臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第4回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会(3月10日)のお知らせ

2011-02-27 19:41:52 | 活動予定

第4回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会(3月10日)のお知らせ

賛同議員 
衆議院:阿部知子・石井啓一・枝野幸男・北神圭朗・郡 和子・田中康夫・笠 浩史・工藤仁美
参議院:大島九州男・川田龍平・田村智子

日時:2011年3月10日(木)12時~14時会場:衆議院第一議員会館・第4会議室 

◇講演 内梨昌代さん〈『真帆―あなたが娘でよかった!―』(かもがわ出版刊)著者〉
  娘に教えられた“いのち”の尊さ がんと闘った娘を見守り続けて

◆報告 大塚孝司さん〈人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)会長〉       
 どの子の“いのち”も大切にされる社会を求めて 実践から  

 身近な人が病気や障害を抱えた時、「“いのち”の大切さにはじめて気づく」と言われます。 今回の勉強会で講演していただく内梨昌代さんは、長女が12歳の時、悪性の脳腫瘍に罹患し、8年に渡る闘病生活を支えました。その間、娘、真帆さんは、20回もの手術を繰り返しながらも、恋にも大検にも前向きに取り組み力強く生き抜きました。壮絶な奇跡の8年間、養護教諭としてのお仕事も続けながら、母親として真帆さんを見守り続けた内梨さんは、徐々に機能が失われていく娘の姿から、“いのち”の尊さを教えられたと言われます。最後まで生き抜いた真帆さんの生と内梨さんのお話から、“生きること”“いのち”についてぜひ考えていただきたいと思います。  

 人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)は、人工呼吸器をつけて生活する子どもの300家族が集う団体です。昨年20周年を迎え、『いのちの宣言』を発表しました。会長の大塚孝司さんには、医療的ケアが必要とされる子どもの現状とこれまで行ってきた実践について報告していただきます。  私たちは、“脳死”からの臓器移植の推進は命を選択し脳の機能を失った人の命を切り捨てることだと批判してきました。皆たった一つの尊い命を生きています。他人の命も自分の命も同じように大切に、支え合う関係になれること、そうした社会のあり方や治療技術の研究・開発を進めるべきではないでしょうか。 主催:臓器移植法を問い直す市民ネットワーク


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第3回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会(2011年2月3日)の報告

2011-02-22 23:05:46 | 集会・学習会の報告

第3回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会(2011年2月3日)

 

講演:西村理佐さん(『長期脳死の愛娘とのバラ色生活 ほのさんのいのちを知って』著者)
 【「長期脳死」と呼ばれた子の母として思うこと 「どんないのち」も等しく輝ける社会を!
報告:田中智彦さん(東京医科歯科大学教養部准教授)
 【「長期脳死」への理解 医学教育の現場から

 会場が急きょ変更となった衆議院第一議員会館第5会議室には、総勢80名の市民と議員関係者が集まり、西村さんのお話に聞き入りました。「改正」臓器移植法が施行されて半年。次々に行われる家族承諾での臓器摘出。西村さんのお話を聞いて、立場や目指す先がさらに明確になった気がします。以下、西村理佐さんと田中智彦さんのお話をまとめましたので、報告いたします。
 なお、当日お忙しい中、以下の9名の衆参議員が出席されご挨拶下さいました。
出席議員(9名):阿部知子(衆・社民)、松岡広隆(衆・民主)、山崎摩耶(衆・民主)、中屋大介(衆・民主)、斎藤進(衆・民主)、北神圭朗(衆・民主)、大島九州男(参・民主)、川田龍平(参・みんな)、白眞勲(参・民主)[敬称は略させて頂きました] 
 

◇西村さんの話
 西村理佐と申します。帆花の母でございます。今の世の中は、「生きること」、「死ぬこと」「いのち」という大切なことを問わず、すぐに「臓器をどうするか」という話になっている。薄気味悪い気がします。ただ「生きること」を望んでいるこどもたちのいのちが否定されるばかりか、支援の少ない生活の現状を伝えたくてやって参りました。まず、皆様に帆花の声を聞いていただきたいと思います。

≪帆花の誕生、そして辛い宣告≫
 帆花は、分娩直前にへその緒の中の動脈断裂により、新生児重症仮死で生まれました。そして生後2週間で、「脳波は平たん、脳幹部も含め機能喪失、今後目覚めることはない」との宣告を受けました。私は帆花が生まれるまで、まるで眠り姫の様に生きるこどもがいることを知りませんでした。しかし脳の機能が失われても元気に生きて、おうちで暮らしている子が大勢いるという事実を、まず知っていただきたいと思います。
 生後2週間で受けた宣告は辛いものでした。先生の宣告を受けた時、「それは脳死ですか」と質問すると、先生は「子どもの場合は脳死とは呼ばないですよ」と言い、「脳の機能を失っているけれども今後元気に成長していきますよ」と話されました。その意味は全く理解できず、私たちは脳死に近い状態なんだと理解しました。脳死に近い我が子がどういう存在なのか、生きているのか、生きているけれども死に向かっているのか、我が子なのに得体の知れない恐怖を覚えたわけです。

≪一人歩きした「脳死」ということば≫
 当時、0歳から臓器提供が可能だったなら、先生に「ほのかちゃんの臓器を提供すれば助かるいのちがある」と言われていたら、私たちはそうしますと言ってしまったのではないかと思います。それは「人助け」のためとか、「体の一部分が生きていてほしい」という理由ではなく、その時の私の苦悩……我が子をどう受け止めればいいのかわからないという苦悩から逃げ出して決着をつけたいという気持ちから提供してしまったのではないかと考えます。しかし、今思えば、この時の苦悩は、「脳死」という言葉が存在しなかったら、少し違ったのではないかと感じます。当時の法律では帆花の臓器を差し出すということはなかったし、とてもいい主治医で「ほのかちゃんには生きる意志を感じる」と言って下さったのです。しかし私たちの方がどう受け取っていいかわからず、夫と私は呼吸器をはずして下さいと申し出なくてはいけないのではないかと真剣に悩みました。「脳死」という言葉が一人歩きして、私たち夫婦を苦しめたことは確かで、「脳死」という言葉が大切ないのちをどう受け止めるかに悪い影響を与えているのではないかと感じます。

≪ひとすじのひかり、「生きる意志」≫
 私を苦しめたものは、それだけではありません。私は、赤ちゃんは元気に産まれてくるものだと思っていたし、障害は自分とは無縁のものだと思っていたのだと思います。障害を持つ子の親も、幸せに子育てができるとは当時の私には想像がつかず、いろんな症状が出て鬱と診断されました。鬱との闘いもとても苦しいものでしたが、その私を救い出してくれたのは、他ならぬ帆花のいのちでした。機械などがたくさんついて、元気な赤ちゃんとは見かけは違うものの、無邪気で明るい雰囲気を感じ、声を出すことも動くこともないが、「かあさん!」と言っているように感じました。「この子は自分のいのちを悲しんではいない」、これが、彼女の「生きる意志だ」と感じるようになったのです。帆花のいのちによって私は徐々に母親にしてもらいました。そうしてだんだん、物言わぬ子なのに、体調や機嫌はどうなのか、何をしてほしいかが伝わるようになっていきました。そして生後9カ月のときに、たくさんの苦難を乗り越えてなんとか、自宅に連れて帰りました。

≪超重症児在宅生活の厳しい現状≫
 自宅で育てることは簡単なことではありませんでした。まず障害者手帳が必要、役所に問い合わせると手帳は原則3歳以上と断られる。何とか交付してもらい、サービスを受けることになったが、「お母さんがいるのに何でヘルパーがいるのか」と言われ、やっとヘルパー派遣が決まると今度は引き受けてくれる事業所がない。私が、過労で倒れたりもする。役所に申し出ても門前払いを食う、というのが支援の必要なこどもたちが置かれている、現在の日本の状況です。
 平成21年度全国訪問看護事業協会の調査では、利用したくても利用できないサービスについて、ショートステイ、ホームヘルプ、移動支援、・・などがあがっています。「人工呼吸器がついているから」、あるいは「医療的ケアが必要だから」という理由から、希望しても利用できないのが現状です。これらは自立支援法で受けられるサービスですが、それでは医療保険における訪問看護についてはどうかというと、帆花のような重症心身障害児への訪問看護を実施しているステーションはわずかに21%。また、サービスを利用したいと思っても情報を得るために母親が全てをやらなくてはならず、介護制度のケアマネージャーのようなコーディネーターも、今すぐに必要だと思います。 経済的負担も大きく、補助にも地域格差があり、衛生医療材料の支給も病院格差があるのが現状です。どこに、誰に相談していいか窓口もなく、子どもたちのこういう状況をぜひ国の責任で早急に調査していただきたいと思います。しかし、このように厳しい状況の中にあっても、家族揃って自宅で暮らすことは、この上ない喜びでした。

≪大切なのは「いのち」じゃないの?≫
 そんな中で、一昨年の改正臓器移植法の審議があり、取材も受けました。臓器がどうということではなく「大切なのはいのちだ!」と言いたかったのです。いのちを助けようという議論なのに、私たち家族のように、脅かされていると感じる家族がいるというのはおかしなことです。帆花のように眠ったままでも「生きいきと暮らしているこどもがいるんだ」と言っても、「法的脳死判定を受けていないから関係ないでしょ」と言われる。大切ないのちの議論を国民全体でしよう、というときに、大の大人の言うことだろうかと、ありえないことだと憤りを感じました。帆花は周産期医療の発達の中で助けられたいのちです。脳の機能が失われ「回復」の見込みはないが「ありのまま」生きている。生きているいのちを「どう支援するか」を考えず、「臓器を提供する方法がある」と言われてしまうのなら、何のために救うのか、一体、誰のいのちなのか、疑問に思います。

≪だって、あたし、いきてるんだもん。≫
 大変な生活であっても、私たち家族は、普通のご家庭と同じようにお出かけもするし旅行もします。ありふれた幸せが、私たちの大きな喜びになっていることもお伝えしたい。「歯も生えるし、爪も伸びるし、髪も伸びる」などと報道されましたが、私たちにしてみればそんなことは「生きているんだから当たり前だ」と思いました。リーク音や表情の変化などで、何をしてほしいのか意思表示もするようになっています。「医療」でははかりしれない成長を、帆花は見せてくれているのです。今は大きくなって、ベビーバスでは小さくビニールプールに湯を張って入浴しています。ディズニーランドに行ってお泊りもしたし、買い物もするし、しゃぶしゃぶ屋さんにも行ったりしました。もちろん食べることはできないが、いろんな体験をさせたい、それが親の願いです。このような生活で在宅して2年と7カ月になりましたが、急変も2度ほどありました。緊急の事態には両親が対応しなければなりません。判断を誤ったり、タイミングが遅かったりすると、死に至ります。しかし、それを私は「看護」や「介護」とは考えておらず、私の「子育て」の一部だと思っています。 

≪こどものいのちは「誰のもの」? 法律や医療が「いのちのゆくえ」を決めるの?≫
 今となっては恐るるに足らないとわかりますが、帆花が生まれた当時、私が襲われた得体の知れない恐怖……それは「脳の機能を失ったこどもと心を通わせて育むことができるだろうか」という不安だったと思います。不安な時期には、いのちの幕引きを真剣に悩み、いのちは親の手の中にあると考えました。今となっては、それは私のいのちに対する「驕り」であったと考えています。急変のときの判断や処置も私たち両親が一番慣れています。私たちが特別ではなく、他のご家族も同じです。そういう意味では、帆花のいのちは、私の手に委ねられているのかもしれない。けれども、帆花はほのかのいのちを生きており、助けることはできたとしても、たとえ親であっても、引き延ばしてやることはできないんだと思い知っています。
 最近、人工呼吸器をつけた子への医療を過剰医療という風潮がありますが、それは医療の「驕り」ではないでしょうか。過剰かどうかは医療者が決めることではない。回復しないいのちであっても、そのまま生きる権利があるし、医療は必ずしも「治す」とか「回復させる」ことだけが役割でなく、帆花のように回復しないいのちを「見守る医療」も同じように重要だと思います。
 先日、医学生に講演をした時のことです。医学部6年生の女子学生が「つい先日NICUに実習に行き、ほのかちゃんのような赤ちゃんや超未熟児を見た。その子たちを助けたとしても脳性まひの子を増やすだけではないかと思った。医者になる前にお話を聞いてよかった」と言ってくれました。私はかなりショックを受けましたが、学生がそう感じる社会になってきていると思うし、それが当たり前になっていくのは怖ろしいことだと思います。
 帆花にはたくさんのお友達がいます。呼吸器をつけていたり違う病気であったり、元気な子も・・。いろんな子どもたちがいます。私が親になって変わったことは、「親として子どもに誇れる世にしていこう」という責任を感じるようになったことです。現在は、残念ながら、一生懸命生きるいのちに対して、申し訳のない世の中だと思います。誰かが脅かされるような世の中は、誰にとってもよい社会ではない。安心して子供を産めないし、もし障害を持った子が生まれたら、自信を持って育てられない社会だと思います。

≪ただ、「そこに在る」ということ≫
 帆花が死んでいるか生きているかは間違えようがありません。帆花の手を取って下さった方は一様に、「あったかい」、「柔らかい」と言ってくれます。それ自体が生きているということであり、誰もがそれを直感的に感じることだと思います。障害や病気を持って生きるということを考えることは、ひょっとしたら面倒くさいことかもしれないけれど、目をそらすことはできません。改正臓器移植法が施行されて、「臓器提供は善意の行い」と声高に言われます。単純にそう言いきってしまうのなら、「提供しない人は悪意か」ということにもなりかねません。どんな人のいのちも等しく大切なんだ、という大切なスタート地点を通っていない議論になっていると感じます。この問題に関して、「賛成派」、「反対派」、「その他大勢」というように捉えるのではなく、いのちそのものをどう考え、大切にするのか、「生きること」「死ぬこと」を大人一人ひとりが真剣に考え、子どもたちに伝えていかねばなりません。いろんな「いのち」があり、「そこに在ること」それ自体が、大切にされる世であってほしいと心から願います。
 
 

◇田中智彦さんの話
 東京医科歯科大学の教養部で哲学や生命倫理などを教えています。本日は【「長期脳死」への理解-医学教育の現場から】ということで、報告させていただきます。
 西村さんのお話の中に、医学部の6年生の学生の話がありましたが、それは珍しいことではないと思いました。たとえば私の勤めている大学では、6年間の医学教育の中で医療倫理は12回の講義があるだけです。それも大半は研究倫理の話です。医師国家試験には倫理的な資質を判断する試験もありません。倫理教育なしで医師になれるシステムなのです。医学教育はひたすら専門と臨床で行われ、倫理学は選択の授業、哲学や倫理学、患者の人権などは学ばなくても医師になれるのです。
 ある教授が「君たちはドナーカードを持っているか、医者になろうというものがなぜ持たない」と学生を叱りつけたそうです。教師と学生の間には権力作用が働くことに注意するべきだし、私は学生には、自分の頭や感性を使って答えを導くことを求めます。そして結論を出したなら論理的に説明せよという。
 長期脳死に限ると、3つの視聴覚教材を使っています。ラザロ徴候の映像、NHKの脳死番組 アメリカでの全臓器摘出の生の場面の映像、中村有里ちゃんと家族が取材を受けられたテレビ愛知の番組のDVDです。それは、はたして脳死は人の死だろうか、動いている心臓を切り取ることは正当化されるのだろうか、との問いかけでもありますが、意思表示をしているならいいのではという学生の考えも根強くあります。
 中村さんのDVDを見て、家族がいる、有里ちゃんが生きてそこにあることにかけがえのなさを感じる。そこから命は個人だけのものなのか、その人を取り囲む周りの人々や人間として処遇する間柄、それもいのちとして考慮するべきではないか、そうすると、自己決定するというのは正しいのかと考えたり、心臓が止まると心臓を止めるでは大きな違いがあることに気づいたりする。そして、意識があるかないかは重要な問題ではなく、健常者のようにふるまえることが人間の証しではなく、そこに存在するおごそかさが見える学生も出てきます。
 「生き抜くことの大切さ、最後まで生きた人間の尊厳を感じた」「周りの思い込みでいのちを断ち切ることはおかしい」と書いてくれた学生もいます。少数の学生が考えるようになっているというのが現状です。一方で、高校時代に臓器移植ネットワークのパンフレットを使って授業をうけてレポートを書いたという学生もいて、そういう学生は長期脳死について考えようとしない。大学の中から変えていくのは非常に難しい状況です。市民の側から希望に叶う医学教育が行われているかどうかを確かめていただきたいし、命を守るのが医療者なら、そういう医療者を作るべく努力をするように要請してほしいと思っています。


 その後会場から意見や質問が出されました。現在行われている家族承諾での臓器摘出に関する情報開示の少なさや検証の問題性とあり方が提起され、「脳死」という言葉の嘘、「脳死」は人類の罪であるという医師からの明快なお話もありました。また訪問看護をされている方からは、依頼があっても医療保険が使えずボランティアでやらざるを得ない現状や脳の機能が失われても自宅で暮らせることを知らせて行く必要性が語られました。スペインを移植「先進国」と伝えるマスコミ報道の在り方への疑問や、いのちをコスト換算する思考方法の転換が必要という提案もあり、考えさせられました。(川見公子)


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