臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

11・13市民シンポジウムの報告(2-1)

2011-12-29 00:30:22 | 集会・学習会の報告

11・13市民シンポジウムの報告(2-1)

このままでいいのか!

改定臓器移植法のこれからを考える

パネラー
 浅野健一(同志社大学教授、元共同通信記者)「マスコミが隠ぺいする脳死移植の現在」
 光石忠敬(弁護士)「改定臓器移植法は施行停止するべきである」
 小松美彦(東京海洋大学教授、生命倫理)「改定臓器移植法への疑問と近年の米国の動向」

司会:山口研一郎(脳神経外科医、山口クリニック院長)
総合司会:川見公子(臓器移植法を問い直す市民ネットワーク)

 

 2011年11月13日、上記のシンポジウムを行いました。参加者は83名。当日の講演と質疑応答の一部を報告いたします。

 

主催者あいさつ
 TPP参加をめぐって社会を二分した議論が行われ、TPP参加は国民皆保険制度を崩壊すると言われています。アメリカ型の医療制度が入ってくると、さらに命の選択が進み、「無益な医療」と治療打ち切り・命の線引きが進むのではと危惧しています。
 さて改定臓器移植法施行から1年4カ月、この間、脳死からの臓器提供が66例、そのうち本人の同意がなく家族の承諾だけでの提供が57例行われました。
 大切な事実が公表されず、遺族の承諾が得られないからと検証後も非公表という事態が進んでいます。これまで行われた152例(10月末現在)の臓器提供のうち検証が終わったのは78例で、そのうち約30例の検証報告が未公表です。臓器移植は他人の臓器を調達して行う特殊な医療技術ですから、倫理性や透明性が求められるのはいうまでもありません。
 本日は三つの問題について考えます。第一に、脳死・臓器移植をめぐる公表のあり方の問題。なぜ情報を隠すのか、個人情報を保護して公表するあり方はないのか議論したい。
 第二は、改定臓器移植法がこのまま施行され続けていいのかということ。「脳死は人の死」の立場に立つが、適用は臓器提供の場だから、「一律に脳死は人の死としていない」という。生と死という真逆のことを同時に内包する法の矛盾、論理破たんについて、議論したい。
 三番目に法の施行によって医療の現場がどうなったかということ。
 本日は4人の各界の識者をお招きしました。第一の論点は同志社大学教授の浅野健一さんに講演して頂きます。浅野さんは元共同通信記者で1999年の臓器移植専門委員会委員も務められました。第二の論点については、弁護士の光石忠敬さんと東京海洋大学の小松美彦さんから話して頂きます。光石弁護士は日弁連人権擁護委員会特別委嘱委員で、脳死臨調参与として活躍されました。小松美彦さんは脳死に関する多くの著書を出されていますが、本日はアメリカの状況に関しても話して頂きます。司会は脳外科医の山口研一郎さんです。現代医療を考える会を主宰されていますが、改定法による学会や救急の現場の変化についてもお話して頂きます。
 法施行後、社会は国をあげての推進で、システムも改定しています。ドナーが法改定で拡大され、レシピエント登録の規定も緩和され拡大されています。臓器提供施設も97年は86施設、現在は492、来年には1000を超えると言われます。この動きが今後どういう医療・社会へと変遷していくのか、早速山口先生にバトンタッチしてシンポジウムを始めます。

 

山口研一郎さん シンポジウム司会者として
 今回出版された『脳死・臓器移植Q&A』の監修をさせて頂いたことから、今日の司会を担当することになりました。35年医者をやっていますが、最初の17年は脳外科医として救急医に携わっていました。現在は救急の現場からは離れ、高槻市で交通事故や脳卒中後に生じる高次脳機能障害患者や遷延性意識・障害の方のリハビリや在宅医療を行っています。昨年から施行されている改定臓器移植法によって、医療の現場が実際に変わってきています。医学雑誌や学会発表などからそれを伝えたい。国民皆保険や福祉・介護など日常的な医療や健康、生活における変化もつかんでおく必要があると思います。それでは、浅野さん、光石さん、小松さんの順にお話して頂きます。そのあと、会場の方と討論をしていきたいと思っています。

 

浅野健一さん【マスコミが隠ぺいする脳死・臓器移植の現在】
<記者クラブ制度の問題性とマスコミの不作為>
 皆さんこんにちは。浅野健一です。私は22年間、共同通信社で記者を務めて1994年から同志社大学で教えています。犯罪報道が逮捕された人や起訴された人の名誉やプライバシーなどの基本的人権を蹂躙しているのではないか、と記者になってから確信して、問題提起したらその後、通信社で冷や飯を食うことになりました。
東電福島第一原発「事件」でも、本来なら業務上過失致死傷害の刑事事件になることは間違いないケースですが、記者たちは8カ月も経ってから初めて見てこんなにひどい事故だったのかと言う始末です。記者クラブメディアの記者たちは政府の規制に従って、原発の近くに行かず、爆発現場の写真も撮らないなどの姿勢は問題です。福島第一原発の吉田所長は、事故から1週間は何度も死ぬかと思った、と言っていたのに、NHKや大新聞はそういう大変な事態であることを伝えないで、「直ちに健康に被害はありません」という経産省や御用学者の発表だけを報道する、マスメディアは何をしているのかと思う。官庁当局の発表をそのまま記事にする記者クラブという制度やマスコミの不作為によって大変なことが起きている。最低限の事実は伝えるべきです。

<臓器移植専門委員会委員として提案したこと>
 脳死移植に関しては1999年3月から7カ月間、厚生省公衆衛生審議会疾病部会臓器移植専門委員会委員を務めました。1999年2月に高知日赤で行われた法施行下での初めての脳死判定について、NHKニュースが特ダネとして「間もなく脳死判定が行われる」と報道しました。最初に情報をつかんでいた日テレも共同通信も報道せずに見守る中、脳死判定後の発表の段階で報道するという全ての報道機関の約束事を無視して行った報道行為はNHKの罪、万死に値する罪です。三島健二という当時3年目の記者はドナー家族の自宅の町まで行って取材した。ドナーの名前が皆に知られる問題のある取材で、人権侵害ですが、当時の海老沢勝二・NHK会長は“大スクープ”として会長賞まで出したのです。これを批判しました。
 厚生省から臓器移植専門委員会委員になってほしいとの依頼を受け、委員となったが7カ月で首を切られてしまいました。その時、報道機関への対応として提案した事があります(第三者による監視・検証システムの必要性/普及の一環としての情報開示の必要性/提供の任意性の担保/個人の医療情報保護/匿名性の確保/礼意の保持/臓器提供者と家族の保護)。当時としてはレベルの高い提案ができたと思っているが、それがほとんど現在では生きていない。

<正確な情報開示なく、推進一色報道> 
 家族の同意を得たのちの公表で基準が厳しくなっていることに驚いています。新潟県での初の少年脳死ドナーの事例でも、自殺なのに自殺と言わないで交通外傷という。その重要な情報を書かず、どこかで生き続けることが励みになるという家族のコメントを出す、移植後にもコメントを出すというフォロー、パニックの中での家族の決定をあたかも自然な決定のように報道しているのを見てとんでもないことになっていると思いました。法律の改定に関しても殆どのメディアが推進。原発推進と同じで反対するものがない、大政翼賛会の様になってしまっている。

<オールオアナッシングでなく、部分開示もありうる>
 日本では情報開示と言うとオールオアナッシングです。匿名性を大事にして地域は明らかでなくても、自殺とか、どういう医療を受けたとかは開示するべき重要な事項です。部分開示があり得ると考えます。例えば、裁判は基本的に公開だが、レイプされた被害者が公開の法廷に出ずに、テレビリンクで裁判官、検察官、弁護人だけに見える証言の方法も行っている。市民みんなに見せる必要はないが、医療専門家(脳死移植に批判的な医師を含む)、学者、法律家などには見せる。
 また、検証機関に誰が入るかが重要です。検証会議を作る部を作りそこに消費者代表とか日弁連とか学会とかが入る。テレビの報道機関には放送倫理・番組向上機構(BPO)という機関があるが、その機関を運営する理事会があり、理事会には放送業界以外の学者などが入っています。理事会が放送倫理を審議するBRCなどの委員を選出する。放送界が自分たちのためにつくっている機構だから、どの人がだめとは言えないというものです。
 北欧ではそういうオンブズマン組織が動いています。この場合なら、ドナーの人権を考える人、脳死を人の死としていいのかなども考えるオンブズマン組織があればいい。独立して移植を進めるために働き、プロセスを透明にするもの。私が厚生労働省の委員会でこれを主張したら首になりました。今の報道は厚労省と御用学者と記者クラブの三位一体でやっています。異議を唱える人たちはインターネットを使って反論する必要があります。

<少数者、弱い者の立場に立ったオンブズマン制度を>
 「自分に関する情報をコントロールする権利はその当の本人にある」。これは経済協力機構(OECD)などの「個人データ・ガイドライン」などに明記されている考え方であり、このことは権力にも勝手に情報を収集し、使用されない権利です。  ドナー本人、家族、市民が知るべき情報、知る権利にどうこたえるか、ジャーナリズムがどこかで問題を起こしたとき、それを解決する市民参加の仕組みが必要です。それが報道評議会で世界の40数カ国にある。先進工業国で、報道評議会がないのはアメリカと日本だけです。
 第三者組織ではなく、脳死移植に深く関心のある市民や専門家が集まる、政府や学会のクローニズムでなく、専門家も一人の市民として参加する。自分たちが自分たちのために作るのがオンブズマン制度です。
 オンブズマンは1809年にスウェーデンで最初に導入された「国会オンブズマン」が起源。「政府と人民のあいだの確執の局面に公正な立場で介入して、人間の尊厳を守るという目で、正邪の判断を下す役職」(潮見憲三郎『オンブズマンとは何か』講談社、1996年)で、多くの国に広がりました。
 「オンブズ」とは「代理する」という意味です。市民とメディアの間に入って第三者として裁定するのではなく、取材・報道される市民の立場を代弁する。ただし調査して勧告はするが、編集には一切圧力は加えない。スウェーデン語では男女とも「マン」なので、わざわざオンブズとかオンブズパーソンと言い換える必要は全くありません。【潮見憲三郎『スエーデンのオンブズマン』(核心評論社、1979年)『オンブズマンとは何か』(講談社、1996)浅野健一・山口正紀『匿名報道』(学陽書房、1995年)などを参照。】  主権者である市民に関わる「公の仕事」に関しては、その仕事のしかた全体に主権者=納税者の目が行き届いていなければならない、公文書への自由なアクセス権、情報の自由な流れが不可欠です。市民が「公開」「開示」を請求できる権利ではなく、公務員が原則として開示し、開示しない場合は、法令で明記しなければならないのです。官庁は「不開示」規定を明確化し、予め市民に知らせなければならない。  弱い者の立場に立ったオンブズマン、脳死移植の場合はドナーの立場に立ったオンブズマンが必要です。オンブズマンの神髄は、「法律ですべてがうまくいく訳ではない、法律は強い方に味方してしまう、権力は腐敗するからオンブズマンが必要」という考え方です。オンブズマンに関心を持ってください。

山口
 浅野さんのキーワードはオンブズマン制度でしたが、医学会では、現在のような検証会議はいらない、専門的な医者のみで検証することが望ましいと提案しています。どちらかというと逆の流れになっている。マスメディアに関して、15歳未満の自殺した少年からの移植について問題点を言及した記事は見当たらず、この間の臓器売買事件でも悪徳医が暴力団を使って移植を受けた、それだけの報道です。借金を抱えた人に対する臓器提供のあっせんなど一般の人も巻き込まれる恐れがあると掘り下げる必要があるのにそれもしない。神戸でも2年後に国際メディカルフロンティアセンターができて、外国の富裕層を対象に生体肝移植が実施されます。例えばアラブの人たちが自分の身内と偽って連れてきて生体肝移植をやれば臓器売買になるが、そういう話はマスコミには出てこないなどの問題もあります。

 

光石忠敬さん【改定法の根本的問題―改定の施行は停止されるべきである】
 結論から述べると、理論としても常識としても改定臓器移植法の施行は停止されるべきです。主な理由は、自己決定権が実質的に空洞化された改定であり、本人の臓器提供の意思がないことを表示している場合以外の場合の証明は困難で、事実上家族の承諾のみによって臓器摘出ができることになるからです。施行を停止して旧法にもどるべきだが、ただし、97年法でも「死体」「死亡した者」との用語は誤っており、これは変更するべきです。

<97年臓器移植法の基本問題>
 不可逆性昏睡、超昏睡という言葉が「脳死」と置き換えられたのは、人の死を暗示し、心臓を摘出できるようにしたかったためです。脳死臨調で脳死を人の死とすることに賛同しない少数意見(梅原、原委員、米原、光石参与)は、「脳死」は厳格な定義や判定基準によるべきで、事前に本人によって明確に表示されなければならないとの見解でした。脳死を人の死とする多数意見も「本人または家族の選択権を認めることは本来客観的事実であるべき人の死の概念としては不適当」と主張しており、97年法は、脳死臨調の多数意見とも少数意見も異なる法となりました。6条の2項では、脳死を一律に人の死としないものの脳死したものを「死亡した者」「死体」と表現している。また、「死体」(脳死した者の身体を含む。)とあるが、「・・・者の身体」という表現は主体が生きていることを示しており、死者と生者をひとつの言葉につなげる感覚はおかしい。
 97年法は、脳死の判定から数日で三徴候死に至るから、明確で自発的な書面による意思があれば脳死からの臓器摘出を認めたが、09年改定法は本人意思が不明であっても、事実上家族の書面による承諾で提供できるとして自己決定権を空洞化しました。2009年法の改定の根拠が提供臓器を増やすためであり、慎重さを無視したとんでもないものとなりました。

<2009年改定法の根本的欠陥>
 国会は脳死の定義および人間の死の定義について、脳死が人間の死か否かについて基本的な検討をしておらず、人間の生死にかかわる法律なのに検討しなかったのは根本的欠陥です。臓器移植法での脳死の定義は「全脳の機能の不可逆的停止」です。全脳とは脳の主たる機能に着目したもので脳全体の機能に着目したものではありません。市民の常識における定義はどうかというとそれは脳の死です。広辞苑や内閣府やメディアの世論調査における定義とほぼ同じで脳の死を意味します。それは全脳ではなく「脳全体の機能の不可逆的停止」でなくてはならない。臓器移植法における脳死の定義は一般の常識とは異なり、脳の死ではなくなっていることは問題です。
 97年法で、人間の死の定義は脳死臨調の定義にしたがっています。つまり「人間の死とは有機的統合性の喪失」としています。体温や血圧など体内環境の維持―ホメオスタシスの中枢は視床下部にあるが、この視床下部の神経細胞は脳死判定から4日後でもその4割が生きています。これらのことから、脳死が一律に人の死との論理は成立しません。
 さらに改定法では97年法の6条2項における「臓器が摘出されることとなる者であって」の部分を削除しました。削除したことによって人間の死の限定を取り払い「脳死は一律に人間の死」とするものになる。しかし、立法者は一律に人間の死と規定したものではないと弁明しています。そうであるなら削除は誤りになります。

<2009年改定の目的の誤り>
 2009年改定の目的は、子どものレシピエント患者が海外渡航して移植することができなくなるからとされました。しかし、渡航移植は道徳的に正しいとは言えないし、少数のドナー患者が無視され犠牲になってもやむを得ないという考え方はおかしい。
 人間の命は大切で、1人称は自分自身、2人称は家族・友人、3人称は匿名の他者であれ、また人種を問わず、レシピエントもドナーも同等に大切です。
 改定法の主眼は、心臓移植を受けたい子供が海外へ行けなくなる、イスタンブール宣言やWHOの動きによって海外で移植ができなくなるからというものでした。しかし、日本ではできないから、経済的利益を海外の医療機関に与えるから、海外の子は死んでもらうというのも倫理的にはおかしい。生か死かの真実にふたをして、渡航移植を行ってきたことは正しいとは言えないので、この第一の目的は間違っています。
 第二の目的は「多くの患者さんに役立つ法律に」というものでした。これは最大多数の最大幸福という功利主義のスローガンに従っているが、このスローガンは誤った考えです。ベンサムは後にこれを修正し、最大多数を削除して「最大幸福の原理」としました。個人や少数者が犠牲になり無視されるのは排除されなければならない。ベンサムの修正が正しい。多くの議員が主張した「多数の患者さんに役立つ法律にしたい」として、少数を切り捨てるのはベンサムの功利主義のスローガンを冒涜するものでこの目的も誤りです。

<2009年法改定における脳死と自己決定論理との非関連性>
 脳死と自己決定を結びつけることはできません。97年法は、脳死の判定から数日で三徴候死に至るから自己決定による臓器提供を可能としました。しかし子供の場合、長期脳死、慢性脳死になる子が少なくありません。三徴候死に至るまで数カ月数年を経るので、脳死と自己決定とを結びつけることはできません。また、家族や遺族が承諾するのは臨床上の利益を満たさないので、診療における代諾とは違います。さらに「意思がないことを表示している場合以外の場合」を証明するのは困難です。「私はどの臓器も提供しない」と書いておいても捨てられることもある、口頭で表示しても家族・遺族がその表示を忘れた場合どうするのか。何であれ、あることの証明はできてもないことの証明は困難です。改定における自己決定権の後退を元に戻すのは無理です。自らの意思を表示できないものは脳死判定の対象から除外するべきです。改定法も6条Ⅲ②、Ⅰ②は自己決定権を殆ど後退させ、空洞化されている。昨年7月17日から11月10日までに本人意思表示のない事例が57例あったが、意思がないことを表示している場合以外の場合であることを、誰がどのように確認したのか、すぐに検証されるべきだが、いつ行われるかも決まっていないのです。これらから、施行はすぐに停止するべきです。
(以下、子どもの問題など講演時間の短縮を当日になってお願いしたために省略されました)

山口
 医学界では、臓器提供を死後に行う病理解剖の承諾と同様に見なすという意見が出されています。病理解剖は本人の意思は不要で家族の承諾で行われます。イコール死体と見なすわけです。このように医学界とは法律を勝手に解釈し平気で法律を破るところです。医療現場では1番目に臓器提供数を増やすこと、2番目に臓器提供を行う時間を短縮することが求められています。光石さんのレジュメの最後にある子どもの問題ですが、虐待児について、虐待か否かは医療現場でははっきりわからないことが多いので、被虐待児からも提供しようとの論理が出ています。それは被虐待児にも臓器提供の権利がある、対象から外すのはその権利を奪うことだというのです。アメリカやカナダに習い日本でもokにという動きがあることをお伝えします。

 

小松美彦さん【改定臓器移植法への疑問と近年の米国の動向】
 私の元来の専門は、西欧近代の医学や科学における死生観の歴史研究ですが、後にそうした研究を、脳死・臓器移植や安楽死・尊厳死などの現在の死生をめぐる問題と結びつけ、現在に至っております。
 まず、お手元の冊子に収録されている私の書評に言及しておきます。『サンデー毎日』(2011.11.20)に依頼執筆したものです。パレスチナの路上で、イスラエル兵に狙撃された12歳のパレスチナ人の少年が脳死になり、父親は葛藤の末に臓器提供を受諾します。そしてイスラエル人の子どもと大人の計6人に移植されました。その報道に地域医療で有名な鎌田實医師が感激し、感動的な絵本にしました。殺戮され続けてきたパレスチナ人から、殺戮してきたイスラエル人へと、「いのちの贈り物」が実現したという美談としてです。しかし、はたして美談だけで済ませてよいのかと思い、私としては非常に抑制したものですが、問題提起した書評です。後ほどご覧いただければと思います。
 本題に入ります。全体として二つのことをお話しします。一つは、改定臓器移植法には中身もさることながら、成立に至る手続き的な部分に大問題がある。したがって、ただちにその施行を停止し、撤廃しなければならないのではないかということです。第二に、米国の先進的な状況は何年か遅れて日本に入ってくる蓋然性が高いため、脳死・臓器移植に関する米国の近年の状況についてお話します。

1.改定臓器移植法の成立をめぐる問題
 旧臓器移植法には、臓器提供する場合に限り脳死を人の死とし、臓器提供に関しては本人による文書での意思表示と家族の承諾という二重の縛りがありました。けれども、このようにドナー側の人権にある程度は配慮したため、移植件数が少なかった。そこで、臓器の提供条件を大幅に緩和しました。そのうちの一つ、新法の「脳死を一律に人の死」とした規定について、まずお話します。
 2009年7月の改定法成立時には、「脳死は一律に人の死」とされていたはずです。ところが、2010年1月、厚生労働省が、「改定法も一律に人の死としているのではなく、旧法と同じく、臓器を提供する場合に限って脳死を人の死としている」旨を発表しました。全体的な法律の施行段階である2010年7月にも、マスメディアと臓器提供指定病院に対して同様のことを強く念押ししています。脳死を人の死と一律に定めたはずの法律が、施行前に180度変わっているのです。もう少々具体的に言うとこうです。
 2009年6月9日の衆議院本会議で、後に成立する改定法案(A案)の代表提案者である中山太郎議員は、A案が「法的脳死をすべて人の死とする」ものである旨を、繰り返し述べています。代表者自らがそう言明しているのです。しかも、参議院では「脳死を一律に人の死としない」ことを強調したA´案が上程され、投票で否決されました。したがって、国会では脳死を一律に人の死とする法案が可決成立したに決まっているわけです。
 さらには、このようなこともあります。臓器移植法の関連国会で参議院厚生労働委員長だった辻泰弘議員が改定法施行直後に投稿した、お手元の新聞記事(2010.7.21:朝日新聞)をご覧ください。ここには、「国会議員の中にも、このように[脳死は一律に人の死と位置づけるものと]誤解したうえで採決に臨んだ人もいたようである」と書いてあります。一体全体、誤解に基づいて投票された法案が成立した上に、法律として存続することが許されるのでしょうか。誤解に基づいたことになるA案を受理し、しかも採決を容認した辻厚労委員長御自身の責任も重大でしょう。
 今日のシンポに、何名かの国会議員の方々が賛同のメッセージを寄せて下さっています。大変ありがたいことです。けれども、その方々が本当になさらなければなければならないことは、現在の改定臓器移植法の存立を問い直すことに他ならない、と私は思います。ドイツのナチス政権時代に活躍した20世紀を代表する思想家、ヴァルター・ベンヤミンが、「議会には、法を制定する暴力に対する感覚が欠けている」と述べています。要するに、国会議員が法律を作るということは、一つの暴力になる可能性があるわけです。しかし、その感覚がたぶんない。現在、まさにそういう法律が成立・施行されている状況を、国会議員は看過あるいは黙認してよいのか。この事態は、法律の内容に反対する私自身にも関わっていることで、たとえ自分に都合のよい法律であっても、いい加減な形で成立したのなら、ほくそ笑むのではなく、あくまでも反対しなければならないでしょう。しかし、私が知る限り、推進派でそれを実行した国会議員も、加えて研究者も市民も一人としていない。法治国家、議会制民主主義を墨守するのだとしたら、まさしくこの問題を論じなければいけない。日弁連の存在価値にも大きく関わる事態だと思えてなりません。

2.アメリカの最新動向
 レジュメには次の論点として「哲学的な意味」とありますが、これは後に余裕があれば申し上げることにして、2番目の問題に移ります。米国の生命倫理に関する最高機関、「大統領生命倫理評議会」が、2008年に脳死に関する「白書」を出しました。アメリカでは、1981年に有機的統合性を基盤として「脳死が人の死」と規定され、法律にもなっています。その後、長期脳死者の存在などからそれが疑わしくなり、批判者を含めて議論した。白書はその結果を公表したものです。その特徴は大きく見て二つあります。
 一つは、脳死を「全脳不全」という名称に置き換えたことです。というのは、元来、不可逆的昏睡や超昏睡と呼ばれる状態が死かどうかが議論の対象になっていた。それを脳死という「死」が入った言葉に置きかえると、確かにフェアな議論が行いえない。そこで、「死」という言葉が入らない全脳不全へと公明に修正されたのです。また一つは、有機的統合性を論軸とした「脳死=死」の論理の破綻を、米国大統領生命倫理評議会があっさり認めたということです。
 けれども、評議会はあくまで全脳不全を人の死だと規定するため、新論理を案出しました。その新しい論理と、臓器移植を増やすための論法をお話してまいります。
 「全脳不全=人の死」とする新論理は、まず、死とは有機体(人間)にとって根源的な「強欲求」「衝動」「動因(ドライヴ)」の消失であると定義します。人間には生きたいという根源的な力のようなものが備わっている。その力が無くなることが人間の死であるというわけです。二番目に、その「強欲求」「衝動」「動因」は人間の五感では直接に捉えられないので、それらが存在している証拠を呼吸と意識と規定します。最後に結論で、呼吸と意識が消失していれば、「強欲求」「衝動」「動因」が消失していることがわかるので、呼吸と意識が消失した脳死者は死んでいる。このような論理です。しかし、この新論理なるものは、破綻した有機的統合性論以上のボロボロの論理になっているのです。持ち時間の関係上、詳しいことは、宣伝です。2012年の1月に、レジュメに書いてあるような本(小松美彦「脳死論」倉持武・丸山英二編『シリーズ生命倫理学第三巻:脳死・移植医療』)が出ますので、それをご覧いただきたいと思います。
 話を進めます。白書では、臓器移植を推進するための二つの方法が検討されています。
 一つが、「操作的心臓死後臓器提供」というものです。これは、家族の承諾を得て患者の人工呼吸器を止めて、心臓が拍動を停止したら2~5分だけ心臓の再拍動を待つ。そして、再拍動しなかったら直ちに臓器を摘出し、移植に向かう。しかも一旦心臓が止まったので死亡宣告をしますが、心臓マッサージで心臓を動かし、拍動している心臓を別の人に移植する。こういう方法です。白書によると、全米ではこの方式が2007年の一年間で793件も行われており、しかもだんだん過激になっています。
 例えばデンバー小児病院では、生後18ヶ月以内の乳幼児3人の人工呼吸器を親の承諾で外したところ心停止し、一人に対しては3分待って心臓が再拍動せず、臓器摘出に入った。二人目は、何と1分15秒後に、心臓摘出を始めています。アメリカでは、日本の改定法とほぼ同じ法律が1987年から施行され、それでも臓器不足に悩んでいます。そこで、このように移植臓器の獲得の方法がどんどん過激になっている。それが日本に近い将来入ってくる可能性があるのです。
 臓器移植推進のもう一つの方法は、「デッド・ドナー・ルール」の撤廃です。「デッド・ドナー・ルール」とは、死んだ人からしか、心臓などの生存に不可欠な臓器を取り出してはいけないという鉄則です。ロバート・トゥルオグというハーバード大学の麻酔学教授が、このルールの撤廃を公言しています。この人は、1997年の論文で「脳死者は生きている」と認めた上で、「移植臓器の獲得のためには、時には殺人も必要である」と、明言した人です。そこでは「正当化された殺人」という奇想まで提唱しました。そのトゥルオグが、近年、さらに「心停止ドナーも実は生きている」と認めます。米国では心停止後の心臓移植も少なからず行われ始めたようで、「レシピエントの中で移植心臓が再拍動するならば、もともと心停止ドナーは死んでいなかった」と認めたのです。そして、脳死にせよ心臓死にせよ厳密に人の死を判定することはできないのだから、移植臓器を増やすために「デッド・ドナー・ルール」を撤廃しようというわけです。そしてさらには、アメリカでは消極的安楽死が実質的に認められてきたのだから、医師が臓器を摘出することによって患者が死ぬことも一種の安楽死として認められるべきではないか。これが新鮮な臓器を数多く獲得できる最善の方法に他ならない、というのです。
 これら二つの臓器獲得の方法は、すでに日本でも検討され始めています。特に二番目ですね。臓器を取り出すことによって死ぬことを正当化する。そのような事態が到来したら、今まで以上に社会の根幹がぐらぐらになるのではないかと思います。
 以上、一番目、改定臓器移植法が、そもそも成立しているとはいえないのではないか。それに対して私たちは何をなすべきか。二番目に、アメリカの近年の状況。この二つを申し上げました。

 

山口研一郎さん
 全脳機能不全を人の死とする論理に関してですが、実は日本でも再討議されています。全脳死ではなく脳幹死でもいいじゃないかと。呼吸とか意識がない状態が脳幹死ですが、脳波検査の必要性についても医療現場では再検討されています。また救急で使った薬剤が結果的に仮の脳死を作っているという研究結果がありますが、現場では薬剤の影響は問題にする必要なしとまで言われています。 
 今、小松さんのお話を聞きまして、『生命(いのち)』(山口研一郎編著、緑風出版、2010年)にも紹介していますが、バートランド・ラッセルという哲学者の「技術的人道主義は、煮立っていく風呂のようなもので、いつ悲鳴をあげたらいいか分からない」という言葉があります。人を助ける目的ならば何をやってもいいという状況の中で、私たちが知らないうちにどんどん風呂が煮立ってくる。「茹で蛙」という言葉もありますが、冷たい水の中に蛙を入れて少しずつ温度を上げていくと、最終的に煮立っても蛙は飛び出さないといわれるように、知らないうちに状況が変わっていくことに私達は気づかない、気づいたらとんでもない現実があるということだと思うんです。

<救急医療現場での動き>
 従来患者さんや家族の一致する思いは、やはり救急医療現場の医師に最善を尽くして欲しいということだと思います。万が一いい形で終われなくても、やるだけのことはやって頂いた、あるいは自分たちもやるだけのことはやったという満足感が、人を送り出す、死を受け入れる、そういう思いに繋がっていくと思います。
 ところが、臓器移植法が成立したことによって、今の救急医療現場は、本来助けるべき患者が臓器提供者になってしまい、その臓器提供者になるためのスケジュールがタイム化されるという状況になっているわけです。果たして、救急医療という特殊な状況の中で、本当に家族が患者さんの死を受け入れられるのかを現場を知る立場として一番懸念するわけです。
現実に、今救急医療現場で臓器提供に関わるシュミレーションが行われています。その中で、患者さんが重度の状態になってからカードを持っているか否かを確かめるのは余りにも遅いので、救急医療現場では患者の状態に関わらず全員にドナーカードの保持を確かめる、それを決まりとして定めようと、言われています。
 それから、医療者が家族に対して臓器提供の説明をすることも義務づけようとしています。救急医には、救急患者を助けることと、もしその方が助からない場合にレシピエントを助けるという二つの仕事があると言われ、スローガンのようになっています。
 今まで小児に関しては人道的な立場から無呼吸テストをしていなかったのですが、小児からの臓器移植を推進するためにこれを徹底しようと。さらには、被虐待児も提供の対象にしていいのではないかということも言われています。

<日本の医学会の状況>
 次に、医学会ですが、『脳死・脳蘇生』(第22巻第2号、2010年1月)という雑誌に、臓器移植法改定後の2009年12月に、33の医学会が共同でまとめた提言が掲載されています。その中には、例えば、私たちは当然ながら脳低温療法は救急医療の中で必要だと考えるわけです。しかし、脳低温療法は必ずしも必要ではない、各救命救急機関で治療の内容が変わるのは仕方がないということを言っております。
 それから、先程話したように、本人の意思とか家族同意の問題についても病理解剖と同じようにみなしてもよいのではないかと言われています。さらに臓器提供施設の負担軽減が強く出されて、第一に全国にもっと臓器提供医療機関を増やそう、第二に、脳死判定から臓器摘出までの時間を短縮しよう、今は45時間かかるがこれでは余りにも長すぎる、どうしたら短く出来るのかと討議しています。現在は、二回目の脳死判定後に脳死が確定した時点で、レシピエントの施設に連絡します。それは当然です。まだ脳死と決まっていないのだから。ところがですね、第一回目の脳死判定時に連絡したら時間が短く出来るということなんですね。要するに、第一回目の脳死判定で、もう死と宣告して提供者と決めましょうということです。ということは、もう第二回目の判定は形式的なもの、そういうことが言われています。
 小児に関する長期脳死問題に関しては、「小児科からの発表は間違っているのではないか」「小児科の先生達は両親との関係が深いので、どうも無呼吸テストをしてなさそうだ」と。要するに、無呼吸テストをしていないからその子たちは長期脳死になっているのであって、それは本来の脳死ではないというのです。
 家族への精神的な援助も色々言われていますが、とにかく脳死になった患者さんが移植医療について知ることは当然なんだと。一般の病気の場合、医者が病気や治療についてインフォームド・コンセントをしなくちゃいけないと医療現場で義務付けられていますね。それと同じで、脳死になった患者にも、移植医療について医者として提案しなくちゃならない。これがインフォームド・コンセントだと。しかし、その人はもう意識不明で理解できないから、それを家族にするという論理です。伝えるのは医者、医療者の義務であると。
 このように、臓器移植法の成立は、医療現場に大きな変化をもたらす。はっきり言えば僕は医者の堕落に繋がっていくんじゃないかと思います。最近また言われ始めたことに、脳死状態の人の脳は、脳がドロドロであって、それは高野豆腐とか木綿豆腐どころじゃない、麻婆豆腐に近いんだという言葉が、昭和大学の救急医のA教授からの発言として出てくる。「それ言ったら学生たちが怒ってしまいましたよ」てなことを冗談半分に語っているわけです。そういう思いで講義をしたり、医療現場に携わる医療の状況が、生まれてきているということを非常に懸念しています。


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11・13市民シンポジウムの報告(2‐2)

2011-12-29 00:00:38 | 集会・学習会の報告

11・13市民シンポジウムの報告
【討論および質疑応答(抜粋)】

■先ほど山口先生が言われた中で、無呼吸テストをしていない臨床的脳死の人達が、これは脳死じゃないから脳死の議論から外していいということに、怖さと怒りを持ちます。そういう状態の子どもを持つ親達が、危険な脳死判定なんかできないのを分かっていて、「この人達は脳死患者じゃない、脳死だったら長く生きないんだ」と堂々と言うところに、医療者が科学者である身分を捨てて、そういう発言をしていることに、凄く怖さと怒りを感じます。

山口:おっしゃるように、本来ならば、無呼吸テストは実施せず、その方を少しでもいい状態に持っていくことが、医療者の当たり前の姿です。それに対して無呼吸テストをするべきであるとか、脳死判定のためには必要であるとか、それは僕は本末転倒だと思うんです。それがこの法律が出来たことによってやるべきであると、やらない限りは長期脳死という言葉さえも語っていけないという論理展開がなされている状況です。とにかく小児脳死の問題に関しては、今凄く学会的には議論になっています。その中で、親への説明や臓器の保存管理といった色々なことが討議されているわけです。そういう状況であるってことをお伝えしたいと思います。

 

■今回発行された『脳死・臓器移植Q&A』で、心停止後臓器提供は、実際は脳死前提の臓器提供であったということを指摘しております。1960年代から人為的な心停止後の臓器摘出も行なってきた。そういうことを、マスメディアは全く忘却している。また、こういう心停止後の臓器提供、年間100例前後ですが、これを検証することについて浅野さんはどのようにお考えでしょうか。

浅野:心停止後の臓器提供を問題にする人たちで何があったかを検証し、メディアに報道するように要請すべきだと思います。ジャーナリズムの役割は、社会の中にある問題点を提起し、適正手続きに基づき民主的に裁判が行われ、社会の中で情報が自由に流れ、それを促進していくことです。報道機関が記者と取材するお金をどこに振り向けるかということでもあります。法的・制度的矛盾があることに切り込んで、問題解決のために、ジャーナリスムは機能すべきですが、既成のマスメディアにはほとんど期待できない。記者には良心的な人もいるので、マスメディア全体を駄目と言うのではなくて、内部で闘う人たちに働きかけて励ますとか、自分たちが発信していく、いわゆるオルタナティブ・メディア-インターネットなどを使った発信が必要かなと思います。それぞれの分野の人々がネットワークを作って連帯してやっていく、その中にジャーナリズムも参加すべきであるということです。

 

■国民健康保険証の裏にあるドナーカードについて怒りや疑問があり、日本臓器移植ネットワークに電話で確認したことについて質問します。臓器を提供したくない場合、「提供しない」に丸をしてシールを貼ればいいということですが、「シールをはがすのは誰ですか」と聞くと、医者は剥がさずに家族が剥がすということでした。また、その時は、医者が移植を勧めることはないと説明されました。それから、臓器摘出を承諾する家族の範囲を聞くと、家族の範囲は規定されてないという話だったんですけど、本当でしょうか。

川見:シールを誰が剥がすのかという疑問は、初めてそうだなと思いました。国会でもそういう質問はなかったです。家族が剥がすと日本臓器移植ネットワークの職員が言ったそうですが、それには根拠はないと思います。それから親族の範囲は、親族優先提供の場合は配偶者と親子になっているけれども、家族承諾のときの家族が誰かは、明確でありません。一般的には同居している親族と言われています。でもそうじゃない場合もある。この間の自殺した少年の時には、同居はしていない祖父が決めたと言われていますし、はっきりしていないですね。

 

■光石さんに質問します。現行法を施行停止するという提案でしたが、その先にあるものについてはどのようにお考えでしょうか。脳死臨調以降、参議院での修正とか、あるいは2009年のC案で示された理念などがあると思いますが、それらを新しい体制の中でどのように生かしていくべきとお考えなのか伺えればと思います。

光石:もちろんC案とかがいいとは思いますが、実質的にはなかなか難しいので、1997年法でやっていいんじゃないかと私は思っています。

 

■小松さんに二つうかがいます。一つは、レジュメにありお話の中で触れられなかった「その哲学的意味」について伺いたい。あともう一つ、米国の動向について、かなり極端なというか奇矯な動向が出てきている中で、アメリカ社会、世論、ジャーナリズムは、反論が出せないような脆弱な状況なのか。それは、脳死・臓器移植法が80年代に成立したことと関わりがあると考えてよいのかを伺えればと思います。

小松:まず、近年の動向に対してアメリカ社会やマスメディアがどう扱っているかについては、残念ながら分かりません。ただし、ネットの検索にも引っかかってこないので、あまり扱われていないように思われます。この事態はアメリカで脳死が死と既成事実化していることと関係あると私は見ていますが、明確な証拠を出せと言われたら出せません。<o:p></o:p>

もう一点については、現在の思想界の世界最高峰と思われる、イタリアのジョルジュ・アガンベンという哲学者の所説をもとにお話しします。アガンベンは『ホモ・サケル』という本で、権力とは何かについて論じました。結論を言うと、その人を殺しても罪に問われない、そういう例外者を作り出すのが権力の正体だというのです。アガンベンによればその実例は、古代ローマ法にすでに記されており、境界石を掘り起こした者、親に暴力を振るった子、顧客に不正を働いた主人です。もう少々分かりやすく言うと、古代社会の奴隷、中世近世の魔女や宗教的な異端者などは、殺しても構わない存在でした。そしてアガンベンがとりわけ論じているのが、ナチスによるユダヤ人や安楽死の対象者です。さらには、現代のそれとして脳死者に言及しています。<o:p></o:p>

では、いかにして殺しても構わないようにするかというと、法律の適用外にするのですね。ここでいう法律には二つあって、一方では人間が作った法律の対象外にする。また他方では神の法、つまり宗教からも対象外にする。このように二つの法律からはじき出すことによって、かえって大きく囲い込む。これが権力のやってきたことだというのです。アガンベンのこの鋭い洞察からすると、むしろ脳死者を法律で死者と規定しない方が、宙吊り状態にしてしまう方が、権力の本流になっていると私は思うのです。そして実質、医療現場ではもはや「脳死は人の死」が大前提になって、ありとあらゆる方向に向かっています。すなわち、国家としては、脳死者を明確に死者と規定しないまま、現場では何やっても罪に問われませんよとした方が、権力の理にかなっている。まさしくアガンベンが言った権力の伝統的なやり方が実現しているのが今の日本だと私には思われるのです。以上が、私が考える脳死の法規程をめぐる哲学的な意味です。<o:p></o:p>

 

■娘がアメリカで心臓移植を受けた者です。資料にもありますが、法律の改正によって57人の方が脳死となり、その家族の承諾によって200人を超える方が臓器をいただき救われました。私の感情としては、少なくとも僕の付き合っているお医者さん、あるいは学会で触れる先生方の話とはずいぶん印象が違うということをまず申し上げたい。だいたい現在の現場では、〔臓器提供の可否を〕聞いた場合、「いやです」と言ったらそこで終わりです。これからどうなるかという先生のご懸念は分かりますけれども、まず今はそんなことはないということはお伝えしたいと思います。僕は、まずは提供して救われる患者さんがいることが、一番目にお医者さん方の頭の中にあると思うんですね。先生が、臓器提供者を増やし、時間を短くするというふうにお話を始めることには疑問があります。やっぱり、まず沢山の移植を待っている患者を救えるものなら救いたいという思いがあって、提供する方がいるならばそこを繋ぎたいという思いではないかと思います。

山口:現場の医師はまじめに何とか自分の仕事を全うしようとしていることは事実です。今の動きとして、そのまじめな医師達でさえもがそこに専念できなくなっていることを懸念しているということです。医療救急機関は救急の患者さんを助けることが第一で、それ以外何もないはずなんですよ。それなのにもう一つ臓器提供が出てきてしまったというのが現実です。先ほど学会の動きを紹介しましたが、これは別に学会の限られた医師達がいる場だけで話されているわけではないのです。私が今住んでいる高槻市の三島救命救急センターという救命救急に関して定評のある病院でも、さっき言ったような論理で、現場の医師達が臓器提供者を増やすことと、その現場における提供に向けた作業を合理化することをどうしたらいいかと論文として投稿しているわけです。だから、僕も一人ひとりの医師の良心を否定はしませんけれども、そういう動きになってきているのは事実なわけです。医師といえども一人の人間ですから、自分の立場や現場の医師達との関係もある中で、知らず知らずのうちに組み込まれてしまうというか、自分の思いとは違うところで動いてしまうことが、懸念されるという意味です。

小松:今のご発言に対してですが、私は一度移植を受けた人に対しては、何とかいつまでも元気でいらしてほしいとは思います。ただし私自身は、移植という方法、とりわけ脳死状態からの移植というものは、どこまでいっても間違っていると思います。200人が救われようと、60名、70名が、私は犠牲になっていると思います。本人が仮にいいと言っていても、やはり私は犠牲になっていると思います。そちらをどうするかということこそが問題です。となると、そもそもいっぺんに臓器を貰う側と臓器を差し出す側の二人を対象にした移植医療の在り方こそが根本的に問題なのであって、あくまでも一人の患者に焦点を絞った医療をすべきである。そこに何とか時計の針を戻してもう一度やりなおせないかと思っています。<o:p></o:p>

■僕は、少なくとも沢山の方が救われたということについて一言でも触れていただいた上で、けれども自分は反対であるというのが、意見を表明する場合の礼儀ではないかと思った次第です。先程のカードに関する質問のように色々問題はあると思うんですが、前の法律ができてから、世論調査などでいえば自分が脳死になったら提供してもよいと言う方のパーセンテージが上がってきたんですね。でも、残念ながらカードを持っておられる方は少ないわけです。これは日本だけではなくてアメリカでもヨーロッパでも、カードから始まったけどなかなかカードを持たないということで、家族の同意になってきたわけですね。そのことについても賛成反対あるだろうけれども、ただもうちょっと現状を踏まえてお話をうかがいたかったなという感想はあります。

小松:では、もう一言シビアなことを申し上げます。1995年に地下鉄サリン事件が起こった後に、吉本隆明という著名な思想家が、「麻原彰晃氏が死刑になったら、彼はイエスになる」、こう言いました。このために総スカンを食らったわけですね。ただし他方では、こういうことも述べています。「所詮、川で自分の子どもと他人(ひと)の子どもが溺れたら、自分の子どもを助ける時代ですからね」と。この世相こそが、我々全てに問われているわけです。自分の家族を助けることを最優先すること自体が、問い直されざるをえないというのが、私は脳死・臓器移植問題だと思っているし、吉本隆明氏の発言はその問題に繋がると思ったので、あえて申しました。

 

他にもたくさんのご意見質問がありました。連続して考えていきたいと思います。
(テープ起こし・まとめ:天野・川見)

 


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