臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第18回市民講座講演録(2023年5月14日) 2-1  <命は誰のものか ――ACPをめぐって> 

2023-08-11 13:25:09 | 集会・学習会の報告

臓器移植法を問い直す市民ネットワーク 第18回市民講座講演録 2-1

< 命は誰のものか       

      ――ACPをめぐって >

講演 香川知晶さん(山梨大学名誉教授/日本生命倫理学会代表理事)


日時:2023年5月14日(日)午後2時~4時45分
会場:カメリアプラザ(亀戸文化センター)第2研修室
会場とオンラインを併用

 


■講師・香川知晶さんのプロフィール
 1951年、北海道生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。1995年、山梨大学助教授、2002年山梨大学医学部教授を経て、現在は山梨大学名誉教授・同大学院医学研究員、日本学術会議連携会員、日本生命倫理学会代表理事。専門はフランス哲学・生命倫理学。
 最近の著訳書としては『命は誰のものか 改訂増補版』(単著、2021、ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『 人のゲノム編集をめぐる倫理規範の構築を目指して』(共編著、2022、知泉書館)、アドリアン・バイエ『デカルトの生涯 校訂完訳版』上下2巻(共訳書、2022、工作舎)、『「人間の尊厳」とは―コロナ危機を経て―』(共著、2023、日本学術協力財団)、『コロナ・トリアージ 資料と解説』(共著、2023、知泉書館)など。

 


■講演概要
 Covid-19によるパンデミックは医療をめぐる社会的差別を一挙に顕在化させることになりました。 その差別は以前から根強くあったもので、高齢者や障害者は命を助けられなくても「仕方がない」という空気を醸し出しています。 パンデミックの初期に活発に議論されたトリアージをめぐる議論を見ても、そのことは分ります。 現在、この「仕方がない」という空気は「お金がない」という経済的な理由とともに、患者本人の意思を根拠とする体裁をとって肯定され、抗いがたい力をもって人々を支配しているように見えます。
 その点は「人生会議」という日本版ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の展開にも見て取れます。
  ここでは、映画「PLAN75」(早川千絵監督)のデストピア的な近未来がリアリティをもつような、そうした日本の現状を改めて考えてみようと思います。

 

 

命は誰のものか?
――ACP(Advance Care Planning)をめぐって

講演 香川知晶さん

 ご紹介いただいた香川知晶です。もともとはフランス哲学を専門にし、生命倫理学、応用倫理学、脳神経倫理学などもやっています。ご紹介いただいた拙著『命は誰のものか』は、生命倫理全般の、どういう問題があるかについて書いています。最近出した共著に『人間の尊厳とは』があります。日本学術会議叢書でだしていますが、多くの方が力作を寄せている良い本だと思います。関心のある方はぜひお読み下さい。


本日のお話  
1) ACPの定義(2018年)と生命倫理  
2) 物語(ナラティブ)とパラレルワールド
3) 社会政策の中のACP
  終末期から人生の最終段階へ:社会保障制度改革推進法、病院から地域(介護施設・家庭)へ
4)ACPの問題:他人を殴る棒として緊縮・財政均衡主義、強いられる自己決定
5)専門家による〈ACPは役に立たない〉という指摘
6)別の視点としてのSDH(Social Determinants of Health)
  ACP症候群・自己という病への対抗策(?)  

 

 本日の話の内容についてですが、本日は、ACPについて取り上げます。昔は外来語はカタカナ書きで表記されることが多かったですね。例えばインフォームド・コンセント(IC)、「納得と同意」と訳されますが、これは国語審議会でも悪い例としてあげられています。最近はカタカナではなくアルファベットで表記されています。例えばSDGsとか。何じゃろなというものがいっぱい出てきています。Advance Care Planningの頭文字を取ったACPもそのひとつです。
 今、医療現場は熱心すぎるほどにACPを何とかしようとなっています。しかし、ACPだけに傾きすぎているのは問題ではないのか?何となく感じる居心地の悪さはどこから来るのか?本日はそのあたりのことをお話しできたらと思います。
 ACPの定義が最初に出されたのは2018年でした。そのあたりから制度的にも取り入れる流れが強くなっている。そしてその定義は生命倫理の立場から言うと合致するのではないかと思われるかもしれませんが、良いものだと言えるのだろうか?また最近、いろんな解釈も出されていますが、取り落とされている問題があるのではないかということについてお話しします。
 パラレルワールドというのは、高齢者や障害者が抜けているのではないか、後で詳しくお話ししますが、児玉真美さんは障害者は同じ社会に生きているはずなのにパラレルワールドに捨てられているのではないかと言われています。
 また、ACPは患者さん本人の意思決定を重視しましょうというのが前面に出ていますが、その背景には医療政策との密接な関係があると思われます。その点を日本でACPが言われるようになった経過を追う形でお話しします。特に2012年の社会保障制度改革推進法の影響が強く、そこで出されている路線に基づいて医療や介護の改革が為されています。この流れの中にACPがぴったり収まるのです。そこには特定の医療経済的観点が強く働いていますが、それは賛成できない。ACPにはどこか日本の社会を居心地悪くするような要素が含まれていて、それが本人が決めたことだから、自己決定だからよいのだという形で強いられているのではないかといったことについてお話しします。
 さらに、ACPの医療の専門家の中にACPは役に立たないという人が出てきています。役に立たないというエビデンスが出てきていると。内部的にも怪しいといわれているのです。医療の専門家で、一生懸命やっている人達にとってはACPはダメだと言うだけでは納得いかないだろうと思います。しかし、別の視点を入れていく必要はあるだろうと思います。そこで、SDH(Social Determinants of Health、健康の社会的要因)が別の視点になるのかもしれないというお話をしたいと思います。

 


1)ACP(Advance Care Planning)の定義
 まずはACPの定義からお話しします。2018年3月に厚労省が発表した「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン 解説編」には、ACPとは「人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセス」と書かれています。これが今までのところ公式な日本版ACPの定義です。つまり、人生の最終段階の医療・ケアについて話し合うプロセスで、基本は本人による意思決定だが、家族と医療チームが話し合いに加わるというものです。
 
◇ACPと生命倫理―バイオエシックス、木村利人氏の回想
 本人の意思を重視するということだけを取り上げると、良いことのように見えます。
 生命倫理学者の木村利人さんは1970年代末、日本に初めてバイオエシックスを導入した人です。木村さんは、学者であると共にクリスチャンで運動家でもあります。『しあわせなら手をたたこう』、誰でも知っている歌ですが、この歌を作詞した人です。現在89歳、今は船で世界一周をやっている元気な方です。航海中に講演もプログラムされているそうです。
 元々は法学者ですが、お父様が亡くなるときの医療に疑問を持ったことから生命倫理を研究するようになったといいます。 「患者中心の医療」が生命倫理の目標とされますが、それをキャッチフレーズ的に「自分のことは自分で決める」事を強調されます。
 しかしこうした主張は「素人は口を出すな」という当時の医療の専門家、医学界からは拒絶反応にあったと、木村さんは回想されています。例えば武見太郎(日本医師会会長で政治的にも大きな影響力をもっていた)には、医者ではない人間が入ってきたと「素人のくせに」と露骨に嫌がられたようです。これに対して、木村さんは、医療を受けている患者は人間であって、医療者は医療の専門家であるにしても、「人間(患者)に対しては素人」だと切り返します。医療者に決められるのではなく人間である患者が「自分のことは自分で決める」、これがバイオエシックスの根本だと木村さんは言います。そして、そのことを繰り返し主張し続ける重要性を強調されています。
 ACPの基本原則が「患者本人の意思が中心」だとすると、ACPは生命倫理の目標に合致しているように見えます。木村さんは本人がどう思っているのかが重要だと強調します。本人が言っていることが、肯定できないように見える場合であっても変わらないとして、「ダックス・コワート」の事例を取り上げています。この人は事故でやけどを負い、治療を拒否したのですが、結局、救命され、顔に大きなやけど跡が残りましたが、命を取り留めました。しかし、私は助けられたが救命されなかった方がよかったと言い続けたそうです。この事例に関して、評価は難しいと思いますが、木村さんは患者の言うようにすべきだったと言っています。こうした患者の意思を重視するという生命倫理の基本倫理はACPのプロセスに重なっていると見えます。

 


2)物語(ナラティブ)とパラレルワールド
 日本尊厳死協会主催の「完全に立ち直る力」というタイトルの研究会に登壇者として招かれた松田純氏がACPについて発言しています。そこで言っていることは、医療は感染症から生活習慣病へ大きく変わったと。その中で医療自体の目的も変わった。“完全に良好であること”というWHOの健康の定義では、医療は健康を取り戻すという『治す医療』となり、治せない医療は無益とされてしまう。そうすると治療を辞めましょうという話になり尊厳死や安楽死に繋がると。この健康観はダメで、この健康観は尊厳死や安楽死に直結すると言います。この松田さんの指摘は正しいと思います。
 また、松田さんは、「医療は今や『治す医療』から生活支援と治療をめざす『治し支える医療』へ、医学モデルから生活モデルへと転換した」ことも指摘し、こうした医療の大転換は初めて起こったと言います。そして彼は、ACPの解釈として「本人らしい生き方を支えるのが医療や介護の目標になり、病と共に生きる力―絶望から生き直す力を再発見して再構築していく過程がACPである」との解釈を示しています。ACPとは、生きる自分の物語(ナラティブ)を新たに書き直し、生き直す力(レジリエンス)を回復する過程だという解釈です。現状は、本人の意思を書面に書く、それがACPになっていることに対しては、松田さんもそれはおかしい、単なる紙の問題にしてはならないと言います。この主張は魅力的な解釈で傾聴に値すると思います。
 しかし、幾つか疑問点もあります。まず、治す医療モデルから治し支える医療モデルへの転換が初めて起きたようにいうけれど、これは80年代から言われてきたことです。急に医療が今、転換したわけではありません。80年代に成人病(生活習慣病)が言われるようになり、感染症モデルから成人病モデルへの転換は起きていました。多くの本も出ています。例えば、患者の行動パターンが治療中心の入院社会復帰型から一定の病気を抱えながら社会の中で生きていく障害者型への変化が起こっているといった指摘です。松田さんの解釈で、「ACPを単なる紙の問題にしてはならない」「生き直す力を獲得していく回復する過程」というのは、深い洞察を含んだ魅力的な解釈ではあると思います。私の若い友人によると、「レジリエンスはしなやかに乗り越える力、ACPはうまく諦める、ないしうまく諦めさせる力」だというのですが、ナラティブ・レジリエンスといった流行の言葉によるACP解釈は、現実を覆い隠す美しい物語になってしまう恐れがあるのではないか、と思います。

 

 実際にその内実を見ると、違った角度からも問題が指摘できるのではないかと思います。障害のあるお子さんを持つ児玉真美さんは、日本学術会議叢書『人間の尊厳とはーコロナ危機を経てー』(共著/2023/日本学術協力財団)の中で、コロナ禍の下で、ケアラー家族として見えたのは、高齢者や障害者は同じ社会に生きているはずなのに別枠におかれた状況だったということを書いておられます。

 「在宅で暮らす医療ケア児は2020年の推計で約2万人いた。コロナ禍の中で、『医療や介護の専門職の苦境は連日のようにTVに取り上げられて感謝が呼びかけられたが、その関心が在宅で介護を担う家族に向くことはなかった』し、『パンデミックの間に、メディアで障害のある人が話題になることは目に見えて減り、社会は障害のある人への関心を失ってしまったように見える」
「日本では未だ医療崩壊が起こってもいない段階から海外の医療崩壊で高齢の感染者が治療を受けられない事態が連日報道されては『こんな時だから高齢者は医療受けられないのも仕方がない』という空気が醸し出された。『まして障害者は』という暗黙の合意が感じられた。」
「障害者や高齢者は、同じ社会に生きているはずなのに、じつはパラレルワールドに遺棄されてしまった人々。」
「医療現場でも、『医学的無益性』を理由として、障害者は排除される『迷惑な患者』と扱われている。」

 児玉さんは、障害者や高齢者が差別的に扱われ、コロナ禍ではパラレルワールドに遺棄されていたようだったことを語っています。しかし、それはコロナ禍という非常事態に限った話ではありません。児玉さんは、障害者とその家族、さらには高齢者はもともとパラレルワールドに遺棄されていたことがコロナ禍で表面化したに過ぎないことを鋭く指摘しています。そうしたパラレルワールド化している社会の中で、ACPはどのような役割を果たしているのか、考えてみる必要があります。それはACPにある種の違和感を感じる理由を探ることでもあります。

 


3)社会政策の中のACP

◇尊厳死とACP
 ACPが語られる背景に日本の場合は尊厳死の議論があります。尊厳死とACPは結びついている、それが違和感の大きな理由の一つです。
 尊厳死という言葉は日本では1970年代半ばから使われるようになりました。2006年に射水市民病院事件がおこりました。これは、7人の終末期患者の人工呼吸器を外した外科部長が殺人罪で書類送検され社会問題になった事件です(医師は嫌疑不十分で不起訴)。家族の同意はとっていたが、本人の同意は1名を除き取っていなかった、しかも外科部長ひとりの判断で行った、というものでした。射水市というのは平成の大合併で作られた富山県の市で、公的施設が統廃合され、市民病院は経営の効率化が求められていました。そうした経営の見直しの一環で、ある科の病棟が満床の場合には、他の科の病棟の空きベッドを利用することが始められていました。救急で外科に運ばれてきた患者が外科病棟が満床だったために、空きベッドのあった内科病棟を使うことになります。診ていたのは外科部長の医師で、医師は患者がもう助けられない状態なので、家族の同意を得て、装着していた人工呼吸器を外すようにという指示を出します。しかし、患者を担当していたのは内科病棟の看護師たちで、外科部長の指示に対して内科に入院している同じ病状の患者にはそんなことはしないのにと疑問を抱き、病院長に知らせた結果、人工呼吸器の撤去がストップになります。それがきっかけとなってそれ以前の人工呼吸器撤去が判明したわけです。医者は起訴されますが、結果的には不起訴になりました。その理由は遺族は「良い医者」だと追及はしなかったということです。医者の家族への説明では患者の状態は脳死に近いという説明がされて人工呼吸器を外した場合もあったことが分かっています。
 日本では、それまでに安楽死についての裁判はありましたが、治療停止が直接問題となった裁判はなかったといってよいと思います。それが、この事件をきっかけに終末期医療が改めて焦点になっていきました。その議論の過程で、尊厳死法案も取り沙汰されましたが立ち消えになったりしています。
 射水市民病院事件以降、ACPに関係する出来事を年代順に並べると、次のようになります。
2007年に 厚労省の「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」ができ、
2012年に 「社会保障制度改革推進法」ができる。この法律の方向を受けて、
2015年に 「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」と“終末期”が“人生の最終段階”と置き換えられ、
2018年に 「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」へ
と続きました。このような一連の流れの中で2018年にACPが言われることになったわけです。2018年のガイドラインでは出発点の2007年のガイドラインがもっぱら終末期医療を対象としていたのに対して、対象が医療と介護と拡張され、ACPがかかわるのが医療とケアの決定プロセスとなりました。また、「終末期」ではなく「人生の最終段階」という言い方が使われるようになっています。問題は人の生き方を尊重することにあって、生きる観点から最終段階の医療を見直すというのですね。中身として、本人の人生の意志の尊重、家族も加わって医療・ケアチームとともに、医療・ケアの提供体制を決める、というものです。

 

◇ACPの出発点は「社会保障制度改革推進法」
 最初の2007年のガイドラインが、8年後の2015年になって改訂されることになったのは、2012年に成立した「社会保障制度改革推進法」が関係しています。この法律は「安定した財源を確保しつつ受益と負担の均衡がとれた持続可能な社会保障制度の確立を図るために、社会保障制度改革について、その基本的な考え方その他の基本となる事項」を定めようとするものです。法律の特色として「受益と負担の均衡」、財政均衡主義を打ち出すわけです。その背景には、少子化、生産年齢人口の減少による社会保険料の国民負担の増大、社会保障費増大による国・地方公共団体の財政状況の悪化があるとされました。この法律のロードマップでは、法制定後に「社会保障制度改革国民会議」を設置し、社会保障制度改革を国民一体となって推進することになっています。

 

◇改革の枠組みは「自助、共助、公助」
その改革の枠組みは「自助、共助、公助」です。「社会保障制度改革推進法」には、社会保障制度改革は「自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意」しながら、「年金、医療及び介護においては、社会保険制度を基本とし」つつ、費用については「あらゆる世代が広く公平に分かち合う」と書かれています。見直しの対象は公的年金制度、医療保険制度、介護保険制度、少子化対策、生活保護の見直しと例外なく全てを見直すとされています。
 この法律によって医療分野における新自由主義的改革路線が設定されたと言えます。民主党の野田政権下でできた法律ですが、法律ができてすぐに成立する安倍政権が推進することになります。「自助・共助、公助」は、1980年代に地方議会の議事録にも登場していますが、そのときは「公助、互助、自助」であり、順番が違うわけです。2000年代後半に厚生白書にも登場し、2012年の「社会保障制度改革推進法」になる。もともとは災害時の問題として出ていた考え方とみることが出来ます。実際、法律に「自助・共助、公助」という言葉が次に出てくるのは、「社会保障制度改革推進法」が成立した翌年の2013年成立の「強くしなやかな国民生活の実現を図るための防災・減災等に資する国土強靭化基本法」になります。つまり、元々は自然災害のような非常事態に対応するための考え方が、通常の平時にも改革を進める道具となる概念として利用されることになったのです。「社会保障制度改革法」はナオミ・クラインに倣って言えば、日本版ショック・ドクトリンであり、惨事便乗型資本主義の法律なのです。それが2020年の管政権の所信表明演説にも繋がっています。その所信表明演説で、首相は「私が目指す社会像は自助、共助、公助、そして絆です。自分でできることは、まず、自分でやってみる。そして、家族、地域で互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りする。そうした国民から信頼される政府を目指します。」と述べたわけです。政府が出てくるのは一番最後なのです。そうすると児玉さんが指摘するように、障害者は結局は家族・地域に投げられ、家族に殺させるシステムになっているということにもなる。

 

◇「推進法」と「人生の最終段階」
「社会保障制度改革推進法」の目的は「医療・ケアにおける『自助、共助及び公助』のより適切な配置による『人生の最終段階を穏やかに過ごすことができる環境』の整備」とされています。これを受ける形で2015年のガイドラインから2018年のガイドラインへという政策の流れの中でACPが登場したということを確認しておく必要があると思います。
  つまりはACPはお金の心配(緊縮・財政均衡主義)と共に登場したものであるということです。島薗進さんがツイッターの中で「2010年代半ばの段階で、日本の税・社会保障は、なるべく公助に頼らない仕組みでありながら、高所得者を優遇するという、類例のないグロテスクなものだった」と言っていたのですが、これは正当な指摘だと思います。グロテスクな中に人生の最終段階もおかれているということも考えておかなければいけないと思います。

 

◇2018年のガイドライン
 射水市民病院事件で指摘された問題点を踏まえた2007年の「終末期における決定プロセスに関するガイドライン」は終末期における「治療の開始・不開始及び中止等の医療のあり方(消極的安楽死 ・治療停止・日本でいう尊厳死)を対象として出されました。その原則は患者本人の意思を尊重し、治療を中止する場合も主治医一人では決めず医療チームで決める、あるいは第三者の委員会に助言を仰ぎ方針を決定するというものです。
 2018年のガイドラインはこの基本枠組みを継承しています。その上で、枠組みを医療だけでなく介護にも拡張し、病院完結型から地域完結型へという方向をだしました。
 強調されていることは「話し合い」です。それにACPという新しい名前が付けられ、近年諸外国で普及しつつあるから取り入れようとされたのです。皆で話し合う、SDM(共同意思決定)とも言われます。

 

◇「病院完結型」から「地域完結型」への医療転換
 さらに、ACPの背景には、〈「病院完結型」から「地域完結型」への医療転換〉〈地域包括ケアシステムの構築〉という厚労省が進める医療政策の転換があります。病院が担ってきた役割を削り地域に、医療から介護への転換が進んでいます。
 病院で死にたいという人より、できれば自宅で死にたいという人も多いので、また少産多死の時代なので、全部病院で死ぬのは大丈夫なの?という声もあり、地域へという流れ自体は歓迎することなのかもしれません。厚労省のこうした医療政策の流れの中でACPがぴったり収まっている訳です。
 厚労省は、療養型病床の全廃(2024年3月)を掲げ、2014年の診療報酬改定では事実上3ヶ月を超える長期入院は不可能になり、2018年にはACPを算定要件とする診療報酬の改定を行い、医療・介護の経費削減促進のためにACPの普及を強力に推進しているのです。コロナで医療崩壊に至らなかったのは病床削減が進んでいなかったからという指摘もあるのに、厚労省はコロナ禍の下でもやはり病床削減を進めています。
 こうした緊縮財政の中で本人の意思を問う形になっている訳です。それがどういう意味を持っているのか。


◇愛称「人生会議」
 ACPを普及させるために厚労省は愛称を公募し「人生会議」という愛称を決めました。私と同年配の友人が、「俺の人生を会議で決めるのか!」と怒っていましたが、「人生会議の日」というのまで、決められています。11月30日です。なぜかというと、「いい看取り、いい看取られ」だというのです。その記念日にあわせた「“もしものとき”のための話し合い」という「人生会議」のポスターが作成されましたが、障害者団体や患者団体の反対を受けて配布が中止になるということもありました。しかし、厚労省はそれでも診療報酬にACPを組み込むように改訂し、ACPを推進しようとしてきています。

 


4)日本版ACPの問題点

①日本版ACPは終末期の医療やケアの選択にゆがめられていないか
 ACPは本来その人の人生観・価値観といったものを理解するということを目標とするものです。ACP発祥の地、イギリスでは、話し合いの対象は必ずしも「人生の最終段階の医療・ケア」に限定されず、一般的な生活や人生について話してみるというところにあります。しかし日本版ACP「人生会議」は、「人工呼吸器どうしますか?」などと、もっぱら終末期の医療やケアの特定の治療選択だけが話題にされるのは明らかに行き過ぎです。お金の問題が見え隠れしているといわざるを得ない。しかも「終末期」ではなく「人生の最終段階」と場面が拡大されていることは問題です。人生観からその人の考え方を知っておけば医療に役立つかもしれないと始まったはずのものなのにです。
 例えば公立福生病院事件。さらに、CKM(Conservative Kidney Management、保存的腎臓療法)と呼ばれるもの、またアルファベットだけの略語です。これは透析をしなければ亡くなるとはいっても、終末期にあるとは言えない患者に対する選択肢の一つとされて、近年急に言われるようになっているものです。療法とはいっても辛い腎透析療法はせずに、穏やかに過ごしてもらうというもので、当然死期は早まると考えられます。これもACPをして、選択できるというわけです。ACPは特定の医療行為をするかしないかを聞くという形になっている。しかも人生の最終段階とはいっても死が眼前に迫っているとは言えない場合も含まれている。福生事件の場合も、透析を続ければあと4年は生きられたとされる段階で、本人の意思だからということで透析が中止されています。その段階で本人の意思だからと中止した。それは医療の中の出来事としては行き過ぎではないか。そうした行き過ぎの背景には上に見た「社会保障制度改革推進法」にある財政均衡主義の影がさしているように思えてなりません。


②緊縮、他者を殴る棒
 緊縮財政は他人を殴る棒になっている、こう言ったのは岸政彦さんです。小説家でもある社会学者ですが、意思決定をめぐる現在の環境は経済的理由の圧力をまともに受けている事を以下のように言っています。
 「緊縮というものは、あるいは財政均衡主義というものは、『他者を殴る棒』でしかないのかもしれないとも思う。お金がないんだよ、という大義名分があれば、私たちはいくらでも他者を、弱者を少数者を殴ることができるのだ。だから、お金というのは愛だと、つくづく思う。私たちの社会から愛が枯渇しつつあるのだ」
〈岸正彦「権威主義・排外主義としての財政均衡主義」(『新潮』2018年12月号)〉

 人の命に関わることでもお金がないといえば、ああそうなんですか、となるような形に今の社会は作られているのではないかと思うのです。お金がないというのはどういう範囲でないのか、国の予算全体の中でないといっているのか怪しいところがあります。それにもかかわらず、この他者を殴る棒はあちこちで大活躍しているのです。

 『文學界』2019年1月号に掲載された古市さんと落合さんの対談です。抜粋すると、次のように言っています。
古市憲寿 「財務省の友だちと社会保障費について細かく検討したことがあるんだけど、別に高齢者の医療費を全部削る必要はないらしい。お金がかかっているのは終末期、特に最後の一ヶ月。・・・最後の一ヶ月の延命治療はやめませんかと提案すればいい。・・・」
落合陽一 「終末期の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わる・・・。保険の対象外にすれば解決するんじゃないか。・・・・・」
古市憲寿 「自費で払えない人は、もう治療してもらえないっていうことだ」

 年寄りは治療するなというものですが、こういうのが通ってしまうのです。「年寄りは一定の年齢になったら集団自殺しろ」という人も出てきています。そういう空気が現在の日本社会には濃厚に漂っています。

 

③「人生会議」には経済的な背景とともに安楽死に道をつける側面がある
 亡くなられた橋田寿賀子さんが『文藝春秋』に「私は安楽死で逝きたい」との文を掲載して話題になりましたが、その中で橋田さんは「今病院はいつまでも預かってくれません。追い出すようなら希望する人は死なせてあげたらいいではないですか」と言っています。なぜ追い出されるかというと(緊縮で)金がないからです。そして「生まれる自由はないのだから、せめて死ぬ自由は欲しい」と橋田さんは言ったわけです。これに共感する人が沢山でました。共感するような社会背景があるからだということです。そうした中で、「人生会議」も行われるわけです。

 

④自己決定というが、一定の選択がソフトな形で強制されているのでは?
 昨年、映画『PLAN75』(早川千絵監督)が上映されました。これは75歳になると安楽死を選択できるという法律が日本にでき、それに従って死ぬ高齢者の様を描いた作品です。若い人が見ると、良いプランを日本にも定着させようとしていると思う人もいるそうです。年寄りは集団自決しろという時代です。そんなバカなと思うのですが、バカなとは思わず、良い案だと平気で口にする人たちもいるのが現実です。こういう中で行われる自己決定にどれだけの意味があるのでしょうか。その意思とは何なのか。コロナ禍でのトリアージを取り上げた番組で、人の迷惑になりたくないから若い人に人工呼吸器を使ってくれと頑固に主張する親を何とか治療を受けるように説得しようとする家族の話が出てきました。「人の迷惑になりたくない」という気持ちはよく分かりますが、だからといって、不必要なまでに治療を拒否する必要はないはずです。

⑤自己決定というが、家族の意向が反映されることが多い日本
 個人の自己決定とは言いますが、ことに日本の場合は医療の場面での決定には家族が実は大きな役割を果たしていることが分かっています。それを意識しないといけない。家族に迷惑が掛るからとの理由や家族の意向を聞こうとする医療の実態があります。そんな中でACPといわれてもと思います。

 イギリスのACPは、その話し合いの対象が必ずしも「人生の最終段階の医療・ケア」に限定されているわけではありません。もっと一般的に生活や人生について話すというものです。意思決定が必要になる場面はそれぞれ個別性をもっていて、きわめて特殊だとも言えます。ですから、逆に患者の一般的な考え方を理解していた方が、実際には役に立つはずだという発想です。

 そうした考え方と比べると、日本版ACPの場合は理解が狭すぎるのではないでしょうか。最近医学書院から、『緊急ACP』という本がでました。救急の患者さんにACPをするというのですが、救急の場で話し合いを繰り返すというのはあり得ない話にしか思えません。前書きにはACPの考え方は救急の場面にも適応できるのだということが書かれており、本の中身自体はよい本だとは思うのですが、救急とACPとを無理に結び付けなくともよいのではないかと思います。このタイトルを見ると、診療報酬の関係もあるのか、何でもACPをすればいいという発想が強すぎるのではないかと思ってしまいます。

 

 

5)専門家による〈ACPは役に立たない〉という指摘
 しかし、現在、専門家の間でもACPの有効性に対して疑問が出されるようになっています。もともとACPの推進派だったMorrisonはアメリカ医学会の雑誌(『JAMA』)に「ACPは終末期医療の質を改善せず、無益な期待をかけさせられた患者の失望を生むだけ」という論文を発表しています。大反響があったのですが、それを受けた日本の専門家たちが座談会を開催した記事が『週間医学新聞』に取り上げられていました。それによると、延命治療オンリーの時代からAD(Advance Directive、事前の意思表示)が有効だと認められる時代へ、それがより話し合いを重視するACPの段階を経て、現在はMorrisonたちの批判が出て、一種の飽和状態に達した段階にある。しかし、「相次ぐ批判があるが、ACPをやめてしまうのではなく疑問点や問題点を検討して前に進めよう」という次の段階が来るはずだという見通しが語られてはいます。

 


6)別の視点が必要では
 ACPが停滞期を脱して、次のより高い段階に移行するのがどうかは分かりません。しかし、ともかく本人の意思を確認することが重要で、ACPをとにかく取らなくてはいけないという医療やケアの専門家の一部に漂っている雰囲気を見ると、ACPは「医療専門家のためのもの」ではないか、「患者のレジリエンス(生き直す力)回復のプロセスという物語も医療・介護の専門的視点に立つ決定に回収されてしまう」のではないか、という疑問がどうしても出てきてしまいます。その意味では、ACPではなく違う視点も必要ではないかと思えてきます。何でもACPという状況に対して、別の視点の一つとなりうるものとして、SDHという概念を最後に紹介しておきます。
 またしてもアルファベットですが、SDHとは「Social Determinants of Health、健康の社会的要因」を指します。WHOの定義によると「SDH(健康の社会的決定要因)は健康のあり方に影響を及ぼす非医学的要素である。それは人々が生まれ、成長し、働き、老いていく諸条件であり、日常生活の諸条件を形作る広範な諸要因とシステムである。そうした諸要因とシステムには経済的な政策とシステム、成長するための課題、社会規範、社会政策そして政治体制が含まれている」とされています。順天堂大学の医学教育の専門家の武田裕子氏はこうしたことは現在の医学部教育では教えられていないことだと指摘しています。所得と社会保障、教育、失業と就労の不安定さ、労働環境、食糧供給の不安定さ、住居・基本的アメニティ権、初期児童発達、社会的インクルージョン、適切な質をもつ手頃な価格の保健サービスへのアクセス、こうしたSDHが世界的な健康格差、さらにいえば日本国内での健康格差に関わっていることを、コロナ禍によって我々は思い知らされたはずです。WHOがSDHの問題をコロナ禍以降の世界的課題としているのも当然だろうと思います。
 
 

ロンドンの地下鉄の地図

 これは2012年のBBCのニュースで出たロンドンの地下鉄の地図です。〇が駅のあるところで、〇の中に数字が書いてありますが、駅周辺の平均寿命です。最高はオックスフォード・サーカスの96歳ですが、その周辺には70台が並んでいます。地下鉄の駅でもこれだけ平均寿命が大きく違っている、何とかしなくてはということで話題になり、SDHが注目されるきっかけとなったものです。

 そもそも自己決定が社会的要因に影響され、早く亡くなってもらいましょうというような雰囲気が蔓延している現状の中では、自己決定と言っても本当の自己決定なのか、本人が言ったからといって受け入れられるものなのか? ACPだけで医療や介護のあり方を決めていくのではなくて、例えばこうしたSDHといった視点も入れて、社会の中での個人という視点が生きる形で医療のあり方を考えていくことが、今やますます必要になっているのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

質疑

 

質問)ACPも含めて、本人の意思に関係なくいのちを切る方向に進んでいるように思われます。コロナの状況が進めたと思うが、誰を治療し誰を治療しないという、患者を選ぶ法的根拠はあるのだろうか。イギリスでは臓器移植の法体系があるので、コロナの場合も可能というが、日本の法体系の場合、そういうことは可能なのでしょうか?むしろ治療を受けないで死んでいく人から考えると保険料を支払っているのに治療を受けられないのは違法ではないのかと思うが、どうなんでしょうか?2021年1月に厚生労働省の医系技官のトップを務めた鈴木氏が、今後の感染症対策としては誰を治療し誰を治療しないかを議論すべきといいました。病床を減らすという政策から自然にそういう議論が生まれるのかなあと思います。杉並区区長のトリアージ発言もありましたが、こういう発言がある中でどう進んでいこうとしているのかお分かりになることがあれば教えていただきたい。

香川)いずれも答えが難しい問題です。法体系でイギリスの場合は臓器移植で対象を決定することがあるからコロナの場合もいいというお話でしたが、日本の場合はそういう明確なものがないと思います。臓器提供をする側される側の医学的理由を基に区別があると思いますが、法的裏付けを与えるということはないと思います。
 コロナで治療ができない事態になったとき、大阪では高齢者は救急車に乗せない、フランスでは救急車は老人施設からの要請に応えない、ということが起きました。しかし、全員を治療できない事態があったにしても、どうして高齢者は治療しないのかということを正当化する議論はなかったのではないでしょうか。治療をしないことや開始した治療をやめて、空いた人工呼吸器などを他の人に使うのを正当化する議論は、日本でもありましたが、一律に何歳以上はだめとするような形にはならなかった。そこで活躍するのがACP、本人の意思になるわけです。人工呼吸器を外して若い人につけることを事前に本人に聞いておく、聞いておいて本人がOKすれば、たとえその人に治療を続ければ救命の可能性があっても外してよいというのです。日本の場合は、数字で年齢で分けるのではなく、本人がOKしたからというのが正当化の理由にされる。法律で決めるのではなく、本人の意思が便利に使われるのが日本の特徴じゃないかと思います。保険での治療にかかわらず治療を受けられないのは、確かにご指摘のように、差別、人権無視だと思います。それを権利の無視と分からなくする空気が醸し出されているのが、現在の日本社会なのではないでしょうか。それがコロナの時に明確になったのだと思います。
 厚労省の役人が言ったと言うことですが、そういうことを言う人は常にいるわけです。優生思想と批判されてきたし、優生思想と括ることのできる考え方は常に出てきている。それに対抗するには、こちらもそれは間違っている、おかしい、人権無視であると言い続けることしかないと思います。優生保護法がまさにそうですが、おかしいという人がいたからこそ変えられるということはあるはずです。おかしいことはおかしいと、たとえ少数派となっても言い続けることが必要だと思います。

 

質問)私は、経済が人類を滅ばすと思います。今の経済システム、人間にとって何が正解かは分からないのに経済はそれを簡単に決める。お金になるかならないかという形で。考えることをしない、思い悩むことをしない人間がふえているが、それは経済システムがそうさせているのではないか。緊急事態条項、あるいはトリアージ、そうしたものがあるといいなと思いこむ人がいて、医療界もお金になるかどうかに乗っかっている。そこから議論する必要があるのではないか。経済が人間の考え方をおかしくしてしまうと思います。

香川)同意見です。新自由主義的路線と言いましたが、その路線は人間を滅ぼすものにほかなりません。医療は経済に乗らないはずなのに乗せようとして無理をする、そこが間違っている。ヨーロッパで最初にコロナによって医療崩壊を招いたのはイタリアです。日本では医者の数は医師会がコントロールして、増えすぎないようにしてきました。医師の数が足りないという議論は昔からあったのですが、医師会は医学部の定員増に強硬に反対していました。そこで笑い話のように言われていたのは、医者の数が増えると儲からない、給料が少なくなると、イタリアのようになるという話でした。イタリアでは医者をどんどん増やしたので、医者はタクシーの運転手をしないと生活できないようになっているというのです。それくらい、イタリアは医者の数が多い国として知られていました。しかし、EUではイタリアは財政的に問題を抱えており、強力な緊縮財政を迫られ、それを大胆に実行することになります。政府が医師数を急激に減らす政策を開始したために、医者を辞める人や他国に行く人が大量に出たと言われます。そこにコロナが来たわけで、医療崩壊は起こるべくして起こったわけです。日本でも、大阪のように、保健所を統合し、保健師さんの数を減らしていたところが大きなコロナ禍に見舞われたわけです。医療や介護は何の問題もないときに合わせて縮小しておけばいいわけではない。そもそもお金だけではやれないはずだということだろうと思います。

 

質問)昔、中絶した7ヶ月の赤ちゃんが生きていて、赤ちゃんを殺す医院もあったが、殺さずに赤ちゃんのあっせんをしたという人の本を読みました。日産婦は赤ちゃん殺しを隠していたが、産婦人科学会の秘密を漏らして問題になったというのですね。どう考えれば良いでしょうか。

香川)中絶したはずの胎児が子宮外に出て呼吸をして生きていたという場合、中絶後に医者が殺したという裁判がアメリカでもありました。看護師の告発で明らかになり裁判になったという事件ですが、70年代のことです。重い障害があってときに死なせ、死産だったことにするといった話が産婦人科にはあったりもします。ただ、日産婦が隠したかどうか分からないです。
 話は少しずれますが、日産婦では近年、着床前診断の問題、受精卵の段階で調べて重篤な遺伝病があるかどうかを調べる、それをどうするかが大きな問題になっています。従来、受精卵診断による遺伝病の検査については、日産婦は対象の遺伝病を重篤な疾患に限定してきました。それが最近では、検査を希望するご夫婦の意見や置かれた立場・考えも考慮して行うようにするという形に変わってきています。ここもACPが関わるわけですが、重篤という定義に外れる場合でも検査をすることがありうるということだろうと思います。日産婦はこのようにして対象を広げているわけです。それを決めた日産婦は苦渋の選択だったと考えているようです。
 受精卵診断だけではなく、胎児診断に関しては、障害をあってはならない悪・不幸と決めつける障害者差別だとする強い批判は以前からあります。しかし、実際に検査をやりたい人がいっぱいいますし、障害者団体でも検査をして欲しいという団体もあるわけです。そうした強い反対と検査への希望との狭間に置かれるなかで、日産婦として悩んだ末に出した方針が重篤という規定に夫婦の希望も考慮するということだったわけです。ただ、従来、生殖の場面の規制に関しては日産婦のガイドラインという紳士協定だけでやってきたのですが、日産婦自身が一学会がルールを決めるというのはもはや限界に来ており、「生命倫理について審議・監理・運営する公的プラットホーム」設置を提案しています。
 そうした状況を考えると、問題点がある、ダメなところがあると考える人、疑問を持つ人は少数派なので、少数派がどう意見を反映させるのか難しいことではありますが、先ほどから繰り返していますが、とりあえず言い続けるということが大切だろうと思います。

 

質問)命の選別の話を聴けるよと言われて杉並から参加しました。杉並では前区長がトリアージ発言をしました。本日は、分かり易く説明していただきありがとうございました。作業所では中途障害を持っている人と働いています。税金を使って仕事をしている以上、世話をする側の人間として、対象の方が高齢化等の理由で辞めざるを得なくなったり、この人が作業所に来られるか職員で意見調整しながらチームで決めざるを得ない状況です。どう死ぬかということがどう生きるかに繋がっている、そういう視点が必要とのお話は私に大変よく響いたのですが、具体的には何を勉強すれば良いか教えていただければと思いました。

香川)どう生きるかについてなかなか提案は難しいのですが、ACPが元々は視点を死から生へ転換して考えてみようという志向をもっていた点は評価できると思うのですが、生きると言ったときに本人の意思だけに集中するのではなく、SDHといった社会的要因にも目を広げて、ケアを見直すことも必要だと思います。本人が満足できる枠組みを議論として狭く考えるのではなく、広い視点で、枠組みを広げて考えることが良いのではないかと思います。具体的に何がとは言えないですが、広い視点で、現状の社会保障制度でさえも考慮されていなかったりする場合もあるので、現在でもこういうのもありますよと言えるようにすることも含めて考えるのが実際には重要ではないかと思います。

 

質問)MorrisonらのACP批判は英米圏でどの程度共有されているのでしょうか。SDHにしても、WHOの健康の定義から考えれば当然のような気はするのですが…。

香川)SDHといった狭義の医学とは関わらない社会的要因が健康にとって決定的であることは、イギリスで世界で最初に結核による死亡者が減少したのが結核の治療法の開発以前に起こっているといった古典的例からもよく知られているはずの、当たり前のことにすぎません。しかし、順天堂大の武田氏の言葉にもあるように、少なくとも医者の多くは知らないし、医療の現場でも検討の埒外に置かれることが多く、そこに問題があるのです。

 

質問)生命倫理学者の木村利人さんはACPについてどのように考えておられるのでしょうか。

香川)木村さんは日本で患者中心の医療を実現することを目指して、「自分のことを自分で決める」と言い続け、実際の運動もされてきた方です。その点ではACPが患者本人の意思を尊重するものである限りは肯定すると思います。ただACPをとにかく進めましょうといった話はされておらず、現状のACPをそのままどんどん進めればいいといったような推進派とまでは言えない印象を受けました。

 

司会)日本でACPが言われるようになった流れや背景、問題点について大変分かり易くお話しいただきました。改めて講師の香川知晶さんにお礼申し上げます。脳死や臓器移植といった課題に異議を申し立てている私たちですが、益々少数派になってきています。先ほど香川さんは、疑問や問題のあることに関しては、言い続けることの意味ということを言われました。「いのちを分けない」「切り捨てない」といった観点から、脳死や臓器移植に関わる問題提起をし続ける重要性をあらためて考えさせられました。今後も市民講座を続けていきますので皆さまのご協力をお願いいたします。

 

〈チャットに寄せられたご意見〉
・ACPに欠けているのは客観的な病態の評価、臨床診断に関わる領域ではないだろうか。経済的な問題、バイアスが先にたって、さらにそうした暴力をごまかすため、人生観という抽象的概念を持ちだしていると思う。
・どんな障害があっても命ある限りいのちを大切にしたいと看護師になりました。脳死からの臓器移植に反対する運動の中で尊厳死という言葉を知り、尊厳死法案に反対してきました。ACPは法案なしに、するすると臨床に入ってきました。そして疑問を持たない看護師が多いことに気持ちの悪さを感じています。注意していないとここというところで足下をすくわれそうです。
・「詐術としてのインフォームドコンセント」ドキッとする表現。そうでないものにするにはどうしたら良いか?
・「他者を殴る棒」という表現は的確でインパクトがあります。なぜこのような考えが出てきたのかそれは社会保障というものの限界、資本主義の限界だと思います。ミサイルを買う金があっても病気の治療を削るのはとんでもないことだと思います。

 

 

写真は市民講座会場の様子。当日は会場参加とオンライン(事後配信含む)を併せて約70名の方にご参加頂きました。会場参加の方からの質問が次々に出て時間切れとなってしまい、オンライン参加の方にマイクを回すことができませんでした。

 

 

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第18回市民講座講演録(2023年5月14日) 2-2 事務局からの報告

2023-08-11 13:24:32 | 集会・学習会の報告

第18回市民講座講演録(2023年5月14日) 2-1 <命は誰のものか ――ACPをめぐって>別ページで開く

 

 

第18回市民講座講演録(2023年5月14日)2-2

事務局からの報告

 

 

 厚労省は2023年7月より、「脳死が強く疑われる患者の毎月の人数を医療機関から日本臓器移植ネットワークに報告する新制度の試験運用」を始めました。ドナー拡大の為の施策を次々に展開する厚労省。では、実際の臓器移植現場は?その実態について事務局の守田憲二さんが報告しました。以下に、当日の資料を掲載いたします。

 

 

 

「脳死見込みの 71 例当たり 1 例は誤診、作られる脳死、命の選別の実態」(守田憲二)


 脳死または心臓が停止した死後に臓器提供が検討されるドナー候補者において、心臓死が不可避との予測の誤り、または脳死見込み、脳死判定の誤りが、ドナー候補者数の何例に1例発生しているのか検討しました。情報源は臓器移植法を問い直す市民ネットワークが作成した冊子“「脳死」って本当に死んでいるの?「臓器移植推進」って本当に大丈夫?”の5ページから7ページ「各国で脳死ではないことが発覚」の段落に掲載している情報です。(以下5月14日から一部の表現を変えています)
 韓国では5年間の潜在的脳死ドナー8120例のうち1232例が脳死ではなく、さらに親族から脳死臓器提供の承諾を得た2718例のうち33例が脳死ではなく、さらに実際の脳死臓器提供者2400例のうち1例が脳死ではありませんでした。累計で1267例に誤りがあり、これは6.4人に1人(1267/8120)の脳死疑いを誤ったことになります。東京都では22年間に臓器移植コーディネーターが424例のドナー情報を受けて、患者家族341例に脳死後および心停止後の臓器提供について説明したが、このうち5例が植物状態に移行し臓器提供の承諾を得られず、さらに家族が臓器提供を承諾した後に1例が植物状態に移行したため臓器提供に至らなかった(植物状態に移行した時期が不明確なため、スライドでは臓器提供の承諾後と臓器摘出直前の両方に掲載しています)。累計では6例に誤りがあり、これは70.7人に1人(6/424)の死亡予測を誤ったことになります。厚労省資料の「ドナー情報の分析」は、日本全国で5年間に家族から臓器提供の承諾を得られた573名のうち、7名について臓器提供に至らなかった理由を「その他」としています。「その他」が何なのか記載されていませんが573名中7名、1.22%は韓国とほぼ同率です。テヘランでは685人からの脳死臓器摘出直前に1人が脳死ではなかったと発覚したことは、臓器摘出施設に移送された臓器摘出直前のドナー候補者なので誤診が少ないのは当然でしょう。スタンフフォード大の臓器摘出チームが、脳死臓器摘出に出動したのに「早すぎた脳死判定」のため約1%も引き返したのは粗雑な脳死判定が多いためと推測します。

 

 

脳死判定前から患者家族の承諾なしに行われてきた命の選別=臓器提供を見据えた患者管理


 脳死判定を誤ったとの情報があったら、他に誤診していたけれども最後まで発覚しなかった患者がいた可能性、そしてドナー候補者そのものが人為的に発生させられている可能性も検証すべきです。2004年に神戸大学医学部附属病院の鶴田早苗副院長・看護部長は次のように書いています。「筆者は以前勤めていた大学病院で20年前も死亡後の死体臓器移植(主に腎臓移植)にかかわっていました(集中治療室、手術室において)。もちろん“脳死による臓器移植”法のできるずっと前のことです。この時、ドナー側の治療に当たる救急医や脳外科医とレシピエント側の移植医の考え方の違いや移植の進め方に倫理的な問題を感じていました。今は現場の細かなことに直接関与はしていませんが、伝わってくる臨床現場の話のなかで“根本的に今も変わっていないなあ”と思うことがあります。(中略)脳死移植医療においては、例外はあっても、移植医にとっては実績を積んでいくことは重要であるし、一方で脳死判定を受けるドナー側は納得のいく尊厳死のプロセスをとりたいと考えます。移植医にとっては移植できる可能性があれば、脳死判定前からその準備(循環動態のコントロール等)をしていくのは常識であり、そうしなければ成功しません。数日前から情報は飛び交います。しかし表向きはプロトコールにそった移植の流れで進められます。ドナーやレシピエントの家族は、当然このような舞台裏は知る由もありません」(鶴田早苗:高度先進医療と看護、綜合看護、39(4)、47-50、2004)
 2022年3月に日本救急医学会など6学会と日本臓器移植ネットワークは「臓器提供を見据えた患者評価・管理と術中管理のためのマニュアル(以下では同マニュアルと記す)」を公表しました。同マニュアルは、「臓器提供の可能性がある脳死患者管理」について、治療チームが“救命は不可能”と考える場合、患者家族が治療の結果を受け入れ終末期の方針を決定するまでに、多くの臓器が提供できる様に、少しでも良い状態で移植患者につなげる様に患者管理を行う、として臓器提供目的での各種薬剤の投与、各種検査や処置を推奨しています。同マニュアルの研究協力者である渥美医師は「脳保護のための治療では、浸透圧利尿薬を用いて血管内容量を下げ、できるかぎり頭蓋内圧を下げるべく管理する。しかし、臓器保護のためには十分に補液し臓器血流を維持するという、補液の観点からすると真逆の管理を行うことになる」(渥美生弘:臓器提供に関する地域連携、救急医学、45(10)、1270-1275、2021)としていますので、臓器提供を見据えた患者管理が脳保護に反することは明らかです。医師が重症患者について「治療しても重大な後遺症が残りそうだ、再び納税者として復帰できない確率が高い」と判断した場合に、患者本人の意思推測や患者家族への説明・承諾もなく、医師が「臓器を提供して死んでもらったほうがよい」と命の選別を行う、そのような病院を増やすことにつながるマニュアルと懸念しています。
関西医科大学総合医療センターは「脳死ドナー管理経験と蘇生医療の進歩の中でカテコールアミン・抗利尿ホルモン使用により小児・若年者の脳不全長期生存例を経験した」と報告しています(岩瀬正顕:当施設での脳死下臓器移植への取り組み、脳死・脳蘇生、34(1)、43、2021)。移植用臓器を確保する目的で医療従事者が行う処置により、人為的に脳不全を悪化させられて臓器提供を医学的に強要された医原性脳死患者だけでなく、医原性意識障害患者までも発生させ続けているのでしょう。

 


日本臓器移植ネットワークは、本来のあるべきインフォームド・コンセントができない


 生命が危ぶまれる患者の救命に反する処置をすることは傷害です。医師が患者を傷害した後に、そのことを隠して患者家族に臓器提供の選択肢を提示することは、犯罪の隠蔽として厳禁すべきです。
 ここで人体組織を収集している3つの機関のドナー候補者に向けた説明用文書を比べます。
日本赤十字社は「献血の同意説明書」のPDFファイルを同社サイト内で公開しており、献血に伴う副作用等について頻繁に発生する「気分不良、吐き気、めまい、失神などが0.7%(約1/140人)」から、滅多に発生しない「失神に伴う転倒が0.008%(1/12,500人)」まで書いています。
日本骨髄バンクも“ドナーのためのハンドブック”のPDFファイルを同バンクサイト内で公開し、骨髄採取、麻酔に伴う合併症と重大事故を記載しています。死亡例について国内骨髄バンクでは2万5千例以上の採取で死亡事故はないが、海外の骨髄採取で5例、日本国内では骨髄バンクを介さない採取で1例、計6例の死亡例があることを知らせています。
日本臓器移植ネットワークは臓器提供候補患者の家族に提示する文書「ご家族の皆様にご確認いただきたいこと(以下「ご確認いただきたいこと」)」を同ネットワークサイト内で公開していません。しかし2022年9月発行の単行本「臓器移植におけるドナーコーディネーション学入門(へるす出版)」が「ご確認いただきたいこと」を掲載しているので確認できます。この文書は、心臓死予測を誤る確率、脳死判定の誤診率を示していません。医師が患者家族に「脳死とされうる状態なので心停止は避けられない可能性が高い。法的脳死判定を行ったら診断が確定します」と説明する時に「この診断は80例~245例あたり1例は間違える」と言うと臓器を提供する人が皆無になるからでしょう。


 〈質問への回答〉
 チャットに質問「『詐術としてのインフォームド・コンセント』とは、ドキッとする表現。そうでないものにするにはどうしたらいいでしょうか」をいただきました。
 私は、社会の構成員に対する情報提供が正しく行われる・インフォームドされたならば、現在の死後(脳死または心臓死)の臓器提供を許容する法律は制定できなかったと見込みます。立法に至らない、社会に許容されない行為ならば、医療としての存在も許容されないため、詐術を行う機会も生じません。心停止後の臓器提供を許容した角腎法、脳死臓器提供を許容した臓器移植法の制定が誤りだったと考えます。(守田)

 

 


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