臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第17回市民講座の報告(2021年11月6日)≪加速していく命の線引きと切り捨て ――安楽死・『無益な治療』論・臓器移植のつながり》 2-1

2022-03-09 15:48:00 | 集会・学習会の報告

臓器移植法を問い直す市民ネットワーク 第17回市民講座講演録 2-1

日時:2021年11月6日(日)午後2時~4時30分 オンラインセミナー

 

≪加速していく命の線引きと切り捨て

――安楽死・『無益な治療』論・臓器移植のつながり

講演 児玉 真美さん(フリーライター/一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事)

 

 

【児玉真美さんのプロフィール】

 1956年生まれ。広島県在住。フリーライター。一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事。1987年生まれの長女に重症心身障害がある。単著に『アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』(生活書院)、『死の自己決定権のゆくえ―尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店)、『殺す親 殺させられる親―重い障害のある人の親の立場で考える尊厳死・意思決定・地域移行』(生活書院)、『私たちはふつうに老いることができない 高齢化する障害者家族』(大月書店)など。共著に『〈反延命〉主義の時代―安楽死・透析中止・トリアージ』(現代書館)、『見捨てられる〈いのち〉を考えるー京都ALS嘱託殺人事件と人工呼吸器トリアージから』(晶文社 2021年10月下旬刊行予定)。 

【講演概要】

 第1回市民講座では、世界の議論や出来事を紹介しながら、安楽死、「無益な治療」論と臓器移植をめぐる議論は一つの流れになろうとしている、とお話ししました。あれから10年――。この間、3つの議論はそれぞれに広がりながら相互の繋がりを深め、命の選別と切り捨てを加速させてきました。日本でも衝撃的な事件が起こり、「死ぬ権利」を求める声が高まっています。10年という年月を意識しつつ、安楽死、「無益な治療」論、臓器移植という3つのテーマに沿って、そこで何が起こってきたのかを振り返り、今の時代がどこへ向かおうとしているのか、現実を見据えて考えたいと思います。

 

 

 

はじめに

 児玉です。本日は宜しくお願いいたします。

 ちょうど10年ほど前の2012年6月に、こちらでの講演をさせていただきました。実は私にとって、このような大きな場で講演する初体験でした。ものすごく緊張して、当日、会場の最寄り駅に着いたときに、このまま帰ろうか、立ったまま5分くらい悩んだくらいでした。まだPPTも使えなかったので、原稿を書いて、2週間くらいかけて全部覚えました。朝のウォーキングの時にぶつぶつ言いながら覚えるのですが、気が付くと夢中になって、身振り手振りがついていて、はっと我に返って恥ずかしかったのを覚えています。

 

 

2,2012年6月16日第1回市民講座では

 たぶん前日だったと思うんですけど、覚悟を決めるために山へ一人ドライブに行きました。で、ランチを食べていたら、日本で初めての小児からの脳死臓器移植が行われたと言うニュースがテレビに流れました。愕然としていたら、すぐに携帯が鳴って、当時バクバクの会の副会長だった穏土ちとせさんでした。二人とも衝撃のあまり、言っていることはお互いに訳が分からないのですが、それでも誰かと話していられることが救いでした。それくらい、いよいよ来た、という衝撃が大きかった。

 今回、川見さんから10年経ったからもう一度というお話をいただいて、すぐ思い出したのが、その時のことでした。その穏土さんがもうこの世におられない。その後、バクバクの平本あゆみさんも亡くなって、時が流れたことを痛感します。

 また、あの時レストランで呆然とした時の衝撃を振り返ると、今、厚労省で知的障害者等からの提供が議論されているということにも、10年の年月の重さ、苦さを感じざるを得ません。

 第1回の時のタイトルは〈一つの流れにつながっていく移植医療、“死の自己決定”と“無益な治療”論~臓器移植“先進国”と言われる国で起こっていること~〉でした。「移植医療」と「安楽死など死の自己決定権」、それから「無益な治療論」の3つが、どんどん接近してきて一つに合流していく、というお話をさせてもらったのですが、今回このお話をいただいて、過去の情報など改めて振り返ってみたら、ちょうど10年前の2011年から2012年のこの頃がいろんな意味で分水嶺だった、という気がします。

 ただ、お気づきかどうか、実は10年前と今とでは、私の講演タイトルの語順が違い、臓器移植が今回は最後に来ています。10年前も臓器移植の問題にさほど詳しかったわけではないのですが、当時は一応グーグル・アラートに臓器移植をふくむ沢山のキーワードを設定して、毎日大量の英語情報を読み込んでいました。ところが、世の中の変化のスピードがすさまじく、何もかもを追いかけていられなくなって、一つずつアラートを落としていくしかなくなりました。2013年の秋にちょっと力尽きて、最初のブログを一旦やめているので、たぶんその頃に臓器移植のキーワードも落としたんじゃないかと思います。

 それで、移植医療については手がついていなかった時期が長くて、前にブログに自分で書いたことまで頭から消えていたりします。今回、準備に当たって改めてブログ記事を読みなおしたり、そこからたどって、いくつか論文を読んだりしてみました。でもやっぱり10年経つと、忘れていることも多く、何より自分自身の老いが重いなぁと感じているところです。

 

 

3,『アシュリー事件』

 最初に、10年前にお話したことの背景を簡単に振り返ってみると、ちょうど第1回の市民講座の前年2011年に『アシュリー事件』という本を出しています。生命倫理関連で書いた初めての本でした。

 アシュリー事件というのは、米国の重症児の女の子から手術で子宮と乳房を健康であるにもかかわらず切除してしまい、ホルモン療法で身長を止めた、という事例が2007年に倫理論争を巻き起こしたものです。その事件との出会いがきっかけで、障害と医療と倫理問題を調べるようになりました。

 第1回市民講座の後の懇親会で、この本の副題に「新・優生思想」とあるが「新」とついている意味は何か?と、問われたのを覚えています。それについては、一応次の3点と整理しています。

 優生政策というのは、かつては国家施策として進められたわけですが、今は、

①圧倒的な技術力を背景に、

②個々の自由意思による自己決定・自己選択として行われ、しかも、

③それらがグローバルな新自由主義経済の下で市場原理に委ねられてしまう。

その結果として、とても見えにくく、コントロールが及びにくいところで命の選別というか線引きと切捨てが進んでいるんじゃないか。

 副題のもう一つのフレーズである「メディカル・コントロール」については、本文で「生きるに値するいのち、治療に値するいのちと、そのための資源として使い捨てられるべき命、そんな線引きの一切が医療に全権委任された世界」と説明しています。

 

 

4.広がる“コントロール幻想” もう人の身体も能力も命も思い通り?

 その頃に描こうとしていた世界のありようというのは、簡単にまとめてみると、要点はこんなことかなと思います。

 人体はカネになる資源になってしまった。それから科学技術をめぐる利権がこれまでのどの時代にもなかったほどに肥大化している、ということ。あたかも人の体も能力もいのちすら、もう如何ようにも操作コントロールできるかのような幻想が振りまかれて、その幻想で人々の欲望を掘り起こしてはマーケットが創出され、そのマーケットが次々に消費されていく。そういう経済構造が出来ているのではないか。

 たとえば、生殖をめぐる技術の発達によって、知的障害のない子どもを生みたい、病気にならない子どもを生みたい、頭のいい子、背の高い子がほしいという欲望が掘り起こされていく。その後、ちょうど第1回市民講座の直後に、皆さんもご存知のように、DNAを自由に切り貼りできるゲノム編集技術、クリスパーキャス9が登場して、遺伝子の改変をめぐる議論は一気に別の段階に進んだという感じがします。

 結局、これらを総じていえば、お金持ちが科学技術の恩恵に浴するために、貧しい人たちがバイオ資材として、あるいは奴隷労働の提供者として犠牲に供される世界ができてしまっている、ということだろうと考えています。

 

 

 

 

 

5.「死ぬ・死なせる」への力動(命の選別と切り捨て)

 その一つの表れとして、死ぬ、死なせるという方向に命を押しやっていこうとする力動が生じている。

 そこには2つのレベルがある。一つは、個々人のレベルで、先の「コントロール幻想」で掘り起こされていく欲望の究極の形として、死も自分でコントロールしたいという欲望が高まってきている。もう一方には、社会や政治のレベルで、効率や生産性によって人の価値を測る、そして一定の人たちを生きるに値しない命として選別し、切り捨てていこうとしている。

 この二つのレベルの動きがからまりあって「死ぬ・死なせる」という方向へと命を押しやっていく一つの強力な力動を形作っているように思います。その駆動の両輪となっているのが、ひとつは「死ぬ権利」を主張する議論と、もう一つが「無益な治療」論。

 また、この2つの議論はそれぞれに移植医療とのつながりをずいぶん深めてきました。今日、主にお話したいのは、ここの10年間でこの3つの周辺で何が起こってきたか、ということです。                                   

                                            

 

 

 

 

 

6.「死ぬ権利」の考え方

 まず、「死ぬ権利」という主張ですが、簡単に言ってしまうと、自分がいつどのような死に方をするかは自分に決める権利があるんだ、という考え方で、その権利を行使するために、具体的には医師に毒薬を注射して殺してもらう、これが積極的安楽死ですね。あるいは自殺するための毒薬をお医者さんに出してもらって自分で飲んで死ぬ、これが医師による自殺幇助といわれているものです。それは権利なんだ、だからそれを認める法律を作ろう、というわけです。 

 

 

7.積極的安楽死and/or医師幇助自殺が合法化されているところ

 10年前の第1回市民講座の段階では、安楽死と医師幇助自殺が合法化されていたところは、7か所だけでした。今は、安楽死と医師幇助自殺、両方で17か所増えて、全体で24か所となっています。

 2009年あたりと2016年あたりに大きな波があって、それ以降、続々ドミノ状態となっています。他に、ややこしい紆余曲折はありますが、ドイツの裁判所で2020年2月に死の自己決定権を合法と認める判決が出ている。オーストリアでもそうした判決があって、先月、自殺幇助合法化法案が議会に出されました。両国とも大きなステップが踏まれたということかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8.転換点としてのカナダの合法化(2016)

 2016年のカナダの合法化が大きな分水嶺となったように思います。ここで法律の文言が変わりました。もう安楽死でも自殺幇助でもない。両方を一緒にしてMAID(Medical Aid in Dying)。そのまま訳せば、死ぬときに医療の助けを借りることです。これによって安楽死も自殺幇助も緩和ケアの一端として法的に位置づけられたと私は感じました。このあたりを境に、いろんな国の議論でも、類似の言い換えが当たり前になっていきました。

 それから、カナダはこの時、条件付で上級職の看護師にも薬剤師にも実施を認めました。薬剤師は自殺ほう助の方だと思います。ナース・プラクティショナーに実施を認めているのはカナダが初めてではないですが、この後で世界に広がりを見せていきます。そして、カナダでは合法化からわずか4年で、対象の拡大が決まりました。実際にはコロナ禍の影響でごたごたしたので、法改正は今年3月に行われました。合法化の当初は終末期の人限定だったのが、今回の法改正で、重病や重い障害のある人に対象が拡大。精神障害のみの人を含めるかは決着つかず、2年先送りになっています。

 そのほかにも、プロセス上の細かい要件がいろいろ緩和されています。署名の立会人の人数が減ったり、一定の人には待機期間がなくなったり、最近の傾向の一つとして、新たに合法化するところでも、すでに合法化されたところでも、こうした細かい手続き上の要件の見直しが行われて、じわりじわりと、よりアクセスしやすく、という方向に向かっています。 

                                         

 

 

 

9.オーストラリアの「すべり坂」

 「すべり坂」というのは、慎重にと言いながら、ある方向に足を踏み出すと、そこは足元がすべりやすい坂道になっていて、いったん足を滑らせたら最後、どこまでも歯止めなく滑り落ちていく、というたとえです。新たなところが合法化すると、どこかがゆるくなっていく、という現象が顕著になっていて、わかりやすいのは最近のオーストラリアです。

 ヴィクトリア州が17年に合法化した際には、一般の人では余命6か月以内の人に医師幇助自殺のみ認められ、自分で薬を飲めない重度障害者に限って余命12か月から安楽死を認める、という条件だったものが、2年後に西オーストラリア州が合法化した際には、余命の要件は同じですが、どちらの人も安楽死が可能となりました。

 その後、タスマニア州と南オーストラリア州の合法化と続き、今年9月に、クイーンズランド州。クイーンズランド州では、どちらの人にも余命12か月と、要件を前倒し。さらに、他の州では、医療サイドから安楽死の話を持ち出すことは禁じられているのですが、クイーンズランドでは医師から話を持ち出してもよいことになった。これは教唆の恐れがあるんじゃないでしょうか。

 このように、どこかで動きがあるたびに、じわじわとラディカルになっていく感じがしています。        

 

 

 

 

 

10.スイスの自殺幇助ツーリズム

 次に、いくつか、いわゆる先進国の状況をお話しします。外国人でも合法的に自殺幇助が受けられて、自殺ツーリズムで有名なスイス。

 第1回の市民講座の時(10年前)には、外国人を引き受けるのはディグニタスだけでした。そのディグニタスでは、終末期ではない人、重度障害者、健康な人の自殺幇助まで行われているということを紹介しました。その段階では私は知らなかったのですが、実はその前の年11年に、ライフサークルという、もっとラディカルな自殺幇助機関ができていました。これがスイスの自殺ほう助の一つの節目となったように思います。

 ディグニタスを立ち上げたのは高齢の弁護士でした。医師でないので、あくまでも外部の医師が処方した薬物を自分のところに来た患者が飲む、それを支援するというやり方でした。しかしライフサークルをやっているのは医師なので点滴が使えます。医師が入れた点滴のストッパーを患者が自分で開放して自殺する。より安楽死に近い方法になりました。これで、障害のために自分で薬を飲み下せない人でも自殺可能になりました。また、この医師は、終末期でない人たちへの自殺幇助にとても積極的な人です。

 このライフサークルに、2018年にTVクルーが入りました。連れてきたのは、「死ぬ権利」の活動家と一緒に記者会見をやって自殺した豪の科学者グッダールさん。それでも、この人の時には、彼が書類に署名したところまで撮られて、その後TVクルーは部屋の外に出された。

 ところが同じ年の11月に、日本人の小島ミナさんがライフサークルで自殺し、それを撮影したNHKが19年6月2日にNHKスぺシャルとして放送した際、死の瞬間まで映されました。多くの組織が声明を出して批判していますが、あれは放送倫理違反だと私も思います。

 

 

11.2019年8月グッダールさんの事例に触発されてさらにペガソス誕生。

 グッダールさんの事例は世界中で大きく報道されましたが、その影響力は大きく、この事例に触発されたスイスの人たちが、19年にさらにペガソスという団体を立ち上げています。HPには、健康状態にかかわりなく、自分がいつどのように死ぬかを決めるのは個人の権利だと謳っています。世界で最も安楽死がしやすい国と言われるオランダからも自殺希望者が押し寄せているという情報もあります。

 ディグニタスからライフサークル、そしてペガソスのこの対象者像へと考えると、スイスのすべり坂は世界のこれからを示唆しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12.ベルギーとオランダこの10年

 ベルギーとオランダのこの10年について簡単に。法律の「耐え難い苦痛」という要件に精神的な苦痛を含めているので、いろいろ衝撃的なできごとが起こってきました。12年には、生まれつき耳の聞こえない40代の双子の男性が、近く目も見えなくなることが分かって絶望して二人揃って病院で安楽死。性転換手術の失敗で絶望した人の安楽死も認められたり。両方とも12年のできごとです。

 オランダでは、この年に機動安楽死チームがスタートしています。安楽死を希望しても引き受けてくれる医師が見つからないという人がいて、その需要に応じるためにできた制度で、医師と看護師が車で自宅にやってきて安楽死を引き受けてくれる。この制度ができて安楽死が急増したとも言われています。両国とも、精神障害者や認知症の人の安楽死件数が増えています。

 すっかり有名になったのが2016年のコーヒー事件です。オランダの高齢女性が、認知症になって、まだ軽症の時に、今後、重症化して介護施設で暮らすくらいなら安楽死を望むと事前指示を書いていました。実際に入所すると、意志確認に対しては否定的だったけど、施設の医師は苦しんでいると判断して、入所からわずか7週間で安楽死させました。施設の医師は生活の場にいる人ではないので、入所して2ヶ月でその人のことがどれだけ分かるのか疑問です。しかも当日はコーヒーに鎮静剤を混入して飲ませ、点滴に抵抗すると家族に押さえつけさせるという強引なやり方でした。

 批判も出てオランダで初めて医師が起訴された事件になったけど、善意にもとづいての行動だったとして、昨年、無罪が確定しました。すると、びっくりしたことに、それを機に新しいルールができました。事前指示がある認知症の人はその後は意思を確認する必要はないというのです。安楽死の時期は医師が決めてよい、しかも不穏が予想されたら食べ物や飲み物にこっそり鎮静剤を混ぜて飲ませてもいいとなりました。

 昨年は、オランダ議会は75歳以上の高齢者なら重病でなくても認める方向の法案が出されました。17年に続いて2度目です。まだ法案は通っていないと思いますが、この先繰り返されて、いずれ通るのかもしれません。

 

13.オランダでは知的/発達障害者も

 オランダでは知的障害のある人、発達障害のある人にもすでに安楽死が認められ、実際に行われています。英国の医師らの調査では、医師の個人的な価値観が影響しているとの指摘もでています。

 ベルギーでも、精神障害に苦しむ女性が安楽死を望み、直前に発達障害と診断されていた。にもかかわらず医師は安楽死を認めたが、まず発達障害の治療をすべきだったと家族が訴えた訴訟もあります。

 障害のある人が生きるための支援を権利として求める声はなかなか聴いてもらえないのに、こうして死ぬ権利だけはたやすく認められていく。しかも、いったん死ぬことが権利だとなれば、障害のない人に認められることが障害のある人には認められないのは差別だ、という論理が成立してしまう。そういう意味では、死ぬことを権利とする考え方そのものに、すべり坂が内包されるのではないかと思います。

 

 

14.安楽死は臓器提供と既に直結(ベルギー・オランダ・カナダ)

 日本ではほとんど議論になりませんが、ベルギーとオランダとカナダでは安楽死はとっくに臓器提供と直結しています。もちろん安楽死と臓器提供の意思決定はそれぞれ独立していなければならないとか、順番も安楽死の意思決定が先でなければならないとガイドラインはあるのですが、両方とも自己決定であれば、手術室のすぐそばで安楽死させて、心停止から数分間待って臓器を摘出する。両国合わせると2016年までに40人以上との報告があります。ただし、始まりはベルギー2005年、オランダ2012年なので、それに比べるとカナダは2年あまりで30人という、すごい勢いです。安楽死を希望する人の多くはガン患者だけど、ドナーになれないので、安楽死後ドナーの多くはALSなど神経筋肉疾患の人、それから精神障害者です。

 安楽死は、いつどこで誰が死ぬかが分かっていて、新鮮な臓器が効率的に採取できる稀有な状況な訳です。2020年のある論文には、交通事故が減って脳死ドナーの減少が問題になっている中、安楽死後臓器提供は、ICUの生命維持中止事例に次いで、有望なドナー・プール増大策だと、書かれています。「ICUの生命維持中止事例に次いで」とあるところが、「無益な治療」論と移植医療のつながりの話になるわけですが、これについては後で詳しくお話しします。

 こうなると、いっそ生きているうちに麻酔をかけて臓器をとらせてもらってはどうかという話が出てきます。臓器提供安楽死を検討する論文が初めて出たのは2010年でした。今では関係学会で議論されていると聞きます。

 

 

 

 

15.「すべり坂」の警告

 こうした状況に、オランダやベルギーで当初は安楽死を推進してきた医師から「すべり坂」に対する警告が発せられています。テオ・バウワー医師は、自分たちは終末期で耐え難い痛みのある人への例外的な救済策として合法化したのに、対象は、もともと自殺リスクが高い人たちに歯止めなく広がってきたと指摘しています。安楽死という選択肢があれば安心材料になって自殺は減ると言われたが、実際にはオランダの自殺者は増えていると。その背景としては、死ぬことが問題解決の方法として社会に受け入れられていったからでは、と言っています。

 今後は終身刑の囚人や親が望む障害児に広がるだろう、と予測する医師もいます。どこの国でも、監獄の人口密度と囚人の高齢化に困っている。その手っ取り早い問題解決の方法なのだなと思います。

 それから、安楽死の議論には医療コスト削減の問題が付きまとっています。カナダの対象者要件緩和の審議にも、参考情報として、予算局から医療費削減データが出されました。

 このように海外の実態について知れば知るほど、人口調整や社会保障コスト削減、人体の資源化と有効利用などの意図が透けて見え、政治と経済からの要請に押されて、制度化された安楽死が、社会のお荷物とみなされる人たちを都合よく始末するためのツールに堕していくリスクが懸念されてしまう。

 

 

16.日本でも「安楽死」を望む声

 この10年間、日本でも安楽死の合法化を求める声が、くすぶり続けてはいたけれど、とりわけ、この5年間で安楽死という言葉が世の中にわっとあふれてきました。2016年の相模原障害者殺傷事件、その翌年の橋田寿賀子さんの著作、さらに、先にお話した小島ミナさんのライフサークルでの自殺を取り上げたNHKスペシャル。そして、京都ALS嘱託殺人事件が報道されました。ご存じのように、安楽死を望むALSの女性とネットで知り合った医師が2人で金銭で請け負って、殺害したという事件です。

 こういうことがあるたびに、日本でも安楽死を合法化すべきだという声が巷にあふれる。気になるのは、これらの折々に議論になる安楽死の対象者は終末期の人ではないことです。日本の安楽死の議論は、このように終末期の人をすっ飛ばして、最初から健康な高齢者だったり、終末期ではない重度障碍者の安楽死を合法にしようという議論です。これ、議論の前に前提のところで滑ってしまっている、しかも誰もそのことに気づかない。

 なぜ、この議論はこんなに簡単に滑るのか、なぜ我々はそのことにこんなにも無自覚なのか、というところにこそ、この問題の本質的なあやうさがあるんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

17.「死ぬ権利(積極的安楽死)」=「医療によって殺してもらう権利」?

 日本でも「死ぬ権利」という言葉も頻繁にみるようになったので、生きる権利があるなら死ぬ権利も認めろというのは分かり易いようですが、死ぬことが権利になるとはどういうことかを、ちょっと考えてみたい。

 そういう権利が仮にあるとして、それを誰が保障する責を負うのか。国家の意思として、あるいは社会の総意として、医療に殺すことを認めたり委ねる、ということをしていいのかと考えてしまいます。政治権力と医療が手を結んで行われた人権侵害は歴史上、枚挙にいとまがありません。

 一方、個々の医師にとっても、これは大変なことです。私の講演を聞いてくれた麻酔科医が、言われたことがあるのですが、「安楽死と同じ薬を使って毎日仕事をしながら、自分はいかに死なせないかに神経を集中してきた、だから、その発想を転換することが想像できない」。こういう医師にとっては、殺す行為を求められるのは苦痛ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

18.安楽死が「患者の権利」となれば、医師は「殺す」ことを義務付けられる

 実際、安楽死を合法化した国では、殺すことが事実上、義務付けられるという面がある。やりたくなければ自分で手を下すことまで強要はされない。ただし、患者から求めたあった場合には、やってもいいと用意のある医療職の情報を提供したり紹介する義務を負う。

 カナダでは、合法化された際に、キリスト教系のホスピスが自分のところではやらない、という方針を立てたところ、安楽死は合法的な医療サービスだから、やらないなら政府の資金を引き揚げる、と言い渡されたという事例が訴訟になりました。

 このように、安楽死が権利になるということは、希望する人には提供されるべきサービスになるということ。

 

 

19.制度化された安楽死における医師の強大な権限

 昨年、カナダのある判決では、「最高裁が合憲と認めた上で立法府が制度化したものである以上、MAIDは合法的な医療サービスであり、利用するのは個人の権利だ」と明確に書きました。オランダやベルギーの法制化の当時は、きわどい医療行為をする医師への免責という意味合いが大きかったと思うのですが、ここにはっきりとみられるように、安楽死を患者の権利とする方向に変化してきています。

 そのカナダの判決では、もう一つ、とても重大なことが言われている。日程まで決まった夫の安楽死を止めようと妻が起こした裁判で、妻は「夫は終末期ではない」、認知症気味だったので、その混乱の中で決断したことであり「意思決定能力が無い」と訴えました。そこで、争点は2つになりました。男性の病状が本当に法律の条件を満たしていたか。男性に意思決定能力があったか。判決は、どちらについても判断する権限は裁判所にはない、という立場をとりました。法律によって、それらのアセスメントは医師の専門性に委ねられているというのです。

 実際、オランダのコーヒー事件に限らず、ずいぶん乱暴なことが行われて家族が訴えた事例もあるのですが、いったん合法化されると、手続き上よほどの逸脱がない限り、医師の判断や行為が法的責任を問われることはないですね。つまり、誰は死んでもいいか、誰は死んではならないかを決めるのは、医師だと。まさに、最初のところでお話した、メディカル・コントロールの時代と言えます。

 

 

20.「死の自己決定権」の一方で増大する医師の決定権「無益な治療」論

 「無益な治療」論というのは、本来は、終末期や臨死期の人に、医学的に無益な延命はやめようという話だった、いわばまっとうな議論だったものが、QOLの低い人への積極的治療や生命維持を無益とする方向に対象者が拡大してきていて、安楽死と同じすべり坂が起きています。

 最もラディカルとされるのは米テキサスの事前指示法で、10日間だけ転院先を探す猶予を与えた後で、10日で見つからなかったら生命維持を引き上げてもよい、というものです。でも、この法律は「無益」を定義していないのですね。その判断は医師の専門性に委ねられている。ここも安楽死制度と同じです。

 これに対して、障害者運動からは、無益の判断には医師の個人的な偏見が影響している、と懸念の声が上がり続けています。実際、それが疑われる事例が数多く報道されています。10年前には抗う家族からの訴訟が次から次へと報道されていました。具体的な事例については拙著『死の自己決定権のゆくえ』と『殺す親 殺させられる親』にいくつも書いていますので、良かったら読んでください。

 こういう事例が今またコロナ禍で増えているという気がします。後でまたちょっと触れますが、無益論には、トリアージの議論とも地続きの問題があります。

 安楽死法制化の一方でこうした無益論が広がっているということは、合わせて考えたときどういうことでしょうか。QOLが低すぎると医師がみなした患者では、生きるという方向の自己決定は認められないということだと思います。自己決定権が認められるのが「死ぬ」の一方向に限定されているとしたら、そんなものが本当に権利なんでしょうか。

 

 

 

21.安楽死と同じ「すべり坂」が起きている

 さっきお話したように、無益論でも、安楽死と同じ滑り坂がさまざまに起きています。

 カナダに、たくさん訴訟が起こっている無益論の最先端の病院があって、その病院の医師が裁判で証言した言葉を報道から拾うと、「この患者は救命しても元の機能レベルには戻らないから治療は無益である」、「救命・延命しても、24時間要介護状態になって施設ケアが必要になるから、治療は無益である」と。

 本来、個別具体の医学的議論のはずのものが、いつのまにか、こんな話になる。治療の無益じゃなくて、QOLを根拠に患者を選別する、患者の無益論に変質している。しかも無益論というのは、それは医師が決めることだ、という立場です。つまり医師に決定権があるという議論なんですね。一方の安楽死の議論は患者に決定権があるとする立場ですから、そこに決定権の対立があることが大事な点だと思います。

 

 

22.コロナ禍でのトリアージの議論(米) 

 コロナ禍でひっ迫する病床や人工呼吸器やエクモなどの医療資源をどのように分配するか、という議論が出てきており、ここに今お話しした「無益な治療」論が潜んでいると私は思います。

 米国ではどんな議論になっているか。詳しくは「地域医療ジャーナル」に書いていますが、ここでは、エゼキエル・エマニュエルという、非常に影響力の大きな倫理学者を中心に10人が去年5月に出した論文を紹介します。

 キーワードはfair allocation。タイトルにあるように「公平な分配」。これ以外にも、いくつかの論文を読

んでみたのですが、もちろん年齢で線引きしろという人もいるけど、多くの学者は、公平を説いてい

るんです。年齢とか障害の有無とか性別などの患者の属性で一律に線を引くのは差別だから、やっちゃいかん、と書いている。そうではなく、全ての患者に 公平な基準があてはめられるべきだ、と主張する論文が大半です。

 ところが、不思議なのは、全ての人にその公平な基準があてはめられた結果どうなるかというと、結局のところ、これまで無益論で切り捨てられてきたのと同じ人たちが排除されて終わる、という、まるでロジックの手品というか、そういう不思議さがあります。

 エマニュエルらの論文では、コロナ禍で限られた資源を分配する際に重視すべきだと主張している4つの価値があげられています。

①利益の最大化。具体的には最も多くの命を救う、あるいは救命後に生きられる年数を最大化することです。一方に持病があって救命されても数年しか生きられない人がいて、片方に救命後に40年生きられると思われる人がいたら、後者が優先される、ということ。

②人々を平等に扱うこと。これが、さっきの、属性によって別扱いするような差別をしてはいけないという話。

③手段(道具)的価値。社会にとってその人がどのような道具としての価値を持っているか。最前線

の医療職や、社会インフラを担う、エッセンシャルワーカーのこと。ただし、エマニュエルらは「専門性が高く代替えが困難な人たち」と言っている。例えば、ロックダウンの時でもごみを収集してくれる人たちだって、エッセンシャルワーカーだけど、専門性が低いから誰でもできる、代替え可能だから含まれない、ということだろうと思います。

 手段的価値に関しては、また別の論文で、「これまでに多くの命を救ってきた人、医療によって助けてあげれば、これからも人の命を救ってくれる人を優先しよう」という主張もありました。多くの人は、こういうのを聞くと、納得してしまう。でも、そこに障害のある人を配置してみると、ずいぶん怖いことにならないでしょうか。

④最も恵まれない人の優先。worst offを「恵まれない」と訳してみましたが、この表現は訳すのが難しいけれど、ニュアンスとしては「最も分が悪い状態に置かれている人」。誰のことを言っていると思いますか? 障害のある人たちとか、貧しい人のことだと思いませんか。一瞬、私もそう思ったんだけど、全然違うんですよ。コロナで死んだらどれだけ多くのモノを失うか、という観点なんです。80歳の年寄りはもうこれまでに人生を十分に生きて楽しんできたからコロナで死んでも失うものは少ないけど、まだこれから人生を楽しめるはずの若い人が死んだら、失うものははるかに大きい。そういう論理です。論文には障害者のことは出てこないけど、この論理で行けば、障害のある人はもともとQOLが低い人生を送ってきていると見なされるので、死んだって失うものは少ないととらえられるのかなと推測します。 

 

2-2へ続く


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第17回市民講座の報告(2021年11月6日)≪加速していく命の線引きと切り捨て ――安楽死・『無益な治療』論・臓器移植のつながり》 2-2

2022-03-09 15:47:26 | 集会・学習会の報告

第17回市民講座講演録 2-2

 

23.コロナ禍におけるトリアージの議論(日本)

 日本でもトリアージをめぐって、いろいろな動きがある。上は、医療倫理関係の有志が出した人工呼吸器の配分についての提言。これを出した一人がメディアの取材で言っているのは、やっぱり「差別なく公平に」、「だから統一した基準で」。なので、結果的には高齢者や障害者が排除されることになるのは、米国の議論と同じではないかと思います。しかも、すでに呼吸器をつけた人から外して、より助かる可能性が高い人に付け替えるという、2人の患者の命を天秤にかける、あからさまな命の選別まで提案されています。それに対して、様々な批判が出ています。

 また、ある医師からは高齢者に対して、若い人に集中治療を譲りましょうと提案するカードまで提示されました。この医師は移植医療に関係のある人で、ドナーカードからの発想だな、と思いました。

 それにしても、日本のこういう議論の特徴の一つは、医師が患者に向かって医療を諦めるように説く、しかも自分で決めておけと誘導するところでしょう。本当は医師が誘導しているんだけど、形だけは患者の自己決定という形に持ち込もうとする。これ、医療現場でACPとか人生会議と言われて行われていることと重なります。専門職の誘導によって患者が自分で意思決定したような形に持ち込まれていく。

 また、今年1月には、杉並区長が東京都に対して、トリアージの基準を作るよう要望し、問題になりました。こちらの市民ネットの古賀典夫さんが批判を展開してくださっていますが、区長の個人的な偏見がそのままにじみ出ているような内容で、今コロナ禍でとても恐ろしいと思うのは、こういう時に、一人一人の中の内なる優生思想が共鳴して、こんな時だから高齢者や障害者が後回しになるのは仕方がないんだ、当たり前なんだ、という空気が広がっていくことだなと思います。

 

 

 

24.今年、日本で翻訳出版された、話題の書 『間違った医療ーー医学的無益性とは何か』 

 今年、日本で翻訳出版されて、日本の医療界で話題になっていると聞く本がこの本です。「無益な治療」論推進の立場から書かれていて、医師は、自分が無益と思う治療は断固として拒否するように、一貫して呼び掛けています。

 いちおう建前としては、特定の患者についての特定の治療をめぐる議論だと断ってあるのですが、でも、読んでいくとそれだけではないと思います。帯の裏表紙側に抜いてある個所には次のように書かれています。

 「もし患者が治療による利益に価値を認める能力を欠いているなら……治療は無益と見なされるべきである。……医療の目的は単に生物学的な生存にあるのではないし、機械とチューブに繋がれた患者にあるのでもない。最低でも、患者に人間のコミュニティに参加する能力を与えるようなものであることが求められる。」

 「無益」の定義には様々あって、最も厳密な定義は「治療としての生理学的な効果がないこと」です。その定義だと、その治療はどの患者にとっても無益ということになるのですが、このくだりに見られるように、この本の著者らは、仮にそうした効果はあっても、当該の患者がその治療の効果を利益と理解して、喜びを感じる能力を欠いているなら、その治療は無益だと言います。これは意識状態や知的レベルを意味しているわけですね。しかも、医師が一方的に判断する範囲での、意識状態や知的レベルです。これまでも家族や支援者が、いえ、この人は分かっています、と言っているのに、医師が認めない事例はたくさんありました。そういう場合、本当はどっちがわかっているのか、と私はいつも思うんですけど。

 で、著者らが言う「人間らしいコミュニティへの参加」とは、何か。この本の5ページで「仕事をする、愛する人と暮らす、友達に会う、食事をシェアする、子供や孫が遊ぶのを見る、噂話をする、議論をする、冗談を言う、愛し合う――」と説明されています。これを線引きにされたら、と身近で重い障害とともに生きている誰彼を頭に浮かべると、背筋が冷えますが、この本が日本の現場医師にずいぶん読まれているそうです。

 

 

25.日本では、尊厳死も安楽死も日本型「無益」論に終わるのでは 

 私は日本で安楽死を合法化するのは危険だと考えています。その理由の一つは、医療現場における患者主体の不在です。

 まず、医師と患者の関係性が圧倒的に不均衡で、日本では、終末期医療のはるか手前の一般的な医療にかかる際ですら、患者と家族は低姿勢に徹して、ものすごく気を使い、余計なことを言って医師の機嫌を損ねないように、お任せし、よろしくお願いします、と頭を下げる。インフォームドコンセントというと、コンセントは同意ですから、患者が主体の言葉です。患者が主体として医師にギブする、与えるものなんですけど、日本ではICは医師がするもの、ということになっている。主客が転倒しています。

 さらに、患者の側にも、権利意識が十分に成熟していない。欧米の無益訴訟では、家族は自分の身内が入院している病院を、入院したまま訴えたりします。そんなこと、日本の家族には無理です。欧米の家族の強靱な精神力の土台にあるのは強固な権利意識。十分な説明を受ける権利、自分で決める権利。治療を受ける権利、受けたくない治療は拒む権利。その強固な権利意識が土台にあって、その上に乗っかって、その究極の形として死ぬ権利があるのだとしても、その土台が日本にはいまだ存在しないと思います。

 今の日本の、この医療の文化のままで、尊厳死や安楽死が法制化されたら、それは日本型の「無益な治療」論にしかならない。誰が死んでもいい人で、誰は生きるべき人かを医師が決めていき、表向きの形だけは患者や家族の自己決定に落とし込まれていく。

 

 

26.無益論と移植医療の繋がり2000年以前

 この「無益な治療」論も移植医療と繋がっています。こちらについても、第1回の時に「循環死」概念の導入について、チラッと触れているのですが、今回そのあたりを調べて、追加資料もちょっと読んでみました。まず、米国で2000年までに両者が繋がっていく経緯を簡単にお話したい。

 ここら辺は市民ネットの皆さんには釈迦に説法ですが、60年代に脳死概念が導入されるまでは、心臓死した人からの臓器提供でした。それが、DCD。donation after cardiac death。Cardiacというのは、「心臓の」という形容詞です。

 その後、脳死概念が導入されて、心臓死に至っていなくても脳死になったらどうせまもなく心臓は止まるんだからということで、脳の機能不全の人が死んだことにされて、70年代から脳死ドナーからの提供が主流になっていく。これが、DBD。Donation after Brain Death。

 でも、もともと臓器は充足するような性格のものではないので、やっぱり臓器は足りない。そこで、90年代になると移植医らは「かつてのDCDを復活させた」という言い方があちこちでされています。

 ただ、心臓死から脳死へと死を前倒しにしてみたけど足りなかったのだから、昔のDCDを「復活」させるだけでは意味はない。さらに臓器を増やすためには、死を脳死よりもさらに前倒しにする必要がある。

 そこで、名前は心臓死後臓器提供DCDと同じですが、90年代から急速に広がっていくのは「人為的DCD」とか「ピッツバーグ方式」と呼ばれるもの。「人為的」というのは、脳死に至っていない患者から人工呼吸器を取り外すなどして、人為的に心停止に至らしめて、拍動が戻らないことを数分だけ待って確認してから臓器を摘出するプロトコルです。復活と言いながら、実は新たなことをやり始めた。あるいは、こそこそとやっていたことを「復活」と称して公然と広げていった、という方が実態なのかもしれません。

 90年代にかけて、こうした大きな流れがあったわけですが、それを後押ししたと思われる、別の動きが医療現場にあった。それが「無益な治療」論の広がりだろうと思います。先ほどちょっとお話ししたテキサスの「無益な治療」法ができたのが1999年です。2000年代にはいると、病院が無益として治療中止を決めて、それに対して家族が訴訟を起こして抵抗する、という事件が相次いで報道されます。無益として病院が治療の中止を言い渡すということが広がっていった時期だと思います。それらの事例の中には、無益として治療を一方的に中止すると言い渡されるプロセスのどこかで、臓器提供の話が出てきたと家族が語っている事例もあります。

 もちろん、訴訟になって報道されるのは氷山の一角です。抗いたくても、押し切られてしまったり、訴訟を超す財力がなかったりで、泣き寝入りした家族もいるだろうし、そのプロセスを家族がどのように受け止めていようと、結果的に医師と家族が治療中止に合意したことになれば、生命維持や積極治療が中止されて、その患者は亡くなります。

 これらの、無益として生命維持を中止される患者をドナーにするプロトコルが、90年代に復活したDCDの新ヴァージョンだったわけです。

 

 

27.「75秒ルール」論争(2008)

 それについては、たとえば、科学アカデミーをはじめ、いろんなDCDのガイドラインで、治療中止と臓器提供は、それぞれ独立した意思決定でないといけない、治療中止が先に決まらないといけない、心停止から少なくとも2分から5分間は手を触れずに待つことなどを、セーフガードとして決めていますが、実際には病院ごと医師ごとに、この待機時間を短くし始めます。

 2008年のデンバーこども病院の心臓移植チームの有名な論文があります。無益として生命維持を中止した乳児から心臓を採って移植した2例が報告されているのですが、心停止から75秒だけ待って臓器の摘出を開始した。成績が良いから、これで行こうと提案する論文です。その論文の中に書かれた一文が「両親が蘇生を望まない以上、その子の心臓は死んだのだ」。

 その後、この論文は多くの批判を浴びて、子ども病院は2分待つプロトコルに戻しました。

 

 

28.「デッド・ドナー・ルール」撤廃の提言(Truog, Savulescu他)

 この時は大論争になったのですが、その中で、「死者からしか臓器は取ってはならない」というルールをいっそ撤廃してしまおう、と、実際にはもとからあった声ですが、この時の論争でわっと噴出します。

 実はこれを言う人たちって、ものすごく正直なんです。75秒後に蘇生したら拍動は戻ると。もう小気味よいほどに、移植医療が繰り出してくるアリバイ的言説の欺瞞性を暴いてくれるんです。DCDドナーは死んでない、脳死者だって本当は死んでない、脳死概念は科学的な間違いだった、と正直に認める。

 でも、だからやめよう、というんじゃないんですね。どうせ今だってそうやって生きている人間から採っているんだから、こんなルールは撤廃して、堂々と生きている人から採ればいいんだ、と論理が展開する。

 片方にどうせ死ぬ命が1つあって、もう一方に、救われれば有益な生を生きられる命が複数あるなら、どうすべきかは明らかだ。こう言ったのは、生命倫理学者であり小児科医であるロバート・トゥルーグという人です。彼は、当時の講演で「75秒待つ必要すらない」と言い切っています。私はインターネットの動画でこの講演を見たのですが、トゥルーグは、我々はとっくに生きている人から採っているんだというくだりで、南アフリカで行われた心臓移植の第一例目の時、胸を開けると心臓が拍動していたので、移植医はビビッて採れなかったんだ、そこで彼は氷水をぶっかけて拍動を止めてから採ったんだと、ジョークのように話しました。そのとき会場から笑いが起きたのが私は忘れられません。

 この論理の先に見えてくるのは、先ほどの、臓器提供安楽死じゃないでしょうか。どうせ安楽死を決めた人なんだから、どうせ安楽死で死ぬ人なんだから、生きている内から麻酔をかけて臓器を採らせてもらったっていいじゃないか、と。これを本気で実現しようと考えている人たちが、今もう既にあちこちにいるんだろうかと思うと、ぞっとします。

 

 

29.10年前の分水嶺:「循環死」への名称変更

 10年前の市民講座でも「循環死」についてちょっと触れているのですが、このあたりに、やはり一つの境目があったんじゃないかという気がしています。

 この時に話した内容は、前の年にブログで拾ったWP(ワシントンポスト)の記事だったんですけどその記事のタイトルを文字通り訳すと、「物議をかもす臓器移植方法の変更が、不安を掻き立てている」。ただ、実際に提案されていたのは方法の変更ではなく、名前の変更です。議論にもthe name change、renamingという表現が使われており、名称を変更しようという話です。

 米国の臓器分配機関であるUNOSがこの名称変更を提案している、という記事だったのですが、これまではDonation after cardiac death, つまり心臓死後臓器提供と称されていた、このCのところをCirculatory に変更して、循環死後臓器提供と呼ぶことにしよう、という提案です。どちらも同じCなので、DCDという表記そのものは変わらないのと、今なお両方が併用されていて、文脈や人により、DCDという言葉でどの範囲が言われているのかが違い、ややこしい状況になっています。

 ともあれ、UNOSの名称変更の論理はどういうものか。記事からここが本質かな、と思う部分を四角に抜いてみました。「心臓が必ずしも「死んで」いなくても「死」を宣告できるとすれば、こっちの(名称の)方が正確。血流停止が脳死を引き起こすのだから」

 これに対しては、ロバート・ヴィーチをはじめ倫理学者から、死を構成するものは何か、という倫理的に難しい問題から目をそらせようとしている、その難題を名称変更で解決しようとするのは意図的な欺瞞にもなりうる、という批判が出ています。

 結局、UNOSが言っていることの本質とは、記事に引用されている「それら潜在的ドナーは(どうせ?)間違いなく死ぬ。すべての関係者がさらなる治療は無益だと合意しているのだから」のあたりじゃないか。                                                                         

 つまり、みんながこの人への積極的治療や生命維持は無益だから中止しようと合意している以上、この人は治療を引き上げられて、どうせ死ぬんだ、それなら、この人が死ぬ原因は治療の中止にあるのであって、この人は別に臓器提供によって死ぬことにはならない、と。

 でも、これって、医学的に死とは何かという、ヴィーチが言っている倫理問題とはまったく別の次元の話だと思う。ただ、みんなで死んでもらうことに決めた人なんだから、心臓はまだ死んでいなくても、もう死者として扱ってもいいんだ、と言っているだけなんじゃないのか。それって、さっきのデンバーこども病院の医師が言っていた、両親が蘇生しないと決めた以上、その子の心臓は死んだんだ、だから死んだことにしてもいいんだ、という、あれと同じなんじゃないか。つまるところ、医療現場に根深く潜んでいる「無益な治療」ならぬ、「無益な患者」論のホンネが剝き出しになっているという気がしてならない。(私は医療現場の隠れパーソン論だと言ってきたのですが)

 この名称変更の狙いは、ヴィ―チの言うように、それが本当に死なのかどうかという議論を避けながら、脳死からさらに死を前倒しすることの正当化だったんじゃないでしょうか。

 心臓死から死を前倒しにする時には、脳死概念を作って、脳死になったらどうせ心臓はいずれ止まると言った。今度は、まだ脳死に至っていない人に、循環死という概念を作って、血流が止まったらどうせいずれ脳死になる、といって、脳死よりもさらに死が前倒しにされていったんじゃないか。でも、脳死は何時間もかけて不可逆であることを確認するのに、循環死は数分間で不可逆を確認できるのか、という批判がこの時に出ています。

 

 

30.“Donation after circulatory deathA.R. Manara, et.al. British Journal of Anesthesia, 2012

 翌12年の英国のジャーナルの「循環死後臓器提供」というタイトルの論文によると、国際的には、5分間継続して血流と呼吸と意識がないことが確認されれば、死を診断してもよい、とされている、と書かれています。

 実はこの論文に、ちょっと違う視点から面白い情報があります。

 当時、このプロトコルの最先端は豪と英だった。対照的に、少ないのはスペイン。その一つの理由は、終末期医療のあり方の違いだと書かれている。英国では、「無益な治療」論による治療中止で死ぬ人がICUで死ぬ人の6割を占めている。一方カトリック国のスペインでは、生命維持の中止そのものが一般的ではない。それを受けて、ICUのベッド数そのものに、両国では大きな差があるという指摘がされています。

 

 

31.ところが現在は、スペインが最先端?(安楽死も2021年3月に合法化)                                 

 ところが、そのスペインが、驚いたことに10年の間にものすごい変貌を遂げる。今ではスペインが臓器移植のトップランナーだという。安楽死も、今年3月に合法化されました。

 ちょっと話が逸れますが、安楽死では、ポルトガルもスペインに先んじて法案を議会が通しました。カトリック教徒の大統領が抵抗して、まだ最終的に法律になっていませんが、他にも、オーストリアやイタリアで死の自己決定権を認めるような判決が出ていたり、アイルランドでも合法化が議論されていたりと、このところカトリック国が軒並み、安楽死の合法化に向けて動き始めているのが、不気味です。

 そういうこともあって、この夏に刊行された現代書館の『〈反延命主義〉の時代―安楽死・透析中止・トリアージ』では、小松美彦先生からスペインの安楽死のことを調べて書いてほしいというお話があり、安楽死法案の周辺を調べてみたんですけど、もともと私はスペインの政治や社会について知らないので、結局、なぜ、10年前には生命維持の中止も一般的でなかったというほどのカトリックの国が、10年でこんなに変わったのかは、よくわかりませんでした。

 実は、スペインが移植医療でトップランナーになっているという情報も、安楽死を調べている時に芋づる式に出てきたものなのですが、この10年間でスペインの移植件数の伸びがあまりに目覚ましいので、そのやり方が「スペイン・モデル」と称されているというんですね。

 今回調べた範囲で、そのモデルの要点を書きだしてみたのですが、(図31)上の青字の3つは、全体的な臓器獲得体制。いろんな職種にガンガン研修を受けさせて、病院ごとにチームを配置。その下の三つは、循環死ドナーの獲得に焦点化して打っている手。しかも、ICUで、無益論の対象になりそうな患者を潜在的ドナーに特定している。これ、実は11年に循環死への名称変更を提言した際に、米国のUNOSも言っていたことなんです。その時には、脊損や筋ジス、ALSの人たちを潜在的ドナーに特定しよう、と疾患名まで上がっていた。

 そういう患者の家族には、早期からこういう選択肢がありますよ、と情報提供しておく、そして緩和ケアへの切り替えとなった段階で即、提供意思を確認する。提供意思があれば、臓器の保存へと医療行為を切り替えていく。

 さっきもお話したように、倫理上のセーフガードとして、治療中止と臓器提供とは独立の意思決定ですよ、順番も中止が先ですよ、といわれていますが、実際には患者サイドの意思決定よりはるか先から、ICUやERでこの人とこの人は潜在的ドナーだとツバつけられていく。臓器移植推進の研修を受けた専門職があちこちに配置されて、そういう人たちは、自分たちがやっていることを、患者に臓器を提供する権利をきちんと行使してもらうための「家族への情報提供」だとか「意思決定支援」だと考えているわけですから、そんなふうに臓器提供へといざなうネットワークが張り巡らされているなら、意思決定のセーフガードにまだ意味があるんだろうか。

 コロナ禍でも、皆さんもご存じかもしれませんが、スペインは第1波で医療が逼迫した際に、高齢者と障害者を露骨に切り捨てました。マドリッドでは行政から、そういうあからさまな通達が個々の医療機関に対して出ていたことが判明して、スキャンダルになりました。これについては、「地域医療ジャーナル」というWebマガジンに記事を書いていますので、よろしければ。

 

 

32.米国の最近の動き

 で、米国の現在。ちょうどこのパワポを作っている時に守田さんから頂いた情報で、10月6日に米国の臓器調達組織学会AOPOが、26年までに移植年間5万件という目標を打ち出して、キャンペーンを始めている。

 内容をざっと読んで、スペイン・モデルがこれから国際標準になっていくな、と思いました。さらに臓器保存技術、医療機関の情報共有、臓器のマッチングと配送の技術の革新などなど。ちょっと息を飲むばかりの意気込みです。

 詳細は、いずれ守田さんが紹介されるかと思いますが、私が気になったのは、キャンペーンの文書の5ページにある「健康格差の削減」という見出しの内容。communities of color、いわゆるエスニック・マイノリティですね。その人たちと白人の間には臓器提供と臓器移植における格差がある、それは前者の人たちが平等な医療を保障されていないことに起因している、我々はこれらの人々に平等な医療を保障できるよう努めます、と書かれている。

 が、その後で具体的に策が挙げられているかというと、結局、AOPO内部に多様性を広げますといった内容が中心で、後ろに行くほど、結局はマイノリティからの提供を増やすための努力なのね、と思わせられる内容になっています。

 この項目を読んで、私はものすごく苦々しい思いになりました。ここに書かれていること、今日本で進行している、知的障害者等からの臓器提供を認めることにしようという方向の議論とがそっくり重なってくる。

 黒人などのエスニック・マイノリティと同じように、知的障害のある人たちは、おそらくはどこの国でも、日ごろから医療現場で差別されてきた。冷たい扱いを受け、障害についての知識も理解もなく、個々のニーズに応じた配慮もないまま、できれば引き受けたくない迷惑な患者とみなされて、適切な医療を受ける権利を奪われてきました。

 今コロナ禍でも、それが露骨になってきています。こちらのメンバーの古賀典夫さんが、Web論座のインタビューで詳細に語ってくださっていますが、まったくあそこで語られている通り、コロナ禍で障害者と高齢者の命はあからさまに切り捨てられています。

 私も、個人的にいろんな話を耳にしていますが、ある人から聞いて、ものすごく悲しかったのは、重度の子が熱を出したからお母さんが発熱外来に電話をしたら、電話の向こうで、医師が「このくそ忙しい時に、障害児なんか見ていられるか」と怒鳴るのが聞こえてきた、という話。これを聞いた時に、私は医療のホンネを聞いた、世の中のホンネを聞いたな、と思いました。

 そんなことが起こっている時に、厚労省が、まるでコロナのどさくさにまぎれるかのように、知的障害のある人たちから臓器を採れるようにしようと議論を進めている。憤りしかない。

 

 

33.コロナ禍での知的障害者の医療体験メンキャップ報告書

 英国では、知的障害者のアドボケイト団体メンキャップから報告書が出ていて、知的障害のある人がコロナで死ぬ確率は一般の3~4倍。属性の絞り方によっては6倍に上るとされています。

 こういうデータを日本の医師も知っておられるようなのですが、どうもツイッターなどで垣間見たところでは、知的障害を死亡リスクと捉えられるんですね。それは違います。医療現場に、個々の障害に対する理解や配慮があれば、死ぬ必要がない人たちが、それらがないために死んで来たんです。そちらも英国はデータを出しています。

 英国ではパンデミックにおける知的障害のある人の医療についてのガイドラインも出ており、患者のニーズに応じた配慮の必要も説かれていますが、日本では、ガイドラインどころか、障害のある人のことはむしろ語られなくなってしまった気がします。

*このスライドの箇所で「英国ではパンデミックにおける知的障害のある人の医療についてのガイドラインが出ている」と述べましたが、英国保健省やどこかの医学会からそうしたガイドラインが出ているという事実はありません。英国で2015年から毎年関連データを取りまとめて発表してきた知的障害者死亡調査プログラムが、コロナ禍での知的障害者の死亡率の高さについて報告書を出しており、その中で医療現場の改善点を提言しています。メンキャップの報告書がその提言に触れたくだりをガイドラインと読み誤っておりました。お詫びして訂正いたします。(児玉) 

 

 

34.知的障害者のコロナ死回避に必要な「合理的配慮」

 メンキャップは、病院と地域で働く知的障害看護師へのアンケート調査を行っており、その報告書で、必要な合理的配慮として、①専門的な知的障害サービスの提供、②個々のニーズに応じたケアの提供、③本人をよく知っている人から支援を受けられることの保証の3点を挙げています。

 日ごろの医療現場の状況が異なっている日本で、専門的な知的障害サービスや個々のニーズに応じたケア提供を求めても、すぐには到底無理という気がしますが、3点目の、本人をよく知っている人から支援を受けられることの保障は、日本でも可能ではないでしょうか。

 メンキャップは、知的障害のある人への付き添いは、命に係わるほど重要な合理的配慮である、と書いています。こうした合理的配慮があれば、死ななくて済む。知的障害そのものがコロナの死亡リスクではありません。医療現場に障害に対する知識や理解がないこと、そのために合理的配慮がされないことが、死亡リスクなんです。

 それを考えると、日本の知的障害者がコロナで死亡する確率は英国よりもはるかに高いのかもしれません。誰か、きちんと調査してくださらないでしょうか。

 

 

35.日本ケアラー連盟のフォーラムで語られた気がかりな事例

 ケアラー連盟が3月に行ったフォーラムで語られた事例です。母親ケアラーからの発表で、この方のお子さんではないのですが、重度知的障害のある人が持病で入院して、一人ではコミュニケーションが取れないのに付き添いも面会も認められなかったので、みんなで心配していたら、急変して亡くなってしまった。

 また、それとは別に、食事介助が難しい、いわゆる重心の人が持病で入院した際、付き添いが認められず1週間食べられなかったので、退院させるしかなかった、という事例など、私も身近で聞いています。

 知的障害のある人が日ごろから医療現場の理解不足と偏見によって適切な治療を受けられず、時に命すら落としているという問題を、私は「迷惑な患者」問題と呼んで、英国の動向を中心にさまざま書いてきましたが、まさにコロナ禍で、その問題があぶりだされていると思います。

 こんなふうに、知的障害のある人たちは適切な医療を受ける権利をこれまでも奪われてきたし、コロナ禍でもさらに医療から疎外されています。そんなときに、臓器を提供する権利だけを言われても、それならまず、医療現場で必要な合理的配慮を受けられて、適切な医療を受けられる権利を保障するのが先だろうと、思います。

 

 

36.さいごに

 限られた時間でお話しきれないこともいっぱいありますが、言い足りなかったこと、特に最近の世の中の動きについて言いたいことは、今年の夏に出た小松美彦先生、市野川容孝先生、堀江宗正先生の企画による『〈反延命〉主義の時代――安楽死・透析中止・トリアージ』と、10月に出たばかりの『見捨てられる〈いのち〉を考える――京都ALS殺人事件と人工呼吸器トリアージから』に、書いておりますので、よろしければ読んでいただければと思います。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

質  疑

 

川見)ありがとうございました。とても密度が濃くてもびっくりする話もたくさんあるし、怖いなあ、どうなっていくんだろうと思いながら聞かせていただきました。安楽死から治療中止そして臓器移植の具体的な事例をたくさん出していただいてお話ししてくださいましたが、まずは質問から受けたいと思います。

 

守田)質問ではありませんが、児玉さんがパワーポイント資料で“転換点としてのカナダの合法化(2016) 文言の変化 (緩和ケアの一旦として位置づけ) medical assistance/aid in dying(MAID)”と書かれていた部分に関連して情報提供をさせていただきます。医学書院から2020年に「救急・集中治療領域における緩和ケア」という単行本が出版されています。伊藤 香(帝京大学医学部救急医学講座講師)が書いた第6章“生命維持治療の中止とその後に行うべき緩和ケア”では、人工呼吸を中止する実際(準備、抜管時のマネジメント、症状コントロールに用いる鎮痛剤ほかの投与量)を詳しく書き、自施設で70代男性の遷延性意識障害患者の人工呼吸を終了しモルヒネを持続点滴しながら17時間後に死亡したことも紹介している。筆者は章末で以下を書いています。「日本では、未だに生命維持中止に関する医療者側の抵抗が強い。しかしながら、もし、真に患者中心の医療を行おうとするならば、医療者はその選択を受け入れ、そのための適切な治療を提供できなければならないだろう。筆者は生命維持中止後の緩和ケアに関する指針が必要であると考える。それがなければいくら『法的に問題がない』と言われても、生命維持装置中止に踏み切れるハードルは高いままだろう」と書かれています。

 ここから私が思ったことは、 日本でも昔から「終末期の持続的鎮静と安楽死はどうちがうんだ」と言われています。「救急・集中治療領域における緩和ケア」という入り方で、安楽死の実質的導入・拡大があると思いました。

 

児玉)それは生命維持の中止の話なので、むしろ無益な治療の方ですね。つまり消極的安楽死の話なので、カナダの合法化によって緩和ケアに位置付けられた、と私がお話ししたのは積極的な安楽死の方で、毒物を医師が投与して直接的に死なせる行為を行う積極的な安楽死が緩和ケアに位置付けられたということの意味合いと、生命維持を中止するのとは、議論の流れとしては別立てになるかなと思いましたが、守田さんがおっしゃる通り持続的鎮静と安楽死の違いという視点からはつながりもあり、とても興味深いので私自身、資料をいただければなと思います。

 

古賀)先に児玉さんから、今の厚労省の議論には被虐待児からの臓器提供までは含まれていないという指摘があったのでスライドから外したという話がありましたが、厚労省は被虐待児関係の条文(付帯決議)を外そうとしているようなので、やっぱり虐待児からの臓器摘出を進めようとしていると思われます。

 児玉さんの全体の話を聞きながら、本当にこの状況はどうしようかなとずっと思っていて、大きく言うと結局その市場を中心とした社会システムを肯定していると、結局はどれだけ市場価値があるか、社会に貢献したかという観点で人間を考えていく習慣が作られていくし、そこの中では支配している側からは価値がないとする人を切ろうとする側になるだろうし、支配されている側の中では、そこに支配的な価値観に自分が位置づかないと思うと希死念慮というか、東大の堀江さんなどがおっしゃっていられる方に行ってしまうような気がするんです。結局、根本的にはそういう価値観にとって作られていく社会じゃなくて、一人ひとりに向き合う人間関係を作り出せる社会にしないともどうにもなんないよねって言う、一番根底的ながら漠然としたことを考えていました。

 ということとともに具体的に言うと私たちがやってきた公立福生病院事件のような、ああいう個別の事件でのああいうやり方は許さないという方法、それからそれを推進していく人たちへの批判とそれを具体的にやっていくしかないんでしょうけど、本当に児玉さんから語られたこの滔々たる流れをどうしていったらいいのかなと考えながら聞いていました。

 

竹田)障害者を脳死移植に使おうなんて言ってる、とんでもない人権無視なことを厚労省で話し合ってるらしいんだけども、何でそんなことになるんだい。人間を大事にしなきゃいけないのに。厚生労働省っていうとこは本当は人権無視だからね。あの戦前の731部隊から来てる人ばっかり集まったから、そこから来てるのはわかってるからさ。なんで厚生労働省がそういう話し合いする場になっていくのか。

 

古賀)厚生労働省が明確に人の死を早める方向に転換していったのは、98年の臓器移植法もあるんですけども、とりわけ今世紀に入ってからと思われます。もともと元厚生労働省の医系技官として入って局長も務めた人が日本尊厳死協会の理事長に転身するということもありました。命を切る側に進んできている。典型的にはコロナ禍での問題としてですね、医系技官のトップに立ってきた人が、コロナ対策をやってきた人が「今後の感染対策はどうするんですか」と問われた時に「とにかく誰を助けるのかをはっきりさせるべきだと、どのような生産性があるのかないのかとか、男なのか女なのか、そういうふうに誰を助けるのか、みんなを助けるなんてことじゃなくて誰を助けるのかって発言してるんですが、そういう価値観に、特に医系技官が中心という感じがしてますが、厚労省がなっているんじゃないでしょうか。そういうところの医系技官の中でしばらく生活した人があの大久保という人です。京都のALSの方を殺害したという構図だと思いますね。そういう価値観が厚労省の中に非常に強く支配的に広がっているんじゃないかと思われます。

 

原)パーソン論という言葉が出てきましたが、簡単に説明していただきたい。それと、キリスト教圏ではそっちが主流だとは思うんですが、アジアの場合にはすんなり受け入れられにくいのではという気がします。日本の場合は家族というファクターが大きい、その危かしさもありますが、家族が決めればいいという面もあります。医療福祉の財政が厳しいという話が原動力としてあり、世論を動かす意味では大きいかなとも思っています。
【パーソン論について】
 生命倫理学でパーソン論という意見があります。要は人間の判断能力とか理性(感情は入るかどうか微妙ですが)、がない者は簡単に言うと人間と見なさなくても良いという考え方ですね。一番分かりやすいのは無脳児、胎児(まだ生まれていない)とか。もちろん障害とか高齢の場合でもそういう理性、判断能力がない者は人間じゃない、だから生命維持とかしなくてもいいし命を絶っても構わないんだと、人の命を奪うことあるいは打ち切ることの論拠にしている考え方だと思います。恐らく私の理解ではキリスト教圏では人間と動物を区別する考え方があると思います。日本でそう言われてすぐ受け入れられるかどうかと思うのですが。

 

児玉)私もそこが臓器移植とも重なるなと思うんですけど、日本の文化で平仮名の「いのち」ですよね。さっき最後のスライドで紹介した最近刊のタイトル『見捨てられる〈いのち〉を考える』も平仮名の「いのち」なんですけど、平仮名の「いのち」と捉える我々の感覚からすると、臓器を単なるモノと捉えることはとても難しいような感性がやっぱりあるのかなというような感じはしています。ただ世代が移るに連れて、パーソン論についても臓器を有効活用するべきモノと捉えられるかどうかっていうところが少しずつ変わってくるのかなというような気もしないでもないんですけど、私は自分の世代で考えた時にはちょっとなかなか簡単には受け入れられないところがあるんじゃないかなと考えたりします。

 また、原さんが家族が大きな要因だということを言ってくださったので、ついでにちょっと言わせていただくと、私は日本で安楽死を合法化することの危険性のひとつとして、家族の関係性が非常に密接であるということを思っています。それは両面あると思うんですけど、家族が良い形で転べばいいんですけど、密接な家族は息苦しいというところもありますし、家族関係が日本では非常に密だという事が一つリスクになるような気がします。

 もう一つは日本の障害者福祉が全く家族依存を前提にしていて、家族の密接な関係の中に介護負担だとか財産の問題が当然入ってきた時に、家族関係というのは決してきれいなものだけではない。そういうふうに考えた時に、やはり家族の問題というのは難しい。家族介護それからジェンダーの問題が潜んでいるということも、この最近刊の中に同時に書いているところです。

 

川見)チャットに「こうした命の線引きには、功利主義的な思想史がどの程度関わっていると思われますか。功利主義的な思想史自体よりもむしろ生命倫理分野の特性なのでしょうか」という質問がきています。ご自身で質問願います。

 

對島)對島です。ケアのニーズを把握する、もしくはその命に関わるようなニーズを扱うとなった時に、この功利主義的な思想史は、(もちろんいろんな功利主義の理論家たちがいて、昔の功利主義だった社会のためにある程度の犠牲は、みたいな感じで公衆衛生と結びつくと言ってる人もいると思いますが)、途中から権利の議論が入ってきて、むしろ個人の権利とかニーズを犠牲にしないような形で言われたりもして、私は功利主義的なニーズの捉え方が、社会の方から飲み込まれてしまうようなニーズ把握になってしまうのかなと思っています。今日の議論で功利主義的な考え方がどの程度関わってるのか伺いたいのですが。

 

児玉)私は功利主義の思想史には全く素人ですから、発言しにくいんですけど、功利主義的な考え方っていうのが先ほども原さんがおっしゃったような形で、もう根っこに続いているんだろうと思います。功利主義がこの中にどういう風に関わっている、みたいな複雑な話をここでできるほどの能力も知識もありませんが、功利主義でよく名前が挙がるシンガーとかサブレスキューにも触れながら本には書いておりますので、できれば読んでいただければ私がどういう風に考えているかは分かっていただけるかなとは思います。ただ私は専門的な知識があるわけではないのでむしろ教えていただければと思います。

 

對島)ちなみにどの本を特に読み始めたらいいでしょうか。

 

児玉)『死の自己決定権のゆくえ』とか『アシュリー事件』あたりかなと思います。

 

對島)ありがとうございます。

 

神野)最近、動物の臓器を脳死の方に入れたという、すごくショックな事件がありました。これは、科学者・技術者の倫理が問われると思うんですけど、子どもの時からの教育がこういう科学者・技術者を生んでいるんじゃないかと思うんです。畏敬の念が無くなったんじゃないかと危機感を感じています。科学者・技術者倫理をどうしたらいいのか、というのが課題ですよね。

 

児玉)神野さんは先程、最後にご紹介した『見捨てられる〈いのち〉を考える』、10月末に出た本なんですけど、あの本の仕掛け人の方です。去年の12月にあの京都のALSの事件を受けて、3回に分けて Web でセミナーを企画して下さったんですね。神野さんの企画にお招きいただいて私が3回目を話して3回分の内容があの書籍にまとめられた、あの本の仕掛け人の方です。私も本当におっしゃる通りだと思っていて、医学教育とか科学の領域で働く人たちのそもそもの教育があまりにも狭いと思うんですよね。医学的な知識だけじゃなくって、もうちょっと広く知見を広めてもらう、もっと問題を深く考えてみるとか、臓器とか病気とかじゃなくて人間について深く考えるような能力を涵養してもらう教育が必要だなということをすごく感じています。

 

川見)急速な変化はゲノム編集技術が出てきてからでしょうか。動物集合胚、臓器移植でも動物の中で人間の臓器を作るという研究も進んでいます。「助けたい」ということから始まったはずなんですが「殺す」ことの方が主流になっているのではと感じてしまいますね。

 

竹田)臓器移植は一人死ななきゃいけないから動物の臓器を使うんだとか、IPS 細胞を使って動物の中で臓器に育ててそれを人間に使うとかって話なんだけど、それどうなってるんですか。

 

神野)動物集合胚は、豚に豚の組織が作れないようにして、そこにネズミとかマウスの臓器を作る、そういう研究のようですけど、サルとかの霊長類はできないそうです、今のところ。でも中国でこの前やっちゃったんですね。今回のニュースはそれではなくて、ブタの臓器を人間につないだんですよ。それも脳死の方を実験材料にした。その方は57時間後に亡くなった。脳死の方を使うのも怖いですよね。前には子宮移植も出ていました。どんどん進んでいく感じで科学者・技術者の生命倫理意識が欠けてきていると思います。そこを何とかしなければ、皆さんと考えていかなければいけない問題だと思います。

 

竹田)生命倫理を考えた上でやって欲しいよね。

 

神野)今の科学者は、生命倫理はやるために言っている、決してモラトリアムのためじゃないと思います。

 

竹田)もし豚の臓器を人間に移植できるようになって、人間の臓器を使わないで移植する技術がもしできたらどうなるんですか。

 

神野)臓器移植のために畜産業するというものを考えているようです。ゲノム検討会議のホームページに、動物性集合胚の勉強会の要約を載せてますのでご覧ください。

 

川見)突然お願いして申し訳ないんですが、西村理佐さんいらっしゃいますか。来年、帆花(ほのか)ちゃんの映画の劇場上映が始まるということで、そのお知らせも含めて一言を頂けないでしょうか。

 

西村)うちの娘はここに今、横になっていますけれども、生まれた時に「脳波がフラットで脳死の状態に近い」と言われて、川見さんの団体に呼んでいただいてお話させていただいた事があったんですが、その講演に私の話を聞きに来てくれてた映画学校の学生さんだった人が3年間、うちでカメラを回してうちの生活について撮ったフィルムが今回、劇場公開されます。来年1月2日、ポレポレ東中野というドキュメンタリー専門の映画館を皮切りに、その後いろんな所で公開になると思います。特に何かを訴えるとか問題を提起するというような映画ではなくて、先ほど児玉さんがおっしゃっていましたけれども平仮名の「いのち」というものについて静かに考えていただくような、ただのうちの生活の映画となっていますが、よろしければ皆さんご覧になってください。

 

川見)「生まれてきてくれて、ありがとう 帆花」という映画ですね。監督が國友勇吾さん。帆花ちゃんは何歳になりましたか。

 

西村)中学2年生、14歳ですね。(西村さんにカメラを動かしてもらって、帆花ちゃんが大きく成長した様子を見せてくれました)

 

川見)出産時のトラブルで仮死状態で生まれ脳死に近い状態と診断されたということでしたね。西村さんには2011年の院内集会でお話ししていただきました。改悪された臓器移植法が施行されるときの抗議の記者会見にも来ていただいて帆花ちゃんのことを話していただきました。皆さんどうぞ映画をご覧になってください。

 

打出)僕は今、金城大学で医療者の PT、OTそして看護師さんの学生さんを教えてるんですけど、講義の時に脳死とか臓器移植とかのテーマも話しています。最初は臓器移植を肯定的にとらえるんですけど、例えば生きるために心臓を手術で入れる、それは心臓移植その前提には脳死があるんですけど、でも「生きるために人間の心臓を手術で入れるんじゃなしに食べる、人間の心臓を口から食べる、それで自分の命が生きながらえるっていうことがあったとしたら、そういうことってみんなどう?する?」って学生に聞くと、急に場がざわざわしてきます。臓器移植とか脳死とかっていうとものすごくきれいな言葉でまとめられているものの実態は、まあそんなもんじゃないかなってことを学生に伝えるようにしています。

 

川見)先ほど大塚さんが紹介してくれた冊子“「脳死」って本当に死んでるの?「臓器移植推進」って本当にだいじょうぶ?”を市民ネットワークで作成しました。

 臓器移植法改定法が施行されて10年が経ち、移植推進の動きが活発になっています。知的障害者からの臓器提供は、「改定法の国会審議で拒否の意思表示を確認できない」とされ、現在は禁止になっています。しかし「15歳未満の小児と同じ家族承諾で」とか「知的障害者の中にも意思表示ができる者がいる」という主張がだされ、臓器提供を可能にしようと審議されています。「知的障害者からの臓器提供を禁止するのは逆差別だ」と言う意見も出ています。

 また被虐待児からも今のところは「虐待された子供からの臓器提供は禁止」という臓器移植法の付帯決議があるので、出来ません。しかし「被虐待児マニュアル」を改訂して要件を緩和する、医者が悩まないで提供へと進められるようにマニュアルを変える。要件を緩和をした「虐待児マニュアル」の改訂で提供者の拡大が検討されているのです。ゆくゆくは法律の付帯決議をなくす方向に議論が進むのではないかと私達は考えています。

 また、心停止後臓器摘出の拡大も進められています。心停止から5分後にエクモ(人工心肺)を装着し体外循環させ心臓が生きている形(血流がある状態)で腎臓以外の臓器も摘出するなどの意見が出されています。

 臓器移植の推進・対象拡大のための改訂作業が進められ、2021年12月までに案をまとめると厚労省は発表しています。私たちも冊子を作って議員周りをして訴えていきたいと考えているので、今後の活動もご注目ください。

 

 児玉さん本日は本当にありがとうございました。お話を聞いてすごく怖い思いがしました。「死ぬ権利」の主張が、命が切り捨て、医療が人を殺すことをよしとしていく。価値のない人間のいのちを切り捨てることが法律で認められ、坂道を転がるように要件が緩和されて広がっていく。そういったことがどういう流れで進められているのか、非常によくわかりました。

 ありがとうございました。

 

 


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