臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第19回市民講座講演録(2024年2月3日) 2-1 「わたしはここにいます」~“超重症児”のわたしらしい生き方の実現のために~

2024-06-24 16:33:08 | 集会・学習会の報告

臓器移植法を問い直す市民ネットワーク 第19回市民講座講演録 2-1

 

「わたしはここにいます」
~“超重症児”のわたしらしい生き方の実現のために~


講演 西村理佐さん

日時:2024年2月3日(土)14時~16時45分
会場:江東区亀戸文化センター(カメリアプラザ)
会場とオンラインを併用

 

 

写真は、左が西村帆花さん、右が西村理佐さん

■講師・西村理佐さんのプロフィール
1976年 横浜生まれ。明治学院大学文学部心理学科卒業後、都内医療機関の医事課や看護対策室、さいたま市内 クリニック勤務。
2007年 帆花さん出産 臍帯内動脈断裂により新生児重症仮死「脳死に近い」と宣告される。2008年 帆花さん生後9ヵ月より在宅生活開始。
2010年 『長期脳死の愛娘とのバラ色在宅生活  ほのさんのいのちを知って』出版(エンターブレイン)。医療機関、大学、看護学校等で講演活動
2021年 帆花3歳~6歳までを撮影したドキュメンタリー映画「帆花」全国公開。
2023年一般社団法人ケアの方舟設立。帆花さん16歳(特別支援学校高等部訪問籍1年)。

■講演概要
 生後すぐに「脳死に近い状態」と宣告された娘、帆花。さまざまな医療的ケアをマスターし帆花との在宅生活を開始して間もなく改正臓器移植法が成立。我が子をどう受け止め、どのように育てていくのか、この子の人生とはいのちとは……。「超重症児」にカテゴライズされた娘は医療に管理され、障害福祉サービスにあてはめた生き方しか選ぶことができないのか。苦悩する母をよそに、たくさんの人と関わり合いながら逞しく成長する姿に学ばされてきた16年。心身共に健やかに成長していく帆花の“思い”を汲みとろうと、支援者と共に彼女の考える“わたしらしい生き方”を探る日々。「わたしはここにいます」という帆花の声にならない声に耳を傾けてください。 

 

 


 

 皆さま今日は、西村理佐と申します。帆花の母です。西村理佐さん

 帆花は今16歳になっておりまして、特別支援学校の訪問籍で、先生が自宅に来て授業をしてくださっています。昨日は節分にちなんで干瓢の勉強をしました。私は母が煮てくれた干瓢がすごく好きだったのですが、自分で煮たことはなく、そもそも干瓢が何であるか知らなくて、帆花が授業で勉強した時にユウガオの実だと初めて知りました。私も帆花と一緒に勉強しております。


 本日は、「『わたしはここにいます』~超重症児のわたしらしい生き方の実現のために~」と題してお話しさせていただきます。

 帆花が生まれて16年経ちますが、生まれた時から現在に至るまで帆花が「わたしはここにいるよ」と言っているように何度も感じています。

 それは私に言っている時もあり、世の中に対して言っていると思う時もあります。帆花が何を言いたくて、「わたしはここにいます」と呼びかけているのか、頭の隅に置いて、これから私が話すことを聞いて頂けると有難いかなと思います。

 

本日のお話

 本日のお話の内容ですが、帆花は生まれた時に「脳死に近い」と言われたわけですが、脳死ということとの関わり、そして16歳になっていますので、現在に至るまでのプロフィール、医療との関係、帆花の存在から私が学ばされてきたこと、帆花とどういうふうにコミュニケーションをとっているのか、帆花が今、「自分らしく生きたい」と願っているはずだと思うのですが、どうしたら「わたしらしく生きられるか」ということをお話したいと思います。

 

脳波は平坦、萎縮も始まっている
 帆花が生まれたのは2007年10月17日です。おなかにいるときは特にトラブルがなかったのですが、まさに生まれるという時に分娩台にあがったところ、「羊水が血で濁っている」と、そこから緊急事態になりました。待っていては命が危ないからと先生が私に馬乗りになって、おなかを押して帆花が出てきました。それが誕生の場面でした。

 生まれて10分間の心肺停止、おなかから出てきてから10分ですので、いつの時点で心肺停止していたのか分からないけれども、10分間の心肺停止後、蘇生したということです。そして生後20日目に厳しい宣告を受けました。「脳波は平坦、萎縮も始まっている。目は見えない、耳は聞こえない。今後、目を覚ますことはないでしょう。それでも元気に成長しますよ」と先生に言われました。

 これを私、主人と2人で聞いたのですが、この説明を聞いて、自分の子がどういう状態なのか全く想像がつかず、ただ素人考えで脳死という言葉を何となく知っていたので、「先生、それは脳死ということですか?」と質問してしまったわけです。その時の先生の説明は、「赤ちゃんとか子どもは脳死というふうには言わないけれど、それに近い状態と言えますかね」というふうに言われました。

 この説明で、この子がどういう状態でその後生きて行くのか、全く想像がつかなかったわけです。恐らく重い障害を抱えながらと想像できましたが、脳死に近いとなると、本当にどういうことだかわからなかったというところです。

 

「脳死」ということばの呪縛
 障害を抱えながら生きていくということにプラスして「脳死に近い」と言われたことで、私は脳死という言葉に何か呪いにかかったというか、それぐらい混乱しました。辛い思いをして、その中身が何だったのかと考えると、大きく分けて3つかなと思っています。

 一つは、人間には多数の臓器がありますが、そのうちの脳という一つの臓器の機能が失われた状態に対して「死」という絶対的な意味を持つ言葉を付けることのインパクトです。生きている人に対して「死」という言葉をつけてしまう、しかもただ一つの臓器の機能が失われているだけでということの重みについてです。


 帆花の場合は、生まれたばかりの赤ちゃんでした。赤ちゃんというのは、これから成長して行く発達して行くスタートの象徴です。そのような存在に、いのちの終わりである「死」という言葉がつけられてしまったこと。その赤ちゃんがどんな人生を送っていくのかと考えるときに、「死」という言葉のインパクトが大きかった、それが一つです。

  二つ目は、脳という臓器の絶対的存在感です。医学的に脳がどんな働きをしているのかは説明できないけれど、人間のすべてを司っている臓器が脳だというイメージがあります。加えて人間らしさの象徴というイメージもあります。人間の心ってどこにあるのかと考えた時に、心臓を指す人もいるし、心って脳にあるとイメージされる方もいます。人間らしさの象徴で、すべてを司っている存在感のある脳の機能が失われている人は生きているといえるのだろうか。あるいは死んではいないけれども、生きていないんじゃないかみたいな、そういう思いがありました。

 そして三つ目は、2010年7月に改正臓器移植法が施行されましたが、その時に大きく変わったのは、家族の承諾で15歳未満の子どもの臓器も提供可能になったことです。この改正臓器移植法ができた時には、私も帆花にかかわる何かがあるんじゃないかとすごく危惧して、どんなふうに法律が変わるのかとか、国会で通過する時にいろいろ勉強したりしました。当時、改正臓器移植法が成立したときに「脳死は人の死」のような見出しで報道がされました。正確には「脳死=死」とされるのは、臓器提供に係る場面においてのみの概念なんですが、あたかも全ての場面において「脳死は人の死」とされたかのように誤解をしている方もたくさんいると思いますし、そこがすごく問題だなと思っているところです。


 先ほど生まれて20日目に先生から宣告を受けたという話をしましたが、私たちが素人考えで「それは脳死ですか」って質問をした時に、先生が「お子さんはそういう表現をしないんですよ」と答えられた。なぜかというと、ここに関わるのですが、帆花が生まれたのは2007年でした。当時の法律では親の承諾で子どもの臓器をとりだすことはできなかったので、小さな子どもには脳死という概念は用いないという意味で、先生がそういう風な説明をされたということを後から理解しました。

 こんなことで生まれたばかりの帆花、これからどうやって育てていこうということと、脳死という言葉の呪いにかかって私も非常に辛い思いをしておりました。

 

「おかあさん!わたしはここにいます!」
おかあさん!わたしはここにいます! 生まれた時に帆花がこのような状態になってしまい、私も現実を整理できなかったこと。そして脳死という概念に苦しめられたことで、私は、うつ病になってしまったんですね。身体的にも精神的にもすごく辛かったのですが、NICUに入院している帆花に毎日、搾乳して凍らせた母乳を持って、面会に行っていました。家に居る間はうつのために布団から出ることも着替えることもできない状態だったのですが、帆花が待っていると思い、一生懸命着替えてバスに乗って病院に行くわけです。そうすると、厳しい宣告を受けた赤ちゃんとは思えない様子の帆花がそこで待っているんですね。どんな様子かというと、生まれてすぐに口から管を入れられて人工呼吸器に繋がれ、モニターやら点滴やらたくさんの管が繋がっているんだけど、スヤスヤと穏やかに眠っているように見える。眼も開いてないし、もちろん泣くこともない。けれど何ですかね?全然そのような重症な赤ちゃんに見えないのです。「おかあさん来たの?」みたいなあどけなさがあって。本当に可愛い赤ちゃんそのもので、むしろ生きる力に満ち溢れているように感じられたんですね。

 そんな帆花の様子を見ると、さっきまで家でうつで苦しんでいた自分が嘘のようにパワーが湧いてきました。でも、そもそも私がうつになったのは、帆花がそのような状態になってしまったことが原因でしたのに、当の本人は「あれ、おかあさん来たの?」みたいなのほほんとした感じで、私を迎えて励ましてくれているようで、「一体これはどういうことだろう?」という混乱も生まれておりました。

 この先、帆花がどんな風に成長して生きていくのか、全く想像がつきませんでしたし、こういう子どもが私達夫婦のところに生まれてきたことで、自分の人生に何が起きたのかも全くわからなかった。帆花を受け入れるのか、受け止めるのか、どうしたらいいんだろうということもまったく分からない。だけど会いに行くとかわいい赤ちゃんが「おかあさん、わたしここにいるよ!」と言っているように見えたのです。

 それで私がどうしたかと言いますと、この混乱の状態や、“脳死に近い状態”と宣告されたことなどについて、すぐに答えの出る問題ではないと、一旦棚上げすることにいたしました。そして、この先ずっと医療が必要で、呼吸器と共に生きていくのだけれども、それでも私たちの所に来た可愛い赤ちゃんで、彼女なりに成長していくのだとしたら、一生病院で過ごすのではなくて、とにかくおうちに連れて帰ろう、おうちで育てようと、割とすぱっと決めました。

 

帆花プロフィール
 ここで帆花のプロフィールを現在に至るまで整理したいと思います。2007年10月に生まれて、その年の年末に、生後3か月足らずで私は(主人はもう少し時間がかかったように見受けられました)、家に連れて帰ろうと決意していました。連れて帰るとなると、さまざまなサービスを利用して支援を受けながら暮らさなくてはいけない。そのためには障害者手帳を申請して、それをいただかないとサービスが受けられないんですが、当時は3歳ぐらいにならないと申請もできないと言われていました。なぜかというと、ある程度、成長して障害の度合いが固定してから手帳を交付しますよということだったのです。私が、先生達に「この子を連れて帰りたいから手帳を申請するので書類を書いていただきたい」と言ったら、「いや、ちょっとまだ産まれたばかり、生後3ヶ月だし無理じゃないか」と言われました。しかし私としては「いやいや、この子はこの先、良くなることは絶対ないから、そしてこれ以上に悪くなることもないから、もうすでに障害固定しているので、3歳まで待つことはできないからどうしても欲しいです」と申しまして、先生方、看護師さんたちも「そうか、お母さんたちがそこまでの覚悟でおうちに連れて帰りたいのなら」と、いろいろな手続きを進めて下さったのです。

 年が明けて3月に気管切開手術を受けました。先ほど申しましたが、生まれてすぐに口から管を入れて呼吸器に繋いでいたのですが、おうちに帰るということになり、喉仏のところに穴をあけてそこに呼吸器を繋ぐためのオペを受けました。

 そのオペを経て、1ヶ月後の4月にNICUという温室から一般の小児科に転科し、そこから在宅生活の準備をしました。現在では、在宅で過ごす重度のお子さんがかなり増えていますが、当時はその病院でも帆花のような重症の子がおうちに帰るのは初めてのケースでしたし、病院としての退院支援とか、ケアの指導というのもきちんと構築されてはいませんでした。私はとにかく一日も早く連れて帰りたいと思っていたので、いろんな医療系・看護系の雑誌を読んで情報を収集して、どんなふうにチーム組んだらいいのか、誰に何を頼んだらいいのか、あるいは何をそろえないと帆花は帰れないのか、おうちをどういうふうに改修したらいいのかとか、いろんなことを猛勉強して調べました。最も難しかったことは、生まれてから一緒に暮らしたことがない、しかも、“正体のわからない”帆花の体調をどうやったら把握できて、元気でいられるようにケアできるのか、どのようにおうちで育てていけばよいのかということでした。そこで私は一般の小児科に転科した帆花に朝9時から夜9時までずっと付き添いながら、帆花の様子をじっと観察して「あ、こういう時こうなんだな」とか、「こういうときは痰とってあげなきゃいけないんだな」みたいなことを誰も教えてくれない中で帆花から聞いて、こういう風にやるんだと学んでいきました。それと同時にいろんな手続きをしたり物品を揃えたりということもやりました。私の計画では、それらを全部3ヶ月間でできるという計画でしたので「3ヶ月で帰ります」と病棟に宣言し、計画を実行し、本当に準備期間3カ月で、2008年7月21日、帆花生後9ヶ月で在宅生活をスタートさせました。

 病院でも初めてのケースでしたけれども、地域でもここまでの超重症児と呼ばれるような児はいませんでした。障害者手帳は交付していただきましたけれども、例えばヘルパーさんを利用したいと役所に相談すると、「赤ちゃんなのにどうして?お母さんがいるのにヘルパーさんが必要なの?」と言われたり、門前払いされることも多く、まずは一から帆花の状態やケアの状況などを説明しながら支援を求めました。そこから役所との交渉の人生がスタートしたということです。

 あれから16年経って、帆花のように医療的ケアが必要な子が地域に増えてきたことで徐々に制度が整ってきました。しかし、帆花の場合はケアの個別性や頻度が本当に高いことから、ニーズもレアなものなので、交渉しても前例がないと現在でも言われ続けております。前例がないこと、少数の声が届きにくいことで、彼女がきちんと生活するための充分な支援を受けることは今でも難しい状況です。

 先ほどお話しました改正臓器移植法の施行が2010年7月でしたが、これが在宅生活をスタートして2年ぐらい経ち、ようやく慣れて家族3人が楽しく過ごせるようになった頃でした。そのような頃に、たとえ帆花のような赤ちゃんでも、15歳未満の子どもの臓器を親の承諾で取り出すことができるという法律が施行されたことは、本当にすごくショックでした。もしこの(家族の承諾だけで子どもの臓器が提供できてしまうという)法律が帆花が生まれた時にあったなら、私たちどうしてたんだろう?「元気に成長するよ」と先生に言われたけれども、それがイメージできずに、「私たちの赤ちゃんの臓器は誰かの役に立ててください」と言うことが善意だと判断して、帆花の臓器を差し出してたかもしれない。帆花のいのちが誰のものなのかも深く考えもせず、そして頑張って連れて帰ったらここまで16年生きてこられた帆花のいのちがそこで終わっていたかもしれないと考えると、本当に恐ろしいことだと思っております。

 

 特別支援学校小学部に入学するまでは、医療とか介護の方たちの支援を受けながらおうちで暮らしていたわけですが、発達とか成長という分野では療育センターに通うという方法があって、帆花も行ってはみたのですが、そこで療育センターのお医者さんに「帆花ちゃんが何かを習得するとは到底思えない」みたいなことを言われて、私も悔しい思いをし、結局療育というものを受けられずに過ごしました。そして2014年の4月に晴れて特別支援学校の小学部訪問籍に入学しました。基本的には先生が自宅に来て授業をして下さいますが、通学のお子さんたちと一緒に行事を楽しむとか、通学のクラスの授業に一緒に参加するという機会もたくさんあります。入学までは同じ年齢のお子さん達と関わる場面が一切なかったので、帆花もドキドキしたと思います。帆花に、お友達とかかわったり、先生と一緒に何かをやることができるのかという不安もありましたが、新しい刺激をもらったことで、学校に入ってから著しく成長してきました。

 2021年9月に医療的ケア児支援法という法律ができました。医療的ケア児支援法では、“医療的ケア児”と呼ばれている子どもたちが不自由なく暮らせるようにということと、親の負担の軽減、例えば親が働きに行けるように、みたいなことも進んではきています。しかし、先ほども申しましたように帆花のニーズがすごくレアなので、この法律ができたからといって、何か帆花の生活が変わったかというと残念ながら変わってはいないどころか、支援を求めて声をあげるけれども、それがなかなか届かない、逆に届きにくくなったという現状があります。

 そして現在、特別支援学校高等部の1年で今年2年生になります。

 一つ忘れてしまいましたが、現在、在宅で暮らす、重い障害を持ち医療的ケアが必要な子どもたちがすごく増えていますが、そういう子たちがどういう風に生活しているかというお話です。訪問看護を受けたり、ヘルパーさんに助けていただいたりということがあります。その他に「生活を支える」という意味における大きなサービスとして「レスパイト」「短期入所」というものがあります。1週間とか子どもを預かってもらって、その間に親がちょっと休息するというものです。帆花の個別性の高いケアは、実施するのに熟練が必要でして、その上、ケアの回数がかなり多いので、限られた人員体制の中での集団生活は非常に難しいです。そして、彼女なりの方法で「こうして欲しい」ということを訴えることができるのですが、それがなかなか慣れない人には伝わりにくくて、そのことで必要なケアが行き届かず、いのちに関わるようなことがレスパイト中に起きてしまったことがありまして、この11年、レスパイトや短期入所は利用できずにいます。 

 在宅生活を開始した頃は、そのような帆花の特性を理解しておらず、レスパイトについて「在宅生活継続のために必須のサービス」であるとか、「慣れたら大丈夫」、「子どもにも少し我慢させることが必要」「親離れ子離れの第一歩」などと指導されていたこともあり、私も帆花に何度もチャレンジさせていました。集団生活では看護師さんの数が限られており、一人の子供のケアにかけられる時間が少ないです。加えて個別性の高いケアを頻回に必要とする帆花には不向きなサービスであるにもかかわらず、そこに気付くことができずに、いつかは安心してお預けできるだろうとチャレンジさせてしまっていために、預けている時にいのちに関わるようなこと(痰詰まりからの酷い肺炎)が起きてしまいましたので、5歳から現在に至るまで一切レスパイトが利用できないでいます。具合が悪くて入院が必要になった場合でも、病棟の看護師さんが帆花のケアに不慣れで、ケアが十分でないといのちに関わるということで、入院すらもできない状況が続いています。

 

「医療」とカテゴライズ
 帆花のプロフィールの説明の中に、「超重症児」とか「医療的ケア児」などのカテゴライズの名前が出てきました。よく「うちの帆花は“超重症児”なんですけれど」と私も言ってしまうのですが、「超うれしい」とか「超たのしい」とか言いますね、「重症どころか、もう超重症なんだ」って、私が勝手に言っていると思われてる方が実際いるんですけど、そういうわけじゃなくて、きちんとしたカテゴライズの名前なのです。

 障害の分類として1970年代から使われている大島分類というのがあります。これは重度の知的障害と重度の身体障害を併せ持っている人を「重症心身障害児」と呼ぶという分類です。これには医療的ケアのことは含まれていません。

 「超重症児」というのは、どんなカテゴライズなのかといいますと、これは医療に関わるときの診療報酬上の分類です。ここに細かい表が出ておりますが、レスピレーター管理、(呼吸器をつけているか)、酸素吸入しているか、一日に何回吸引するか、のような医療デバイス、つまり使用している医療機器、あるいは必要な医療的ケアなどをスコアにして、それを計算して25点以上でかつ座位保持が不可能、医学的な管理が必要な状態が6ヶ月以上、ということで「超重症児」という分類がされます。これをざっと計算すると帆花は少なくとも44点ぐらいです。

 

重症心身障害児、(準)超重症児、医療的ケア児、の関係
「医療とカテゴライズ」 「重症心身障害児」「超重症児」、あるいは「医療的ケア児」というカテゴライズの関係、どこに当てはまる人なのか、ということを重ねてみると、次頁の図になります。難しいのは「重症心身障害児」に当てはまらない「超重症児」がいたり、「医療的ケア児」であっても「超重症児」ではない人もいるということです。一言で「医療的ケア児です」と言っても、どこに属するかによって、実態が全く違ってくるのです。最近ニュースで医療的ケア児にまつわる特集が組まれたりしていますが、“医療的ケア児”とひとくくりにしても、いろんな実態があるのです。この赤い四角で示した「医療的ケア児」の最下部に位置する人は、例えば吸引が必要だけど元気に歩いている、知的にも全く問題がないお子さんのイメージです。同じ医療的ケア児でも、帆花のような子もいれば、歩いていてしかも知的にもクリアですというお子さんもいるので、この分類だけではそのお子さんの実態はわからないということに注意が必要なんですね。

 医療的ケア児支援法ができたと言っても、当然その中身は、全ての「医療的ケア児」をカバーするのは不可能で、「医療的ケア児」のなかでも大多数の方のための何かから進められていく、というイメージです。この分布のなかでは帆花のような少数派は“点”であり、そこに属する人たちが求めていること、それを解決するのは本当に難しいです。帆花はこれまでいろんな支援を求めてきましたが、まずは帆花の実態を理解してもらうことから始めないと「“医療的ケア児”で、“超重症児”で」と説明しても、帆花の実態を思い浮かべてもらうことは容易ではなく、詳しく説明すると「え、そんなことあるの?」となってしまうのです。少数派は努力して実態を説明し、それを理解していただいて初めて、支援を求めるステージに立てるのです。

 いろいろお話ししてきましたが、帆花が一体どんな子なのかというイメージがつかめないかもしれませんので、2022年のお正月に公開された『帆花』というドキュメンタリー映画、私たちの日常をただ淡々と流すというドキュメンタリーなんですが、その予告編をちょっと見て頂いて、帆花がどんなふうに生活しているのかというイメージを持っていただきたいと思います。ご覧ください。

 

YouTubeで公開されている1分56秒間の予告編は、右記URLでご覧ください。https://youtu.be/5waoFEXYqJU

「私と帆花とふたりっきりな気がする」「何をしているのか確かめたい時がある」
 ご覧頂いたのがドキュメンタリー映画『帆花』の予告編でしたが、どんな風に暮らしているかイメージして頂けたでしょうか。普通に、普通の子供として、家庭で生活している様子がちょっとわかって頂けたかと思いますが、この映画を撮影したのは帆花が3歳から6歳まで、小学校入学前までの撮影期間でしたので、今から13年前です。だから今ご覧いただいた帆花は本当に小さい時の帆花です。今はもっと大きいです。

 そして暗い顔をして、私が心の叫びを吐露している場面がありましたけれど、「私と帆花とふたりっきりな気がする」とか「何をしているのか確かめたい時がある」とボヤいておりました。このドキュメンタリー映画は編集にすごく時間がかかっていて、劇場公開したのが今から3年前でした。撮影終了してから、7年経っています。ですから私の心の中も大分変わったところで、「映画が完成しました」と監督から見せられました。この「私と帆花とふたりっきりな気がする」と呟いた場面を見て、なんであんなこと言ってしまったのだろうと。これを日本全国の人に見られるのかと思ったら、すごく嫌だなと最初は思いました。しかしよく考えると、あの当時の気持ち、私たち生活の状況が、その一言にすごく込められていたので、今はむしろよかったと思っています。

 では私のこの発言の意図するところはなんだったのか。一つには、「脳死に近い状態」と宣告された混乱のまま、一旦棚上げした問題を抱えながら始めた在宅生活で、その問題に対する回答をいつもせっつかれてるような精神状態だったことです。「どうしたら答えが出るんだろう、脳死ってなんだろう」と。二つ目には、医学的には「脳死に近い状態」であるはずなのに、目の前の帆花がどんどん可愛くそしてさまざまな成長をみせてくれていた、ということです。今ご覧いただいた予告編でも時折、帆花が「うーん」などと言ってましたが、こちらが帆花に話しかけるとまるで「うん」と返事してるようで、なんとなく「いやだ」とか「いい」などはわかるし、なんとなく「今、寝てるのかな」みたいなことがわかったりとか、いろんな彼女の表出が分かってきて、「脳死とは何もわからない状態なのでは?」と、医学的見地と私が目にしてる帆花とのギャップで苦しんでいたということです。そのギャップが何なのか、その疑問をもひとりで解決しなければならないという孤独感もありました。三つ目に、24時間注意が必要でケアもひっきりなしにあったので、帆花と暮らしてるリビングだけが私と帆花の世界、主人は仕事に行くので外との繋がりがありますが、私と帆花はここだけで暮らしてるみたいだという、社会から切り離されたような孤独感もありました。そのようなことからあの時の私は「帆花とふたりっきりな気がする」と語ったのだと振り返っています。 

 さらに、「ふたっりきり」と感じていた大きな理由として“ケア”にまつわることがありました。在宅生活に向けて病院から指導されたのは、「2時間ごとに体の向き変えてね」とか、「その時に吸引してね」のような、教科書的なケア方法でした。当時の私はそれに忠実に一生懸命ケアをしていましたが、すぐに帆花の具合が悪くなっていました。せっかく苦労して連れて帰って来たのに、毎年冬になると痰が詰まって呼吸不全になったり、肺炎をおこしたりしていました。こんなに一生懸命に帆花のケアをしてるのに、どうして具合が悪くなってしまうのだろう」、「これはひょっとして帆花には不十分なケアなんじゃないか?」「“教えられた通り”、“教科書通り”は、帆花には合っていないのでは?」と、徐々に気づき始めたのです。「じゃあどうしたらいいのか」は、誰も教えてくれない。ではどうするか。本などで医学的な知識は勉強しますが、あとは帆花に聴くしかないのです。どんな時にどういう風にしたらいいのかを、一生懸命勉強しながら帆花に聴いて帆花が元気に過ごすための充分なケアを構築していた時期だったのです。24時間帆花と向き合って帆花に合ったケア方法を見出そうとすることが、あたかもいのちをかけた「ふたりっきりの世界」のように感じられていて、その心の叫びだったのです。

 

帆花にとって「医療」とは

・教科書通りの「医療的ケア」=帆花の個別性に合った方法ではない
 教科書通りのケアをしていても、元気に過ごせなかったことで、私も若かったですし、何もわからずに連れて帰ってきたので「お医者さんや看護師さんはなんで教えてくれなかったの?」などと腹立たしくもあったのですけども、病院という場所は、24時間、看護師さんも先生もいて何かあったらすぐみてくれる場所ではあるけれども、具合が悪くなった時に治療する場所だから、帆花のように日常的にケアが必要な子どもが、どうしたら元気に暮らせるのか、どんなケアが必要なのかと、その子、その子に合わせてじっくりケアをする場所では無い訳ですね。このことに私は何年もかけて帆花に合ったケアを模索している間に気づいたのです。「教えられた通りにやればいい」と最初は思っていて、それが私の間違いというか、いや勘違いをしていたということですね。

・帆花の検査結果上の「状態」=それ以上のことはわからず、近い将来のこともわからない
 今も月に一回、定期的に通院して、具合が悪ければ検査もしてくれます。帆花の状態を検査データは教えてくれますが、将来この児がどうなっていくのかは何もわからないですし、数値のことしか結局はわからない。


・「意識が無い子」=「何もわからない子」
 そして医学的には“意識が無い”という扱いを受けているわけですが、つまり意識がないとは何もわからない児ということだと思うんです。そういうふうに言われて帰ってきたけれど、ものすごくよくわかってるんですね。それは私の愛情とか親心で勘違いして言っているのではなくて、本当にちょっとしたことですけど、顔色や表情が全く変わる、すごく顔に出る子となんです。それにサチュレーションモニターを、24時間モニターを指につけていて、酸素飽和度と心拍がいつもプップップップッとモニターに出るんですが、それのアラームを自分で鳴らすんですよ。サチュレーションといって血中酸素濃度を図っている方の数値を急に下げて80とかに下げるんですね。酸素飽和度80って結構、顔色が悪いんです。「どうした!」って見に行くと100にスーッと上げるんですね。「あれー」って(講演者とともに会場からも笑い)。

 そういう話をすると「いやいや」(「懐疑的な意見」の意味)となるけど、本当にそういうことがあるんです。医学的に言ったら、何かを表出したくて「うん」って力むから、指先に力が入って(モニターが情報を)拾わなくなった数字、ということになるのだけれど、それはやっぱり帆花が何かを言おうとしてると私たちは受けとる。それがコミュニケーションなんです。だから医療で「意識がない子、何もわからない子」と言われても、ずーっと見てたらそういうことがある。勘違いとかではなくて、実際に起きているっていうことです。


・「医療的ケア児」「超重症児」というラベリング、カテゴライズ
 先ほどご説明しました医療的ケア児とか超重症児というラベリングとかカテゴライズが色々ありますが、同じ「医療的ケア児」、同じ「超重症児」に分類されるお子さんたちでも、各々の実態がそれぞれ全然違うということ。たとえば、さっき帆花が44点と申しましたけれども、同じ44点だとしても極端な話、全く同じ医療機器をつけていて同じ医療的ケアが必要だけども、吸引の回数が全く違ったりもするんです。吸引の回数が違うと、ケアにかかる時間が違うので、周りのケアの負担とかも全然違いますし、うちの子はそれがすごく多いのでレスパイトができない。同じ44点でも普通にレスパイト、集団生活ができる児もいる。ですから、いろんな制度とかサービスを利用したり、診療報酬を決めたりという時に分類は必要だけれども、はっきり言って、そこからはその子の実態は全く見えてこないということです。


・医療依存度が高ければ高いほど 「医療者」「医療型」
 帆花のように、例えば呼吸器のような医療機器がついているとか、医療的ケアがたくさんある人であればあるほど、つまり医療依存度が高ければ高いほど、医療者でないとケアできない、もし預けるなら福祉型の施設でなくて、医療型の施設、という「医療で囲う」ような流れが強まってきています。そうなると、医療依存度が高い子が在宅に帰り始めた意味がない。意味がない、というと言い過ぎですが、医療で囲うために在宅に帰って来ているわけじゃないですよね。医療依存度が高い人は医療者じゃないとだめとなってしまうと、帆花は看護師さんしか世話ができないことになってしまいます。24時間ケアが必要なのに、24時間看護師さんが来てくれるわけじゃないですし、そもそも無資格の私が彼女のケアを構築し、そのケアの大半を無資格の両親が担っているわけです。制度上は福祉の人はやってはいけないってことになっているケアも多いですけれど、決して医療者でないとできないことじゃない。親がやっているのですから。親がなぜそれを出来るかというと、子供が必要としているから、ただそれだけのことです。医療依存度が高くても在宅で暮らそうとなった時に、医療者じゃないとだめとなってしまうと、帆花のようにケアが多いと医療者だけでは制度上カバーできないため、家族の負担がものすごく重くなってしまうことになります。

 

 医療について、いろんな課題や問題がありますが、帆花が生まれた時に、全てにおいて「解決してくれるのは医療」だと、私自身勘違いしていたことも大きなことです。例えば小学校に入学して間もなく、みんなで遠足行くよとか、初めて運動会があるよ、という時に、帆花は普段自宅で学習していますが、行事の時は通学のお子さんたちと一緒にやるので、学校に行きます。運動会も学校の体育館で一緒にやるのです。どんなことをやるかというと坂道を、帆花が滑って降りてくるんですけど、その時に呼吸器がついてると危ないので、呼吸器の代わりに喉に風船のような器具を付けて手動でシュポシュポっと膨らませて肺に空気を送るバギングという方法があるのですが、坂道の横で私がバギングをしながら、私も一緒に下りてくるということをしたことがありました。初めて参加する時は、緊張しながらも、帆花は何が起きるか体験したことが無いのでよくわからずに学校に連れて行かれて、よくわからないうちにお友だちと同じようにやるわけです。しかし一度参加すると「怖かった」「でも楽しかった」というように、帆花自身の中に刻まれますよね。それが「経験」です。

 また二年生になって「(昨年経験した)運動集会あるよ」というと、“あの坂道をお母さんと転がったこと”が思い出されるのか、前日になると、ものすごい痰の量になるのです。今はカニューレの部品の具合で声が出なくなってるのですが、先ほどの予告編の中で「うんっ」て言ってましたけど、何かの行事の前の日になると「うーんっ、うーんっ」てものすごく大きな声をあげるとともにずーっと吸引してなきゃいけないほどの痰になるんです。私も何だかわからないから「えー明日、運動会なのに今、具合悪いの、休んだほうがいいね」と休ませたりしてたんです。「残念だったね、運動会に出られなかったけど秋に遠足があるからね」などと言っていたら、その遠足の前の日にも「うーん」と大声になって多量の痰が出てくる。それを繰り返すうちに「あれ?この児、具合が悪いんじゃなくて、ひょっとして興奮してるのかもしれない」となりまして。痰の多い状態で外出するのは危険も伴いますが、それだけ本人が楽しみにしているのだとしたら、休ませると逆なのでは?と。ためしに連れて行ってみようと参加させてみたら、別に何ということもなく参加できて、むしろ行事の間は全然吸引も必要なく、帰宅後も声も小さくなって、普通に戻ったみたいなことがあり、連れて行ってよかった!と思ったのです。でも行事の前日にずっと吸引をしなくてはいけないとなると、私も主人も寝れないのです。それに行事に行くと結構疲れますし、帰ってきてからも吸引などのケアしなくてはいけない。となると、行事の前日に毎回、帆花がこうなるのはちょっと困ったな、と思い始めたのです。それで病院の主治医の先生に「行事の前にこんな風になってしまうのですけれども、なんかいい方法ないですか?」と相談しました。先生は、「うーん」と色々考えてくれて、「じゃあ帆花ちゃんに『明日、運動会だよっ』て言わなければいいんじゃないですか」と先生がおっしゃったんです。(会場爆笑) それで私は「いやいや興奮するということは、見通しを持つことができているということだから、そういう帆花に秘密にすることなんて親としてはできない。先生それは無理です」みたいになったりして。

 これまで困った時に医療に解決してもらおうみたいなところがあって、やっぱり「母親」としても「ケアする者」としても自信がなかったので、危険に晒してはいけない、守らなきゃいけない、とりあえず医療に相談しなきゃみたいなことがありました。「そこは母親として判断をしていいんだ」、ということが分かるまでに結構な時間がかかったのです。

 ですから、今も申しましたような医学的見地と目の前の帆花の乖離、ギャップが、年数を経れば経るほど出てきて、それが「あっ、そっか、帆花はちゃんと帆花なりの成長発達をしてるんだ」ということを徐々に受け止められて、それが生きるということなんだと理解して来たということです。

 

一連のケア(1日10回)
 先ほどから帆花のケアがすごく個別性が高くて、頻度も高いということをお話していますが、下に載せたのはドキュメンタリー映画『帆花』のパンフレットに掲載して頂いた西村家の一日のスケジュールと帆花の一連のケア、一日10回から12回位やりますが、その中身を可愛いイラストにしたものです。

 一日10回から12回やる一連のケアというのは、何があるかというと、自力排尿ができないので膀胱を圧迫してあげておしっこを出す、ということがあります。この一年間ぐらいで自力排尿が見られるようになっています。私もいよいよ疲れてきたのかと目を疑いましたけれど、おなかを押してあげてる時に(ごめんね帆花、こんなことをみんなの前で話すけど)、おしっこが出てることがあって、そういうことも起きております。

 あるいはカフアシストって言って排痰補助装置のことですが、それを使いながら痰を出してあげる排痰のケアとか、排痰のケアをした後の吸引とか、吸引後に取り残していないかきちんと聴診して雑音があるようだったら、それも全部取り残さないようにしようとか。人工呼吸器の数値が大丈夫かなとか加温加湿器は大丈夫かなとか、このイラストに書いた色々なケアが繰り返しあります。一連のケアがだいたい40分かかります。次の一連のケアまでは、30分置きに吸引をしながら体位変換する。それが20分かかる。その繰り返しなので、日曜日は誰も支援の人が来ないで私と主人と帆花3人で暮らして過ごすんですが、私と主人が全く帆花のケアをせずに座っていられる時間はと言うと、10分良くても15分みたいなイメージです。

・命を守る=帆花の声を聴く
 ケアをどのように行うかというお話ですが、もちろん機械の使い方とか、排痰方法は看護師さんに教えていただいたり、本で勉強したり、今でも勉強して基礎的な知識は入れておりますが、最終的には、一番は帆花に聴くということがすごく大きいのです。どうしたら帆花が元気に過ごせるのかというのは帆花に、帆花の体に聴くしかないのです。こんなペースで毎日やっていれば元気にいられるよ、というスケジュールです。帆花が例えば風邪をひいたとか感染したとなると、これ以上のケアが必要になるので、ほぼ休みは無いとなります。
 この一日のスケジュールを客観的に見てると、私、こんなことを毎日やってるのかと思う訳です。“ケア”というのは、単なるケアではないんです。ただおしっこを出す、ただ痰を取るではなくて、それを通じて帆花に「今日はどう?」と喋りながらやるわけですからコミュニケーションです。そこから「あれ?帆花、最近こういうところ変わってきたのかな?」というようになるのです。スケジュールだけ見ると負担がすごいと思うけれども、そのような理由から割と日常的にできて、それだけやってはじめて帆花が元気で暮らせる、というケアなんです。医療にはいろんなカテゴライズがありますが、一番重要なのは個別性で、個別性に合ったケアを本人に聴きながらケアをやらなきゃいけないっていうことだと思います。

 このケアの中身を見たら本当に医療の度合いがすごいですが、私たちの生活の中にあるケアは「医療」ではなくて「生活」なのです。帆花みたいな児がどう生活してるか分からない人は、ひっきりなしに看護師さんが来て、なんかあればお医者さんが来て、家族は「頑張って帆花」と願っているだけのようなイメージをするかもしれないですが、そんな風に医療の人が管理しているのではありません。日常的に家族がやっていることが繰り返されているので、もちろん医学的な知識などは安全のために必要ですが、本人が元気に過ごすためには、生活の中でどうそれをやっていくかという視点がすごく大事だと思っています。

 

チームと各分野の問題点
 医療の話が続いていますが、それだけひっきりなしのケアが必要というところで24時間365日、私と主人だけでは生活が成り立ちませんので、いろんな方に支えられながら暮らしていますが、どんなチームなのかという説明になります。

 まずは基幹の病院、そこに小児科の主治医の先生がいます。そして月に1回、具合がよくても悪くても定期の通院に行っています。薬を出してもらったり、1か月間の報告をしたり。具合が悪ければ、検査をしてもらうことになります。

 そしてもう一人、訪問診療、往診の在宅医の先生がいます。帆花が産まれて16年経ち小児の在宅医の先生はかなり増えましたが、帆花が退院した時は医療依存度の高い子どもを在宅で診てくれる往診の先生はほぼいませんでした。何軒も断られたりしました。当時、私たち家族が往診の先生に何を望んでいたかというと、その地域で暮らしていく、成長していくことをずっと見守ってほしいこと、そして私が日々やっているケアの相談や帆花の成長の相談、家族がこれからどうやっていけばいいのか、生活のアドバイスをしてくれることです。そういう先生を求めていました。


 ご説明しながら何て高い要求なんだと思いましたが、そういう先生を探していたところ見つかったんですね、退院する時に。幸運にも在宅生活スタートの時に見つかりまして、現在もその先生が16年間、高速道路を使って通って下さっています。うちが転居した関係で遠くなってしまいましたが、この先生がいるおかげで、やってこられたのですね。先ほど入院させる事もできない状況と言いましたが、例えば感染して肺が悪くなった時も家で看るのですが、この先生は検査もしないし点滴もしません。一般小児科の開業医の先生で、訪問診療では帆花のみを診てくださっている先生です。私たち家族の願いをわかってくださって、ご縁があって訪問してくださっています。感染しても、私たちが構築したケアのみで元気にさせるのですが、その時に私が「この間、具合が悪い時にこういうふうにケアしました。こんな問題があったけど、これでよかったでしょうか?」というと、「それで大丈夫だよ」って。「もし○○だったらこうしてみて」みたいなことを医学的にアドバイスしてくださる。それで「あ、これで良かったんだ」と、私もだんだん知識がついてきて、自信が持てるようになりました。呼吸器の設定もアドバイス頂きながら、入院しないで何とかやってこれたという、少し珍しい関わり方ですが、帆花の在宅生活の“要”の先生です。

 そして訪問看護師さんです。看護師さんには例えば湿疹が出たとか、ちょっと変化があった時にアドバイス頂いたり、24時間繰り返されるケアの一部分、2時間ほどを看護師さんにお願いして、その間、私が少し休むみたいなことです。

 それから訪問リハビリの先生、PTと OT両方、来ていただいています。痰を出すことがすごく苦手な子なので、排痰とか痰を上げるために胸郭を動かしてもらうリハビリがメインになっています。

 以上が医療のチームの方々で、その他に障害福祉サービスを利用しています。まず相談支援員さんがいます。ヘルパーさんの利用時間数や、その他のサービスの利用の仕方などのプランを立ててくれています。困ったことがあるときも相談にのって頂く方です。

 それから医療的ケアができるヘルパーさんですね。訪問看護師さんは来てくれる時間が割とタイトですが、ヘルパーさんの方は役所に認めてもらえると割に長時間見て頂けるので、生活を支えるというところでは、本当にヘルパーさんに支えられています。

 後は学校の話です。訪問籍で週3回、一回100分の授業です。どんな授業かと言うと、多分始めて見る方はびっくりされるけど、本当に先生、毎回大荷物で来られるんです。ギターや大きなスライド用のスクリーン、ある時はボーリングやるとボーリングを持ってきたりとか、そんなこと家でやるのっていうくらい、やってくださっています。

 そして訪問入浴が週2回。帆花の場合は自宅のお風呂に入れる事が難しいので、大きな浴槽をリビングに設置して、お風呂場からお湯を引いて入れるというサービスを週2回利用をしています。

 これだけの方々に支えられながら、帆花と私たち家族は暮らしていますが、その中でもいろいろ問題があります。病院への入院が難しいということ、レスパイトとかショートステイも利用できません。24時間365日、帆花はおうちで過ごしています。こう言うとショートステイに行くことができず困っているみたいですが、もちろん親の負担は大きいですが、本人はおうちが大好きで行きたくないんですね。おうちにいたいと言ってくれているから、預けることができないことも、それならまあ良かったと思えているところです。

 先ほどもお話ししましたように、医療依存度の高い児の医療的ケアは医療職じゃないと、という側面が強いですけど、医療保険で保証される訪問看護は本当に時間数が不足していて、長くても2時間ぐらいしか居てもらえません。例えば私が具合悪くて病院行くという時に、大きな病院だと2時間で行って帰って来られません。用を足せないところがあり、時間が不足していることが問題かなと思っています。

 生活の支えという意味では、長時間居て下さるヘルパーさんがすごくありがたいです。法的にも医療的ケアの一部分がヘルパーさんが担える制度に変わりましたが、非常に限定的で「これはやっちゃダメ、ここからは看護師さんじゃないと」みたいなことがすごく多いです。例えばせっかく4時間居て下さるのに「そこはヘルパーさん、ダメだよ」っていうことがあると、来て頂いているのに、私や主人が起きてこなきゃいけないということも起こります。だからといって訪問看護の時間を増やして頂けるわけでもなく、ここは帆花が抱える大きな問題です。在宅での生活を維持するには、もう少し家族に代わってヘルパーさんにやって頂くことが必要だと考えております。

 そして学校の問題です。今年、帆花は高校二年生になりますので卒業後の話が見えてくるところです。今は学校に在籍しているので先生たちやお友達との繋がりがありますが、学校を卒業してしまうと、学びという意味ではまったくゼロになってしまいますし、社会との繋がりが希薄になってしまいます。多くの子どもたちは支援学校高等部を卒業した後に生活介護というデイサービスのようなところに通って、集団生活ができたりしますが、帆花は通うことがそもそも難しいので、おうちにずっといる生活になってしまいます。新しいことを学ぶチャンスもない、人との繋がりもなくなってしまうとなると、これは本当に大きな問題です。暮らしや身体にまつわる支援を行う障害福祉サービスがあればいいというわけではなくて、その人らしく、豊かな人生を送る意味では、学びとか、人との繋がりを保障してあげないといけないという問題がもうすぐ始まるということになります。

 

特別映像9年後の西村家(2023年7月撮影)
 先ほどは小さな帆花の映像を見ていただきましたけれども、そのドキュメンタリー映画『帆花』の監督が撮ってくれた、去年の7月の映像がありますので、そちらを見ていただきたいと思います。

(ト書き:映画撮影から9年、帆花さんは特別支援学校 小・中学部を卒業。今年の春、高校に進学した)
監督:小学校の生活を経験して、なにか印象に残っていることとかお伺いできますか?

理佐:小学校入学する前までは、帆花のケアに携わる人との関係だけだったので、同年代の子供達と交わることがそれまで一切なかったですし、先生とケアを通さない人間関係で意思疎通を測りながら何かをするということが、本人とっては初めてだったので、帆花がそれができるのかどうかということを、私もすごく心配してたんですけど、入学式、学校に着いて「おはようございます」って担任の先生が迎えに来てくれて、そこで「じゃあお預かりしますね」って先生がバギーを押してくれたんですよ。その時に大丈夫かなって最初は思ったんだけど、本人が「私は大丈夫」っていう顔をしたんですよね。それが何かすごい・・・びっくりしたし、嬉しかったし、ああ、何か、生活してくとか、生きていくっていうのは、こういうことなんだなって思ったんですよね。本人も緊張しながらではありますけど、お友達の中に混じって学校生活をやってくれて、今まで経験したことない遠足行ってメリーゴーランドに乗るとか、運動会で坂道転がるとか、私がバギングしながら一緒に転がったりしたんですけど、そういう本当に家族だけではできない体験をお友達の中でしていって、それがあっという間に小学校卒業して、中学校も卒業して、今、高校生という感じです。
 映画の中に出てきている頃は、私もどれぐらいやったら健康に過ごせるかっていうことがまだ模索中の部分があったので、だからその部分の生活に余裕があったような感じがしてますけど、入院させないようにおうちで楽しく暮らせるために必要なケアっていうのを一生懸命構築して行く中で、やっぱりどんどん生活の中でケアが占める時間というのが増えてきて、客観的に見たら相当、ほぼ何かケアしてるみたいな感じに変わってきてはいますね。あとはやっぱり成長して体が大きくなったので、一つのケアをするのに時間が掛かっちゃうっていうこともありますし、体調の揺れとかも変わってくるので、そういう意味で増えたっていうこともあります。

 

2-2に続きます


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第19回市民講座講演録(2024年2月3日) 2-2 「わたしはここにいます」~“超重症児”のわたしらしい生き方の実現のために~

2024-06-24 16:32:54 | 集会・学習会の報告

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第19回市民講座講演録(2024年2月3日) 2-2

 

(ト書き、2021年6月、医療的ケア児支援法が成立。医療的ケア児や家族の負担軽減、サービス拡充が期待された。しかし今、現在も西村家が抱える問題の解決には至っていない)
 医療的ケア児支援法ができて、学校でも安心して看護師さんが医ケア担ってくれるとか、いろんなことが進んできているんですけど、やっぱりイメージができるわけですよね。多くの人の、その大多数の「医療的ケア児」ってこういう子だって。それで「いや、うちはそこからちょっと違うイメージなんですよ」って言っても、そういうイメージが出来上がると「いや、こういうケアがあって」とか、「こういう子なんで・・・」って説明しても、医療の人でさえ、「そんなことってあるの?」とか、「そんなケア本当に必要なの?」とかって帆花の実態がどんどん通じにくくなるっていうことが起きちゃって、まずその実態を理解してもらうところの努力をしないと、その先の支援を望むステージまで行かないんですよね。でも、その知ってもらう努力って、結局こっち発信で、ケアで大変な生活して知ってもらう努力もして、で知ってもらって、やっと同じ土俵に立てるってやっぱりちょっと歪んでると思うんですよね。世界としては。もう一つ私がすごく心配してるのは、帆花が漏れているのが制度とか・・・からだけじゃなくて、このコミュニティの中からも漏れちゃうっていうこと。今後、学校を卒業して・・・ってなった時に、やっぱり外に出ていくっていうことが難しいので「わたしここにいます」っていうことをこっちからアピールして行かないと、本当に無いものにされちゃうし、ちょっと具体的なビジョンというのは、さっきも言ったけど、その学び続けられる「何か」っていうことしか思い浮かんでないので、やっぱり「ここにいるよ」っていうことを言っていかないといけない。

(ト書き、2022年映画「帆花」が公開。一般の方に広く知ってもらう機会となる。一方で映画を見た人の中には「どう受け止めれば良いか分からない」という意見もあった)
 なんかその・・・見た時に、自分の中に湧いた感情と向き合う時に、大事なのって「帆花を受け入れるかどうか」ではないと思うんですよ。だってもうそこに生きてるんだから。他のマイノリティの人だって、「何だろう、この感情・・・」と思った人と同じ命を生きているんだから、その人たちをジャッジする立場じゃないと思う。その感情が湧いた自分とどう向き合うかっていうことだと思うので、そこを履き違えると「無理」「受け入れられない」「そういう命はない」とかっていう判断・・・ジャッジになっちゃう。画面通してみたりすると、実際に生きてるっていう感情湧かないかもしれないけど、だって自分と同じ家族の中にいる一人の子供なんだから、想像してその子をジャッジするっていうことが本当にしていいことなのか、とか。

(ト書き、2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で無差別殺傷事件が発生、入所者19名の命が奪われた。理佐さんは事件が起きた時、大きな衝撃を受けた。それは「ついに起きてしまった」という感情と事件を「他人事」のように受け止める社会にたいする衝撃だった)

 ああいうあからさまな差別とか、障害者に対する敵意とかっていうことが、実際に殺人事件になっちゃったっていう衝撃はもちろん大きかったんですけど、その他に事件の受け止め方、世の中の人たちの見方っていうのがやっぱりすごく怖くて、障害のある人たちが住んでた施設の中で起きたこと、自分たちとそれこそ地続きのところで起きた事件じゃないみたいな「可哀そうだったね・・・」で終わる感じ。世の中の多くの人は、そんな自分の中に差別とかはないって思ってる。だから、その自分の中でそういう気持ちがあるってことに気づかないからこそ、関係ないことだってなっちゃってるっていうことが、あの事件で明るみに出て、まあ薄々そうだなって私が思ってたことがこう明るみに出ちゃったので、すごく衝撃的で。

 あの事件っていろんな問題が明るみに出たはずだと思ってたんですよね、私は。やっぱりその障害ある人たちが、ああいう山奥の施設にこう・・・閉じ込められた訳では無いですけど、あそこが生活の場としてあそこしかないというか。あとはなんか、親たちがやっぱり自分の家に障害のある子がいるっていうことを、あまり人に言えないとか。それはまあ、わが子が可愛くないわけじゃなくて、愛情はあったとしても世の中の人に知られたくない・・・みたいな感情とか。自分では差別とかって思ってないけど、無意識の中にある自分の中の差別の感覚っていうんですかね・・・なんじゃないかなと思って。それは何か私の中にももちろんあって、それは私は帆花が生まれた時に、もうすごく思い知ったんですよね。

 私はその、障害がある子供が自分のところに生まれてくるっていうことを夢にも思ってなくて、たぶん、自分の中にも差別っていうよりは「関係ない」みたいな、同じ人間なのに同じ命なのにっていうところで、私は生まれた帆花が生まれた時に、それと向き合わざるを得なくなって、すごく辛かったんですけど・・・別の障害のこととかをわかんなかったりして無知だったら、無意識に差別的な考えが浮かんだりもするから、全てのことが分かってるわけじゃないので、まずはその実態を知る・・・すごくたくさんあるわけじゃないですかマイノリティの問題って、でもそれを全部をみんなが知るっていうことは難しい。だけど世の中にいろんな人がいて、みんな一緒なんだっていう前提にまず立てばいい・・・だけの話って言ったら、そこは難しいですけど「みんな違うんだ」っていう気持ちでいろんな問題を見たら、関係なくないんだってなると思うんですよ。同じ世界にいる人たちの話だから、自分は関係ないってならない。で、今まで自分とは関係ないと思って聞いてたニュースとかを「え、何だろう?」ってそういう気持ちで聞いたら「あ、そうだったんだ」って知れる機会がたくさんあると思うし・・・。

 ここで暮らし始めて10年以上経って、地域の中でも帆花のことを知ってくれる人とかが徐々に増えてきてくれてはいるんだけれども、「大変そうだから大丈夫?」っていう関係・・・。それだと本当の意味の「隣人」じゃなくて、帆花も誰かの「隣人」になれる人・・・なはずなので具体的に何かって言われたらわからないですけど、あそこのマンションのあそこにほのちゃん住んでいて、ほのちゃん頑張って生きてるっていうことが、多くの人の心の中にあってくれたら、それこそ「隣人」だなぁと思うんですけど、ちょっと抽象的ですけど、あの子が誰かの人生に関わる主体っていう、だから他の人と同じなんだよっていう、お互いに関係をもてる存在だということを分かってほしいなと思って。

 なんか「帆花の意思を大事にしてやってますね」って言っていただくのはすごい嬉しいんですけど、別にそれはどこの家でも一緒っていうか、子どもの意見っていうか、どうしたいのかを聞くっていうのはたぶん当たり前のことなので、ただやっぱ言葉で言えないので、気をつけなきゃいけないのは思い込み、こういう風に帆花は思ってるんじゃないかな・・・って思ってしまう。具体的にわかるわけじゃないので、やっぱり小さかった時は想像通りだったことが成長とともに分かんなくなってきて、本人が違う・・・感じになってくることだって当然あるので、そこは大事にみんなで「どう思ってるのかね?」っていうことを、まあ確認っていうと何か大袈裟になりますけど、それは今まで通りやっていきたいし、それをあの大事にやってくれる人たちに恵まれてるかなと思います。

 

 

「いのちは大切である」というテーゼ

 去年の我が家の様子でしたが、帆花がだいぶ大きくなっているのが見ていただけたかなと思います。ここで体重をバラしたりすると怒られますけど、30キロになっています。なので、私ひとりでなかなか持ち上げることが難しくなっています。
 映画のときの私は、帆花のケアのことで悩んでいたり、医学的知見と目の前の帆花とのギャップに苦しんでいたのですが、母親として、子育てとしてやっていっていいんだと、だんだん分かってきました。元気に過ごさせてあげることができるようになってきて、その辺は自信が出てきたところで、私の中のメインのテーマが変わってきました。それが何かというと、私自身の価値観のところです。

 「いのちは大切である」というテーゼ例えば、いのちは大切であるというテーゼがあります。これに対しての明確な答えというのは、聞いたことがなくて、「かけがえがないから」とか、いのちって限りがあるから今を大切に生きなきゃいけないんだよということで「死」との関係の中からいのちの大切さを言われたりとか、あるいはどうやって生きるか、よりよく生きるか、生きる意味みたいな事に関連付けて、いのちが大切であることを説いたり、というような回答、そういうのが多いと思っています。
 この問いに対しての明確な答えを私も持っていたわけではないのですが、帆花と16年暮らしてくる中で思う大きなことは、「そこに在ること」=存在、いのちそのものが大事だということです。「そこに在ることが大事だ」ということを申しますと、いてくれて嬉しい、可愛い子供だから、どんな状態であってもそこにいてくれる事が嬉しいんだというような感情論に受け取られがちですが、そういう意味ではなくて、もちろんそこにいてくれることはうれしいし大事なんですけど、もっと物理的な話なんです。
 先程から、具合悪くなっても、うちでのケアだけで元気にしてると話してきましたけど、去年の11月に私も帆花もインフルエンザにかかってしまい、帆花はいのちに関わるような状態になりました。その時、「あれ帆花はもう、このままちょっと無理なのかな」と思いながら、私自身もインフルエンザにかかりながら必死にケアしていたんですけれども、ちょっと離れた所にいても帆花の人工呼吸器のその呼吸に合わせて、ゴッゴッという痰が上がってる音が聞こえるほど、痰がすごい状態になってしまったんですね。そんな音がしてるのに、吸引しても一切引けてこなくて、肺が炎症を起こして、いっぱい痰があるのに上げてこられず、呼吸器つけてるのに呼吸ができない状態で、どうしたらいいのか?と。
 病院に行ったらもっとパワーがあって細かい設定ができる呼吸器につなぎ変えられるけれども入院させられない。じゃあどうするか? 先ほどお話しました手動のシュポシュポ押して空気を送ってあげるバギングにしようと、酸素ボンベをバギングにつないで一晩中バギングしながら同時に肺を絞るんです。呼吸を助けてあげながら、痰を上げて吸引するっていうことを一晩中主人とやりました。
 その時に、そんなにすごい音がしていてもなかなか痰が引けないのに、私が呼吸に合わせて帆花の肺を絞ってあげると、本人も“何とか出さなきゃ”って思ってくれてるんですよ。だから私のこの手に合わせて本人も「ゴホッ」て、咳ができるわけじゃないはずなのに痰を出してくれるんです。私は母親として、もうここで帆花を失ってしまうかもしれないという危機に直面して心配で潰れそうになっていましたけれども、私のその介助に合わせて帆花が痰を出そうとしていることに、「なんていのちってすごいんだろう」と心底感じていました。「生きようとしている」というか、その「いのちの力強さ」というか。具合が悪くなると、いのちが生きてる、物理的に生きてることが、どんなにすごいことなのかということを、いつも私は思い知らされています。可愛いとか大切とか、そういう感情の話ではなくて、「そこにいのちが在って生きている」ということがいかに尊いのかということを実感しております。私たちは、普通に暮らしていると自分のいのちが生きてる、心臓が動いている、今日も歩くことができる、みたいなことに感謝することはなかなかないんですけれども、帆花がいのちの危機に瀕してる時に、それだけ頑張って生きようとしているということを体験すると、本当に「そこにいのちが在る」ことの素晴らしさをいつも実感しています。

 

これまで生きてきた“世界の不確かさ”
 そう思うと、私がこれまで帆花を授かるまで生きてきた「世界の不確かさ」ということを思うようになってきました。
「よりよく生きる」というようなことを考えてきたけれども、もちろんよりよく生きた方が良いけれども、いのちの素晴らしさに気づいてしまうと、なんかすごく陳腐なこと、偉そうなことを考えて生きてきたんだなあって思ったりもしました。“我、思うゆえに我あり”という言葉もありますけど、本当にそうなのかと思ったり、いろんなことが不確かになってきました。
そして自分が普通に生きてこられたことの特権性に気づいてしまったのです。特権性というのは、いろんな障壁を見ずに済む立場にいられるという意味での特権性ですけれども、そういうことに今まで気づかなかったのです。だから普通でいられることが、いかにその地盤が緩いかということに気づかされてきました。

 

「固定観念」の内在化、「内なる優生思想」への気づき
 自分はなるべく差別とか偏見とかがないようにと思いながら過ごしてきたはずなのに、やっぱり固定観念みたいなものが自分の中にも内在化されていて、気づかないけど、そういうことに支配されていた、自分の中にあったということに気づいています。
 子どもが元気に生まれてきて当たり前と思っていた、帆花みたいな子どもを育てる可能性は充分あったわけだけれども、しかも帆花みたいな子どもを、私が知らなかっただけでこれまでにもいたはずなのに、自分がなんかすごい世界に来てしまったみたいに思ってしまったこと。本当は地続きのところで起きていることで前からあったことなのに、と。
 そして、障害を健康な状態とか健常な状態からのマイナスという風に思っていた。でも帆花を見てたら、別に健常・健康からマイナスした状態が帆花だなんて思わないわけですね。帆花は帆花で存在していて帆花っていう子だから、障害がどうとかという風に思わない。
 「内なる優生思想」と書きましたけれども、我が子の障害を受け入れるとか、受け止めるみたいな考え方すらちょっと違うんじゃないかと思い始めています。障害を受け入れるというと、それこそマイナスなものを受け入れるみたいな形です。そうじゃなくて、それがありのままであるなら、それはそういう人だということです。こういう疑問を持ち始めてきたということです。
自分の中にも、誰かの生き方とかいろんないのちに対してジャッジするところがあったんじゃないか、ということに気づかされました。その矢印の向く方向は、誰か別のいのちに対してではなくて、そういうふうに思ってしまう自分の方に向くべきじゃないかというふうに思い始めています。

 

「意思疎通が難しい」といわれる帆花の意思とコミュニケーション
 そんな風に価値観が変容してきました。帆花は言葉をしゃべらず帆花独自のコミュニケーションの方法で私たちと生活しているわけですが、どんな方法かといいますと、リーク音(映画の予告編の中では「うーんっ」て言ってましたが、今は喉のところの状態でリーク音は出なくなってしまったのですが)、その他にも表情と顔色、あと眼の動きとか、ずっとつけているサチュレーションモニターのアラームを自分で自在に鳴らしてくれるということがあります。それが帆花の表出です。帆花が何か言ってるかと言われたら、医学的に証明できる訳ではないのですが、それでやり取りしながらこれまでやってきたことが、もうすでにコミュニケーションとして成立していると、私たちは思っています。
 これがコミュニケーションとして認められるかどうかですが、ここに書きましたが障害者権利条約では意思決定支援ということが言われていて、「必要としうる支援の水準や形態にかかわらず、すべての障害者の自律、意思および選好を尊重する支援を受けて意思決定をする仕組みを設置」しなさいと言われています。そしてそのコミュニケーションの方法は問わないと。「それができないとコミュニケーションできないから意思決定できないよ」ということではなくて、その人に合わせた支援をしなさい、それでコミュニケーションをとりなさいと、言われております。例えば表情とか顔色ということもコミュニケーションの方法なんだと具体的なところまで、国際的には言われ始めています。
 ですから私たちは一番気をつけているのは、勝手に「この子は思ってる」っていうふうに決めつけるのではなくて、「今、何か帆花言ってるけどなんだろう、こうなの?こうなの?」って聞いて、はっきりとした返事があるわけじゃないけれども「何かを思ってるね、こうなのかな、こうなのかな」って、みんなで言い合いながら帆花がどう思ってるのかを、探りながら本人に問いながら、答えが出なくても、繰り返して積み重ねて過ごしているというところです。

帆花自身が主体
 医療とか介護、障害、福祉サービス、いろんな問題がありますが、これから帆花が学校を卒業して、社会を生きる一人として生きていくということを考えると、一番大事なことは、帆花自身が帆花の「人生を生きる主体」として生きていくことだと思っています。障害を持った人が、その自分の人生を主体的に生きるとはどういうことなのかと言うと、障害者権利条約では、「チョイス アンド コントロール」が大事と言われております。自分の人生を生きて行く上で、「平等に選択できる機会が保障されていなくてはいけない」と。地域の中で生活する権利があって、意味のある生活を送ることを保障されているべきで、自分の人生を自分がコントロールしていると思えるように生活できるように支援しなさいと、言われています。
 鮮明な答えが返ってこないとしても、「こういうことができるよ。こういう方法もあるよ」と提示して、帆花が自分の人生をコントロールできるように、環境を整えてあげることを、今後も大事にしながらやって行きたいと思っています。

 

“わたしらしい生き方”とは
 帆花がどんな生き方を自分らしいと思って生きていけるかと考えたときに、大きく三つあるかなと思っています。ずっとお話ししていますが、とにかく帆花はおうちが好きで、「お家で暮らしたい」と今後も願っているのではないかと思っています。
 「在宅での支援が足りない」ことを、役所にもずっと訴えてきました。「そんなに足りないなら入所させなさい」などと言われたりもしましたが、それは全くおかしな話です。本人がお家で暮らしたいと願っているのなら、それを保証しなくてはいけないわけです。「支援が足りないなら入所させればいい」なんてとんでもない話で、障害者権利条約の19条にも書かれており、根拠があることです。

 ニつ目の本人の願いは、「信頼関係のある人と生きていきたい」、「信頼関係を築くことのできる人の支援を受けたい」と思っている。なぜそういうふうに私たちが推測しているかと申しますと、看護師さんやヘルパーさん、色んな方が支援して下さり、その全部を私は見てるわけですが、いろんな方と接している帆花を見ていると、やっぱり相手によって接し方が違うんです。「この人が来るとすごいアラームを鳴らすけど、この人が来るとアラームを鳴らさずになんか顔色を赤くする」とか、表出の方法が変わったりするんです。すごく甘えた感じになるとか、ちょっとつんとした顔をするとか、相手によって違う。それは誰が嫌い、とか信頼していない、ということではなくて、そうやって信頼関係をそれぞれの方に対して築いてるということです。自分のことに置き換えて考えても何か助けてもらいながら生きていくとしたら、やっぱり信頼を寄せられる人と生きていきたいと、そう思ってるんだろうと、そういうふうに感じています。
 そしてもう一つは、学校を卒業しても「新しいことを学んだり経験したい」ということです。色んな人と出会って、自分がその人達と関係性を築いて生きていきたいと願っているんじゃないかと思っています。それは学校の授業で見ていると、先生と新しい学びをしている時は、さっきまですごく吸引の頻回だったのに、集中したら、もう吸引が一切なくなったとかいう変化もありました。いろんな人と接して、帆花を見ていると、やっぱり認識してるんだなとわかるので、いろんな人と出会いたいんだろうと思っております。
 教育については障害者権利条約で保障されていて、「生涯教育」についても確保すると明記されていますので、学校卒業後も学びが保障される、されなければいけないと思っています。

 

“わたしらしい生き方”とは
 まとめに入ります。帆花が望んでいる新しいわたしらしい生き方を考えると、私たちは今後も思い込みに陥らないように、彼女が何を言いたいのか、なぜそういう表出をしているのかを探りながら、これを介助付き意思決定支援と言いますが、いつも「帆花どうなの?こうなの?」って言いながら、やっていきたいということです。 そして、意思決定支援をしてくださる、信頼を帆花が寄せることができる、一緒に生きてくれる支援者の方をどんどん増やしていきたい。いつか私たち両親は年をとってできなくなるかもしれないという意味でも、一人でも多くのそういう支援者を増やしていきたい。

 

法人の理念
 そうして学びと新しい人との出会い、地域でつながりを増やしていくという意味では、私は(帆花が)学校を卒業した後は、それが今の状況では保証できないと考えて、去年の7月に法人を立ち上げました。訪問カレッジ「Be Prau(ビー プラウ)」という名前です。特別支援学校高等部を卒業した帆花のように外出が難しい方々を対象に、先生がお宅を訪問し授業をする、生涯にわたって学べる訪問カレッジというものを作ろうと、準備しているところです。
 こちらがその法人の宣伝になってしまいますけれどもチラシでございまして、一般社団法人「ケアの方舟」、意味としては誰一人とりこぼさず乗せて、そして浮いているだけではなく大海原に漕ぎ出して、その人らしい人生を送れるようにという願いを込めております。

Be Prau 訪問カレッジ
 こちらが訪問カレッジ、今度の4月に開講予定で準備しているところです。帆花のように常時ケアが必要で、重度の障害をお持ちで、学校卒業後に学ぶこととか人とのつながりが薄れてしまう、という方が対象です。障害福祉サービスにしても「通う」ことが前提になっていて、通所できない人が取り残されている現状があります。その人のお身体の状態、ケアの中身によって「訪問する」というスタイルが必要です。障害福祉サービスなどは、大多数の人のために作られるので、いつも「通う」ことができる人のサービスが先で、通うことができない人は後まわし、あるいは「取り残される」ことになってしまいます。待っていられない、ということで始めようと思っております。

 

わたしはここにいます
 ここまでお話しを聞いていただきましたが、帆花が「わたしはここにいます」と言っている声が皆様に届きましたでしょうか?私が代弁する形になりましたけれども、少しでも帆花の声が、何かしらが届いたら嬉しく思います。ありがとうございました。

 


質疑

 

司会)本日は阿部知子衆議院議員と木村英子参議院議員がオンラインでご参加いただいています。お時間がないということで阿部議員からお話頂きます。


阿部知子衆議院議員)途中からしか聞かせていただけなくて申し訳ありません。そしてまたすぐでなければならないので、恐縮ですが、今伺った範囲で皆さんにお伝えをしようかなと思います。

 生きているという当たり前すぎるほど当たり前のことが、実は誰かのために死ぬ事を要求された死が、脳死なんだと思います。私は小児科医です。この問題のきっかけは30年以上小児病院に勤めていて、重度の脳障害、脳の機能不全という患者さんを幾人も幾人も診てきましたが、その患者さんを診て、亡くなっていると思ったことは一度たりともありません。ところがあるときから死んだことにしてくれと。その裏にはこの臓器を使いたい。それも、生きている臓器を使いたい。だから頭がだめなんだから、死んだことにしてくれって、あくまでも、そうしたニーズが作り出した死です。そこにある子供は重度の脳機能不全ということだけです。昔は「長期脳死」なんて言わなかったんですよね。だって10日ほどで死んじゃうと言われてたでしょう。心臓が止まると。でも止まらない。そしたら今度なんて言い出したかというと、その診断は充分じゃなかったからだと。無呼吸テストしてないからだと。いろんなこと言いましたが、結局どんなに充分だという診断をしたとしても、重度の脳機能の障害で、脳死と呼ばれている子供たちは生きているんだと思います。やはりいろんなお母さんたちがそのお子さん達に寄り添って、その存在を支えて一緒に生きていくことが、本当に素晴らしいことだと思います。私も西村さん以外のお母さんからもお話を聞いてきました。とにかく臓器をなるべく新しいうちにほしいですから、国会では、最初はいわゆる脳死は死ではないと言っていたのを、一方的に脳死を死として扱える案が出されたり、加えて本人同意なるものもどっかに吹っ飛んでしまったりしましたが、死が、生きることが根本的根源的に問われる時代ですので、西村さんたちが声を発し続けてくださっていること、帆花さんがそこに居続けてくださることを心から大事と思いますので、全部聞けなくて申し訳ないのですが、メッセージとさせて頂きます。ありがとうございます。


司会)質問がある方お願いします。
質問1)BMI ブレイン・マシン・インターフェース というのをご存知でしょうか?脳の中にチップを入れるとある程度の会話とか、発信を受け取ることができるっていうんですよ。例えば目の網膜が電子信号で読めたりできるという技術が。そういう情報だけを受けるか受けないかは別として、防衛大学のシノミヤ先生が研究していると聞いています。参考までと思い・・・。
司会)よくわからないのですが、わかる方いらっしゃいますか?私は、実際にコミュニケーションを取ってケアをする中で、感じることがあると思うのです。だから、機械で読みとれるということもあるのかもしれませんが、まずはやはり人の手が大事なんじゃないかと私は思いますね。

 

質問2)西村さんのお話の中で、帆花さんが医療の世界では意識がないと言われていても、運動会のことを話したら、興奮して痰を多く出すというお話。だから、生きている人からの脳死移植なんてそういう人権を無視する医療はやめなきゃいけないですよ。それからご両親ね、帆花さんの面倒を見るのは大変だと思うんだけども、本当に尊敬します。学校卒業しても友達と会えるような社会を作らないといけないけれど、西村さんのお話の中にあった訪問カレッジについて、もうちょっと聞いてみたいんだけども。
西村)訪問カレッジのことを充分説明できてなかったのですが、私たちは4月に開校しようと準備しています。訪問カレッジという取り組みが全国に広がり始めていまして、主に、元特別支援学校の先生方にご協力いただいたり、地域の大学生のボランティアの方とか、地域で一芸に秀でている高齢者の方とかに、おうちを訪問していただいて、そこで一緒に学んで授業していただくというものです。直に人と触れあって学ぶことが大事ですので、そういった形で準備しているところです。


質問)帆花さんは、先生ばかりじゃなくて、友達といたりすることが好きなんじゃないですか?そういう人たちの訪問とかはないのですか。
西村)そうですね。やっぱりお友達と会う機会はすごく大事ですけれども、外出が難しいというところが、本人の特性でして。今も先生に来て頂いてる状況なんですね。

 

質問3)お話ありがとうございました。大変なご苦労をされているようで、特にレスパイトのことなど、小さい頃どこも受け入れられなかったということですが、現在はどうなっているのでしょうか。インフルエンザの時は何とかご自宅で看られたそうですが、やはり重病の時に入院できる入院先がないとすごく苦しいと思うんですね。そういうレスパイト先、入院先については現在どうなんでしょうか。
西村)受け入れて頂けないというよりは、本人のいのちを守るために必要なケアが、自宅以外では保証できないというところなんです。プラス本人がお家で過ごしたいということなので、レスパイトは一切利用しておりません。で、入院に関しましては、いくら自宅で頑張るといっても、入院しなければ出来ない治療はあり、その時どうするかということです。

 実は3年前、帆花が中学2年生のときに、輸血みたいなものが必要な状態になってしまいました。当時、コロナで世の中混乱している状況で、面会ができないとか、付き添いができないとか、そういう医療の現場になっていたところに、入院しなくてはできない治療が必要な状態になってしまったわけです。入院すると、例えば針刺すとか、検査する、レントゲン撮るということは、看護師さんや先生がやるけれども、それ以外はすべて親がやらなきゃいけないわけです。そうなると自宅に居る時、帆花が元気な状態の時でも、いろんな人が代わるがわる、両親と交代してケアをしてくれてやっと24時間365日を回しているけれども、入院した途端、お母さん全部やってね、になるんです。そうなると24時間休みなく入院期間中のケアを私が一人でやるとなると、とても私も生きていられないし、私が生きていられないとなると、帆花も生きていられないということになってしまって。でも輸血しなかったら死んでしまうという状況だったんですね。私たちも非常に悩みまして、コロナで一切例外なく付き添いがダメと言われてた時だったので、主人と本当に悩んで、今までこれだけ手をかけて育ててきたのに、入院させて、輸血はできたけどケアが行き届かなくて死んでしまったとなったら、最期に会えないことになってしまう。かと言って、このままおうちでケアしても輸血できなくて死んでしまう。
 じゃぁどうするか?まず何をしたかというと、帆花に聞いたわけです。「 まだ帆花は生きたいのか」、「 まだ頑張れるのか」ということを尋ねたら、どうも諦めてる様子がない。となると、イチかバチか、病棟にお預けして輸血をお願いするしかないと思って。意を決して入院の準備をして連れていったんです。家ではこういうふうにやってますと私が作ったケアのマニュアルを添えて、救急外来の先生に見せたら、「 いや、普段元気な状態でこれだけのケアをやっているお子さんを今のこの状態でお預かりしますとは言えない。お母さん申し訳ないけど付き添ってもらえますか」って言ってくれたので、これは首の皮一枚繋がったと、私が付き添って入院することになったのです。入院になるまでの間、帆花の具合が悪い状態がかなりの期間続いていて、帆花のケアで私もほとんど寝ていない状態で付き添うことになりました。それで入院させたその日は、もちろん一睡もできず、それどころか一切座ることもできず、家から連れてきた帆花を病棟のベッドに寝かしでからずっとケアしたので、夜中に私も倒れそうになっちゃったんですね。そしたら病棟の師長さんが、「 お母さんだけでは無理だ」と言って、 「お父さんの付き添いも許可します」となりました。結局12日間入院させたんですけど、私と、仕事に通いながらの主人が2人で、36時間交代でケアをしました。主人は仕事行って、私は36時間帆花のところで一睡もせず。2日後夜に、主人が仕事が終わったら来て、私と交代して、寝ずにケアして翌日の朝、私と交代する。このサイクルの36時間交代をやったんです。病院の悪口という意味ではないんですけれども、ケアが難しいからといっても、もうちょっと助けてもらうこともできたんじゃないかというところももちろんあります。ただ、入院するとそういうことになってしまうのです。

 それで、これまでもずっと役所に訴えて、入院中も在宅で見てくれている支援者の人のケアを受けられるようにしてほしいと言ってきました。さいたま市に住んでいますが、最寄りの区役所は分かってる、どうにかしなくてはと思ってくださっていて、さいたま市本庁に一緒に行って訴えようと、ケアの様子を動画にとって市庁を尋ねました。こういうケアが必要だからどうにかしてもらえませんかと言ったら、「必要な事はわかりました。でも、それは国の制度だから、入院中の看護は病院がやるのが仕事、だからヘルパーさん入れたり訪問看護入れたりはできない、決まりだからさいたま市としてはできませんよ」と言われました。これまで何年も訴えてきてこの状況で止まっていたんですが、この入院のあと、一歩前進したかなと思うことがありました。それは、今までも厚労省に電話で問い合わせてくれたことはありましたが、電話で問い合わせても、帆花がどんな子かは電話先の人はわからないから、「無理です、そんな話あるわけないです」と言われて終わっていたのですが、さいたま市の方が、厚労省と新しくできた子ども家庭庁の医療ケアの部署の人と面会して、私から伝え聞いたたことを直接話してくれたんです。市の担当者も医療や看護の専門家ではありませんし、私から話を聞いているといっても、伝言ゲームみたいになって、どこまで理解して伝えていただいたかはわかりません。厚労省としてもこども家庭庁としても、「話はよく分かりました。だけど今のところちょっと難しいですね」と。現在もこのような状態が続いております。だからまた、この先いつ帆花が入院治療が必要な事態になるかわかりませんが、その時にどうするかという問題は、今も続いているという状況です。

 

司会)木村英子議員がお話頂けるということです。木村議員お願いします。
木村英子参議院議員)こんにちは。はじめまして。木村です。議員としてのご挨拶はご遠慮したいと思っていたのですけれども、お話を聞いて、思い出したことがありまして、一言感想を言わせていただきます。私は1,2歳ぐらいから施設で生活していたんですけれども、その時に周りはみんな障害者の人ばかりだったんですね。その中に、帆花ちゃんと同じような、寝たきりで意思疎通が難しい方もたくさんいたました。私の友達はそういう人たちが多かったんです。で、目線で自分の意思を伝えたり、あるいは指先で伝えたり、そういう人たちが多かったので、そのころの思いがよみがえってきて、帆花さんに会いたいなって思いました。まあ、機会がありましたらぜひお会いしたいと思いますので、その時はよろしくお願いします。
西村)ありがとうございます。会っていただきたいと思いました。木村さんのお友達がそういう人が多かったという、普通のお話なんだけれども、お友達と言ってくれたことが、すっごく嬉しかったです。ありがとうございます。
木村議員)ありがとうございました。失礼します。

 

司会)入院とかレスパイト、それができないというのは、そういうケアをこちらの要望する慣れた人のケアを許さないというところで入院できないのですか。
西村)例えば、いろいろと難しいケアがあるんです。気管切開部からカテーテルを入れて痰を吸引するケアがあって、普通はここに入っている部品のなかしか入れちゃいけないんだけれども、帆花はそれを通過して、気管支が左右に分かれていますが、気管支分岐の先まで入れて、右、左、と入れ分けないといけないんですね。それは、看護師さんの資格を持っていてもすぐにできない。だからうちに新しく訪問看護師さんが来てくれるとなった時には、だいたい3ヶ月くらい訓練しないといけないのです。それも本当に稀なやり方なんですけれども、私がそこまでやらないと取れない子だっていうことを帆花から聞いてしまい、その練習の仕方なども私が確立したのです。入れ分けるっていう方法。それを安全に行うためにペットボトルで模型を作って、こうやると右に出るよ、こうやると左に出るよ、というように。まずそれで訓練していただいてできるようになったら、今度は本人で練習して。だいたい3ヶ月くらいは練習が必要なので、入院するとそれができる看護師さんがいないということ、その他にもいろいろ難しいことがあります。
質問者)実際、重度の障害を持っているご家族は非常に困るので、病院でレスパイトを受けてくれるようなところがあって、普段から看護師さんが慣れてくれると、いざという時も受けてくれるので、そういうところが近くにあれば一番なんですけれども、なかなか厳しいんだろうと思います。本当にご苦労されているのがよく分かりました。
司会)同じような重度の障害を持って帆花さんとほぼ同じ状態ですと言われた方もオンラインで参加されていますが、ご感想なり、ご自分のお子さんの様子なり、お話して下さる方いないでしょうか。いかがですか?守田さんからチャットにご意見が届いていますね。


守田)感想です。チャットに書いた通りですが、インフルエンザにお2人が感染された時に、理佐さんが看護されるのに帆花さんが反応されたという話に感動しました。もう一つ質問の冒頭で、脳に電極を埋めてはという話が出ましたが、帆花さんは周囲を認知されているように思うんです。ですから、体性感覚誘発電位検査という脳や神経の反応を測定する検査ですが、検査したら何らかの機能の有無が確認できるかもしれないなあと思いました。もちろんそういう検査に反応があるなしに関わらず、この方の意識があるということ、いのちに価値があるということは変わりありません。これ、感想です。

 

奥山)チャットに寄せられている質問を読み上げさせていただきます。「日本福祉大学の○○です。いろいろソーシャルアクションされていて、素晴らしいと思います。その原動力はどこから湧き出てきますか?」というご質問ですね。
西村)原動力、そうですね。原動力があるというよりは、帆花に後ろから操られているみたいな感じです。でも、やっぱり、我が子のためにとか、私と主人の生活、家族の生活を守るためにということはもちろんあって、それも原動力ですけれども、同じいのちを生きている、私たちと同じいのちを生きている子が、ただ生きるためだけにこんなに苦労する世の中にしているのは、私もその社会を作っている大人の一人として、自分の責任でもあると思ってます。誰かのせいとか、制度が悪いとか、そういうことではなくて、そういう世の中を作ってきてしまったのは、私の責任でもあります。それをなんとかしなきゃいけない。それが我が子のためにもなるというところが大きいかなと思います。 

 

司会)ありがとうございました。お話を聞きながら、帆花さんが成長したことをすごく感じました。私も一度だけですが、小さいときに、西村さんのお宅を訪問させて頂いて帆花ちゃんに会ったことがあります。そのときはまだ3歳か4歳前くらいで、ほんとに可愛い、色が白くて、柔らかくて、ピンク色の肌をしていてかわいいお子さんでしたね。意識がないとか、脳の機能不全と言うんですか、脳の機能が失われている状態でもコミュニケーションが取れないわけではない、一緒に暮らせないわけじゃない、伝わってくるものがあるんですよね。そこにいのちが在るということ、帆花さんの存在を通して、お母さん自身の価値観が変わったと言われたこと、帆花さんから教えられたということが本当にすごいと思うんです。私は、帆花さんだけではなく、脳死と診断されたお子さんにお会いしたことがありますが、背中に手を入れると何か感じるものがあるとか、入浴させると気分が良い顔になるというような、ご家族が感じ取れる何かがあり、長い間のケアから見つけておられるその子のケアの方法もあると、本日、西村さんのお話をお聞きしてさらにそう思いました。帆花さんの「私はここにいます」という声を聴く、自分たちの社会の一員として、私たちがその存在をいのちをともに認識することが大切だと思います。
 そういう思いで私たちは、現在、厚労省が進めている脳死からの臓器提供、生体移植も含めてですが、進められている臓器移植を拡大する政策に反対する活動をしています。私たちが作った冊子を受付で配布しましたが、そこに書かれている政策が現在進められています。21年の暮れに出したものですが、この内容を厚労省は、現在さらにスピードをアップして進めています。この報告を事務局の古賀さんから話していただきます。

 

古賀)市民ネットの事務局の古賀からお話しさせていただきます。厚労省の担当官とこの前話をした時に、長期脳死とされるお子さんとか、帆花さんのような人について、医系技官の人でしょうか、「終末期」っていうんですよ。医学的には終末期と呼ぶと言うんです。そういう感覚で物事が進められていくと非常に危ないと思いました。

 ところで、脳死と言うと、臓器移植法の運用に関する指針に書いてありますが、法的脳死判定までは救命に努めて、脳死と判定された段階で移植の手続きに移ると、僕らは思ってきたし、厚生労働省の運用指針、マニュアルにも、そう書いてあるんですよ。ところが、今、厚生労働省の、脳死と臓器移植に関する扱い方は、もっと前倒しして、判定以前に死んだことにして進めようとしているんです。臓器提供の選択肢を提示された患者を、どこまで救命をつくし、どこからは臓器保存に変えるか、ということが一つあります。「脳死判定をしたならば脳死とされうる状態」つまり、無呼吸テスト以外の法的脳死判定の検査をやった状態で、まだ法的脳死と判定されていない、その状態で、臓器保存術に変える。脳死判定をうまくできない施設の患者は、どこかに移送して脳死判定をさせる。ここでも、やはり判定したら脳死と判断される段階で、移送して判定するということをやっている。また、脳死になる可能性がある人の患者情報を各地域の拠点病院に集める、あるいは臓器移植の斡旋をしている日本臓器移植ネットワークに流すことを厚労省は検討するなどしています。「脳死とされうる状態」の診断後に、家族の同意を得た上で患者情報を流すという言い方を厚労省はしています。

 だから、法的脳死判定以前に、すでに死んだことにして取り扱っていこう、そういうことを厚生労働省は進めているのです。非常に危険な動きだと思います。で、審議会の議事録の中には、さらに前倒ししかねない意見も出ています。つまり、新鮮な臓器を取る、そうすれば移植の成績が上がるから。こういうことを一旦始めると、どんどんどんどん死を前倒しにして死んだことにする、さっき衆議院議員の阿部さんも言われましたけれども、死んだことにしてしまう、そういうことをやろうとしています。

 それから、「臓器提供を誇りに思える教育をする」ことが出されています。義務教育の中で。私たちが、(長期脳死と呼ばれた)重度の脳不全状態で生きる子どもたちの映像なども教材に取り上げて欲しいと言った時に、あの子達は無呼吸テストはしてないようだから、という。でも、厚生労働省の人たちは、無呼吸テストをしていないで脳死とされると診断すれば、その状態で、死んだものとして取り扱おうとしている、それは、長期脳死の人とどこが違うんだというふうに言うと黙ります。このような形でいのちの切り捨てを進めていこうとしています。

 他方、臓器移植法の運用に関する指針では、唯一の臓器あっせん機関である日本臓器移植ネットワークを通さない移植は、海外での移植だろうといけないとしています。厚労省の調査でも、海外の25カ国で、日本人543人が臓器移植していたという結果を公表していますが、中には無許可団体による斡旋があったはずなのに、ちゃんと取り締ろうともしない。厚生労働省の不誠実さと危険性が、明らかになったと感じております。

司会)ありがとうございました。あの、現在推進されている臓器移植拡大のための政策への質問と厚労省の回答ということで、本日の資料に要約の形でまとめていますので、後でお読みください。本日は西村さんありがとうございました。最後に一言ありましたらお話し下さい。

西村)そうですね。今日、川見さんからお声がけ頂くまで、当時あんなに苦しめられていたその脳死という言葉とか、その中身とか、を忘れていたわけではないですし、だけどちょっとその呪縛が解けたのかなと思っていました。けれども、やっぱり世の中の動きを考えると、まったくそうではないですね。帆花が当時脳死に近い状態だって言われたからこそ現在こういう風に元気に楽しく暮らして、苦労もあるけれどもというところを、もっと声をあげていかなきゃいけないと思いつつも、彼女自身はそれを証明するために人生を送っているわけでもないですし、長期脳死って呼ばれることも、非常に不満だと思います。「長期脳死」ということば、脳死がそもそも臓器提供に係る概念だとしたら、「長期脳死」とは、ちょっと意味がわからないですから。世の中、いのちを切り捨てようというさまざまな動きがありますけれども、この子らはそんなことに負けないで力強く、生きて行くと思いますので、私はそこに学びながら、今後も元気に頑張っていこうと思います。本日はどうもありがとうございました。 

 


寄せられた感想


1、大変貴重な講演会でした。私は帆花さんの映画や西村さんご家族のことを何も存じ上げないまま、参加を申し込んだのですが、本当に大切なメッセージを頂いたと思っています。私事ですが、最近は「脳死」や臓器移植について考えることが、ほとんどありませんでした。私には“ふつう”に生きてこられたことの「特権性」があるのだと思います。「特権性」ゆえに気づかないことが沢山あり、そのような私に対して、帆花さんが「わたしはここにいます」と声をかけてくれた気がしています。また、「“いのちは大切である”というテーゼ」に関して、「生きようとするいのちのすごさ」「生きてること自体がとうとい」という理佐さんの言葉も胸に響きました。訪問カレッジのような活動のご計画も、素晴らしいと思います。配布資料に掲載されていた厚労省政策のことも私は知らなかったので、まだまだ勉強不足です。まずは、帆花さんの「わたしはここにいます」という声を忘れずにいたいです。せっかく声をかけてくださったのだから。今日の出逢いに心より感謝します。

2、講師の西村様のこれまでの子育ての経緯、考え方や気持ちの移り変わり、今後の活動の計画など、とても丁寧に伝えていただいて、医療的ケアの必要なお子さんをもつご家族の暮し、置かれた環境、問題点、ご家族の気持ち、とても理解が深まりました。
 私自身は、まだ発達障害への理解がない時期に、問題を抱えた娘の子育てに右往左往してきた経験を持ちます。
 西村様が、最初は医療に頼る気持ちだったが、自分の子育てとしてとらえるようになったとお話をされました。医療や福祉が一番困っている所に届かないような、もどかしいような、怒りのような、ぶつけようのない気持ち。それならば私が動くしかないと、踏み出してみて、少しずつ前に進み、仲間をチームを作ってこられたこと。
 私も、西村様の経験された大変な思いには全く及ばないのですが、同じような気持ちを感じて、これまで前に進んできました。そこからの、いのちの大切さや、障がい者の人権の考え方に繋がっていくお話も、とても共感するものがありました。私は今、障がいをもつ方の作業所で支援員の仕事をしています。今日お聞きしましたお話をしっかり心に持って、毎日の仕事に向き合っていこうと思います。今日は貴重なお話しをありがとうございました。西村様、どうかお体を大切にされてください。これからも、帆花さんの暮しを一緒に見守る機会がありましたら、幸いです。

3、今 最初の30分を視聴しました。明日があるので 残りは改めて視聴します。が、「脳死」という言葉の理解のところで まずガツンと 衝撃。30分すべて 初めて知ること。命を知る 考える 機会をくださり感謝いたします。


4、後日配信で拝聴させていただきました。貴重なお話をありがとうございます。
 自分の子どもは臓器移植法改正の翌年に帆花さんに近い超重症児の状態で産まれました。超重症児の子育ての情報が欲しくて、家族の会などに入会もしましたが、自分の心身の不調から臓器移植に関する会報誌などに目を通すこともできず、初めて貴ネットワークの講座や臓器移植に関する情報をお聞きする機会になりました。
 脳に重い障害があっても今ここに生きているいのちと、ニーズとして進化している臓器移植という相反する世界のお話でしたが、私にとってどちらも改めて深く考えていくための機会ともなりました。お互いを知るためのこのような機会は必要なことだと思います。
 西村さんのお話は、自分の子ども、親としての自分たち夫婦の、これまで、現在位置、今後を思い直すこと、いろいろと思い出し、共感させられることも多かったです。
在宅生活が始まり、「天井ばかりを見つめる一生を送るのか」と塞いでいた頃に、子どもの入院先でお世話になった看護師さんが大学院に進み、その実習で我が家に来られたことがありました。その方はとても緊張されていたのですが、子どもとコミュニケーションするうちに表情が緩み、帰りは笑顔で帰ってくれたことがありました。その場には他にも訪問看護師さんなど3名がおりましたが、実習に来られた看護師さんを笑顔にしたのはうちの子どもだけでした。物も言えない、ほとんど表情もない子どもにこんな不思議な力があるのだと感動し、これまで様々な奇跡を見てくることができました。
 日々のケアは本人にとってはとても苦痛だろう、ケアをこのまま続けていくことが本当にこの子にとって良いことなのかと苦悩することもありますが、驚くほどの頑張りを見せてくれて、学校の授業や様々な方との出会い、経験の中で命の尊さを実感する日々です。
 私は、私たちはここにいるのだと発信することは本当に力がいります。でも帆花さんのために法人まで立ち上げて、未来を切り開こうとされている西村さんのお話にとても感銘を受けました。自分もマイペースですが、この世界にいる以上は微力ですが頑張っていきたいと思います。参加させていただきありがとうございました。

5、私がこの講座に参加しようと思ったのは、以前から映画等で帆花さんの存在を知っていたこと、『いのち』について、最近考えることが多くなったということです。話がそれるようですが、昨今の国際情勢、特にパレスチナのガザへの激しい空爆等で沢山の人々が命を落としている現状をテレビ等で見ていると、軽々と失われていく『いのち』の存在。『いのち』とは、いったい何なのか。どんなに健康に生まれてきても、障害を持って生まれてきても、我々は平等に『死』へ向かっていく。死の対極として、生があるとすれば、すべての『いのち』は等しく尊重すべき存在であると、わたしは思います。
 宮沢賢治の『マリヴロンと少女』という作品に、「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人は、いつでもいっしょにいるのです」というセリフがあります。すべての『いのち』を大切にする社会こそが、私たちの目指す豊かな社会ではないでしょうか。帆花さんのような存在が、未来を灯す希望でありますように。
今後もまた機会がありましたら、参加させていただきたいと思います。ありがとうございました。

 

 

以上


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第20回市民講座 【座談会】 教育現場で語られる脳死と臓器移植 ~中学・高校の教員を招いて~ 2024年6月23日(日)

2024-06-13 22:34:11 | 活動予定

第20回市民講座「座談会」 
座談会】 教育現場で語られる脳死と臓器移植
~中学・高校の教員を招いて~

 

日時:2024年6月23日(日)午後2時~4時40分 
会場:江東区亀戸文化センター(カメリアプラザ)5階 第1・第2研修室 
開催方法:会場&オンライン(zoom)申込者への事後配信あり 
資料代:500円 
参加申し込み:会場参加の方は、直接、会場にお越しください。資料代は会場でお支払いください。
       オンライン参加の方は、下記の申し込みフォームより申込みの上、フォーム記載の口座に資料代の振り込みをお願いします。
       第20回市民講座:申し込みフォーム (google.com)

主催:臓器移植法を問い直す市民ネットワーク    

 

発題 
福田将之さん(中学校・社会科) 
橋爪悠祐さん(中学校高等学校・社会科) 
小宮山裕輔さん(高等学校・理科) 

 厚労省は2022年8月に臓器移植法施行規則(ガイドライン)を改訂して、臓器提供者の拡大政策を強力に推し進めています。特に若年層をターゲットにした普及啓発では、小学校・中学校・高等学校で「臓器提供を誇りに思う気持ちを醸成する教育」を行うとしています。これは「臓器提供は任意でなければならない」と規定した臓器移植法の理念に反するものです。 
 前回の市民講座では、生まれてすぐに脳死に近い状態と診断された帆花さん(現在16歳)のお母さんにお話ししていただきました。多くの方と支え合う帆花さんのいのちの営みを感じ、心にしみるお話でした。臓器提供の普及啓発教育は、“臓器提供の選択肢を提示する”とされている重度脳不全患者のいのちと生活を伝えようとしていません。いじめや登校拒否、虐待、貧困、ヤングケアラー問題…、生きづらさを抱える子どもたちのことが社会問題になっている現状で、「いのちを大切にする教育の一環としてとりあげられる臓器移植」とは何でしょう? 
 今回の市民講座では、中学・高校で教鞭をとっている現役の教員の方をお招きして座談会を行います。「脳死や臓器移植」がどのように取り上げられ、子どもたちはどんな意識を持っているのか?現場から報告していただきます。 
 初めての企画です。ともに議論をしたいと思います。皆様のご参加お待ちいたします。 

 

 

発題者からのメッセージ 

 

福田将之さん 「脳死をめぐる問題と『人間の死』」 
 
 八王子市立ひよどり山中学校で社会科を担当しています福田将之です。公立学校教員は今年度で5年目で、それまでは東京外国語大学大学院に長いこと所属していました。私からは、中学校社会科というフィールドでどのように「脳死」がとり上げられているのか(授業としてどんなアプローチが出来るのか)、また義務教育学校での「道徳」の授業において、「脳死」をめぐる問題、さらに「人間の死」はどのような現象として捉えてられているのか、まとめてご報告できればと思っています。 

 

橋爪悠祐さん 「脳死と臓器移植から考える『命の選別』」 
 
 埼玉県飯能市にある中高一貫校の自由の森学園で社会科教員をしている橋爪悠祐と申します。今年で8年目に入り、現在は中学1年生の担任をしています。これまで中学三年生の「公民」、高校三年生の「現代社会」の授業で生徒と共に脳死状態と臓器移植について考えてきました。かつてナチスの優生思想の根底にあった「命の選別」を大きなテーマとして、相模原障害者施設殺傷事件や安楽死制度、そして脳死と臓器移植を学び、“命”や“社会の在り方”を考えることを目指した授業実践を報告すると共に「命の選別」という観点で脳死と臓器移植についてみなさんと考えてみたいと思っています。 

 

小宮山裕輔さん 「教育現場で扱われる『脳死』とは」 
 
 東京の世田谷区にある私立の大東学園高校で、理科教員の小宮山裕輔と申します。当日は、以下の3点について紹介したいと思っています。①高校の教科書で「脳死」がどのように取り扱われているのか。②15年以上の教員経験の中で、周りの高校教員の「脳死」に関する意識がどのようなものであったか。③生物や総合の授業で「脳死」をとりあげて授業もしてきましたので、その授業と生徒の反応がどんなものであったか。高校のカリキュラムの中で「脳死」は、2022年度まで社会科の「現代社会」のトピックスの扱いであったのが、2023年度から理科の「生物基礎」の単元に変わりました。これが意味することは何なのか、みなさんと考えてみたいと思っています。


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臓器提供の承諾後~臓器摘出の手術中に脳死ではないことが発覚した症例、疑い例および統計 3-1

2024-06-07 16:22:35 | 声明・要望・質問・申し入れ

最新の追加情報(2024年6月7日)

 

 この「臓器提供の承諾後~臓器摘出の手術中に脳死ではないことが発覚した症例、疑い例および統計」は、3-1(このページ)とともに別ページの3-2、同3-3の計3ページで構成しています。

 今回、下記3-1に掲載している「2,脳死判定の誤りが発覚した頻度は、テヘランでは臓器摘出直前に0.15%、米国では臓器摘出直前に1~5%、日本および韓国では親族の臓器提供承諾後に1.2%前後」に、「麻酔と臓器移植(真興交易医書出版部、1992年発行)に掲載された以下の情報を追加しました。


 1979年3月1日から1985年3月1日までに223例のドナーがアリゾナ大学付属病院に登録された。そのうち62例が受け入れられ、残りの161例が拒否された。
心臓移植ドナー拒否の理由は、該当レシピエントなし(ABO不適合)50例(31%)、家族の拒否17例(11%)、血行動態の不安定15例(9%)、輸送上の問題16例(10%)、臓器提供前の死亡8例(5%)、記載なし7例(4%)、心停止6例(4%)、敗血症6例(4%)、脳活動あり6例(4%)、その他30例(18%)。

出典:Burnell R.Brown, Jr編、武田純三ほか:麻酔と臓器移植(真興交易医書出版部、1992年)、p100~p101

 

 

 

区切り線以下が3-1の本文です



臓器提供の承諾後~臓器摘出の手術中に脳死ではないことが発覚した症例、疑い例および統計

3-1

 

 以下3ページは、移植用臓器の提供について家族(近親者)の承諾が得られた後から臓器摘出術中までに、または臓器提供が拒否された後に、脳死ではないことが発覚した症例、その疑い例、および関連統計、関連情報の概要を掲載する。
 検索した資料は日本語または英語(1点のみドイツ語)で表記されたものに限定される。また網羅的に資料を点検できていない。加えて、脳死ではないことが発覚しないまま臓器摘出を完了しているケースが想定されるため、実際に脳死ではないのに臓器摘出手術が敢行された症例は、以下に掲載された事例より多いと見込まれる。

 

目次

3-1(このページ)の見出し

1,臓器摘出の直前~臓器摘出術開始後に、脳死ではないことが発覚した症例
2,脳死判定の誤りが発覚した頻度は、テヘランでは臓器摘出直前に0.15%、米国では臓器摘出直前に1~5%、日本および韓国では親族の臓器提供承諾後に1.2%前後

3-2の見出し
3,脳死なら効かないはずの薬=アトロピンが、脳死ドナーに投与され効いた!
4,脳死とされた成人の長期生存例(妊娠の継続・出産、臓器提供、異種移植実験などに伴う脳死宣告から1カ月以上の長期生存例)
5,「麻酔をかけた臓器摘出」と「麻酔をかけなかった臓器摘出」が混在する理由は?
      何も知らない一般人にすべてのリスクを押し付ける移植関係者

6,親族が臓器提供を承諾した後に、脳死ではないことが発覚した症例

3-3の見出し
7,親族が脳死臓器提供を拒否した後に、脳死ではないことが発覚した症例
8,脳死判定を誤る原因

 

・各情報の出典は、それぞれの情報の下部に記載した。更新日時点でインターネット上にて閲覧できる資料は、URLをハイパーリンク(URLに下線あり)させた。閲覧できない資料はハイパーリンクを削除した(URLに下線なし)。医学文献のなかには、インターネット上で一般公開している部分は抄録のみを掲載している資料もあり、その場合はURLの後に(抄録)と記載した。登録などしないと読めない記事はURLの後に(プレビュー)と記載した。

 


 

1,臓器摘出の直前~臓器摘出術開始後に脳死ではないことが発覚した症例

 

 2022年4月24日にチェルトナムの路上で殴られたジェームズ・ハワード・ジョーンズさん(28歳)は、病院に搬送され緊急手術を受けたが、数週間後に医師は家族に「ジェームズさんは脳死です、私たちにできる最も親切なことは彼を死なせることです(Within the first couple of weeks we were told by the doctors treating James that he was brain dead and the kindest thing we could do was to let him die)」と説明した。家族は臓器提供に同意した。家族や友人がジェームズさんに別れを告げることができるように、臓器提供を一週間遅らせた。ジェームズさんは、生命維持装置がオフにされる直前に意識を回復した。
 2023年7月現在、ジェームズさんに重度の精神的肉体的障害はあるが毎日、車イスを数時間使うことができる、平行棒を使って歩き始めている。

出典=Man declared brain dead after being punched on a night out wakes up just before his life support was about to be switched off
https://www.dailymail.co.uk/news/article-12269037/Man-declared-brain-dead-wakes-just-life-support-switched-off.html

 

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 米国ウェストバージニア州のエリック・エリスさん(36歳)は転落事故後に脳死とされ、家族は臓器提供に同意したものの、臓器摘出の直前に左腕を動かしたためICUに戻された。フェイスブックをみると受傷は2020年9月上旬(9月5日?)、9月11日(金)に回復の徴候。9月13日に開眼、見当識障害。10月23日に自力で食事、会話、トイレまで歩行。11月4日に帰宅。
当ブログ注:脳死判定の詳細は記事では不明。

出典=‘Miracle’; WV man comes back to life after ‘officially deemed’ brain dead
https://myfox8.com/news/miracle-wv-man-comes-back-to-life-after-officially-deemed-brain-dead/
出典=フェイスブックhttps://www.facebook.com/eric.ellis.52

 

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 2014年12月初め、ドイツ・ブレーメンの病院で、外科医がドナーの腹部を切開した後、死んでいないことに気付き臓器摘出は中止された。脳死は判定基準に従って証明されていなかった。
当ブログ注:脳死判定の詳細は記事では不明。

出典=Schwere Panne bei Organ-Entnahme
http://www.sueddeutsche.de/gesundheit/krankenhaus-bei-bremen-schwere-panne-bei-organ-entnahme-1.2298079(プレビュー、この記事に誤診の詳細な記載はない)

 

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 アトランタのエモリー大学病院で心肺停止の55歳男性は発症から78時間後に脳死宣告、家族は臓器提供に同意した。患者は臓器摘出のため手術室に搬送され、手術台に移す時、患者が咳をしたことに麻酔科医が気づいた。角膜反射、自発呼吸も回復しており、患者はただちに集中治療室に戻された。発症から145時間後:脳幹機能が消失、神経学的検査で脳死に矛盾しない状態となった。発症から200時間後:脳血流検査で血流なし。患者家族と人工呼吸器停止の結論、臓器摘出チームとは家族に再び臓器提供でアプローチしないことを決定した。発症から202時間後:人工呼吸器を停止、心肺基準で死亡宣告。
当ブログ注:無呼吸テストは1回だけ10分間人工呼吸を停止した。

出典=Adam C. Webb: Reversible brain death after cardiopulmonary arrest and induced hypothermia, Critical Care Medicine,39(6),1538-1542,2011
http://journals.lww.com/ccmjournal/Abstract/2011/06000/Reversible_brain_death_after_cardiopulmonary.44.aspx(抄録)

 

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 2009年10月16日、コリーン・バーンズさん(41歳)は、薬物の過剰摂取でニューヨーク州のセントジョセフ病院に入院。10月19日午後6時、看護師がバーンズさんの足を指でなぞったところ足指を曲げた、鼻孔が膨らんで自発呼吸の兆候が見られ唇や舌も動いていた。午後6時21分、その看護師はバーンズさんに鎮静剤を投与したが、医師の記録には鎮静剤も症状の改善もない。10月18日と19日、不完全な神経学的診断と不正確な低酸素脳症との診断で、脳死判定基準の無呼吸に該当していなかったが脳死と診断した。家族は、生命維持を停止して心臓死後の臓器提供に同意した。10月20日午前12時、心停止後の臓器提供のため手術室内の準備室に運び込まれたバーンズさんが目を開けたので、心停止および臓器摘出処置は中止された。
バーンズさんは重度のうつ病のため家族も病院を訴えることはせず、それから16ヵ月後にBurnsさんは自殺した。

出典=St. Joe’s “dead” patient awoke as docs prepared to remove organs
http://www.syracuse.com/news/index.ssf/2013/07/st_joes_fined_over_dead_patien.html

・U.S. Centers for Medicare and Medicaid Services report on St. Joseph's Hospital Health Center
http://ja.scribd.com/doc/148583905/U-S-Centers-for-Medicare-and-Medicaid-Services-report-on-St-Joe-s(プレビュー)

 

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 2009年12月16日付のNew York Times magazineは、マサチューセッツ医科大学の医師で医療コラムニストのDarshak Sanghavi氏による“When Does Death Start?”を掲載。同大学神経救急科のDr. Wiley Hallが「脳死ではない患者に死亡宣告し臓器ドナーとするザック・ダンラップ(2007年)と類似のケースが昨年、マサチューセッツでもあった」と話したとのこと。
当ブログ注:脳死判定の詳細は記事では不明。

出典=When Does Death Start?
https://www.nytimes.com/2009/12/20/magazine/20organ-t.html(プレビュー)

 

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 2007年11月、オクラホマ州のザック・ダンラップさん(21歳)は4輪バイクの転倒事故でユナイテッド・リージョナル病院に搬送。医師は家族に「脳の中身が耳から出てきている」と告げた。脳血流スキャンで脳に血流が無かった。受傷から36時間後の11月19日11時10分に脳死宣告。別れを告げに来た従兄弟で看護師のダン・コフィンさんが、ダンラップさんの足の裏をポケットナイフで引っ掻くと下肢が引っ込んだ。手指の爪の下にコフィンさんが指の爪をねじ込むと、ダンラップさんは手を引っ込めて自分の身体の前を横切らせたことで、意図的な動きをしており脳死ではないと判断された。ダンラップさんの父母のもとに臓器移植機関の職員が訪れ「すべては中止です」と伝えた。ダンラップさんは、医師が「彼は死んだ」と言ったのが聞こえため後に「狂わんばかりになりました」と語った。
当ブログ注:脳血流検査が行われ脳血流が無いと診断された。

出典='Dead' man recovering after ATV accident. Doctors said he was dead, and a transplant team was ready to take his organs -- until a young man came back to life.
https://www.nbcnews.com/id/wbna23768436
・2008年3月23日に放送されたNBC News動画の短縮版がhttp://medicalfutility.blogspot.com/2018/11/brain-death-no-no-no-to-apnea-test.htmlで視聴可能(再生開始から2分53秒~5分27秒の部分)
・2019年公開の動画https://www.youtube.com/watch?v=ZXFM9INV-bQ
 Declared Brain Dead – the story of Zack Dunlapにザック・ダンラップさんと妻と娘、そしてダン・コフィンさんが出演した。
 ダン・コフィンさんが脳死判定を疑ったのは、ザック・ダンラップさんの血圧と心拍数の変化、そして人工呼吸器の設定とザック・ダンラップさんの呼吸が合わなかったことから。また、疼痛刺激よりも強い刺激としてポケットナイフは開かないで使った、爪の下に爪を押し込んだ、対光反射も部屋を明かりを暗くして行うように頼んだ、と語った。

 

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・30歳の重傷頭部外傷患者は脳死が宣告され、19歳の肝不全患者への肝臓移植が計画された。麻酔医は、そのドナーが自発呼吸をしていることに気づいた。麻酔医が脳死判定に疑問を呈したところ、脳死判定した医師は患者は回復しないから脳死である、そして肝臓のレシピエントは移植なしには死が差し迫っているからと述べた。麻酔医の抗議に関わらず、臓器摘出は行われた。ドナーは、皮膚切開時に体が動き高血圧になったため、チオペンタールと筋弛緩剤の投与が必要になった。肝臓のレシピエントは急性内出血のために、肝臓の採取が完了する前に別の手術室で亡くなった。肝臓は移植されなかった。

・頭蓋内出血後に脳死が宣告された多臓器ドナー=頻脈があったためネオスチグミン(抗コリンエステラーゼ)が投与されていたドナーは、「大静脈が結紮され、肝臓が取り出された」と外科医が知らせた瞬間に自発呼吸を始めた。そのドナーは無呼吸テストの終わりに喘いでいたのだけれども、脳外科医は脳死判定基準を満たしていると判定していた。

・麻酔科医は臓器摘出予定日に、挿管された若い女性に対光反射、角膜反射、催吐反射のあることを発見した。それまでの管理が見直されエドロホニウム10mgを投与したところ、患者は咳き込み、しかめつらをし、すべての手足を動かした。臓器提供はキャンセルされた。頭蓋内圧が治療により徐々に下がり、患者は意識を最終的に取り戻し帰宅したが、神経学的欠損に苦しんだ。

出典=Gail A Van Norman:A matter of life and death: what every anesthesiologist should know about the medical, legal, and ethical aspects of declaring brain death、Anesthesiology、91(1)、275-287、1999
https://pubs.asahq.org/anesthesiology/article/91/1/275/37321/A-Matter-of-Life-and-Death-What-Every
当ブログ注:著者の所属はDepartment of Anesthesiology, University of Washingtonだが、上記3症例の発生した施設名の明確な記載は無い。

 

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 台湾では法務部が1990年に「執行死刑規則」を改訂し、臓器寄贈を同意する受刑者に対し、心臓でなく、そのかわりに頭部(耳の下の窪の部分、脳幹辺り)を撃つことができるようになった。1991年に病院での2回目の脳死判定を省略し、執行場での1回目の判定でよいと規則を変えた。1991年に、ある脳死判定された死刑囚が栄民総医院の手術室で息が戻り、病院側が余儀なく当該「脳死死体」を刑務所に送り返すという不祥事が発生した。

出典=町野 朔:移植医療のこれから(信山社)、325-326、2011

 

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 1990年9月25日、ノースカロライナ州のカート・コールマン・クラークさん(22歳)は自動車事故でフライ地域医療センターに入院。血管に放射性物質を注射して頭部の血管を調べた。脳内出血で脳がはれ、心臓が送られてくる新鮮な血が脳内に流れていなかった。26日午前10時21分に脳死宣告。家族の意向を確認し、「遺体」をハイウェーで1時間余りのバブティスト病院に運んだ。バブティスト病院の移植チームは、クラークさんのまぶたが動くことを見て、体をつねるとクラークさんは痛みを避けるような動作をした。人工呼吸器を外すと、かすかながら自発呼吸をしていた。臓器摘出手術は中止された。クラークさんは脳内の出血を取り除く緊急措置がとられた。6日後、この患者は改めて死亡宣告を受けた。その間、意識を回復することはなかった。家族は、二度目の死亡宣告時に臓器提供はしなかった。
当ブログ注:脳血流検査が行われ脳血流が無いと診断された。

出典=息をした米の脳死患者 臓器摘出直前 体が動いた!!:朝日新聞、1990年10月26日付朝刊3面

 

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 マーガレット・ロックが面接した医師5名のうち1名が、研修医時代の経験として以下のように語った。

「私たちには、移植用の臓器を確保しなければならないというプレッシャーがあったと思います。私たちは無呼吸テストを30秒間行いましたが、自発呼吸はみられませんでした。それで、私たちはその患者をドナーとして手術室に送りました。ところが、手術室で人工呼吸器が外されたとき、彼は呼吸しはじめたのです。私たちは、ICUに戻されてきた彼のケアに努めました。結局彼は、2ヵ月後に死亡したのですが、私たちは悪夢を見ているような気がしました。弁解の余地のないこの事件が起きたのは、脳死に関するはっきりしたガイドラインのなかった70年代初めのことです。私はいつも研修医たちにこの話をし、けっして性急に判定を下してはならないと注意しています」

出典=マーガレット・ロック:脳死と臓器移植の医療人類学、みすず書房、196-197、2004

 

注:脳死ではないことが発覚した時点が、上記の各症例よりも若干早いと見込まれる情報「6,親族が臓器提供を承諾した後に、脳死ではないことが発覚した症例」を、次ページ2-2に掲載しています。

 


 

2,脳死判定の誤りが発覚した頻度は、テヘランでは臓器摘出直前に0.15%、米国では臓器摘出直前に1~5%、日本および韓国では親族の臓器提供承諾後に1.2%前後

 

 イランのテヘランでは「脳死が正式に確認され、家族が2回目の同意を与えると、臓器は臓器調達部門の手術室で摘出される。手術室に行くことが100%確実な場合に、死亡したドナーのみを臓器調達部門に移送する」という運用だが、2016年から2018年に臓器調達部門に移送された685人の潜在的脳死ドナーうち1人が脳死と確認できなかったため臓器提供に至らなかった。

出典=Masoud Mazaheri: Failed Organ Donations After Transfer to an Organ Procurement Unit, Experimental and clinical transplantation,17(1),128-130,2019
http://www.ectrx.org/forms/ectrxcontentshow.php?doi_id=10.6002/ect.MESOT2018.O79

 

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 米国の6地域における12の臓器調達機関の代表者の回答(2023年6月から9月に調査)によると、12機関のうち10機関が神経学的死亡(death by neurologic criteria:DNC:脳死)宣告の取り消しを経験していた。
 脳死宣告が取り消された症例数は、5例未満が3機関、Fewが7機関、Neverが2機関。臓器調達機関が、2010 年基準(2010 American Academy of Neurology Practice Parameter)またはDNCの病院ポリシーを満たしていないという懸念から、潜在的な臓器提供者を拒否した事例の頻度は年間1例未満が6機関、Neverが5機関、Uncertainは1機関だった。

出典:Neurocritical Care電子版、2024年5月15日付 Verification of Death by Neurologic Criteria: A Survey of 12 Organ Procurement Organizations Across the United States
https://link.springer.com/article/10.1007/s12028-024-02001-6

 

 

 p69(187) 豊見山直樹医師の発言=「アメリカの移植に携わるコーディネーターの方と話をしたときに、ラフな運用と感じました。人工呼吸器をはずした際は、自発呼吸し始めたのが数パーセント、5 %近くあるんだよという話を聞きました」。

出典=玉井修:座談会・移植医療について、沖縄県医師会報、47(2)、178-197、2011
http://www.okinawa.med.or.jp/old201402/activities/kaiho/kaiho_data/2011/201102/pdf/060.pdf

 

 

 スタンフォード大学ドナーコーディネーターによると1980年代後半の5年間に「約300の臓器調達経験の中で3例の『早すぎた脳死判定』があり、いったん行ったが、引き返したこともある」。

出典=神戸生命倫理研究会:脳死と臓器移植を考える(メディカ出版)、195-220、1989

 

 

 1979年3月1日から1985年3月1日までに223例のドナーがアリゾナ大学付属病院に登録された。そのうち62例が受け入れられ、残りの161例が拒否された。
心臓移植ドナー拒否の理由は、該当レシピエントなし(ABO不適合)50例(31%)、家族の拒否17例(11%)、血行動態の不安定15例(9%)、輸送上の問題16例(10%)、臓器提供前の死亡8例(5%)、記載なし7例(4%)、心停止6例(4%)、敗血症6例(4%)、脳活動あり6例(4%)、その他30例(18%)。

出典=Burnell R.Brown, Jr編、武田純三ほか:麻酔と臓器移植(真興交易医書出版部、1992年)、p100~p101

 

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 Korea Organ Donation Agencyのデータによると、2013年から2017年に、家族から脳死臓器提供の承諾を得た後に2761人のうち35人=1.3%(35/2761)が脳死ではなかった。

出典=Yong Yeup Kim: Organ donation from brain-dead pediatric donors in Korea:A 5-year data analysis(2013-2017),Pediatric transplantation,e13686,2020
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/petr.13686(抄録)


 韓国では「意識障害がGCSスコア4未満で、不可逆性脳傷害を伴う昏睡状態で人工呼吸器を用いた自己呼吸がない患者」を潜在的脳死ドナーとしている。
Korea Organ Donation Agencyのデータによると、2012年1月から2016年12月までに潜在的脳死ドナーは8120人あり、このうち1232人が脳死ではなかった。2718人の家族から脳死臓器提供の承諾を得られた。最初の脳死判定(7つの脳幹反射と無呼吸テストを実施するが脳波検査は含まない)をパスしレシピエント決定手続きが開始された適格ドナーは2527人だったが、14人が第2回脳死判定をパスせず、18人が脳波検査をパスせず、1人が脳死判定委員会をパスしなかった。2400人が実際に脳死臓器ドナーとされたが、うち1人が脳死ではなかった。
=親族から脳死臓器提供の承諾を得た後では1.3%(34/2718) が脳死ではなかった。臓器摘出手術の直前または臓器摘出術中に0.04%(1/2400)に脳死ではないことが発覚した。

出典=Kim Mi-im:Causes of Failure during the Management Process from Identification of Brain-Dead Potential Organ Donors to Actual Donation in Korea: a 5-Year Data Analysis (2012-2016),Journal of Korean Medical Science,33(50),e326,2018
https://jkms.org/DOIx.php?id=10.3346/jkms.2018.33.e326

 

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 2021年4月21日に開催された第53回厚生科学審議会疾病対策部会臓器移植委員会の「資料1 臓器移植対策の現状について」https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000770822.pdfは、p17に「ドナー情報の分析(2016年~2020年)」を掲載した。
 臓器提供に至らなかった理由を10分類=「家族辞退」「急変」「医学的理由」「感染症」「判断能力確認できず」「本人拒否の意思表示」「虐待の可能性否定できず」「司法解剖」「施設都合」「その他」に分けて掲載している。
 脳死診断の取り消し例または脳死宣告の取り消し例は、この「その他」に分類されていると見込まれる。
 ドナー適応あり1226名のうちでは「その他」は3.5%(43/1226)。コーディネーターによる臓器提供の説明は745名の家族に行われたうち「その他」は2.0%(15/745)。臓器提供の承諾が573名の家族から得られたうち「その他」は1.2%(7/573)となる。下図を参照。


 

 「その他」とされている43名は、脳死診断の誤り例または脳死宣告の取り消し例なのか。関係施設から裏付ける報告がある。

・2008年開催の第53回日本透析医学会学術集会・総会で伊勢まゆみ氏(柏友クリニック)は「40歳女性、透析歴19年、移植直前にドナーの脳死判定が覆り、見送りとなる」と発表した。

出典=伊勢まゆみ:透析サテライトにおける腎移植 6症例から学んだこと、日本透析医学会雑誌、41(supple.1)、643、2008

 

・2011年6月開催の第24回日本脳死・脳蘇生学会総会・学術集会シンポジウム「改正臓器移植法 1年の検証」において、鹿野 恒氏(市立札幌病院救命救急センター)が「世の中では聞いているとよくあるんです、脳死だろうということでオプション提示をしてしまって、コーディネーターまで来て承諾書まで作っているのに、あとから自発呼吸が出てきて植物状態になって転院していったと。何のための承諾書かわからないですね。死を前提とした承諾書なのに、その第一段階を間違えているわけです。」と発言した。

出典=シンポジウム「改正臓器移植法 1年の検証」、脳死・脳蘇生、24(2)、71-112、2012

 

 このように脳死臓器提供が中止されたケースは発生している。次の情報は臓器移植コーディネーターが書いて日本臓器保存生物医学会誌に掲載済みのものだ。

 東京都臓器移植コーディネーターの櫻井悦夫氏が、1995年4月から2017年3月までの約22年間に東京都内のドナー情報の連絡を受けて対応を開始した424例のうち、家族説明は341例に行い、245例から承諾を得て、実際の臓器摘出は201例(心停止後136例、脳死下65例)であった。家族説明後に96例は臓器提供の承諾を得らなかった。このうち5例は植物状態に移行したため家族対応を中止した(表7)。さらに245例の家族が提供を承諾したうち44例が提供に至らなかった。うち1例は植物状態に移行したためだ(表8)。

 

 この論文は中止理由について、脳死下の臓器提供と心停止後の臓器提供を区別せずに記載している。しかしp10で「コーディネーターに臓器提供についての家族対応の要請が入るということは,その方は近い将来に『亡くなる』と言う診断がされていることを意味している。(中略)ほとんどの臓器提供候補者は突然の発症と急展開の経過において『脳の不可逆的な障害状態』にある点である。脳の機能は失われているが、臓器の機能は失われていない状態にあり、それでも死が切迫している事実を知らされる点である」とした。
 「脳の不可逆的な障害状態」そして「死が切迫している事実を知らされる」から、患者家族に脳死の説明をしたと判断される。

出典=櫻井悦夫:臓器移植コーディネーター 22年の経験から、Organ Biology、25(1)、7-25、2018
https://www.jstage.jst.go.jp/article/organbio/25/1/25_7/_pdf/-char/ja

 

 以上の各情報から、日本でも親族から臓器提供の承諾を得たものの、後に脳死判定の誤りが発覚した症例の存在が確信できる。

 

 

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臓器提供の承諾後~臓器摘出の手術中に脳死ではないことが発覚した症例、疑い例および統計 3-2

2024-06-07 16:21:30 | 声明・要望・質問・申し入れ

臓器提供の承諾後~臓器摘出の手術中に脳死ではないことが発覚した症例、疑い例および統計

3-2

3-1の見出し

1,臓器摘出の直前~臓器摘出術開始後に、脳死ではないことが発覚した症例
2,脳死判定の誤りが発覚した頻度は、テヘランでは臓器摘出直前に0.15%、米国では臓器摘出直前に1~5%、日本および韓国では親族の臓器提供承諾後に1.2%前後

3-2(このページ)の見出し
3,脳死なら効かないはずの薬=アトロピンが、脳死ドナーに投与され効いた!
4,脳死とされた成人の長期生存例(妊娠の継続・出産、臓器提供、異種移植実験などに伴う脳死宣告から1カ月以上の長期生存例)
5,「麻酔をかけた臓器摘出」と「麻酔をかけなかった臓器摘出」が混在する理由は?
      何も知らない一般人にすべてのリスクを押し付ける移植関係者

6,親族が臓器提供を承諾した後に、脳死ではないことが発覚した症例

3-3の見出し
7,親族が脳死臓器提供を拒否した後に、脳死ではないことが発覚した症例
8,脳死判定を誤る原因

 


 

3,脳死なら効かないはずの薬=アトロピンが、脳死ドナーに投与されて効いた!

 脳死判定の補助検査にアトロピンテストがある。脈が遅くなった場合の治療薬として使われているアトロピンが効く患者は、脳が正常に働いている人だけ、という原理を用いる検査だ(アトロピンは迷走神経性徐脈に適応があるが、心臓迷走神経中枢は延髄にある)。
 患者の脳機能が正常ならばアトロピンを投与すると脈が速くなるため、脳死を疑われる患者に投与して「脈が速くなったら脳は正常に働いている」「脈が変わらなかったら脳に異常が生じている」と診断する。
 このためアトロピンが脳死患者に効かないことは、この薬剤を使う医師には常識だが、日本医科大学付属第二病院における法的脳死30例目では「(脳死ドナーの)徐脈時にはアトロピンは無効とされるが、我々の症例では有効であった」と報告された。

出典=大島正行:脳死ドナーの麻酔管理経験、日本臨床麻酔学会第24回大会抄録号付属CD、1-023、2004

出典=大島正行:脳死ドナー臓器摘出の麻酔、LiSA、11(9)、960-962、2004は「プレジア用のカニュレーションを行った際、心拍数40bpmという徐脈となった。アトロピン0.5㎎を投与したところ、心拍数は回復した」と記載している。

 そもそも薬が効かない患者と見込まれるのに、敢えて投与したことが異常だ。もし脳死臓器摘出の現場で、ドナーにアトロピンを投与して効いたら脳死ではないことになり、臓器摘出は中止しなければならなくなるはずだ。臓器提供施設に臓器を摘出するために赴いた移植医が、施設側の脳死判定を確かめる検査を行い、そして脳死を否定することになる結果を得たならば、以後は臓器提供への協力を期待できなくなるであろう。こうした危険を知りながら投与したことは、臓器提供施設側の承諾の下に、臓器を摘出するドナーを薬物の実験台に使っている疑いを示す。

 

 伊勢崎市民病院における法的脳死582例目でもアトロピンが効き、「副交感神経系以外のM2受容体を遮断することで血圧上昇に寄与した可能性」が提示された。

出典=飯塚紗希:脳死下臓器摘出術の管理経験、日本臨床麻酔学会第39回大会抄録号、S292、2019

 薬物が効果を発揮する受容体を探索するための人体実験を行ったのか?

 


 

4,脳死とされた成人の長期生存例(妊娠の継続・出産、臓器提供、異種移植実験などに伴う脳死宣告から1カ月以上の長期生存例)

 

 ニューヨーク大学ラングーンヘルスは、2023年7月14日に遺伝子操作されたブタの腎臓を脳死状態の57歳男性に移植した。61日間の観察の後、9月13日に所定の終了日に達し、腎臓は除去され、人工呼吸器が外され、遺体は家族に戻された。本症例より前に同施設が行った遺伝子操作ブタ腎臓のヒト「脳死」者への移植2例では、ともに観察時間は54時間だった。今回の3例目では、以前は観察されていなかった軽度の拒絶反応が認められた。
出典=Two-Month Study of Pig Kidney Xenotransplantation Gives New Hope to the Future of the Organ Supply
https://nyulangone.org/news/two-month-study-pig-kidney-xenotransplantation-gives-new-hope-future-organ-supply

 

 アラブ首長国連邦のクリーブランドクリニック・アブダビでは、2017年10月1日から2022年10月1日までに、脳死宣告から1週間以降の臓器提供が10例あった。内訳は脳死宣告から30日後が1例、29日後が1例、14日後が1例、10日後が2例、9日後が1例、8日後が1例、7日後は3例。文末の結論は「Our study demonstrates that, in extenuating circumstances, it is possible to preserve viability of donor organs for several weeks after brain death and successfully perform organ procurement surgery(私たちの研究は、酌量すべき状況では、脳死後数週間ドナー臓器の生存能力を維持し、臓器調達手術を成功させることが可能であることを示しています)」
出典=Haamid Siddique:Late organ procurement as much as 30 days after brain death,Transplantation,107(10S1),3,2023
https://journals.lww.com/transplantjournal/fulltext/2023/10001/115_3__late_organ_procurement_as_much_as_30_days.3.aspx

 

 米国フロリダ大学医学部付属病院、妊娠13週の31歳女性では胎児への影響を考慮して無呼吸テストは行わなかったが脳スキャンで3分間の静的画像を得て脳死宣告した。妊娠33週に帝王切開で2142グラムの女児を出産、母親への人工呼吸は停止、女児は5日後に退院した。

出典=Natalia Moguillansky: Brain Dead and Pregnant,Cureus,15(8),e44172,2023
https://www.cureus.com/articles/176169-brain-dead-and-pregnant#!/

 

 ドイツのハインリッヒ・ハイネ大学病院、妊娠17週の29歳女性が自動車事故で1週間後に脳死判定された。妊婦は感染症、肺炎などあったが、5か月後に満期で健康な赤ちゃんを出産。心臓、肝臓と腎臓が移植のために摘出された。

出典=Payam Akhyari:Successful transplantation of a heart donated 5 months after brain death of a pregnant young woman,The Journal of Heart and Lung Transplantation,38(10),1121,2019
https://www.jhltonline.org/article/S1053-2498(19)31553-0/fulltext(抄録)

 

 ドイツのジュリウス・マクシミリアン大学病院では、交通事故で28歳女性が脳死と判定され、25週後に経腟分娩し、移植用に心臓、腎臓、膵臓が摘出された。

出典=Ann Kristin Reinhold:Vaginal delivery in the 30+4 weeks of pregnancy and organ donation after brain death in early pregnancy,BMJ case reports, 30,12(9),e231601,2019
https://casereports.bmj.com/content/12/9/e231601(抄録)

 

 熊本大学病院で妊娠22週の32歳女性を脳死と判定(正式な無呼吸テストは低酸素の懸念から行わなかった)、妊娠33週で経腟分娩(自然分娩)し、翌週に無呼吸テストで自発呼吸の無いことを確認した。8週間後に転院、約1年後に死亡した。

出典=(日本語)今村裕子:妊娠33週で自然経腟分娩にて生児を得た脳死とされうる状態の妊婦の1例、日本周産期・新生児医学会雑誌、52(1)、94-98、2016
   (英語)Kinoshita Yoshihiro:Healthy baby delivered vaginally from a brain-dead mother, Acute Medicine & Surgery,2(3),211-213,2015
   https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ams2.95

 

 脳死の一般向け説明として「脳死になったら数日のうちに心臓も止まる」がある。しかし脳死出産は、脳死と判定された患者の中に数日間以上、生命維持が可能な患者がいること。加えて生命体の特質=子孫を残すことができる患者もいること・・・死んではおらず生きていることを示す。

 脳死出産について、竹内(注1)は2002年に「(世界中から)ほぼ年に1例弱の頻度で報告されている。脳死判定後の生命維持期間は1~107日で記載の明らかな11例の平均は56日、11例の出産方法はすべて帝王切開、脳死出産後の臓器提供は3例(生命維持期間は44日間、54日間、100日間)」としたが、竹内が記載した以外で2002年より前に日本国内だけでも他に4例の脳死生産、1例の脳死死産が確認できる。
 近年は上記のように生命維持期間は長期化した症例が報告されている。
 経腟分娩例も前記ジュリウス・マクシミリアン大学病院例、熊本大学病院例のほかに新潟大学病院例(注2)がある。
 脳死判定における無呼吸テストは、胎児および胎児への悪影響を考慮して行っていない症例が多い。

 

文献

(注1) 竹内一夫:脳死出産、産婦人科の世界、54(6)、551-558、2002
(注2) 佐藤芳昭:脳死患者より経腟分娩例について、母性衛生、24(3~4)、48-49、1983

 


 

5,「麻酔をかけた臓器摘出」と「麻酔をかけなかった臓器摘出」が混在する理由は?

 2008年6月3日、衆議院厚生労働委員会臓器移植法改正法案審査小委員会において、委員から「脳死は、脳幹の機能を初め、生命維持機能が失われたものと聞いておりますけれども、具体的に体がどのような状態になるのか、このところをお伺いしたい」と質問されて、心臓摘出の経験のある福嶌教偉参考人(大阪大学医学部教授・当時)は以下枠内を述べた。
「まず一番は脳と脳幹の停止ということですので、息をしないということが一番大事なところになります。
 脳には、脳神経といういろいろな神経がございますが、その機能がなくなります。ただ、問題になりますのは、脳幹よりも下の神経が生きておりますので、痛みというものは感じないわけですが、痛み刺激が与えられた場合に筋肉が動く可能性というのはこれはございます。ですから、例えば、脳死の状態の患者さんの臓器を摘出する際に筋肉弛緩剤を使わないと、筋肉が弛緩しないとできないということは確かです。
 ただし、痛みをとめるようなお薬、いわゆる鎮静剤に当たるもの、あるいは鎮痛剤に当たるもの、こういったものを使わなくても摘出はできます。ですから、麻酔剤によってそういったものが変わるようであれば、それは脳死ではないと私は考えております。
 実際に五十例ほどの提供の現場に私は携わって、最初のときには、麻酔科の先生が脳死の方のそういう循環管理ということをされたことがありませんので、吸入麻酔薬を使われた症例がございましたが、これは誤解を招くということで、現在では一切使っておりません。使わなくても、それによる特別な血圧の変動であるとか痛みを思わせるような所見というのはございません。
 一応、そういうのが脳死の状態と私は理解しております」

出典=議事録https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/018716920080603001.htm

 

 福嶌参考人は「(臓器摘出時の脳死ドナーへの麻酔は)現在では一切使っておりません」と言ったが、この発言の約3週間前である2008年5月14日の法的脳死71例目で獨協医科大学越谷病院は「麻酔維持は、純酸素とレミフェンタニル0.2μ/㎏/minの持続静注投与で行なった」。

出典=神戸義人:獨協医科大学での初めての脳死からの臓器摘出術の麻酔経験、Dokkyo Journal of Medical Sciences、35(3)、191-195、2008
https://dmu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=735&item_no=1&page_id=28&block_id=52

 

 83例目で手稲渓仁会病院はレミフェンタニルを投与した。

出典=小嶋大樹:脳死ドナーからの多臓器摘出手術の麻酔経験、日本臨床麻酔学会誌、30(6)、S237、2010

 

 132例目で山陰労災病院麻酔科は「臓器摘出術の麻酔」に関わった。

出典=小山茂美:脳死下臓器提供の全身管理の一例、麻酔と蘇生、47(3)、58、2011

 

 424例目、2016年12月30日の脳死判定と見込まれる文献は、「全身麻酔下に胸骨中ほどから下腹部まで正中切開で開腹し,肝臓の肉眼的所見は問題ないと判断した」と脳死ドナーに麻酔がかけられていたことを明記している。

出典=梅邑晃:マージナルドナーからの脳死肝グラフトを用いて救命した 肝細胞がん合併非代償性肝硬変の1例、移植、52(4-5)、397-403、2017
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jst/52/4-5/52_397/_pdf/-char/ja

 他方で脳死臓器摘出時に筋弛緩剤は投与するものの、麻酔は使わないで臓器を摘出した症例も確認できるため、脳死臓器摘出の現場では「麻酔をかけなければ臓器摘出を完遂できなかった症例」と「麻酔なしで臓器摘出ができた症例」が混在していることになる。しかし臓器提供施設マニュアルはp32で「原則として、吸入麻酔薬、麻薬は使用しない」と禁止している。

出典=臓器提供施設のマニュアル化に関する研究班:臓器提供施設マニュアル(平成22年度)、32、2011
https://www.jotnw.or.jp/files/page/medical/manual/doc/flow_chart01.pdf

 

 懸念すべきことは、法的脳死が宣告され臓器提供者とされた人のなかに、実は脳不全が軽症な人が混在している可能性だ。そのような人が臓器摘出時に激痛・恐怖・絶望を感じつつ生きたまま解剖される場合に、麻酔をかけないと臓器が摘出できないと見込まれる。これは福嶌参考人が「鎮静剤に当たるもの、あるいは鎮痛剤に当たるもの、こういったものを使わなくても摘出はできます。ですから、麻酔剤によってそういったものが変わるようであれば、それは脳死ではないと私は考えております」と述べたとおりのことでもある。
 生理的には、福嶌参考人の発言の前段にある、脳死判定にかかわりのないとされる一部の神経が生きていることによる生体反応と、それに麻酔が効くことは生理的にはありうる。他方で、誤って脳死と判定され臓器摘出を強行した場合に、麻酔が必要になることもありうることであり「想定外」としてはならない。

 

何も知らない一般人にすべてのリスクを押し付ける移植関係者

 臓器提供施設マニュアルで脳死臓器摘出時の麻酔を原則禁止しているため、臓器移植コーディネーターから臓器提供の選択肢について説明を受けるドナー候補者家族も、臓器摘出時に麻酔をかける可能性は説明されていないと見込まれる。2018年秋まで日本臓器移植ネットワークのウェブサイトからダウンロードできた臓器提供候補者の患者家族むけ説明文書「臓器提供についてご家族の皆様方に ご確認いただきたいこと」も、臓器摘出時に麻酔をかける可能性は記載していない。
 こうした情報隠蔽の結果は、善意で臓器を提供するドナー本人そしてドナーの家族が背負わされる。もしも脳死判定が誤っていたら最悪の場合、ドナーは生きたまま解剖され臓器を切り取られる激痛を麻酔もかけられずに感じ続け、恐怖、絶望のなかで死に至らしめられる。家族も臓器提供を後悔し続けるからだ。

 山崎吾郎著「臓器移植の人類学(世界思想社・2015年)」に、娘からの臓器摘出に同意した母親の語りが載っている(p87~p88)。
「脳死っていうのは、生きているけれど生身でしょう?だから手術の時は脳死でも動くんですって。動くから麻酔を打つっていうんですよ。そういうことを考えると、そのときは知らなかったんですけども、いまでは脳死からの提供はかわいそうだと思えますね。手術の時に動くから麻酔を打つといわれたら、生きてるんじゃないかと思いますよね。それで後になってなんとむごいことをしてしまったんだろうと思いました。かわいそうなことをしたなぁ、むごいことをしたなぁと思いました。でも正直いって、何がなんだかわからなかったんです。もうその時は忙しくて」

 脳死下で臓器を提供したドナーの遺族が回答したアンケートにも深刻な回答が寄せられた。日本臓器移植ネットワークが行った「臓器提供に関するアンケート調査」https://www.jotnw.or.jp/news/detail.php?id=1-781&place=top は、「問18-1.臓器提供をご承諾された後のことについて、あなたのお気持ちやお考えをお伺いします。『ご本人またはお子様』が臓器の摘出手術を受けることに関して 不安を感じましたか」という問いに、回答者の24%が「感じた」、22%が「やや感じた」と回答し、半数近くが不安を感じていた。
 そして「問18-2.【問18-1】で少しでも不安を感じたという方にお聞きします。 不安に感じることはどのようなことでしたか。 当てはまるものに全てに○をつけてください」には、痛みはないか63、苦しくないか58、提供できるだろうか57、外見の変化はないか46、怖くないか33、寂しくないか27、寒くないか18、手術を乗り越えられるだろうか16」など、家族は臓器摘出時に苦痛、恐怖を感じる不安を感じていた。
 自由記述に「脳死状態とはいえ、身体にメスを入れることで、痛み等を感じないのか、我々の話をすべて聴いていて、殺されると思っていないか」「摘出手術において麻酔を使用するのか、使用しない場合は本人が痛いと声を発したら、中止をする選択肢は有るのか不安である」「もしかしたら、もしかしたら、生きかえるのではと、何回も思った」「とにかくごめんね。という思いでした」など。
「問19.死亡宣告を受けてから『ご本人またはお子様』が手術室へ向かうまでのお気持ちを教えてください」には、「手術室の様子を見れないので、起きあがったりしなかったか?もし起き上がっていたら自分、申し訳ないと思います。今でも夜になると時々」という回答もある。

 

 日本移植学会は、臓器移植法が制定された当時に「フェア・ベスト・オープン」に行うと宣伝していた。現代の医療は、患者本人の自己決定が尊重されることが基本中の基本という。しかし現実は、自己決定の前提となる正しく充分な情報提供はなされていない。

 



6,親族が臓器提供を承諾した後に、脳死ではないことが発覚した症例

 

横浜市立みなと赤十字病院例=51歳男性が突然の意識障害で心停止し小脳出血と診断。昏睡状態のままで瞳孔が散大し、脳幹反射がなく、自発呼吸、電気的脳活動がなく脳死状態と判断され、家族は臓器提供を選択。5日目に行われた最初の脳死判定の呼吸検査中に、腹式呼吸を繰り返す呼吸のような動きがあったため中止された。9日目の頭部の磁気共鳴画像では血流がないことを示し、体性感覚誘発電位検査では脳由来電位は示されなかった。家族は臓器提供を拒否し、患者は20日目に亡くなった。

出典=Shinichi Kida:Respiratory-like movements during an apnea test,Acute medicine & surgery,11(1),e959,2024
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ams2.959

注1:この症例報告は、脳死が否定されたとは断定していないが、否定される可能性もある旨を書いている。結論の原文は以下。
(CONCLUSION Respiratory‐like movements can occur during the apnea test in patients considered to be brain dead. This phenomenon may be associated with cervical spinal activity. Further investigation is warranted to clarify this possibility.)

 

注2:正式な脳死臓器提供の承諾手続きは法的脳死の宣告後に行われるものであるが、実際には
A: 「臓器提供を見据えた患者評価・管理と術中管理のためのマニュアル」により法的脳死判定の前から臓器提供目的の処置が行われることがあり、医師の脳死見込みが実質的な脳死判定になっていることがある。また、
B:無呼吸テストを行わない診断を「一般的な脳死判定」として終末期と診断し生命維持を打ち切ったり、心停止後の臓器提供(生前カテーテル挿入の許容など)を行う医療現場の実態がある。
 このため本症例は手続き上は「脳死とされうる診断の誤り」だが、前記AやBの実態から脳死判定の誤りと同等の症例として、ここに掲載した。

 

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  米国ノースカロライナ州の牧師ライアン・マーロウさん(37歳)は、リステリアに感染しアトリウム・ヘルス・ウェイクフォレスト・バプテスト医療センターに入院、約2週間後の2022年8月27日(土)に脳死と宣告されましたが、臓器が摘出される8月30日(火)に家族は足の動きを認め、その後、脳血流が確認され臓器提供は中止された。昏睡状態だが妻が話しかけると心拍数が上昇した。

 脳死ではないことがわかった時刻について「臓器摘出の数分前」とした報道もある。一方、9月1日付のチャーチリーダーズの記事Pastor’s Wife Says Husband Pronounced Dead Is Actually Alive: ‘I Need Ya’ll To Go to Church and Pray’ https://churchleaders.com/news/433243-north-carolina-pastor-wife-dead-alive-pray.html は「月曜日の夜、ミーガンは医師から電話を受け、医師は専門家パネルが間違いを発見し、ライアンは脳死ではないと言いました。彼女がその意味を尋ねると、医師は『彼女の夫がまだ本質的に脳死であるが、病院はライアンの死亡時刻を、土曜日から臓器を摘出する火曜日に変更する』と説明した(Monday evening, Megan received a call from the doctor who said that an expert panel had discovered there was a mistake and that Ryan was not brain dead. When she asked what that meant, the doctor explained her husband was still essentially brain dead, but the hospital would change the time of death from Saturday to Tuesday when Ryan went to have his organs removed)」 

 

 以上で記事の引用が終わり、次の5行は当ブログの仮説です。
 チャーチリーダーズの記事にもとづくと、病院側が8月27日(土)にライアン・マーロウさんに脳死宣告をしたものの、その後に脳死ではないことを確認したため、心停止後の臓器提供に方針を変更し、その旨を8月29日(月)に妻のミーガンさん説明したと推測される。なぜならば死亡時刻を脳死宣告した8月27日(土曜日)ではなく、臓器を摘出する8月30日(火曜日)に変更するとは、人工呼吸など生命維持を停止して心停止をもたらした時刻を死亡時刻とすることと見込まれるからだ。
 しかし、医師が「まだ本質的に脳死である(still essentially brain dead)」と説明した事も影響したのか、妻のミーガンさんは混乱しながらも「夫が脳死である、火曜日に脳死臓器提供を行うんだ」と引き続き思い込んでいた。そこに火曜日当日、足の動き、心拍上昇をみてミーガンさんは脳死ではないことを確信して臓器提供にストップをかけたのではないか?
 臓器提供に前のめりで重症患者の家族への説明に言葉が足りない病院、重篤で社会復帰困難な患者への致死行為を最善の利益とみなす医師、意識障害と脳死の違いに知識が少ない・無頓着な米国民の認識、などの要因が重なり、ドナー候補者家族には臓器摘出直前に脳死ではないことが認識されたのではないか?

 

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 英国・リークで2021年3月13日、ルイス・ロバーツさん(18歳)は自動車にひかれてロイヤル・ストーク大学病院で緊急手術を受けたが、3月17日に脳幹死が宣告され、家族は臓器提供に同意した。即時の生命維持装置の停止も可能だったが、家族は翌朝7時まで待つことにした。姉がベッドサイドに座り、ルイスさんに「1、2、3を数えた後に呼吸するように」と頼んだ。モニターに呼吸を示す4つの茶色の線に気づき、3月18日の午前3時30分頃に医師により自発呼吸が確認された。
当ブログ注:脳幹死宣告のため脳波は測定していないと見込まれる。

出典='Miracle' teen injured in crash still fighting days after being 'officially certified dead' 
https://www.stokesentinel.co.uk/news/stoke-on-trent-news/miracle-teen-injured-crash-still-5223255?_ga=2.174475946.96428472.1616800965-2124080866.1616800916

 

2021/9/24 ルイス・ロバーツさんは6か月後、母親に「お母さん、愛してる」と会話

 ルイス・ロバーツさんは2021年7月11日に19歳になり、先週末'Mum, I love you.... you're the best'と完全な会話をした。

出典=Miracle teen's first heart-melting words six months after being 'certified dead'
https://www.stokesentinel.co.uk/news/stoke-on-trent-news/miracle-teens-first-heart-melting-5958854

 

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 米国ニューヨーク州立アップステート医科大学病院に入院した脳内出血の59歳男性、脳死判定のうち無呼吸テストは安全でないと判断され、SPECT(単光子放射型コンピューター断層撮影法)で頭蓋内に血流がないことを確認。家族が臓器提供に同意し脳死宣告されたが、翌朝、咳反射、断続的な自発呼吸、侵害刺激への反応も確認。家族は脳死ではないことを知らされたが、新たな決定がなされる前に患者は心停止した。
当ブログ注:無呼吸テストは行っていないが脳血流なしとして脳死判定された。

出典=Julius Gene S. Latorre: Another Pitfall in Brain Death Diagnosis: Return of Cerebral Function After Determination of Brain Death by Both Clinical and Radionuclide Cerebral Perfusion Imaging, Neurocritical Care,32, 899–905,2020
https://link.springer.com/article/10.1007/s12028-020-00934-2(画面左下のRead full articleをクリックすると全文が読める)

 

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 2017年12月26日、ブライアン・ヒールさん(50歳)は階段から転落し英国サマセット州のヨービル地区病院に搬送され脳幹死と診断。臓器提供者として登録していたため人工呼吸器で管理したところ回復の兆しを見せ、2018年2月12日に昏睡から脱却しはじめた。2018後半にリハビリを終える予定。
当ブログ注:脳幹死宣告のため脳波は測定していないと見込まれる。

出典=Lonardo worker from Sherborne making miracle recovery after suffering massive brain injury
https://www.somersetlive.co.uk/news/somerset-news/leonardo-worker-sherborne-makes-miracle-1511883

 

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 2015年1月、テキサス州のジョージ・ピッカリング氏は息子が脳死とされた。医師が人工呼吸の停止を計画、臓器提供の手配も進められていたことに抗議して病院に拳銃を持って立てこもった。3時間の間に、息子は父親の指示に応じて数回、父親の手を握り、脳死ではないと確認できたため警察に投降した。
当ブログ注:脳死判定の詳細は記事では不明。

出典=2016年8月10日放送「ザ!世界仰天ニュース 息子を守りたい父親の大事件」
https://www.ntv.co.jp/gyoten/backnumber/article/20160810_03.html

 

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 2010年10月8日、ブルックリンでエミリー・グワシアクスさん(21歳)はトラックにはねられ、ベルビュー病院に搬送された。第2病日、母親は看護師から「娘さんは亡くなられた」と聞かされた。臓器提供に同意後、母親がエミリーに話しかけている時に、エミリーは左手を上げた。
当ブログ注:脳死判定の詳細は記事では不明。

出典=Hit by a Truck and Given Up for Dead, a Woman Fights Back
http://www.nytimes.com/2010/12/22/nyregion/22about.html(プレビュー)

 

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 3カ月前から中耳炎だった26歳男性は昏睡状態となり、クイーンエリザベス2世健康科学センターにてCTで脳膿瘍が確認され、昏睡発症後7時間で無呼吸も確認され脳死と診断。家族は臓器提供に同意した。血液培養で48時間後に臓器提供の適格性を再評価することになった。脳膿瘍が臓器提供に影響しうるか確認するために、脳死宣告から2時間後にMRIを撮ったところ脳血流があった。患者は昏睡発症から28時間後に自発呼吸が確認された。自発呼吸以外の神経学的検査の結果は以前と同じで、患者は臓器提供者リストから外された。5日後、自発呼吸は弱まり心臓死した。


出典:Derek J. Roberts MD:Should ancillary brain blood flow analyses play a larger role in the neurological determination of death?,Canadian Journal of Anesthesia,57(10),927–935,2010
https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs12630-010-9359-4 

 

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 マクマスター大学病院において37週で出生した女児が、生後41時間後にカナダの脳死判定基準を満たした。無呼吸テストで動脈血二酸化炭素分圧を54mmHgまで上昇させて自発呼吸がなかった。米国の移植組織により心臓の利用が検討され、米国の脳死判定基準(無呼吸テスト時に動脈血二酸化炭素分圧を60mmHgまで上昇させる)にもとづいてテストされた。女児は動脈血二酸化炭素分圧が59mmHgまでは無呼吸だったが、その後64mmHgに上昇するまでしっかりと呼吸をした。臓器提供の同意は、両親により撤回された。

出典=Simon D.Levin:Brain death sans frontiers, The NEW ENGLAND JOURNAL of MEDICINE,318(13),852-853,1988
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJM198803313181311(プレビュー)

 

 

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