臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

改定臓器移植法施行2年にあたっての声明

2012-07-19 19:46:52 | 声明・要望・質問・申し入れ

2012年7月19日
臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

改定臓器移植法施行2年にあたっての声明

 私たち「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」は、改定臓器移植法(2009年成立、2010年7月17日施行)施行2年を経過した現状に強い危惧の念を抱き、声明を発表します。

 改定臓器移植法は、家族の承諾だけでの脳死下臓器提供を容認し、15歳未満児の「法的脳死判定」と臓器摘出を可能としました。こうした流れは、命の選別と切り捨てを前提とした「脳死」概念をより普遍化し、臓器獲得のためにはいかなる制約も排除しようとする移植推進の方向性を明瞭に示しています。
 人の生存に不可欠な臓器を摘出し、他人に移植する行為は、人の命を「死なせる命」と「生かす命」に選別することに他なりません。それは、人の生と死を五感で受け止め、生を願いつつも確実な死を看取るという、かけがえのない文化を破壊してしまおうとするものでもあります。また、病気や「障害」、高齢の人々の命を「価値なき命」と軽視する社会を生み出し、救命医療の充実や臓器移植以外の治療の研究開発等の推進を阻害するのではないか、とも考えます。
 私たち市民ネットワークは、このような法改悪に対して、命の切捨ての拡大に警鐘を鳴らし、「脳の回復は難しい」との診断を受けた子どもたちの命と生活の否定を許さないと宣言してきました。そして、改定法施行から2年を経た現在、私たちの懸念は現実となりつつあります。

 自殺や事故からの臓器提供を禁止し、原因究明と再発の防止を!
 2011年4月、鉄道自殺を図った少年に、家族承諾での「法的脳死判定」と臓器提供が行われました。“自殺”の事実は隠され、“交通事故による頭部外傷”と報道されたこの少年の脳死下臓器提供は、「家族の勇気ある英断」と美談として報道されました。しかし、提供施設名や脳死に至った状況、救命治療の内容等の重要な情報は公表されず、なぜ彼が自死に追い込まれたのかを問うことも許されませんでした。一方で、滋賀県大津市でのいじめ自殺事件では、「教育界によるいじめ隠ぺい」と社会が揺れ動いています。自死に追い込まれた少年たちのメッセージを受け止める社会が求められています。残念ながら臓器提供はそれを阻んでいると考えます。
 成人も含めて「死体」臓器ドナーの約1割は、自殺を図った患者と推定されます。殆どの事例で情報は隠され、自殺の原因究明も行われず、再発防止にも繋がっていません。臓器提供普及キャンペーンが自殺を誘引している可能性も否定できません。
 2012年6月14日には、6歳未満の男児が富山大学病院で「法的脳死」と判定され、翌15日に臓器摘出が行われました。同年齢と思われる「長期脳死」とされる子どもたちに接してきた私たちは、大きな悲しみと憤りを感じます。この男児は、事故で病院に運ばれ蘇生後低酸素性脳症に陥ったとされていますが、事故の詳細も救命治療の内容も明らかにされていません。特に日本は1歳から4歳の子どもの死亡率が「先進」14カ国でワースト3位(日本小児科学会雑誌115巻12号掲載の渡辺論文)となっており、子どもの救命救急医療体制の整備が遅れたままです。この男児もただちに適切な救命救急医療を受けられたら、重篤な脳不全状態を免れたかもしれません。臓器提供によってその検証も棚上げにされてしまいました。
 私たちは、情報を隠ぺいして推進する脳死下臓器移植のあり様に強く抗議します。そして自殺や事故からの臓器提供を禁止して、その原因究明と再発防止を優先することを求めます。

検証会議は公平・公正な人選で!
 厚生労働省・脳死下での臓器提供事例に係る検証会議は3月29日に「102例の検証のまとめ」を発表しました。その中には、①脳死判定対象外の患者に法的脳死判定を行なっている、②法的脳死宣告前から脳蘇生に反するドナー管理を開始している、③臓器提供に同意した家族が臓器摘出時に麻酔をかけることを知らされていなかった、等々、多くの問題点が指摘されていますが、検証会議は移植推進に積極的な識者だけで構成され、「最終的に臓器提供事例は妥当」とする結論しか出していません。“原子力ムラ”と同様の構造的問題を抱えており、「法的脳死判定・臓器提供は妥当」との“神話”が形成されていると指摘せざるをえません。
 私たちは、脳死下臓器移植に慎重な立場の有識者を加えた検証会議での再検討を求めます。

 “いのち”を切り捨ててはいけない、“いのち”を守るための医療や福祉の充実を!
 改定臓器移植法施行後、家族承諾のみによる「脳死判定」と臓器摘出は76名となりました。しかし、「脳死」ドナーと心停止ドナーを合わせた総数は、増加していません。そんな中で、新たな臓器摘出対象を作り出す目論見が進められています。
 生命維持装置を停止して心停止を引き起こし、臓器を摘出する手法は2006年の富山県の射水市民病院事件を契機に減少しましたが、この手法を復活させ、さらに肺などの摘出・移植が岡山大学などを中心に検討されています。
 また、現在「尊厳死法制化を考える議員連盟」は、『終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案』を準備し、終末期における生命維持治療の不開始や中止と医師の免責を定める法律案の検討を進めています。法律で対象とされる“終末期”の定義もあいまいなまま進行しているこの動向は、命の選別を前提とする脳死下臓器移植と表裏一体であり、重度障害者や高齢者への医療を「無益な治療」として否定することに繋がるのではないかと懸念します。
 私たちは、“いのち”を守るための医療や福祉の充実を求めます。


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第1回市民講座(2012年6月16日)の報告

2012-07-14 09:52:30 | 集会・学習会の報告

第1回市民講座(2012年6月16日)の報告

一つの流れにつながっていく移植医療、

“死の自己決定”と“無益な治療”論

~臓器移植“先進国”と言われる国で起こっていること~

■2012年6月16日、フリーライターで『アシュリー事件~メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』の著者である児玉真美さんをお招きして市民講座を行いました。参加者は54名、児玉さんから語られる臓器移植“先進国”あるいは“標準国”といわれる英語圏の国々で行われているおぞましい実態に、戦慄を覚えました。講演と質問や意見の要約を報告します。

 

■児玉真美さんの講演
はじめに
 2006年に『介護保険情報』誌で海外情報を紹介する連載を始めた時に、最初にぶつかったのが、ニューヨークの葬儀屋がバイオ企業と結託して葬儀場の裏で遺体から組織を抜き出し横流ししていたスキャンダルでした。病気のスクリーニングをしていないため汚染された医療製品が出回って、多くの医療訴訟が起きていた。この世界規模のスキャンダルが日本ではなぜ報道されないのか不思議でした。パキスタンの大地震では臓器泥棒が4人逮捕され、クーラーボックスに15の人体臓器が入っていたし、アジアの国々では貧しい人々が生活の為に臓器を売っていた。基本的な医療も受けられず亡くなる人が相次ぐ国々で医療ツーリズムが国策とされ、外国の金持ちに贅沢な医療が提供されている。世界の現実に愕然としました。
 半年後に出会ったのがアシュリー事件です。シアトルこども病院で親の要請で当時6歳の重症重複障害児から子宮と乳房が摘出され、ホルモン大量投与で成長抑制をした事例が、07年1月に大きな論争になりました。私にはアシュリーと同じ障害像の娘がいます。この事件を追う内、英語圏の医療倫理で何が議論されているか、医療で障害児・者がどういう扱いを受けているかにも目が向いていきました。
 その後09年に臓器移植法の改正議論が起きた時、日本は遅れているという論調を聞くにつけ “世界標準で起きていること”はなぜ報じられないのだろうと、疑問でした。その頃から、それまで別個の流れに見えていた「安楽死」「無益な治療」「臓器移植」の3つの議論が急速に接近し始めて、ここ2年ばかり露骨に重なりあってきた気がします。今日お話しきれない点は、『現代思想』の6月号掲載の「“ポスト・ヒポクラテス医療”が向かう先」や『アシュリー事件』の第11章、または私のブログを見て下さい。

 

1.安楽死・自殺幇助・死の自己決定権
 2007年当時、自殺幇助や本人意思による積極的安楽死を合法化していたのは、オランダ、ベルギー、米国オレゴン州の三つでした。08年~09年に合法化議論が沸騰し、米ワシントン州、ルクセンブルクへ広がりました。英国では10年2月に近親者による自殺幇助に関するガイドラインが出ました。他の国で認められているのは、一定の条件を満たした患者が所定の手続きを経た場合の医師による自殺ほう助や安楽死ですが、英国は対象も方法も決めずに、近親者が思いやりから行うなら罪に問わないと言うに等しい状況です。その後も各国で合法化に向けた法案提出や訴訟が頻発しています。

スイスの自殺ツーリズム
 自殺ツーリズムが繁盛しているスイスでは、外国人を受け入れる自殺ほう助機関 “ディグニタス”がターミナルでない人も受け入れるなど問題となっています。08年には、試合中の事故で全身マヒになって絶望した英国人の元ラクビー選手(23)を両親がスイスに連れて行って死なせました。09年には健康な夫と末期がんの妻の英国人夫婦がそろってディグニタスで自殺しています。

“先進国”のすべり坂
 いわゆる“先進国”では尊厳死法のセーフガードが機能していない実態が報告されています。また世界で最初に安楽死法を制定したオランダでは、3月から「宅配安楽死」チームが6台、保健省の認可を得て稼働、今後は「70歳以上の健康な高齢者にも自己決定で安楽死を認める法改正を」との声もあります。ベルギーでは「安楽死後臓器提供」を06年~07年に4例実施。安楽死と同時に臓器提供を自己決定するなら構わないというものです。安楽死者中20%を占める神経筋肉障害の患者の臓器は「高品質」だから「臓器プール」に、とまで言っている。それをさらに進めたものが「臓器提供安楽死」。自己決定があれば、生きている状態のまま臓器摘出をと10年の論文でサヴレスキュとウィルキンソンが提案したものです。
 当初は「ターミナルで耐え難い苦痛がある人」についての限定的な議論だったものが変質し、対象が拡大して「障害のある生は生きるに値しない」「家族や社会の負担になるよりは」と、そこにいつのまにか社会の偏見や要請が忍び込んでいるのではないかと思います。

 

2.“無益な治療”の一方的な差し控えと停止
 “無益な治療”論でも、最初は無益な治療で患者を苦しめるのは止めようという議論だったものが、いつのまにか治療の差し控えの決定権を医療側に与える正当化論に変質してきたように思います。

テキサスの“無益な治療”法
 最もラディカルなのはテキサスの“無益な治療”法。生命維持を含め“無益”と判断した治療は患者や家族の意向に関わらず一方的に停止してよいとする。ただし転院先を探す猶予として通告から10日待たなければならない。

相次ぐ家族による“無益な治療”訴訟
 ゴンザレス事件(TX)、ゴラブチャック事件(加)、ラスーリ事件(加)など北米で訴訟が相次いでいますが、表面化するのは氷山の一角でしょう。ここでも問題はいつのまにか患者の認知レベルやQOLレベルにシフトしており、コスト論も露骨になってきています。

英国では一方的なDNR(蘇生不要)指定で訴訟が起きている
 英国では、高齢者や重症障害者が入院すると本人にも家族にも無断でカルテに「蘇生不要」と書かれるケースが訴訟になっています。また機械的な高齢者の鎮静・脱水の慣行化や、医療職の知的障害者への偏見が死に繋がった例などの指摘もあり、ここでも“無益”とされているのは治療より患者では?

一方向にしか認められない死の自己決定権はそもそも自己決定なのか
 でも一方から無益な治療論による「いのちの切り捨て」が迫り来るなら、自殺ほう助や安楽死の議論で言われる「死の自己決定権」とは死ぬという一方向にしか認められない自己決定権ではないのか。生きたいと自己決定しても「QOLが低すぎて治療やコストに値しない」と拒絶されるなら、一方向でしかない。そんなものが自己決定と言えるのでしょうか。

“無益な治療”論と臓器移植医療との接近
 無益な治療論が医療現場で既成事実化すると何が起こり得るかの参考に、2つの事件を。ナヴァロ事件(CA州06年)とケイリー事件(加09年)。いずれも患者に重症障害があったために救命より臓器ドナーにすることを優先したのではと疑われる事件です。どちらの患者も人工呼吸器を外しても死ななかったのですが、ナヴァロ事件ではさらに臓器保存のための薬物が大量に投与されました。看護職の通報で逮捕された医師は「DCD(心臓死後臓器提供)という新しいプロトコル」を主張し無罪になりました。

 

3.臓器移植医療
誰もが知っているのに“ない”ことにされている事実
 一つは「臓器は売買されている」ということです。詳細はブログにありますが、世界中で腎臓が1時間に1個の割合で売買され、臓器売買のブラックマーケットは最近アジアからヨーロッパへと拡大しているとも言われます。
 もう一つは「診断は誤る」ということ。“植物状態”や“脳死”からの回復事例があれこれ報道されています。臓器摘出の前に脳死でないことが判明し、回復後に脳死宣告を聞いていたという衝撃的告白があったザック・ダンラップさん(米07年)のケースや、臓器摘出の手術台に移す際にドナーが咳こんだ “可逆的脳死”事例もあります。最近の事例ではスティーブン・ソープさん(英08年)。事故2日後に複数の医師が重鎮静のまま“脳死”を診断したが、家族に依頼された脳外科医が意識を確認し、その後ほぼ完全回復しています。もっとお粗末なのがエミリー・ゴッシオさん(米11年)のケース。もともと耳が聞こえないエミリーさんは事故で目も見えなくなった。呼びかけに反応しないし瞳孔も反応しないからリハビリ対象外と診断された。でも婚約者が“I love you”と掌に書いたら“Ilove you,too”と答えて意識があると分かった。メディアはこういう事例を「奇跡の回復」と報じますが、単にアセスメントが杜撰だっただけではないでしょうか。    
 脳スキャンで「植物状態の人とコミュニケーションを図る」研究をしているオーウェン教授(ケンブリッジ)は、「植物状態」の5例に2例は誤診ではないかとも言っています。

一方で 進む“臓器不足”解消策
 オプト・アウト制度(「提供しません」という手のあげ方)が提案され、様々なインセンティブを高めようという提案も行われています。例えばイスラエルではドナーカード保持者の移植優先権(09年)が、アメリカでは「腎臓のペアー交換」(10年)が行われている。「提供に結び付けばドナーの葬式代を国で持つ」(英)とかドナー家族とレシピエントを対面させた祝福セレモニー(NY11年)なども。つい最近フェイスブックは臓器提供意志の記述欄を創設(12年)しました。正式なドナー登録サイトへのリンクが貼られていて、最初の1週間でFBを通じて6000人が登録したということです。

いのちの線引きを動かそうという議論も
 デッド・ドナー・ルール(亡くなった人からの臓器提供)の撤廃提言は前からありました。「脳死概念は医学的に誤り」で今でも生きている人から摘出しているのだから、もっと前の段階から臓器を取れるようにルールを変更しようというのです。しかし、わざわざ撤廃しなくても死の定義を操作すれば線引きは動かせると思わせられるのが、UNOS(全米臓器配分機関)からのDCDを”循環死後提供”と言い変えよう、との提案です。脳死を引き起こすのは血流停止、だから死の宣告は必ずしも心停止を待たなくてもいい、心停止から2~5分待っての摘出ルールはやめて、担当医の判断に任せようというのです。
 一方、英国医師会は「選択的人工呼吸(EV)」を提言しています。本来なら“無益な治療”論の適用ケースでも臓器確保の為の人工呼吸器を認めようというのですが、臓器提供安楽死を提案しているウィルキンソンは、さらにそれを義務づけようと言っています。「多数が臓器提供を望んでいることを前提に考えれば、EVが民主的な解決」「EVで自己決定権を侵害される患者は、意に反した人工呼吸をされるが、十分な鎮静と鎮痛が行われるのだし、大した期間でもないのだから、それによって失うものはない」というのですが、私が抵抗を感じるのは下線の部分。これは“無益な治療”論で人工呼吸を外される患者サイドがそれに抗うために言ってきたことです。それを“無益な治療”論で否定してきた人たちが、今度は臓器のために人工呼吸器をつけさせろと言っている。そこに違和感を覚えます。これでは「死の自己決定権」概念だけでなく「無益性」概念も崩壊しているではないか、と思います。
  “世界標準の国”で何が起きているのか、それらの国がどこに向かっていこうとしているのか、私たちにはまだまだ知らなければいけないことがあるのではないでしょうか。

 

<質疑応答・意見交換>
〔市民ネットワークから〕本講座直前に行われた6歳未満の小児からの脳死下臓器移植に対して声明文を出すことを提案し、参加者の意見を募りました。その内容も含め、以下にまとめました。                                                            

■脳死が本当に死なのかどうかという疑問もコミットできる場が開かれていなければならないのでは。まずいのは、一般の人が脳死を遠いところでしか想像できず、「医者が脳死と言ったから死だ」と短絡的に判断し、「どうせ腐っていく臓器ならだれかにお役に立てた方がいい」という考えが成り立っていることだと思います。そこの繋がりはものすごく脆弱で、本当は考えなければいけないはずなのに、そこまでのカルチャーが出来ていないことが問題だと思います。

■お話を聞きながら、時代が逆行していると感じました。私は、尊厳死という名の下に、かつてのナチス・ドイツがやった安楽死と同じことがくり返されるのではないかと感じます。1920年に「生きるに値しない命の抹殺の解除」という小さな本が出て、それが安楽死へ向かうきっかけにもなっています。ドイツで(安楽死が)行われた最初の死者は精神障害者であり、障害をもった子供たちでした。それが広がって、ユダヤ人虐殺の方向へ向かっていった。臓器移植、脳死、尊厳死を考えると、今はそうした時代と何ら変わっていない。むしろ巧みな形で進行しているのではと思います。

<児玉> 確かに時代が回帰しているし、それも科学とテクノロジーの発達を通じて螺旋状に戻ってきているように感じます。そこにグローバル経済のあり方が関わって、消費者の欲望がほぼ満たされてしまったこの世界で、マーケットを創出して経済を動かしていくカラクリが出来ているのではと。今の科学とテクノロジーが追い求める「フローフシ」が、かつてのゼネコンの「カイハツ」に当たるのではないかと私は思っているのですが、科学とテクノロジーで「フローフシ」の夢が描かれることがマーケットを創出し、弱者を食い物にして金持ちだけが潤っていくカラクリと何層にも絡み合い、そこで生き残るために国家が自国民を見殺しにするしかないような、とても酷薄な経済の状況が出来てしまっている。その中で、いのちの切り捨てが医療現場に迫られている。そういう世界像みたいなものを描いています。〔・・・〕また、先ほどの方が言われた「医者が脳死と言ったから死だ」という受け止めについてですが、私は重症障害のある子どもの親となって25年医療とつきあってきますと、風邪と腹痛くらいでしか医療と付き合ったことのない人と話をすると、絶望的なギャップに悶絶してしまう。医療に対して経験値の低い人が、無垢に信じている。そこをどうやって越えたらいいのか。その悶絶をいかに越えていくかだと、改めて感じました。

■看護職をしています。私自身、脳死は認めたくないし、個人的には移植もしたくないと考えています。臓器移植が行われる時には、生きたままの温かい身体の人が、手術室に行って帰ってきたら死体になっているということのリアリティが、私にはよく分かります。なのに、よく知らない人が頭だけで臓器移植や脳死について議論している日本の現状をすごく不安に思い、そういったことがどうなっているのか知りたくて来ました。私はこの声明文に全部賛同することができません。なぜなら、ここにいらっしゃる人達は、心から臓器移植を待っている人と出会ったことがあるでしょうか。また、臓器を提供して、わが親、わが子、わが友の命を繋いだということに価値を見出し今日の命を生きていこうとする人達と出会ったことがあるでしょうか。私は、今回のことが「美談」として報道されることには反対しています。しかし、命を繋ぐことに価値を認め、それを本気で推進しようとしている人達がいることにも目を向ける必要があると思うんです。また、コーディネーターをしている人達は、決して移植医療を推進するために働いてはいません。移植医療で「No」という状況を作るためにこそ頑張っている人もいるということを知っていただきたい。それでも、児玉さんがご指摘のように、この世界経済のしくみの中で、無理無理に〔移植医療が〕推進されていく現状があることは全く異論はありません。けれど、それを大事だと思っている人の価値観を知ろうとすることなく(反対運動を)やるのは間違っていると思います。〔・・・〕例えばこの6歳の男の子のお父さんとお母さんに、低酸素脳症でも貴い命を生きている人がいることを話したナースやドクターはいたのかと聞くべきであって、(この文案に書かれているように)美談とすり替えて「冒�必です」まで言ったら、このお父さんとお母さん死んじゃうだろうって思っちゃって。一生懸命決断した人もリスペクトしてほしいと言いたかったのです。
   (文案については会場から提案があり、質問をされた方も「それで結構です」と了解された)

<児玉> それぞれが見ているリアリティの違いということで言えば、私は例えば生命倫理で言われているパーソン論を思うのですが、典型はピーター・シンガーという方ですけれども〔註〕。私はこの人、「実際の重症障害のある人を見たことねぇだろ」って思うわけです。障害がある生は生きるに値しないとか、重症障害を負ってまで生きていたくないみたいなことを言う人がどんどん増えていく一方には、やはり、重症障害を負いつつ生きている人たちの姿が、そこに全く存在しないということがあると思うのです。それから、そんなふうに見ているリアリティが違う時に、地位のある人間が言うことの方が受け止められていく構図がある。地位のない方が見て知っている現実をいかに伝えればいいのか。見ているリアリティの違いを超えるにはどうしたらいいのか。ずっと考えているんですけど、このことは、色んな立場の人が多分今感じているんじゃないでしょうか。

■自分の娘が低酸素脳症からほぼ脳死に近い状態になりまして、自宅で過ごしていて今5歳です。私は脳死を死だと思っていませんし、脳死下の臓器提供にも反対です。今の世の中の流れが加速していけば、娘にも、「あなたの娘はそんな状態なんだから提供しないの」との圧力が来るかもしれないという危惧もあります。ただ、さっきの看護師さんのお話が、私には心の中にすっと入ってきました。これは多少矛盾するのかもしれないですが、脳死のことを勉強して反対すればするほど、その片側で、臓器が必要だと言われている子どもたちがどうしても頭に浮かんでしまうんですね。でも、気持ちは分かっても脳死下の臓器移植は反対です。反対ですがそこに思いを馳せるという感じは忘れたくないと思います。

■臓器移植が是か非かは個人的な見解に過ぎないと思います。脳死での臓器移植に基本的には反対ですが、自分の子どもがレシピエントの立場なら、やっぱり臓器をもらいたいと考えるかもしれません。もし私が脳死状態になって、息子や娘が臓器移植で助かる病気なら、私の臓器を使ってという心が出てくるのではないかと思います。臓器移植の意志表示はしませんが複雑な気持ちです。

<川見>〔脳死・臓器移植について〕それぞれに考え方があるでしょう。改定法が可決される場面で、臓器移植を推進する人たちは、この法律は臓器を提供する権利・提供しない権利、移植を受ける権利・受けない権利の4つの権利がありその全てを保証するものだから、〔この法律を〕通してほしいと主張をしました。しかし、最初の臓器移植法制定の時は「提供したい人の自己決定権を認めろ」でした。今回は本人の意思がなくてもいい、家族の承諾だけで提供できると変わったわけです。4つの権利と言いながら、臓器不足を解消するための奇弁でしかない。臓器摘出の対象者を拡大していくために法律を変え、流れが作られていることを見すえながら、私たちは考えて行動していかなくてはならないと思っています。〔声明文案について〕今回我が子の臓器を提供されたご両親を批判しているのではなく、「誰かの体の中で生きる」と、いのちを捧げる行為を美談として讃えようという捉え方を「いのちの冒涜」と表現したことを御理解下さい。

 その他、沢山のご意見を交えた重要な議論となりました。ありがとうございました。

〔註〕
▼パーソン論とシンガー
 「パーソン(人格)とは何か、パーソンに含まれているのは何か」という問題をめぐって行われている一連の議論。哲学者トゥーリーによれば、自らの経験と心的状態が持続的に存在するものとして自己認識できる者のみが「パーソン」であるという論理から、胎児や新生児には生存する権利がないとされる。(『生命倫理辞典』2010より) シンガーは、この考え方を踏襲し、「余命いくばくもないほどの高齢や回復不可能な脳障害の人々」の「生命の不可侵性」を疑わざるをえないと主張している。(シンガー『人命の脱神聖化』晃洋書房、2007より)
▼この市民講座で採択した「声明」は2012年6月18日小宮山洋子厚生労働大臣に送りました。
 「声明」については当会ブログにアップしています。http://blog.goo.ne.jp/abdnet/e/71fa6f16f6fe06bb49dcb2d009c3c99f
▼児玉真美さんのブログ『アシュリー事件から生命倫理を考える』http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara

(要約・まとめ 天野陽子・川見公子)

 


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「脳死」を比喩として用いることへの憂慮

2012-07-09 20:32:18 | 声明・要望・質問・申し入れ

2012年7月9日
臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」を比喩として用いることへの憂慮


 7月3日のMNS産経ニュースは、“自民党の石原伸晃幹事長は3日の記者会見で、民主党分裂の影響で消費税増税関連法案などの国会審議が停滞している現状について「本来なら民主党が『特別委員会をいつまでにつくります』というのがあって然るべきだが、脳死ですね」と述べた。直後に「ちょっと言葉は悪いが…」と釈明し、「全く機能不全。ひどすぎる」と言い直した”と、報道しました。この石原発言は氷山の一角で、医学や医療に関わりがない事柄に「脳死」と表現した発言は、何度も繰り返されてきました。
 私たち<臓器移植法を問い直す市民ネットワーク>は、重篤な脳機能不全で長期昏睡状態にある患者を、人の死と結びつけて「脳死」と呼ぶことは不適切と考えています。まして、医学・医療に関わりのない事柄の比喩として、「脳死」と表現するのはさらに不適切です。
 「脳の回復は難しい」と診断され病院で闘病中の患者、あるいは状態が安定して自宅に戻り家族と共に暮らす患者は、医療機関や訪問看護等の支援を受けながら日常を送っています。マイナスイメージの代表のように使用される「脳死発言」は、脳機能不全状態(「脳死に近い」とされるなど)の患者の人権・人格を無視するものであり、強く抗議するとともに、今後このような比喩表現を用いないよう要望します。

 脳死判定基準を満たした患者の心停止までの期間は長くなる一方です。1970年代には1週間程度と言われましたが、だんだん長く生存可能となり、月単位、年単位、中には10年以上生存した方もいます。また、脳死判定されても、のちに自発呼吸や脳波がもどった方、臓器ドナーとされながらあやうく臓器摘出を免れ、回復後に脳死宣告が聞こえていたと証言した人(2007年のザック・ダンラップ事件)もいます。臓器摘出時に、筋弛緩剤と麻酔薬が投与されることが一般的ですが、そのことを臓器提供後に知ったドナーファミリーには「生身だった、かわいそうなことをした、むごいことをした」と後悔された方もいます。
 これらの情報は、医学・医療における脳死判定基準を満たした患者の実態が、脳の働きが通常とは異なるけれども心停止に至るとは限らない、社会復帰できる軽症な人も含まれていることを示しています。
 用語としても、「死」と表現できる状態は、全身の血液循環が停止して全身が腐敗に向かうことが確実になった状態です。死体扱いをして埋葬などが可能な段階は、さらに24時間以上経過後と考えます。従って、脳死判定基準を満たしても確実に死に至る状態ではないし、ましてや死体ではありません。私達は、脳の働きが万全ではないという意味で「脳不全」と表現することが適切と考えています。
 これまでの医学・医療の歴史においてハンセン病、癌、エイズなど、いくつもの病気ないし症状が、当初は致死的または伝染力が強いとされながら、その後にコントロール可能な状態に変わりました。また、今回の「脳死」表現と同様に、「○○は社会の癌だ」のように暗喩として差別的に用いられた過去があります。その間、患者本人は社会的な差別に苦しみ、精神的に追い詰められ、甚だしく人権が無視される実態がありました。癌やハンセン病、エイズ患者に押し付けた過ちを、私達は繰り返してはなりません。
 医学・医療に関わりのない事柄のマイナスイメージとして「脳死」表現を用いることは、「脳死」概念の誤った認識を社会全般に拡大し固定化することにつながり、立場の弱い人々の生をさらに生きにくくして、差別や偏見を助長すると考えます。私達はそれらを深く憂慮し、声明します。

*なお、石原伸晃議員事務所へは、“「脳死」を比喩とした発言への抗議と要望”を7月5日に届けました。


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