだけに当てはまるものではありません。そういう言葉をわざわざ使うのは、「殺す」という言葉はもちろんのこと、「死なせる」とか「死をもたらす」という言葉も「悪いもの」というイメージがあるから、「安楽死=よい死」を定義するときに使いたくない、ということなんだと思いますが、とても不自然ですね。
 また、死なせることによって苦痛から解放するというのは、問題の解決というよりは問題そのものの抹消にすぎません。たとえば、耐え難いほどの苦痛を覚えている人に対して、薬剤によってであれ、他のケアやサポートによってであれ、何らかの対処、介入を行った結果、苦痛が緩和されたということは証明できますね。しかし、死なせることで苦痛がなくなったというのは、死んだ後のことであれば意味がないし、死んでいくときに、その人は苦痛がなくて「安楽」なのかというと、何一つその証拠はありません。むしろ反証になる報告はいくつかあります。たとえばは自殺の名所と言われるサンフランシスコのゴールデンブリッジから、飛び降りた人の100人に1人は助かるそうです。助かった人の話を聞くと、飛び降りた瞬間にものすごい後悔と苦痛が襲ってくるようで、助かった人で再度自殺を試みる人はいないそうです。
 安楽死に使う薬でも、たとえば筋肉弛緩剤を使うと、死の直前に全身の筋肉の強烈な収縮が起こるから、とても苦しいはずだという医師もいます。でも、苦しくてももうその人はそれを表現できないわけです。だから安楽死というのは別にその「死」の瞬間に安楽かどうかはまったくわからないし、たぶん安楽ではないのではないかと思います。
 ではなぜ、死にたいくらいの苦痛にある人や、その不安におびえる人にとって、安楽死が救いになるのかというと、「安楽死」という選択肢があることで、それまでを安心して生きられるということではないでしょうか。つまりそれは死の安楽でなくて、「生の安楽」なのです。そうすると、安楽死以外の手段によってもそういう精神的な転換は起こるはずであって、「このような苦痛からの解放のためには安楽死しか手段がない」という言悦は怪しいし、論理的に誤りだと思います。

 

安楽死・尊厳死の周りにある怪しげな言葉の数々
 他にも安楽死・尊厳死の周りには怪しげな言葉がたくさんあります。たとえば「治らない」とか「回復が望めない」という言葉もそうです。「治る」というのは「病気がない元の状態に戻る」ということだとすれば、慢性的な病気はすべて治らないわけです。また、がんであれ、神経難病のようなものであれ、病気が進行していくとQOLが一方的に下がっていくと誤解している人が多いのですが、これは間違いです。QOL(生活の質)をどのようにとらえるかにもよりけりですが、私は国立新潟病院の神経内科医・中島 孝先生が説かれているように、QOLを患者本人の主観的な満足度ととらえています。そうすると、「できることが少なくなることで、一方的にQOLが下がっていく」というのは間違いだとわかります。たしかに病気の進行によって、それまでできていたことができなくなると、その時にはQOLは下がるのですが、その状態に慣れて、機械の助けを借りたり、いろんな工夫をしたりして、安定して生活できるようになると、またQOLは上がるのです。ALS患者の場合も、呼吸困難になってくるとQOLは下がりますが、人工呼吸器をつければ楽になるのでQOLはまた上がります。病気が進むと一方的にQOLが下がっていくというのは、元気な人にありがちな誤解であって、そういう誤解が「安楽死」肯定言説を支えている面があります。
 また、安楽死や尊厳死には「過剰医療」という前提が置かれていることが多いですが、「私たちが(治療はもういらないという)はっきりとした意思を示さないかぎり、医師は最期の一分一秒まで延命しようとする」などというのは今や時代錯誤のフィクションです。
 私の知り合いで、大阪に住んでいる人(79歳)が、先日コロナで入院しました。持病(糖尿病)があるため、入院直後に「悪化したときには延命治療をどうするか」について意思決定を求められ、書類に記入させられたとのことで、
本人は深く考えず、「もう80近いし、延命治療なんていやだ」ということで×を書いたそうです。入院してから徐々に病状が悪化して、人工呼吸器のある重症患者専門の病院に移らないといけなくなるかもしれない、という状況になったようですが、医師がその息子さんに、「ご本人が延命治療はいらないと言っているので、そうなっても重症者の病院に移すことはできない」と言われたそうです。(コロナで病室には入れませんから)息子さんは何度も電話をし、母親を説得して書類を書き換えさせ、そのときには病院を移れるようにしたとのことですが、幸いなことにこの方はそこまで悪くならないで回復に向かったので、その必要もなくなりました。でも、ある意味、延命治療という言葉の悪いイメージを利用して、医療の側が高齢者への治療をやめる方向に誘導していく。今はもうそういう時代なんだということを知っておく必要があります。

 

「選択の自由」というワナ
 安楽死や尊厳死をめぐる「選択」というのは、出生前診断と選別的中絶における「選択」とよく似ています。一見、強制はまったくない「自由な選択」のように見えて、一方の選択肢を選んだ場合には自分自身や家族に大きな負担がかかってくるような状況のもとで「選択」を強要される、という形になっています。それはすなわち、もう一方の選択肢への強いドライブがかかっているということです。私はよくこういうたとえ話をしています。たとえば、テーマパークのようなところで一つしかレストランがないとする。そこのランチメニューは500円のカレーライスと、3000円のAランチと5000円のBランチ、1万円のCランチしかないと。そうすると、ほとんどの客はみんなカレーを選びます。それは別にカレーが好きだからでも、このレストランのカレーが特に美味しいからでもなくて、他のメニューを選んだときの経済的負担が大きすぎるから、それを選ぶしかない、ということです。
 たとえばALSの人が24時間介護の体制が準備できていない中で、人工呼吸器をつけるかつけないかという選択を迫られると、ほとんどの人はつけないということになってしまいます。詳しくは先に挙げた私のいくつかの論考をお読みいただきたいのですが、私は生命操作システムには、「死なさない(不死の)ベクトル」と「死なせるベクトル」が一体になっている、と考えています。一方で、さまざまな技術を開発して何とか命を延ばし、死なさないようにしようとするのですが、いくらそういうことをしても、人はいつか死にますから、それと同時に、そういう効果が尽きたときには「さっさと死なせる」「死を受容させ、あきらめさせる」ような言説がそれとセットになっている。一見、自由な選択のふりをして、ALS患者が人工呼吸器をつけないように誘導していくような言説はまさにこうした「死なせるベクトル」の働きです。「脳死」の人は「死んでいるのだ」と思い込ませることも、安楽死を美化することも、同じです。
 人が生まれてくるところでもまったく同じです。言い換えれば、「死なせないベクトル」は「煽り」の言説で、新しい生命操作技術の開発によって私たちの欲望をどんどん煽っていく。それに対して「死なせるベクトル」は「鎮め」の言説。満たされない欲望を鎮め、あきらめさせていく。私はよく、現代の医療や生命科学における生命操作システムというのは「タチの悪い宗教」のようなものだと言っています。タチの悪い宗教というのはマッチポンプになっていて、片方の手で人の不安を煽り、もう片方の手でその不安を鎮める救済を保証するのです。生命操作システムも一方で人々の不安を煽る。たとえば障害児が生まれたら大変だろう、とか、死ぬときにこんな苦しい死に方はいやだろう、と。そして、それを回避するためには出生前診断という方法がありますよ、安楽死という方法がありますよ、というわけです。私たちはそういうシステムに絡め取られることで、人生のなかでさまざまな形で訪れる生死の課題や試練のなかで、「いのち」に向き合うということができにくくなっているのではないでしょうか。

 

さいごに
 最後に、私(安藤)が小さい頃に、私の言うような「いのち」というものを初めて意識した出来事を紹介することで、今日の話を締めたいと思います。私は一人っ子ですが、当時(1970年前後)は今と違って、クラスに2~3人しか一人っ子はいませんでした。私は自己主張が強いので、「お前は一人っ子だからわがままだ」とか「協調性がない」などと非難されることが多かったため、親に「ぼくにはなぜ兄弟がいないのか」と聞いたことがあります。母が話してくれたところによると、両親は結婚してから10年近く子どもが出来なかった。妊娠はするものの、いつも流産していたそうです。あるとき、母が腹痛がひどくて病院で診てもらったら、盲腸が慢性化していて、子宮を圧迫しそれが原因で流産していたのだろうということがわかり、盲腸を手術で切除した結果、私が生まれたということでした。その時は、もっと早く原因がわかって母が手術を受けていたら、私にもお兄ちゃんかお姉ちゃんがいたのになあ、と残念で、母にもそう言ったのですが、後でよく考えてみて、あることに気づいたのです。もしそのときに流産の原因がわかって、母が手術を受けて子どもが生まれていたら、その子どもが「私」だったかもしれない、と思ったのです。そうするよ、私はずっと上の学年で、今の友達とは出会えなかっただろうと。そう考えると怖くなってしまい、それ以降は「私にも兄弟がいたら」ということを親に言わなくなったのを覚えています。
 このときに私が感じたのは、なにか「いのち」の大きな流れの中に「私」が「私として」生きている、そういう流れのなかでたまたま「私のいのち」があるという感覚だったと思います。もちろんそのときにそういう表現ができたわけではありませんが、このことは強く印象に残っていますし、今でも私の「いのち」についての考えはそういう感覚に基づいています。「私のいのち」は私のものでもなければ、私がコントロールできるようなものでもない。もちろん、自分の人生や生死に関することを他人に勝手に決められるのは避けたいし、そういう意味で「自分のいのちは自分のもの」と主張しなければいけない場面はあると思います。しかし、「自分のいのちは自分のもの」というのは、(そのように、あるときには有用で必要な)一つのフィクションにすぎないのではないでしょうか。
   ご静聴ありがとうございました。

 

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第16回市民講座の報告(2020年9月26日) 2-2 「いのちが軽くなる」ということ 生命操作と「死」の選択をめぐって

2021-03-02 19:25:32 | 集会・学習会の報告


第16回市民講座講演録 2-2

 

 

質疑

 

司会)最初に京都から参加されている小泉さんにご発言をお願いします。NHKのドキュメンタリーに対する抗議文や、BPOに対する審査要請文について、また京都で起きたALS嘱託殺人事件についても触れていただきたいと思います。

小泉)私は、京都の障害者団体、日本自立生活センターで活動している小泉浩子と申します。
 日本生活自立センターでは2019年6月5日にNHKで報道されました『彼女は安楽死を選んだ』が、私たちの尊厳や生命を脅かすような内容だったため、NHKに対して抗議し質問状を出しました。これに対してNHKから真摯な回答をもらえなかったため、BPOに対して審査請求の要望を出しました。安藤先生にも専門家としてのご意見を頂きました。ありがとうございました。残念ながらBPOは私たちの訴えを無視しました。NHKのあのドキュメントを何度も再放送し報道の問題点を理解しようとしませんでした。私たち障害者は社会から常に邪魔者扱いにされています。いのちすら否定され続けてきました。その中であの番組は、人の死を美しく描き苦しむ人はこのように死んでいけるよ、社会から邪魔者扱いされるなら死んだ方がいいというメッセージを与えました。また人工呼吸器使用者や病院に長期入院中の人に対して、あんな姿になって生きたくないというような、その人たち本人も傷つけるひどい言葉もそのまま放送されていました。私だってもちろん苦しいと思うときがあります。それでも仲間たちや支援する人たちと支え合いながら、時に幸せを感じる瞬間を歩みながら生き続けています。このような生き方があることを報道せず、生きていれば家族の迷惑、社会の迷惑になると受け取られかねない報道を、私たちは許せませんでした。同時に死にたい、死なせたい、このように感じる人がいるのではないかと危惧しました。実際にNHKに寄せられた視聴者の声を読むとドキュメンタリーに対する意見として、安楽死を受けているスイスの団体の連絡先などを教えて欲しい、など、民間の安楽死団体についての問い合わせが59件もありました。そしてまさに私たちが危惧したとおり、京都の地で嘱託殺人が起きました。NHKのドキュメントも大きな引き金になっているとの新聞報道もありました。私は障害当事者でヘルパー派遣事業所の管理者でもあります。そのためヘルパーが24時間入る形での暮らしも見てきています。ですから林さんがヘルパーと共に苦労していくことも想像がつきます。死にたいと思うこともあったと思います。死にたいとそう思うときに逆に死ねると思わせたら、自分自身の中で自然と凍えてしまうのだと思います。医者は人の命を救うことを全うして下さい。報道は生きる可能性を見いだせる報道をして下さい。国は人が生きるための手助けをするような制度を作って下さい。これ以上私たちを死へと追いやらないで下さい。よろしくお願いいたします。以上です。

 

司会)ありがとうございました。小泉さんに思いを語っていただきました。小泉さんのお話、安藤先生の講演について、ご質問やご意見はないでしょうか。

質問1)初めてオンラインに参加していて戸惑っています。安藤先生のお話を聞きながらいくつか確かめたいことがありました。ひとつはQOLという言葉ですが、僕は知能テスト批判をやってきた経過があって、その中で知能指数―IQが高いとか低いとか、隔離という話があって、IQからQOLへの繋がりでQOL概念を捉え、QOL批判をしてきたつもりです。
 確かに生きがいとか快適さとか生きる喜びなど個人のある状態という文脈で安藤先生はQOL概念を使われていると思いました。私は、「意識がある・考えることが出来る・世の中に貢献できる・役に立つ」と「生産性がない・迷惑をかける・役に立たない」という文脈の中で、「生きるに値するいのち」と「生きるに値しないいのち」を仕分けると理解してきました。QOLという概念がIQからQOLへという僕の理解と安藤先生の話された概念がどう関わるのか、すこしちがうなと思いました。その辺をもう少し詳しくお聞きしたいと思います。

安藤) QOLという概念は医学医療の分野でいろんな形で使われていますが、それを数値化するときには専門分野ごとに少しずつ違っています。もともとは建築とかデザインとかで使われてきた言葉のようです。私は、QOLという言葉を使う際には、次の二つを区別しないといけないと考えています。
 一つはある個人について、そのQOLを上げるあるいは下げない、維持することが治療やケアの目標になるというような、QOLという言葉の使い方です。たとえば、ある人が腰の骨を骨折したとして、もし手術を受けて辛いリハビリをしたら、再び自分の足で歩けるようになるとします。手術を受けなかったり、リハビリをしない場合、一生車椅子の生活になってしまうと。そういう場合に、その人にとって、手術を受けたりリハビリをすることでQOLが上がる、という言い方は医療の範疇で使っていいと思います。ところが、こういうことと、実際に自分の足で歩いている人と車椅子で生活している人を比べて、自分の足で歩いている人の方がQOLが高い、ということとはまったく別のことで、後者は言ってはいけないんです。QOLは治療的な介入によってある特定の人がどれだけプラスの影響を受けるか、その生の可能性がどれだけ開けるかとしての指標であって、別の人同士のQOLを比べて、どちらが高いとか低いとか言うことは、明らかな優生思想になるのではないかと思います。
 むかしから生命倫理学では、QOLという言葉が、それ(質)が低い場合に「生きる価値のない生命」というものを連想させるので危険だと言われていて、1970年代には、SOL(=生命の神聖さ)の倫理とQOL(=生命の質)の倫理の対立ということが語られました。つまり生命は無条件に尊いのか、質の低い生命は生きる価値がないから絶ってもいいのか、ということです。QOL(生命の質)の倫理を主張する人は、安楽死や治療停止を肯定する根拠としてQOL(が低いこと)を持ち出したわけです。
 このように、先に挙げたQOLという言葉の二つの使い方、すなわち治療効果としてQOLを上げましょうということと、別の人同士のQOLを比較して、QOLの高低を生きる価値の大小と結びつけることとはまったく別のことです。たとえば、医療資源を投入するときに、QOLがそんなに低くない人が治療によってQOLがここまで上がるのであれば大いに意味があるが、もともとQOLの低い人を治療してそれをほんのちょっとだけ上げるのは、それに比べて意味がない(から有限な医療資源をそこに投入するのは無益である)などとするのは、実は後者の使い方です。要するにこの概念は使い方次第だと思います。講演のなかでお話ししたように、今日私が述べたQOLという言葉の意味は、国立新潟病院の中島孝先生が提唱しているQOL概念(患者本人の主観的満足度)に近いです。QOLをこのようにとらえると、どんどん進行していき、できることが少なくなっていくような病気であっても、一方的にQOLが下がっていくことはありません。特にそういう病気の人については、さきほど述べた後者のようなQOLという言葉の使い方を避ける、すなわち生命の質の高低次第で、生命の価値や医療的介入の価値を判断するということを避ける、そういう考え方を批判していくことが重要だと思います。

 

質問2・小泉)BPOにだした後、たくさんの声が届きました。その中に「あんたらは生きていていいけども、私たち死にたいと思っている人の気持ちをあんたらはわかってないから、邪魔しないでくれ」という抗議の声です。安藤先生は「死を選ぶ」ことで問題を解決するのでない、「死んでいく人はほんとに苦しい」といわれましたが、安楽死したい、死なせて欲しいと思う人が多い中で、安藤先生ならそういう人にどんな言葉をかけられますか、お聞かせ下さい。

安藤)それはどういう人がそう言っているかによって違ってくると思います。実際に病気が進行して不安を感じている人なのか、そういう当事者ではない人なのか、あるいは家族とかなのか。京都の事件の後で多くのメディアから取材を受けて、記者の方との話で「実際に死にたいと安楽死を求めている人に対して、安藤さんならどうするんですか」と何度も聞かれました。そういう聞き方自体が、人をある属性でもって型にはめている、たとえば「ALSで病気が進行した人」という一般形で語っていると思います。しかし、「死にたい」と言っている人にどのように接するかは、その人との関係が違えば、当然違ってきます。たとえば、林さんは私の知り合いではありませんが、その人が私の知り合いであるなら、まずはコンタクトするだろうと思います。人の中には死にたいという要素はたくさんあるでしょう。要因は一人一人違います。今回の林さんについて言うと、報道でわかっているところだと、17の事業所からヘルパーが来ていたと言われています。こんなことは普通あり得ないことで、その中には未熟なヘルパーもいるし、男性のヘルパーが入浴介助したときには「尊厳を傷つけられた」と語っているようですね。17の事業所のヘルパーのローテをやりくりするだけで気の休まる時がない状態、この方が安楽死したいと思っていったのは、病気が進行しているからだけでなく、他にもいろいろな要因があるわけで、それは「死にたい」と思う人それぞれで違っている。逆に「生きたい」という方向に向かわせる要因も人によって違います。社会とか他の人との関わりの中で、それぞれの人の「死にたい」要因の方が強くなったり、「生きたい」要因の方が強くなったりします。小泉さんが挙げられたNHKのドキュメント番組は、実際に林さんの「死にたい」という要因を強め、その背中を押してしまいました。嘱託殺人を実行した大久保医師自身も何回も自殺未遂をしていて、「死にたい」と思っていたようですが、SNSでの林さんとやりとりのなかで、お互いの「死にたい」という部分が共振し合ったというか、ある種の不幸な化学反応が起こり、林さんは「わかってもらえた」という思いを抱いて、「死にたい」思いがさらに強まったように思います。誰とのどういう出会いの中で、その人のどういう「死にたい」思いと「生きたい」思いの要因が引き出され、そこでどういう反応を起こすかは、個別的問題です。同じALSの方で私も一緒に講演したことがある竹田主子さんは、死にたいという思いから生きたいという思いになるのに4年かかったとおっしゃっています。それは常に変わりうるのです。安楽死を肯定する人は、個人の死生観や価値観次第で、同じ状態になったときに死にたいと思う人も生きたいと思う人もいるので、死にたいと思う人の死生観や価値観も尊重しなさい、などと言うことが多いですが、これは間違いです。何がどう変わるかはわからないが、生きている限り、人はいつでも変わる可能性があるのです。大事なのは、今日一日を生きることだと思います。生きるか死ぬかという決定を先延ばしする中で、何かが変わるかもしれない。自分が変わるかもしれないし、新しい出会いがあるかもしれない。それを信じるしかない。「死にたい」と言っている人をこちら(生)の側に引っ張ってくるのは無理なことでしょうが、それは「死にたい」のだから生きる可能性を閉じてしまってもよいということとは違います。まずは今日一日を生きることです。

小泉)ありがとうございます。

司会)死ぬ方向に持って行く風潮とか、戦時中に潔く死ぬことが美学であるという時代があったように、個人の思いだけでなく、政策そのものがその方向に向かっているように感じます。

古賀)死にたいことを選ぶことを何故邪魔するのかという声について、この間、林さんのALS嘱託殺人事件の声明を書く時に、考えてしまった所です。個人が死ぬことを選ぶのは個人に限定されないと思います。その方が死ぬことによって死ぬ人を増やしてしまうことがあるんですよね。スイスの自殺幇助団体にかなりの日本人が登録しています。ディグニタスに2019年末の段階で47人登録している。その人たちの動きを次々に報道されてしまったら社会がどうなってしまうのか。危うさがある。死んで欲しくないと言いたいし、死にたい人に一緒に生きようよといえない社会はおかしいと思うし、他の人の死を呼び寄せてしまう社会的影響もある。24時間の介助が京都市でどう作られてきたのか。生き抜こうとした人がいたから出来てきたと思います。死にたいという人が次々に出てくると、生きるための基盤も壊れてしまうのではないかと思っています。

 

質問3)生きるために遺伝子操作に期待するという人がいますが、後になって予期しないことが起こるかもしれません。そういう人にはどう声をかけていくのか聞かせて頂きたいと思います。

安藤)遺伝子操作というと、本人ではなくて、これから生まれてくる子どもについてのことですか。たとえば親がその遺伝的素因をもっていて、子どもがそれを受け継ぐと致死的な病気が発症する可能性が高い場合にということでしょうか? 今のところ現に生きている人の遺伝子治療は成功していないと思いますが。

古賀)パーキンソン病などでもiPS細胞を大量に突っ込んだり、かなり実験していますよね。その辺のことも含めて。

安藤)本人に対する遺伝子治療ということでいうと、新しい治療はほとんど全部そうですが、要するに(広義の)人体実験の被験者になるということですね。その場合は、新しい抗がん剤の実験などと基本的には同じことで、被験者になることによるメリットとデメリット(リスク)を正しく伝えられた上で、本人が同意をしていれば、大きな問題はないと思います。もちろん、医師や研究者の側から、リスクを過小評価したような情報が与えられ、実験台になるように誘導するような形で進められる可能性は結構あるので、それは批判していかないといけませんが、本人がそういう実験的治療(によるメリット)を求めること自体は批判できないと思います。
しかし、これが遺伝子操作をして特定の病気の遺伝子をもたない子どもを産むということになると、話は違ってきます。子どもにその遺伝子を受け継がせないというためだけなら、現在でも着床前診断で、その遺伝子をもたない胚を選んで子どもを産むことができるわけですから。それを越えて、遺伝子を改変してまで産むということになれば、倫理的なハードルはすごく高くなります。つまり、その病気にならない子どもやその遺伝子をもたない子どもを産むための他の方策があるにもかかわらず、オフターゲット効果などによって生まれてくる子どもに将来どんな有害なことが起きるかわからないような、そういうリスクを子どもに背負わせる遺伝子操作を親が決定するというのは、よほどのことがないと正当化されないでしょう。つまりこれは本人ではなく(これから生まれてくる)子どもを非常にリスクの高い人体実験の被験者にするということですから。

 

大塚)先ほどのQOLとか、バクバクの会で認識しているのは、生活の質を高めましょうと言うことであり、生命の質という面でのQOLは考えたこともなかったので、そう考える人もいるんだなと気づかされ、びっくりしました。
 自分のいのちだから自分で決めていいと言う人がいると言うことですが、いのちは自分だけのものではない。バクバクの会の「いのちの宣言」に、「皆つながっているいのち」とありますが、過去から現代にそして次の世代につながる、自分だけのいのちではないんだから死んではいけないと宣言文の中でも言っています。いのちを生き切ると。本日は考えさせられ、整理が出来たような気がしました。

利光)ひとつだけ、「胎児に障害がある」という言い方は問題と提起されたこと、私も「胎児に障害がある場合」と言ってしまっていたけれど、ああそうだなと、気づきがありました。

 

司会)最後に安藤先生から一言お願いします。

安藤)「生命操作」というテーマでお話しさせていただきましたが、究極的には「生命は操作できていないし、できない(のではないか)」と思います。体外受精もせいぜい20%の成功率、40年以上経ってこのレベルだし、臓器移植も一生免疫抑制剤を飲み続けなければいけないわけだし。「生命」というものは私たちが本質的にコントロールできないもので成り立っています。先ほどの「いのちはつながっている」というのはまさにその通りで、誕生の前後で切れているわけでもないし、亡くなる前後で切れているわけでもない。DNAのレベルでは人間の生命と他の動物の生命だって、どこかで切れているわけではありません。私が言うようなそうした「『いのち』の大きな流れ」のなかで、私たちはたまたま自分の人生を生きているに過ぎないのです。そういう意味では、「生命(いのち)」についての科学的知見がなかった昔の人の認識と、生物学、遺伝学による詳しい知識によって気づかされる認識というのは、そんなにずれていないとも言えます。むしろ「生命」を科学的に探究していけばいくほど、それは簡単に操作などできるわけがないということに行き着くかもしれません。科学的な認識と古来からの宗教的・文化的感覚は、必ずしも矛盾したり対立したりするものではないと考えています。

 


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